ねがいごと 開店準備のルーティンをこなしながら、ジェイドは人影がひとつVIPルームへ向かうのを視界の端で捉えた。一瞬ではっきりとは見えなかったが、見覚えのない姿に警戒センサーが働きその場を他の寮生に任せて自分も後を追う。何事もなくて杞憂に終わればそれでいい。アズールは別に守ってやらないといけない程か弱くもないのだし。扉の前で一呼吸置いて、努めてさり気なくノックした。
「アズール、失礼します。少し確認したいことが」
どうぞ、と呼びかけに対してすんなり声が返ってきた。何も心配することはなかったのかもしれない。そもそも見間違いだった可能性もある。何を確認してもらおうかと考えながら扉を開けたら、室内には意外な人物がソファに腰かけていた。
「おや、監督生さん」
「あ、ジェイド先輩……」
「どうかなさったんですか?」
「僕に話があるそうです。日中は時間がなかったので、開店前の時間ならとここへお呼びしました」
「そうですか」
話とはなんだろうか。監督生がアズールに危害を加えるとは思えないが、看過もできない。アズールはその話の内容について検討がついているのだろうか。気軽に後輩の相談に乗る性質でもないだろうに。
「お前の要件は急ぎですか?」
「あ、いえ……僕の方は後からでも大丈夫です。それよりもしよければ、僕も同席させて頂いてよろしいですか?」
ジェイドの申し出にアズールは片眉を上げ、一瞬訝し気な表情を見せたものの何か意図があるのかと汲み取り、監督生へボールを投げた。
「監督生さん、よろしいですか?ご都合が悪いようなら下がらせますが」
「いえ、私は大丈夫です。あの、そんなに時間がかかることでもないので……」
遠慮がちで小さな声で応じる監督生を、ジェイドは冷めた目で見下ろした。どうしてこんなひ弱そうないきものに、アズールの目論見は阻止されたのだろうか。女子でそのうえ魔力もないのに特例で入学してきたわりには、本人にそれに見合う理由があるように感じられない。有体に言えば、冴えない。
セミロングの黒髪を飾りひとつない茶色のゴムで縛り、大き目の制服に身を包む姿は地味そのものだ。化粧っ気のない顔は清潔感はあるがそれだけ。整った顔立ちをしているのに、表情が乏しくそれをいかせていない。友人たちのために必死で自分たちと戦う姿を見て度胸があるのはわかったが、その後起こったスカラビアの一件では、どうにも状況に流されておろおろしているような印象だった。
「そうですか。では、ご用件をどうぞ」
アズールが執務机から促し、ジェイドは監督生の向かいのソファに腰かける。監督生はまるで見張られているような視線に恐縮しながら口を開いた。
「あの、モストロ・ラウンジでアルバイト、させてもらえないでしょうか?」
「アルバイト……監督生さんがですか?」
「唐突にすみません。どんな雑用でも構わないので、働かせてもらえませんか……?」
なんだそんなことか、とジェイドは思った。別に自分が立ち会うほどのことでもなかった。積極的にこちらに関わろうとしたのが少し意外だったが、小遣い稼ぎだろうか。
「監督生さん、残念ですが当ラウンジはオクタヴィネル寮生しか雇用していません。サバナクロー寮のラギーさんのように臨時でヘルプをお願いすることはありますが、常勤では他寮の方はいらっしゃらないんです」
「そう、ですか……」
アズールの返答に、監督生はがくりと肩を落とした。詳細は不明だが、どうやら彼女は帰る場所も身寄りもないらしい。入学式での事件とオンボロ寮の監督生のことが学園中の噂になった頃、ジェイドなりに色々調べようとしたがそれ以上のことはわからなかった。だから間違って喚ばれてしまった以上学園側で面倒を見る他なかった、という他の生徒たちと同じような見解しか持っていないが、学園に生活の面倒をみてもらっている中で少しでも自由になる金銭があれば、と考え相談に来たのだろう。
「ご期待に添えず申し訳ありません。よろしければ、理由をお聞きしても?何かお困りのことがあるんでしたら、お話だけでもお聞きしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。すみません、変なこと言って……」
食い下がるようなら臨時ででも、と思いアズールは尋ねたが、監督生は素直に応じて軽く頭を下げた。アズールと共に監督生を見送り、ジェイドはこの一件を頭から削除する。ラウンジの仕事に自身の趣味と勉強や副寮長としての役目。ジェイドにはしなければならないことが山のようにあった。
綺麗にデリートした監督生の直談判がジェイドの脳内に蘇ったのは三日後のことだった。
植物園の一角を借りて栽培している菌類の様子を見に植物園へ赴いた時、何気なく視線を向けた建物の東側、影になっている草むらでうずくまる監督生をみつけた。地面に膝をついて何か拾っているようだった。
放っておこうか、探ろうか。束の間迷ったその間に監督生が立ち上がり、こちらへ向かって歩き出した。ちょうど彼女が顔を上げたところで目が合い、ジェイドは薄い笑みを顔面に張り付けた。監督生は今の今までジェイドの存在に気付いていなかったのか、びくりと肩を揺らす。
「こんにちは、監督生さん」
「あ、こ、こんにちは」
「……大丈夫ですか?」
軽く会釈をしてさっと脇をすり抜けようとした監督生にジェイドは咄嗟に声をかけた。その腕に抱えた数冊の教科書は先ほど拾っていたものだろう。まだ使い始めてそれ程経っていないはずのそれが、土埃に汚れびりびりに敗れている。表紙には足跡まで付いていた。
「え、っと……ちょっと落としちゃって」
手元に向けられたジェイドの目線に気付いて、監督生は下手な言い訳をした。どう見ても人為的に傷つけられているのに。恐らく他の生徒からの嫌がらせだろう。それも、先ほどの無表情で拾っている様子からして初めてではなさそうだった。入学資格を全く備えていない生徒が特例で在席しているのを妬ましく思う気持ちはわからないでもないが、仮にも名門と言われる学園の生徒なら、それなりに品格を備えてほしいものだとジェイドは思った。
「そうですか。では、僕はこれで」
「あ、はい。失礼します」
再度頭を下げた監督生の耳は真っ赤になっていた。この状況を恥じることしかできないなんて、やはりつまらない人間なのかとも思う。あんなに必死になって助けようとしたクラスメイトには、相談していないのだろうか。まぁ、自分には関係がないかとジェイドは監督生の背中から視線を外した。今度はその情報をインプットしながら。
「そういえばアズール、先日の監督生さんの件ですが」
「監督生さんの?」
翌日、ラウンジでジェイドはその話を切り出した。今日は出勤日ではなかったが、月末の締め業務のためVIPルームで書類仕事をしていたアズールは帳簿から顔を上げて、他の寮生が帰った後に部屋を訪れたジェイドを探るような表情で見つめる。
「えーなに?小エビちゃんとなんかあったの?」
気紛れでついてきたフロイドが、ソファに寝そべりながら声を上げる。アズールは再び帳簿に視線を落とし、フロイドの問いかけに他人事のように答えた。
「うちで働きたいんだそうですよ。先日相談を受けました。お断りしましたが」
「そーなんだ……身寄りもないんだっけ?お金ないのかな、やっぱ」
「そうですね。手違いで学園へ来てしまった上、どうやら帰る場所もないそうですから。最低限の生活は保障されているでしょうけど、自由になるお金は少しでもほしいでしょう」
言い終えてアズールはちらりとジェイドを見た。視線を受け、フロイドがそれ以上興味はなさそうなのを確認しジェイドは口を開いた。
「恐らくですが、教科書を買いたいんだと思います」
「教科書?一通りは支給されるでしょう」
「ですが、どなたかに嫌がらせでぼろぼろにされていたようなので」
「げ、なにそれいじめってやつ?くっだらねぇ」
抑揚のないジェイドの話に反応したのはフロイドだった。ソファから身体を起こし嫌悪感も露わな顔をしている。教科書が支給されるのは新しい学年になった時だけだ。普通にしていれば追加で必要になることなどないが、失くしたり破損したりした場合は自費で購入しなければならない。監督生ならもしかして学園長に頼めばまた用意してもらえるかもしれないが、言い出せないのだろう。
「まぁ、彼女の立場を妬む輩がいるのはわかりますが。性別はともかく、魔法を一切使えないのに端から見れば特待生のような扱いですからね。少しでも監督生さんのことを知っていれば、それほどいい立場でもないとわかるでしょうが」
それについてはジェイドも同意見だった。監督生とは体のいい呼び名なだけで、実際は雑事や面倒事を押し付けられても文句も言えない。学園長からの依頼はまだしも、あの生真面目でお人好しな性格だと勘違いをしたクラスメイトからも何かしら押し付けられていてもおかしくない。来たくて来たわけではない見知らぬ場所で、帰ることも出来ず頼れる家族もなくくだらない嫌がらせも我慢するしかない生活なんて、自分なら願い下げだ。
「センセーに言えばいいのにね。誰かにやられましたって」
「彼女の性格なら、.それも迷惑かもしれないと思って言えないのかもしれませんよ」
「別にいいのに。小エビちゃんは弱いんだから、使えるもんは使っても」
「そうですね」
唇を尖らせる片割れに、ジェイドは小さく頷く。そのやり取りを黙って聞いていたアズールが口を開いた。
「それで、お前は何が言いたいんです?」
「あぁ、いえ……監督生さんに働いて頂いたらどうかと思いまして」
ジェイドの提案に、アズールはしばし考える素振りを見せた。別に、他の寮とより差別化を図る意図があっただけで、オクタヴィネル寮生しか雇用してはいけないというルールはない。
「まぁ、彼女は色々とコネクションがありますし、恩を売っておくのも悪くないかもしれませんね」
店の人手も十分に足りているともいえないし、彼女は部活にも入っていないからシフトも融通がきくかもしれない。人柄も問題はないだろう。
「いいじゃん。今のメンバー結構固定されてっし、小エビちゃん来たら面白くなりそう」
「では、決まりですね」
双子の声を聞きながら、アズールは監督生を雇った後の仕事の段取りを考えていた。何をさせるのが効率的か、何をさせればマイナスになるか。話しながらもチェックしていた帳簿を閉じ、アズールは仕事を終えてもなおその頭脳を回転させていた。
「というわけで、貴方には主に厨房での仕事に就いてもらいます」
先週アルバイトを断られたばかりでアズールに呼び出された監督生は、終始戸惑いながらアズールの話を聞いていた。
「念のため貴方は表には出さないようにします。他には開店前の準備や閉店後の清掃などですね。厨房での業務も最初は雑用がほとんどだと思いますが……よろしいですか?」
「は、はいっ、雇ってもらえるだけでありがたいので!どんな仕事でも頑張ります」
目立たないようホールでの給仕はさせないと言われて安堵の表情を見せた監督生は興奮気味に返事をする。本来ならホールの仕事から覚えさせたいところだが、アズールとしても無用なトラブルは避けたかった。
「よろしい。ではこちらの雇用契約書にサインを。給与など、雇用条件は先ほども説明しましたが再度確認しておいてください」
苦い記憶が蘇っているのか、監督生は緊張した面持ちで契約書に目を通しサインをした。
「では、ちょうど月も替わるので来週の月曜日、放課後こちらに来てください。他に質問はありますか?」
「大丈夫です。わかりやすく、丁寧に説明してくださったので……」
といいつつ監督生は何か言いたげな表情をしている。後で何か言われても面倒なので、アズールは監督生に言いたいことがあるなら言うよう促した。
「あ、すみません。質問とかじゃないんですけど……今日の説明を聞いて、こんなに本格的な経営をされてるんだなって。学生でありながら同じ学園の生徒をお店で雇ってるって、すごいです。私のことも、本当にありがとうございました」
素直に褒められて悪い気はしない。しかしアズールは表面には出さず別のことを言った。
「それは別に気にしないでください。貴方を雇ってはと言ったのはジェイドです」
ジェイドの名前を出すと監督生の顔が一瞬強張った。その表情は見ない振りでアズールは立ち上がる。嫌がらせのことはきっと知られたくないだろうから。
「それでは、来週からよろしくお願いします。監督生さん」
打算的に雇用した監督生だったが、真面目で仕事覚えもよく案外拾い物だったかもしれないと、ひと月ほどで教えられた仕事は一人でこなすようになった姿を見てアズールは顎に手を当てた。
「案外拾い物だったんじゃないですか?」
いつの間にか傍にやって来たジェイドに見透かしたように言われ、アズールは眉を顰める。
「当然です。支払っている給与分はきちんと働いてもらわないと」
「その点は大丈夫でしょう。彼女はこの学園にそぐわない生真面目な性格ですから」
「他のメンバーは大丈夫そうですか?」
監督生に恩を売るために特例を認めたアズールだったが、元々ラウンジで働いていた寮生たちとの間に確執でも生じてはかなわない。事前に妙な詮索をされないよう言い含めておいたが、やはり面白くないと感じる者もいるのではという心配はあった。
「最初は皆遠巻きでしたが、今はわりと打ち解けていますよ。監督生さんもわからないことがあれば素直に聞いて、教えてもらっているようですし」
「ならいいです。何かあれば対処お願いしますよ」
お前が連れてきたんだからな、と言わんばかりのアズールに、ジェイドはかしこまりました、と恭しく返答した。
「ジェイド先輩、在庫のチェック終わりました!」
「そうですか、では」
「バックヤードの清掃もやっておきました」
「おや、優秀ですね。では本日はもう上がって頂いて結構ですよ」
閉店後の業務も問題なくこなせるようになっているので、次に来たときは厨房での調理補助も教えていこうか。今はまだ皿洗いと清掃しかさせていないが、仕事ぶりをみていると問題はなさそうだ。
「あ、あの……」
「どうしました?」
上がっていいと言ったのに動かない監督生に声をかけると、意を決したように見上げてきた。
「えっと、ジェイド先輩が、私のことアズール先輩に言ってくれたんですよね。ありがとうございました。ほんとに、助かりました」
あの日の出来事には触れてこなかったが、これは話題にしてもいいということだろうか。余計なお節介をするつもりはないが、把握しておくに越したことはないかと話を振ってみた。
「いえ……僕も少し気になっていたので」
「あ、はは……変なとこみせちゃってすみません」
「失礼ですが、ああいったことはよくあるんですか?」
監督生の顔が曇ったのがわかったが、少し突っ込んで訊いてみる。監督生は躊躇う素振りを見せながらも口を開いた。
「そうです、ね……一回あったから気を付けてたんですけど、ちょっと目を離した隙に。でも今月のお給料もらえたら新しい教科書が買えるので、大丈夫です」
どうしてそんな空元気の笑顔なんか作るのだろうとジェイドは思う。黙って耐え忍ぶなんて、無意味でしかないのに。魔力や腕力がなくても、考えれば対処方法はいくらでもある。
「あまり酷いようでしたら、どなたかに相談されてはどうですか?先生に言いにくければ、仲良くされているクラスメイトの二人にでも」
「ありがとうございます。でもエース達には心配かけたくないので……」
「じゃあ、僕たちでもいいんですよ」
「へっ?」
にこ、と微笑みかけると監督生は驚いて聞き返した。ジェイドも同じような心地だった。始めは自分には関係ないと思ったのに、結局はアズールに口添えをしたし今またこうして気にかけている。
「僕でもアズールでも、相談して頂ければ力になりますよ」
この言葉にも嘘はない。監督生の立場なら以前の騒動を思い起こして疑っても仕方ないが、彼女は素直に受け止め嬉しそうに笑った。
「ふふ、ありがとうございます。でも最近は、オクタヴィネルの皆さんによくしてもらって、結構楽しくやれてるんですよ」
「それはよかった。ですが、無理はしないように。何かあれば言ってください」
最後の一言は余計だったかもしれない。そこまでしてやる義理はないのに、監督生の健気な笑顔につられてそんな言葉をかけてしまった。
フロイドはこの頃機嫌がよかった。本人としては機嫌の良し悪しというより仕事に行きたくないな、という日が減っただけだが、他の寮生からすると急なエスケープもなくきちんと出勤しているだけでとんでもないことだった。
「あれぇ?小エビちゃん、その髪どうしたのぉ?」
その要因は彼が小エビと名付けてよく構っている監督生だった。彼女が小さな身体を精一杯使って働く姿はフロイドの目に好ましく映ったし、厨房で少しでも役に立とうと声を掛けてきたり、教えたことに対して礼を言われると後輩として可愛いなと思った。
「あ、フロイド先輩、お疲れ様です。今日は時間があったのでちょっといつもと違うのにしてみました」
休日だから授業はなく、監督生のシフトは夕方からだった。監督生より遅れて出勤してきたフロイドは、三つ編みを後ろでまとめた監督生に面白そうに目を光らせた。いつも味気ないポニーテールなのに、小さな飾りのついたヘアピンも差している。
「へぇ。そういうのしたら、可愛いじゃん」
身なりはきちんと清潔にしているものの、着飾ることに関しては無頓着なのかと思っていたが、そうでもないらしい。深い意味のない褒め言葉に、わずかに頬を赤らめてはにかんでいる。
「モストロ、楽し?」
なんとなくの気紛れでフロイドは監督生に尋ねた。心のどこかで肯定されることを期待しながら返答を待つ。
「楽しいです。最初は緊張してたんですけど、皆さんよくしてくださって……」
「良かったねぇ。次からはオレが仕事教えたげるからね」
フロイドが垂れ目を波打たせてそう言うと、監督生はぱっと顔を輝かせた。その反応を予想していなかったフロイドは、ほんの一瞬息を止める。
「フロイド先輩のお仕事ですか?」
「あー、うん。いつまでも皿洗いばっかじゃつまんないでしょ。調理の方、ヘルプ入ってもらうから」
「わかりました!あの……ほんとに色々とありがとうございます」
「なにが?」
「えっと……ほんとは、多分ホールにも出ないといけないですよね。でも、中の仕事だけにしてもらって」
それだけではない。寮生なら支給しなくても持っている寮服も、客前に出ないにも関わらず彼女のために小さいサイズが用意され、更衣スペースも整えられた。
「別にそれは、アズールが面倒事を避けただけでしょ。小エビちゃんが決めたことじゃないし、いいんじゃない」
「でも、そんな面倒な私を雇ってくれたので。だからせめて精一杯がんばります」
「アハハ!小エビちゃん大げさ」
「でも、もう私の生活の大事な一部になってるんです。正直学校生活は授業もわからないししんどいことの方が多いですけど、ここでお仕事してるとそういうこと忘れて一生懸命になれるので」
そうえいえばイヤガラセされてるんだっけ。少し翳った監督生の目を見てフロイドはジェイドの話を思い出した。それでも卑屈にならず一生懸命やっている。そういうヤツは嫌いじゃない。
「わっ」
自分より頭二つ分くらい低い位置にある丸い頭をくしゃりと撫でると、監督生は顔を赤くしてフロイドを見上げてきた。次の瞬間、照れ笑いを浮かべられてフロイドの動きが止まる。なんだか心臓がうるさい。
「フロイド、そろそろ仕込み作業をしないと間に合いませんよ」
バックヤードに様子を見に来たジェイドが声をかけるまで、フロイドと監督生はそのままの体勢で固まっていた。勢いよく手を離したフロイドを、面白そうにジェイドが見遣る。
「おや、どうしたんですか?二人して」
「んー?別に、何もないよ」
「そうですか。では、今日も頑張りましょう」
ジェイドはそれ以上は追及せず、ホールへと戻っていく。フロイドも初めて感じた胸のざわめきは一旦仕舞い込み厨房へと向かった。
その日は想定を超えてやけに忙しく、比較的薄めのシフトだったため皆休憩もそこそこに働きづめだった。仕事を終えるころには皆ハイになっており、疲れているはずなのに店内に留まり互いの労をねぎらい合っている。忙しさゆえの慌てぶりやミスも、仕事を終えた今では笑いの種だ。ジェイドはその話の輪の中に監督生も入っているのを見つけてわずかに目を見開いた。
「あっジェイド先輩お疲れ様ですっ。聞きました?満席になった時なんですけどね」
こんな風に声を上げて、屈託なく笑う人間だっただろうか。ジェイドの印象としては、芯はあるが表情や振る舞いはもっと地味でおとなしいと思っていた。それがこんなに、溌剌とした笑顔を見せるなんて。
「あ、すみません騒いじゃって……仕事も終わってますし、すぐ着替えて上がりますね」
反応が遅れたジェイドに、怒られると思ったのか監督生が恐縮して立ち上がった。すぐさまいつもの表情を作り、柔らかい声を出す。他の寮生もいる中でポーカーフェイスを崩すわけにはいかない。
「いえ、少しくらいはいいですよ。今日は忙しかったですね」
「でもジェイド、監督生頑張ってたぞ。厨房もオーダー結構溜まってたけど、てきぱき動いてくれて助かった」
三年生の言葉に、監督生は謙遜で返している。上辺だけの言葉ではなく、本当に自分の力ではないと言っているのだから、つくづくこの学園の生徒としては不適合者だ。
これまでだったらそんな弱者なんて、と切り捨てていたかもしれないが、どうしてか監督生の一生懸命な姿には興味を持ってしまう。そこで初めて、もしかしたら利用価値があるかもしれないと思ってアズールに雇用を提案したのも、自分が監督生に近づきたいと思っていたからではないかと気が付いた。
「監督生さんはよくやってくれていますよ。来週からは調理のヘルプもしてもらいますし、その調子でお願いしますね」
わずかに生じた動揺は綺麗に隠して、ジェイドが監督生に微笑みかけると、彼女ははい!と元気よく返事をした。その明るい声にまた笑顔の仮面が崩される前に、ジェイドはその場から立ち去った。本当は今日自分が施錠担当だったが、三人の他に唯一鍵を預かることが出来る三年生に後を頼み、足早に自室へと戻る。
「あれ?もう閉めてきたの?なんかやたらと盛り上がってたからしばらくは無理かと思った」
大きな溜息と共に扉を開けたジェイドに、先に仕事を切り上げ部屋に戻っていたフロイドが、ベッドに寝転んだまま声をかけた。
「……いえ、皆さんまだ盛り上がっていたので、施錠はキースさんにお願いしてきました」
フロイドと違ってジェイドはシフトの予定を急に変更したりはしない。早く店じまいをしたければどれだけ盛り上がっていてもさっさと追い出しただろうし、今日は急いで仕事を終えなければならない理由もないはずなのに、とフロイドは口角を上げて兄弟を見上げる。
「小エビちゃんが可愛くって、動揺した?」
「は?」
すっ呆けたわけではない。心からの疑問符。何を言っているんだこの片割れは。
「小エビちゃんがジェイドに話しかけてた時、どんな顔してたと思ってんの」
「……見てたんですか」
「ちょうど帰るとこだったから?おつかれって言ってんのに誰も気付かねぇし」
「少し驚いただけです。あんな風に明るく笑ったり話したりする印象がこれまでなかったので」
「そーだよねぇ。小エビちゃん、この頃緊張取れてきたのかよく笑うし他の奴らとも話してるよね。オレもそういうとこ見たらなんか気分いい」
ジェイドの早口な否定をフロイドはスルーした。それがジェイドにとっては自分の否定したことが受け入れられていないようで不服だ。そんなジェイドの僅かな表情の変化を横目で見ながら、フロイドは天井を見上げて呟く。
「なんでかなぁ」
それはモストロ・ラウンジで働き始めたからなのだろうか、とフロイドは考える。けれど何度か見かけたことのある休み時間にエース達と話している姿を思い出すと、今自分たちに見せ始めている姿が本来の彼女なのかもしれない。
「もしかして監督生さんは本当はそういう性格なのかもしれないですね」
「ジェイドもそう思う?なんかさぁ、最初は思ってたより暗いんだなって感じだったんだけど」
オンボロ寮を追い出したり、海で人魚姿になって追いかけまわしたり、監督生は始終怯えて慌てふためいてはいたものの、それでも大事な友人たちのために汗をかき、最後はアズールも出し抜いて見せた。その時の覇気が、その後はあまりり感じられなかった。といっても日常で交流はなく、監督生の姿を見るのは学年を跨いだ合同授業の時くらいだったので、目立たないように息を潜めていたのかもしれない。
「変に目をつけられないようにしていたんでしょうね。何もしなくても、在籍しているだけで疎ましく思われるんですから」
「じゃあ、モストロで楽しいこと増えたんなら、よかったじゃん」
「そうですね、最初はフロイドはともかく僕にはどこか距離を置かれている気がしていたので、あんな風に笑いかけられると……」
ジェイドの言葉は尻すぼみで終わった。フロイドはにやにやして続きを促す。
「笑いかけられると?」
「……意地悪ですね、フロイド」
「なにがァ?やっぱオレら、好きな顔とか似てんのかな」
「顔だけじゃないですよ」
開き直ったジェイドが訂正する。客観的に見て悪くないとは思うが、顔だけで選ぶほどの容姿ではない気がする。第一自分は見た目だけで他者を判断しているつもりはない。フロイドだって同じだろう。
「あーうん、そうだね。なぁんか、ああやって張りつめて生きてるの見たら、手懐けたくなるっていうか」
だから、素の部分が見えると嬉しいのかとジェイドは納得した。そういえばフロイドは海にいた頃、たまに小さな魚や貝、それこそエビも捕まえてペットにしていた。それと同じ感覚なのかと尋ねると、答えに少し迷ったフロイドはゆるく首を振った。
「んーん、そうじゃなくてぇ、番にしたいかも……」
「おや、そういう」
「ジェイドはそういうんじゃねーの?」
「異性として意識してしまっているのは否定しませんが……」
番とまで言われると、どうだろうか。だけど今更他の雄にくれてやるつもりもなかった。しかし、何しろまだ自分の想いを認識したばかりだ。それはフロイドも似たようなもので、だからまだ‘かもしれない’なのだろう。
「オレもね、小エビちゃんが例えばカニちゃんとどうこうなったりなんてしたらヤだけど。でも今オレらが何か言ったって、小エビちゃんびっくりするだけじゃない?」
「そうですね。そもそも二人と付き合うなんて発想が、監督生さんにはないんじゃないですか」
「えっ?あーそうかも……」
自分たちは当たり前のように二人とも好きなら二人で一緒になればいいと思っていたが、大体の場合付き合うというのは一対一だ。
「まぁ、徐々に僕らの手で絡めとっていけばいいんじゃないですか」
「どうやって?」
「まずは、デートに誘いましょう」
小エビちゃん大丈夫かなぁ。不穏なジェイドの笑みに、フロイドは他人事のように思った。
「買い出し?ですか」
「えぇ、フロイドと三人で。今週の土曜日、空いていますか?」
「あ、はい大丈夫ですけど……」
食材は仕入れ業者から納品されるし、なんだろう。その顔いっぱいに疑問符を浮かべた監督生に、フロイドがフォローした。
「買い出しってか、インテリアとか食器とか見に行く感じ?女の子の意見も聞きたいし」
本当は、内装変更の予定も食器の追加や入れ替える予定もない。もちろんアズールの指示があったわけでもなく、要は三人で外出する口実だった。
そうやってせっかく連れ出したのに、外出時は制服で、なんて校則があるせいで監督生の私服が見られないことがフロイドはいささか不満だった。男子生徒と同じ制服を着ているせいで、デート感もまったくない。あぁでも、もしかして外出用の私服なんて彼女は持っていないかもしれない。
「監督生さんに服をプレゼントしたらさすがに不自然でしょうか」
ジェイドも同じようなことを考えていたのか、後ろをついて歩く監督生に聞こえないよう小声でフロイドに問い掛ける。フロイドとしても、自分がコーディネイトした服を着せたいと思わないでもないが、今この段階でそれをしたらさすがに不審に思われそうだ。
「んーまぁ、今日はいいんじゃね?また来た時でいいじゃん」
そうですね、というジェイドは次を考えているのかわずかに口元を緩ませている。最初監督生のことを聞いた時は否定したくせに、とフロイドはこっそり苦笑した。
「あ、ちょっとコスメ見たい。アイライナーなくなりそうなんだった」
目についた大きなディスカウントショップに、フロイドは二人の了承なく入って行く。そもそも目的がデートだったジェイドも特に止めることなくフロイドについて行くが、監督生だけはまだ仕事の終わらないうちから寄り道をしていいのかと戸惑った声で引き留めた。
「い、いいんですか?」
「大丈夫ですよ。インテリアはまた後で時間があれば見ましょう」
逆じゃないの?という疑問を笑顔で封じ込め、ジェイドは監督生をエスコートして店内に入った。そういえば僕も、なんて言いながら自分もコスメのコーナーへと向かう。
「小エビちゃんは化粧しないの?」
棚に陳列された商品を見てはいるものの、手に取って試そうとはしない監督生にフロイドが声をかけた。素顔でも特に問題はないが、ナイトレイヴンカレッジでは男子生徒も式典服や寮服の時は当たり前のようにメイクをしているから、陸ではそういうものなのかと思っていた。
「あ……私が前に行ってた学校、校則でメイク禁止だったんで、どうしたらいいのかなって」
「校則で?随分厳しいところだったんですね」
「こっちじゃわりとよく聞きましたよ。少しくらいならそこまで厳しく言われなかったですけど」
ジェイドは監督生の答えに改めて、彼女はどこからやってきたのだろうと思った。調べても解らなかったが、今なら答えを聞き出せるだろうか。
「差支えなければ教えて頂きたいのですが、監督生さんはどちらのご出身なんですか?」
聞いた途端ジェイドは珍しく後悔した。一瞬で硬くなった監督生の表情が、単に遠いところからやってきたのではないと物語っている。
「すみません。突然学園に連れて来られたのに、思い出させるようなことを言ってしまいました」
「いえ、大丈夫です。きっとものすごく遠いところなんで、先輩たちに言ってもわからないかと……私もこのあたりのこと、全然知らないですし」
取り繕ったジェイドの言葉に、監督生も柔らかい愛想笑いを浮かべる。その会話に、いつも使っているアイライナーを探し終えたフロイドが割って入った。
「でも小エビちゃん、グレートセブンも知らなかったんでしょ?カニちゃんが言ってたよ。遠い場所どころか、異世界とかだったりして?」
「ふふ、フロイド先輩それ、面白いですね」
「……そーだよねぇ。あ、オレ買ってくるからちょっと待っててね」
「僕もついでに買っておきます。すみませんが少々お待ちください」
「あ、はいごゆっくり」
土曜の昼間で、店内は混み合っていてレジにも数人が列をなしている状態だった。周りの客の注目を集めながら、大きな二人がすいすいと店内を歩いて行く。
「フロイド、会計はあちらですよ」
「えー?ジェイドもどうせ同じようなこと考えてたんじゃないの?」
「おや、僕はグロスにしようかと思ったのですが」
にやりと笑ったジェイドに、フロイドは胸を撫で下ろす。考えることは同じでいいが、選ぶ物まで同じでは困る。
「あーよかった。オレマニキュア。さっきちらっと見たパステルのオレンジが可愛くて」
「ブルーではないんですね」
「うん、海の色もいいけど……今日はあったかい色の方がいいかなって」
「そうですね。僕はピンクベージュにします。監督生さん、たまに血色が悪い時があるので」
「なにそれ母親みたい」
彼女さんにですか?という店員の余計な声かけにも機嫌よく答え、ラッピングされたプレゼントを持ってプチプラコスメをじっと見つめている監督生の元へ戻った。
「こーえーびーちゃんっ」
「お待たせしました」
「いえいえ、レジ混んでましたか?」
「いえ、他に買うものがあったので」
嫌な顔ひとつせず振り向いた監督生に、二人は今しがたラッピングしてもらったばかりのプレゼントを差し出した。まん丸の黒目を見開いて、監督生は二つのプレゼントをじっと見つめる。
「えっ……?」
二人を目で追っていた店内の人々も同じように内心で驚く。二人ともその子なの?というぎらついた視線に監督生は委縮してしまった。ジェイドもそれを煩わしく感じ、すっとその肩を抱いて出口へ向かう。
「ここじゃ開けらんねぇえし、どっかでお茶しよ」
フロイドの提案に、戸惑ったままの監督生を連れて少し歩いたところにあったファーストフード店へと入った。
「ふう。席あって良かったですね」
「やはり休日のこの時間のカフェは混んでいますね」
監督生は期間限定のシェイク、フロイドは炭酸のジュースを手にしている中、ジェイドはしっかりセットメニューを頼んでいた。小さなテーブルを見目の良い男子学生二人と、同じ制服を着ているとはいえ女の子一人が囲んでいる様は、いやでも周りの視線を集めてしまう。
「ねぇねぇ小エビちゃん、それ開けてみて」
鬱陶しい視線には無視を決め込んで、フロイドは監督生を急かす。ジェイドもハンバーガーを頬張りながら、にこにことその様子を見守っていた。
「あ、あのさっきちゃんと聞けなかったですけど、私にですか?」
「それ以外にあんの?」
「い、いえ。プレゼントしてもらう理由、が」
「オレらがあげたかったから!もういいから、開けてみて!」
「今日お付き合い頂いた対価とでも思って頂ければ。是非受け取ってください」
素直に受け取らない監督生に焦れたフロイドにジェイドが言い添え、監督生はようやく包みを開けた。
「わぁ……!」
容器も可愛らしいマニキュアとリップグロスに監督生の目が輝いた。やはり、ファッションやメイクに全く興味がないわけではないらしい。じゃなきゃあんなヘアアレンジしないよね、とフロイドは頬杖をついて満足げに見つめる。
「いいんですか?ほんとに」
「いいよぉ。ほら、これもあげる」
上機嫌のまま、フロイドはジェイドのポテトを摘まんで監督生の口元に押し付けた。
「あ、ありがとうございます」
「フロイドずるいです。監督生さん、僕のも食べてください」
「あ、すみませ……ん、むぐ」
「ちょっとぉ、ジェイドじゃねんだから。そんなにいっぺんに食べらんないでしょ」
そう言いながら、三、四本口に入れられて頬を膨らませる監督生を見てフロイドは笑う。ジェイドと二人で小エビを可愛がっているという感覚がたまらなく楽しい。ジェイドも、落ち着き払っているようで浮かれているのがフロイドにはわかる。
だから気付かなかった。やっかみや冷やかしの視線の中に、ナイトレイヴンカレッジの生徒のものが混じっていたことに。
「フロイド、監督生さんはまだ来てないんですか?」
「えー?知らなぁい。居残りでもしてんのかな」
いつも開店からのシフトの時は誰より早く来て店の鍵が開くのを待っているくらいなのに、今日は出勤予定時刻を過ぎても姿が見えない。確かに相棒のやらかしで居残って補習していることもあるが、それなら連絡が来るだろうとアズールは眉を顰めた。
監督生の真面目な様子からしてすっぽかしたりもしなさそうだし、そろそろ連絡してみるかとスマホを手にした時、ジェイドから着信が入った。
「どうしました?今日は休みでは……」
『アズール、ラウンジのマジカメ見てもらえませんか?』
どうして今、と思いはしたがジェイドはアズールが仕事中と分かっていて無駄な電話はかけてこない。タブレットでアプリを開くとダイレクトメッセージを見るよう言われ、一体何事だと内心焦りながらアイコンをタップすると見覚えのないアカウントからメッセージが届いていた。
張り付けられた画像に映っていたのは監督生だった。周りに建物は映っておらず、彼女は木にもたれかかっている。学園裏手の森だろうか。身体はぐったりとして、恐らく拘束魔法をかけられているのだろう。手首と足首が縛られたようにぴたりと揃えられていた。
メッセージには、監督生の身柄と引き換えにアズールに奪われたユニーク魔法を返すよう記されている。
またか、とアズールは大きな溜息を吐いた。自業自得なのに、逆恨みして無関係な人間まで巻き込んで。しかし監督生のことは助けねばならない。連絡してきたということは、これからジェイドが向かってくれるということだろうか。
『アズール、申し訳ありませんがフロイドにも連絡していいですか?』
「……いいですけど、フロイドは今日出勤日ですよ」
『今日は繁忙期でもないし、キースさんがいらっしゃるから一時間くらい抜けても大丈夫でしょう。それに、僕一人で監督生さんにいいところを見せて、あとでフロイドに恨まれてもかないませんので』
「はぁ、わかりましたよ。フロイドにはこのまま僕から伝えてお前に連絡させますので、二人でなんとかしてください」
このやり口では、相手は大したことはなさそうだ。あの二人が一緒に向かうなら一時間もかからず監督生を救出し、馬鹿な逆恨みをした輩を粛正するだろう。それでもジェイドの口ぶりからして、今日はもう戻ってこないかもしれないとアズールは直感する。フロイドと監督生、二人分の穴埋めをシミュレーションしながらフロイドの元へ向かった。
「ジェイド、小エビちゃんの場所わかった?」
ジェイドが鏡舎へ着いたのとほぼ同時に、フロイドも寮服姿のままラウンジから駆けて来た。いつになく焦った様子に、ジェイドは気を落ち着けるようにひとつ深呼吸をする。
「学園裏の森かな」
「そうですね。多分場所もわかります。ちょうど先週少し散策していたあたりです」
毎度土の匂いをまとって帰ってくる片割れに、フロイドはこの時ばかりは感謝した。切株に見覚えがあると言われた時は辟易としたが、今はその記憶に頼るのが一番早そうだ。
「小エビちゃん、変な顔してたね」
「あぁ……」
フロイドが言う変な顔というのは、監督生の覇気のない表情のことだろう。これまで監督生が受けた仕打ちがどの程度だったのかわからないが、少なくとも嫌がらせの域を越えた、身の危険を感じるようなことはなかったように思う。そうだとしたら、さすがに教師にでも相談するだろうから。だから普通ならもっと怯えた表情か、必死に助かろうとする様子が見受けられるはずだ。
なのに送られた写真の監督生と来たら既に諦めたような顔をしていた。
「なんかさぁ、完全にオレらのとばっちりだから助けるけど……小エビちゃん自身、助かりたいって気持ちあるのかな」
「まぁそれは、本人に聞いてみましょう」
森の中を早足で歩きながら、ジェイドは微かに笑む。ここ最近変わった印象はやっぱりただの勘違いで、本当にただ無気力なだけの人間なら、自分たちの輪の中には入れなくていい。きっと今感じている好意も、束の間の物珍しさで終わり、やがて消えてなくなるだろう。
「もうすぐですよ。準備はいいですか」
「小エビちゃん使うようなヤツらだよ。準備なんていらねって」
まぁ確かに、こんなことをして、すんなりアズールにユニーク魔法を返してもらえると思っているならおめでたい頭だ。
「あ、みつけたぁ」
フロイドの不穏な声に、二人の生徒が振り返った。その足元には、監督生が木の根元に座り込んでいる。ジェイドとフロイドを見て、驚いたように目を見開いた。ほっとしたとか、喜んでいるとか、そういう表情は見られない。驚くということは、助けが来るとは思っていなかったのだろうかとジェイドは犯人たちそっちのけで、数メートル先の監督生を観察する。
「おい、アーシェングロットはどうした?」
「アズールは仕事中です」
お前たちに割く時間など一秒たりともないのだという苛立ちを目一杯込めて、ジェイドは二人を冷たい目で見据える。威勢よく問いかけた生徒は、ジェイドの冷たい目線と声に委縮する。それを見て心底呆れながら、ジェイドは記憶の中にその姿を探す。そういえば、アズールが虎の巻をばらまいたテストの少し前の契約者だったような気がする。小賢しいことに腕章を外しているが、確かポムフィオーレ生だ。隣で息巻くお友達もそうだろうか。
「てかさぁ、小エビちゃん何してんのぉ?おとなしく捕まっちゃって」
「す、すみません……」
「んー……ゴメンナサイが聞きたいんじゃなくってさ」
フロイドは言葉を探しあぐねるように頭を掻く。明後日の方向を見ているようで、不届き者二人の動きからは目を離さない。ジェイドは、とりあえず声は出せているが手足は動かせないようだと監督生を冷静に分析した。
「お、お前らッ何勝手に喋っ、」
「テメーには聞いてねぇ」
もう一人が唾を飛ばして声を上げたが、フロイドの一瞥で黙らされた。大胆なことをしたわりに、ジェイドたちと監督生の間に立ちはだかるのが精一杯だ。いっそ溜息を吐きたいのをなんとかこらえて、ジェイドは少し身体を屈めて監督生に問い掛ける。
「監督生さん、あなたはどうしたいですか?」
「あ……」
ジェイドの優しい声に、監督生の頬に赤みが差す。目にもほんのり光が宿った。それを目敏く見つけたフロイドがさらに追い打ちをかける。
「小エビちゃぁん、オレらそんなに、気が長い方じゃないからさァ、してほしいことあるなら言ってみな?」
フロイドは笑った。この状況で、楽しそうですらある。その場違いな振る舞いに、監督生を攫った生徒二人はたじろぐ。大方この頃監督生がオクタヴィネルと接近しているのを嗅ぎつけて彼女を攫ったのだろうが、あまりに浅はかで向こう見ずだ。
「た、助けてくださいっ……!」
決して大きくはない叫びに、人魚ふたりがニィ、と笑う。一方存在ごとないがしろにされたポムフィオーレ生たちは、今までおとなしくしていた監督生が身体を起こし声を上げたことで我に返ったのか、手にしていたマジカルペンを監督生に向けた。
「お前らいい加減にしろッ!こいつがどうなっても、っぅがぁッ」
いいのか、という言葉は言えなかった。道中で拾ったのか、フロイドが握って投げるのにちょうどいい大きさの石を思い切り顔面に投げつけたから。
「ひっ……」
顎にヒットし、血を流して倒れ込んできた姿を間近に見て監督生が思わず後退る。拘束魔法をかけていたのは彼だったらしい。使用者が気絶したことで、監督生の手足も自由になったようだ。
「おやフロイド。顔面は反則ですよ」
「……そっちも首、締まってんじゃん」
もう一人は、相棒の惨状に気を取られている間に素早く駆け寄ったジェイドに締め上げられていた。真っ赤になって涎を垂らす顔にジェイドは眉を顰め、その身体を地面に投げ捨てた。
「はぁ、くっだらねぇ。弱いくせに、馬鹿じゃねぇのこいつら。小エビちゃん、ほら行こ」
「ぁ、はい……ありがとう、ございます」
「なぁに?腰抜けちゃった?」
せっかく動けるようになったのに、立ち上がれない監督生をフロイドは荷物みたいに抱き上げた。腕にお尻を乗せられて、監督生は居た堪れなさそうだ。
「ま、待て……っ」
「まだ何か?」
顎を押さえながらよろよろと立ち上がった男に、振り返ったジェイドは暗い笑みを向ける。それだけで男は意気消沈し、それ以上は何も言わなかった。ふん、と鼻を鳴らし、ジェイドは振り向きすらしなかったフロイドの後を追う。
「交代しますよ、フロイド」
「いらねー。小エビちゃん、このままオンボロ寮まで送ってあげるねぇ」
監督生はうんともすんとも言わず、ただこくりと頷く。きゅ、とフロイドのストールを掴む小さな握り拳には、いくつか細かい擦り傷があった。それを見たジェイドはそっと撫でてマジカルペンを振る。魔力のない人間にむやみに治癒魔法を使うのは本来の自己回復力を衰えさせてしまう恐れがあるので、水で濯ぐだけ。制服のポケットに入っていたハンカチで水気を拭うと、監督生は不思議そうな顔をしてジェイドを見た。
「他に怪我はありませんか?ついたら手当しましょうね」
「は、なにあいつらに殴ったりもされたの?」
フロイドの低い声に、監督生は顔を青くして首を振った。か細い大丈夫ですの声に、ジェイドもフロイドももう何も言わなかったが、自分の力でろくに戦うこともできないくせに弱い存在を人質に取った卑劣さに憤りを覚える。
しかし監督生の目の前であれ以上のことはしたくなかったし、今は彼女を安全圏に連れ帰ることの方が優先んだ。
「子分っ!お前どこ行ってたんだ?放課後急に居なくなるし、心配したんだゾー!」
オンボロ寮に入るとグリムがバタバタと二階から降りてきた。普段はリーチ兄弟を見たら避けるのに、二人揃っているのをものともせずに真っ直ぐ監督生の元に駆け寄る。
「すみませんグリムくん、監督生さんはラウンジに来る途中でトラブルに巻き込まれてしまったんです。解決はしましたが、僕らがここまでお送りさせて頂きました。少し怪我もされているのでよければ手当もしたいのですが、上がらせて頂いてもよろしいですか?」
グリムはジェイドの説明を聞いて、確かめるように監督生の方を見た。
「ごめんねグリム。私がちょっとドジしちゃって。ジェイド先輩とフロイド先輩に助けてもらったからもう大丈夫だよ」
監督生の柔らかい声にグリムはようやくほっとした顔を見せた。談話室の方へぽてぽて歩いて行ったので、了承を得たと解釈して二人もそれに続く。中では、先に入ったグリムが救急箱の取っ手を咥えて待っていた。
「オレ様はできねぇから……」
「えぇ、お任せください。お借りしますね」
「グリム、もう部屋に行っててもいいよ。ちょっと休憩したら晩御飯にしようね」
「ふなぁ……ソイツら帰ったら、呼ぶんだぞ」
やっとフロイドの手から下ろされソファに座った監督生に頭を撫でられ、その掌に額を擦りつけてから、少し名残惜しそうにしつつも二階へ上がっていった。やはり以前恐ろしい目に遭わされたウツボたちには極力近づきたくないらしい。
「そういえばフロイド、あなた今日は仕事でしたよね」
「えー、いいじゃんもう。アズールもオレが戻ってくるなんて思ってないってぇ」
ジェイドの苦笑混じりの言葉をフロイドは一蹴したが、監督生は上ずった声を上げた。
「そ、そういえば私今日すっぽかしちゃいました……」
監督生の言葉に二人は思わず笑ってしまう。今日はいいに決まっているでしょうと言われ、恥ずかしそうに俯いた監督生の両隣にジェイドとフロイドが腰かけた。
「手の甲は消毒しておきますね。他は本当に大丈夫ですか?制服が汚れていますが……」
「あ、ちょっと転んじゃって……その時かな。長ズボンで助かりました」
逃げようとして転んだんだろうか。今日はあの程度にしてやったが、あの二人は二度とくだらないことをしないよう、しっかり締めておこうとジェイドは心に決めた。
「膝ですか?診せてください」
「えっいや、自分で……っ」
「えい」
「わわ……っ」
わたわたと手を振って断ろうとする監督生のスラックスの裾を、フロイドがぐいっと持ち上げた。慌てふためく監督生を余所にジェイドも覗き込むと、擦り向けて赤くなっていた。
「じっとしててくださいね」
抵抗することを諦め、消毒が沁みて顔をしかめつつも、監督生はおとなしくフロイドに抱きかかえられジェイドの手当てを受けている。一通り終わると、疲れが出たのか長い溜息を吐いた。
「小エビちゃん疲れちゃった?もう寝る?」
「いえ、落ち着いたらなんか、今更……」
「うんうん、怖かったね。もう大丈夫だからねぇ」
一息ついて安心したら恐怖が蘇ってきたのか、監督生の目に涙が滲んだ。フロイドが抱きしめて頭を撫でると、ついには解れていた表情を歪めて泣き出した。ジェイドが手を握ると、縋るように握り返してくる。
「……先輩、私のことって、どのくらいご存じですか?」
「監督生さんのこと、とは」
「私がどこから来たのか、とか」
「あぁ……正直、調べてもわからなかったです。どこかとんでもなく遠い国から、間違って喚ばれてしまったのだろう、くらいしか」
「その、本当は……遠いとかそんなのじゃなくて、全然別の世界から、なんです。ここは、私が知ってる世界じゃない……」
突然出自の話をし出した監督生の声に、フロイドも静かに耳を傾ける。今まで彼女が自分のことを話すことはあまりなかったが、何か思うところがあって言うのならちゃんと聞こうと思って。
「こんなこと、誰にも信じてもらえないって思って、エースにもデュースにも、言えなくて……っ」
監督生の言う通り異世界から来たなんて俄かには信じられないが、全くの嘘と断定できる材料も自分たちは持ち合わせていない。ジェイドは溢れる涙を拭ってやりながら、浮かんだ疑問を監督生に投げかけた。
「監督生さんの世界に、魔法はなかったんですか?」
「そ、です……使えない、とかじゃなくて、知らないんです。存在も、してない……っ」
それなのに悪意を持って魔法を使われ、逃げても逃げても追いかけてくる火や水や光。縛られてもないのに動かない手足。それが本当は怖くて怖くてたまらなかったのに、無理矢理抑え込んで全部諦めた振りをしたと、監督生は泣きながら吐露した。
「だから、助けに来てくれて、嬉しかったです……あの人たちがアズール先輩に私のことで脅迫するなんて言っても、無駄なのにって、思ってたから……」
「まぁそりゃ、番を守れねーなんて有り得ねぇからね」
「つ、つがい……!?」
フロイドの言葉に監督生は目を見開く。ジェイドは更に言葉を重ねた。
「えぇ、僕たちあなたが好きなんです」
すき。監督生の唇が音もなく告白の言葉を反芻した。
「だからオツキアイ、しよ。小エビちゃん♡」
大きな身体に挟まれて、監督生は肩を跳ねさせ首まで真っ赤にして茹だった。無理強いするつもりはないが、その様子を見れば返事は聴くまでもないようだと、二人はそれぞれ監督生のこめかみと頬にキスをした。