太い枝に手をかけながら、ワタルは上を目指した。その木は龍神山の中でも太くて頑丈で、子どもの一人や二人が登っても、びくともしなかった。
幼稚園の頃は、本の少し上までしか登れなかったが、今では随分と高い所を目指せる様になった。
目当ての、幹から太い枝が大きく二手に分かれている所まで登り切ると、ワタルは、ほっと一息ついて、そこへと腰掛けた。
ここから、龍神町が一望できる。龍神町は、龍神山を中心にぐるりと取り囲んでいる町のつくりなので、ワタルがいる場所からは街の半分しか見えないのだが、それでも、高い場所から見る街並みは格別だった。
少し傾いた西日が、眩しく街を彩っている。
何だか、自分が空を浮いて街を見下ろしている様で、ワタルは楽しくなり、足をぶらぶらさせながら、鼻歌を歌う。
その時、ふと、下の方の枝が、軋んだ気がした。
ワタルが振り返ると……
『誰か』が登ってくるのが見えた。
俯く頭頂に、小さな角が見えて……
「………虎王?」
「っ、…ワタル?」
ワタルを見上げた青い瞳が、驚いた様に見開かれ、その姿を写す。ワタルは、体ごと虎王の方を向き、虎王へと手を差し伸べる。虎王はその手を掴み、ワタルのいる枝まで登ってきた。
「虎王、その……なんで、ここに……?」
「ん?ここって?」
「え?」
「ここは、モンジャ村の近くの森だろ?ちょっと迷ったから、今どこにいるのか確かめたくて、高そうな木に登ったんだ!ワタルまでいるとは思わなかったぞ!」
虎王がワタルの横に座り、ニカっと嬉しそうに笑った。
「ワタルも迷子か?」
「え……?ボクは違うよ。第一、ここはモンジャ村じゃなくて、ボクの町だよ?」
ほら、と、ワタルは目の前の町を指す。龍神町を目の前に、目を丸くする。
「あれ?……なあ、ワタル」
「なに?」
「オレ様はいつの間に、お前の世界に来ちまったんだ?」
虎王が目を瞬いて聞く。ワタルは少し、困った様な笑いを浮かべた。
「そんなの、ボクだって聞きたいよ。ボクは学校帰りに、ここで町を眺めていただけだったしなぁ……」
「町を?」
「うん……、ここから、ボクの住んでいる家とかが見えるんだ」
「お前の家?どこだ?」
「ほら、向こうの……赤い屋根の所だよ。分かる?」
ワタルは、自分の家のある方を指差した。虎王は、片手を帽子のつばの様に自分の額に掲げ、遠くを見る様に目を細めた。
「……アレが、ワタルの家か?随分とちっぽけだな!」
「ちっぽけは余計だよ!」
「オレ様の住んでいる所の方が、ずっと大きいな!」
「住んでいる人数が違うんだから、当たり前だろ?」
勝ち誇ったかの様に胸を張る虎王に、ワタルは呆れて言った。
「お前の家があんな大きさなら、他の家が小さいのも頷けるな!」
「小さいって、……まあ、いいけど……」
虎王はそれこそ、龍神町の敷地を全て束ねても足りないのではないかと思われる様な所に住んでいるのだ。ぴんと来ないのは仕方ないと、ワタルは諦めた。
「ワタルはあの家に、何人で住んでいるんだ?」
「三人だよ。父さんと母さんと、ボクの三人家族」
「へえ……。召使いもいないで、よく家の中の事を維持できるな!」
「一体、どういう環境を想像してるんだよ。モンジャ村や創界山だって、殆どがそういう構成のはずだよ?召使いがいるなんて、ボクの世界でもよっぽどだよ……」
少なくとも、自分の住んでいる周りでは、そういう家庭はないはずだ、と、ワタルは内心、少し不安になった。
「ふーん……。じゃあ、それぞれの家には、それぞれ別の家族が住んでいるって事か。どんな奴らなんだ?」
虎王は、興味深々で聞いてくる。
「ええ……、ボクだって、全部知ってる訳じゃないから、せいぜい、話せるのはご近所さんだけだなあ……」
言いつつワタルは、自分の住む家を中心に、近所の説明をしていった。
「ボクの隣の家では、大きなネコを飼っているよ。『ダンゴ』って皆が呼んでいるんだけどね……」
「お向かいのお家は、昔から住んでいるおばあちゃんがいてさ、この町の龍神の伝説とか、よく聞かせてもらったよ」
「ちょっと向こう側にあるのは、畑だね。小松菜とか、人参とか…、二十日大根も植わっているかな」
「ちょっと向こう側に行くと、柿の木があってさ。時々、お裾分けってウチに持ってきてくれたりするんだ……」
ワタルは、思いつく限り、自分の家の周囲の話をしていった。虎王は、ふむふむと興味深げに頷いている。
「あそこの電柱の近くにある黒い屋根の所は、ボクが小さい頃から行っている駄菓子屋さんだよ。あそこで、皆でお菓子を買ったり、お菓子のオマケのシールを交換したりしてさ」
「オマケ?」
「うん、これだよ」
ワタルは上着のポケットから、一枚の正方形のシールを取り出した。お菓子一つにつき一枚入っているシールは様々なキャラクターが描かれており、ワタル達の学校では、それをコレクションする事が流行っていた。同じ絵柄が出た場合は、それを持っていない相手と交渉する事で、自分のコレクションを増やしていく、というのも、楽しみ方の一つだった。
ワタルが持っていたのは滅多に出ない貴重なシールで、今日、クラスの男子と交渉の末、ようやく交換してもらった物だった。ミラーボールの様な背景が特徴で、そこには、白い鎧を纏った戦士が描いてある。剣を携えた姿が勇ましく、ワタルのお気に入りの一枚だった。
虎王は、それをじっと見る。「欲しい」と言われるのかと思い、ワタルはちょっと、警戒した。
「なぁ、ワタル……」
「え?うん、なに……?」
「これ、お前みたいだな!」
「……ええ?」
虎王は嬉しげに、シールに描かれている戦士を指さした。
「ほら、白い鎧に、大きな剣を持っている。頭に金色の冠みたいなのも被ってるぞ?こいつも『救世主』か?」
「いや、違う……けど……」
シールの裏には、描かれたキャラクターの説明書きがあり、そこには『天界と人間界を守るため、魔界と戦う勇者』と記してある。確かに文面だけ読めば、自分が『救世主』としてやった事と、同じではあった。
「うん、……そうだね。『救世主』かな……」
「そうなのか?すごいな、ワタルの世界は。菓子のオマケに『救世主』の肖像画がついてくるなんてな!」
虎王が笑って、感心した声を上げる。夕焼けに移り変わろうとしている西日を浴びた金色の髪が、キラキラと光っていた。
ワタルに向ける、その笑顔も……
「……いる?」
ワタルは、虎王にシールを差し出した。
「えっ……?……いいのか?」
虎王は、戸惑う様にワタルとシールを交互に見る。
「うん、……大事にしてくれるんなら……」
胸の奥にためらいはあったが、ワタルは……虎王なら良いだろうと、そう思った。虎王は、シールを受け取り、じっと眺める。
「……ありがとうな」
「うん、」
虎王が、柔らかく笑った。ワタルも、虎王に微笑み返す。
「……けどな」
「……え?」
虎王はワタルの手を取ると、そこにシールを乗せた。
「これは、お前が持っていてくれ」
「え?けど……」
「良いんだ、肖像画がなくたって。オレ様はいつだって、思い出す事が出来る……。白い鎧を身に纏った、『救世主ワタル』の姿をな!」
虎王は、目を細めて笑う。とても眩しげに、ワタルを見ていた。
そんな虎王の視線を受け止め……ワタルは嬉しくもくすぐったくて、少し恥ずかしげに笑った。
「そうか……」
「ああ、そうだ!」
「分かった。これはボクが持ってるね。この次会えたら、また見せるよ」
「おう、よろしくな!」
「うん」
二人で、笑って頷く。西日は随分と傾いて、青空がオレンジ色へと染まろうとしていた。
「……そろそろ、戻らないとな……」
町を見ながら、ぽつりと、虎王が言う。微笑んではいるが、瞳も口調も、寂しそうだった。
それは、ワタルも同じだった……が、
「帰れそう?」
「ああ、大丈夫だ」
「そうか……、気をつけてね」
「ああ、お前もな」
虎王は、明るくワタルに笑いかける。ワタルもまた、虎王に笑った。
その場に立ち上がり、虎王はぴょん、と、木の上から飛び降りた。
薄暗くなっている為、木の下の方は見えなかったが、やがて、地面を強く踏んだ音が聞こえた。
カサカサと落ち葉をかき分ける音が、徐々に遠くなっていく。完全に聞こえなくなるまで、ワタルは、そちらの方をじっと見ていた。
「ボクも、そろそろ帰らなくちゃ……」
見納めと思い、ワタルは町の方を振り返り……
目を見張った。
青と橙色のグラデーションの空を背景に、眩しい西日を受けたそこは確かに……
あの美しい聖龍殿がある、第七界層の光景だった。
一際金色に輝く大きな建物の前の広場に……誰かが、走っている姿が見えた。
遠くとも分かる、夕日を受けた金の髪。
名を呼ぼうと口を開くと……その人物が振り返った。
ハッキリと、見えた訳ではない。
けれどワタルは、その相手がさっきと同じ様に笑っていると分かり……
先ほどよりも明るい笑顔を、その相手に向けた。
気付くと、辺りは薄暗くなり、透明な空が夜へと変わろうとしている事を示していた。見下ろす光景には、ポツポツと灯りがついている。ワタルが……よく知る町の風景だった。
ワタルは、手に持っていたシールを落とさない様、大切に上着のポケットに入れると、枝を伝って、木を降りていった。