さわらぬ神に窓を開けて、蝉時雨に耳を澄ましながら審神者業に勤しんでいると、同じ部屋で書類を眺めていた大般若長光が口を開いた。
「あんたは、割にあっさり名前を教えてくれたな」
「え? ああ、まあ」
「信じてくれたのかい」
俺を、と、いたずらっぽく言う。
「……というか、真名を信じていないだけよ」
この名前も、父がつけた名前だし、と私は言った。父は父なりに考えてつけてくれたが、寺で名前をもらった姉に比べれば、第二子ならではの趣を感じる(と言っても、姉は姉で、すでに父母ではない周りが「この名前にしましょう」と決めたようなところもあり、母は不満げだった)。
「名前なんて、自分でもつけられるしね」
両親にもらったものにけちをつける気は毛頭ないが、文字通り名前負けしているところは否めない。私に、こんなに立派な名がついていていいのだろうか、なんて思ったりもする。
ともかく、名前が私の本質だとはどうしても思えなかった。なので、かなり早い段階で、かれには名前を教えてしまった。特に誰も、教えてはならないと忠告してくれるような、親切なひともいなかったし。
「そうだな、あんたの言わんとすることに依っていうと、俺も似たようなものさ」
大般若長光はそう言って、片眼を瞑って見せる。
──世の中にはごまんと大般若長光が存在する。そのうちのひと振りというのは、どんな気持ちなんだろう。と、かれを眺めながら思う。私を人間という括りでみたときのように、「人間」はたくさんいるけど、「自分」はユニークで、唯一無二の存在だ、と感じるのだろうか。
「同位体ってこと?」
たまらなくなって立ち上がり、大般若長光に抱きつきにいく。いま、ここにいるのは私が顕現した大般若長光にほかならないのに。
「おやおや、脅かしちまったかな」
大般若長光は笑って、そっと私の頭を撫でた。グローブの感触と、かれの体温と、吸い込んだ匂いに、いつも通りだ、とすこしだけ安心する。
「どこにも行かないさ。行きたいところも、今のところ無いしな」
度々、本丸で話題になる修行の話をしているのだろう。とてもじゃないけれど、行かせられる気がしない。
「名前を取って、あんたを離さないでいられるなら、いいんだがなあ」
「……人間はいい加減だから」
どんなにいま、愛着を持っていようが、飽きたら放置ないしは廃棄してしまう。いつか、私もそうなるのだろうか。神様も、そうなのかもしれない。そうであってほしいような気も、そうでないといいというような気もする。
いまは考えたくない。そういってすぐに、現実や未来に蓋をしてしまう。
「俺達──俺は、あんたが本丸に帰ってこなくなっても、待ってることしかできないしな」
大般若長光にしがみつく。地に足が着いていないような気持ちになる。でも、かれから離れることができない。名前でかれにすべてを引き渡せるなら、いくらでも差し出すのに、なんて考える。蝉時雨は遠くなり、寒気さえ覚える。