覗淵「違う違う違う違う!」
叫び声が響いた。続いて鈍い音。
「私は違う!今の私は!もう昔とは違う! 私は永遠に生きられる! 死にはしない! 私は生物の限界を超えた! 私は夜の闇から死を追い遣った! いずれ太陽からも奪ってやる! 死ぬなどありえない! 私に終わりは訪れない、常に最盛期であり、邪魔する者は全て滅ぼす。わたしにはその力がある。惨めに病に倒れ伏すなどありえないのだ……。もうむかしとは違う……わたしこそが黄泉から最も遠く、いずれ死を永久に追放する存在なのだ……」
鏡を殴り飛ばした無惨が、長い髪を振り乱していた。正気を失ったように何事かを小声で呟いている。右手の甲から血が滲んだままで、止血する余裕もないようだった。何事かと襖を開けた琥鴞を、無惨は恐ろしい形相で睨みつけた。
「貴様」
瞬く間に無惨は琥鴞を組み伏していた。肩と首を物凄い力で締め付けてくる。その手は震えていた。
「なあ、私は強いだろう? この私こそ永遠を生きるに相応しい。わかるか? 貴様もそう思うだろ、琥鴞?」
「なにがあったの」
「質問で返すな! 答えろ、私が死ぬなどありえない、そうだろう?」
「そうだね。僕は永遠に生きる君を見守るためにここにいるのだから」
潰れた喉を治し、一呼吸置いて琥鴞は答えた。無惨は上体を逸らして吠えるように笑った。狂ったように饒舌な無惨を、琥鴞はあくまで落ち着いて見守っていた。砕けた右肩はそのままだった。
「無惨くん、君を脅かすものはここにはない。そんなに怯えずとも良いんだ」
空気が張り詰めた。眉間に皺を寄せた無惨が、琥鴞の胸倉を掴んで引き寄せた。憂いを湛えた淡い琥珀の瞳を、血走った燃える紅玉の瞳が射る。
「怯える? 私が? 下らん冗談は虫唾が走る。口を慎め」
底冷えする低い声だった。限界まで細く絞られた瞳孔が狂気的に震えていた。
「ここには君と僕しかいない。虚勢を張ったって……いや、違うな。気付いていないのか」
「何の話だ」
「君の本当のきもち。決め付けるのは良くなかったな、僕も、そして君も」
怒り一色だった無惨の表情に、不愉快な困惑が混ざる。
「そんな顔をしないでおくれ、人間誰だって自分の本当の感情なんて理解しているほうが珍しいんだ。何も否定することはない」
「貴様は余程私を臆病者と嗤いたいらしい」
「笑わないよ」
琥鴞は残った左腕を無惨の手に添えた。
「死への恐怖は生きる以上切り離せない感情だ。重要なのは、それとどう付き合うか。君は君自身と向き合う時間が要ると思うんだ。どうかその困惑を、くだらないものとして掃き捨てないで。それはきっと、完全な生命のその先、原初にして究極の君の願いへ導く鍵になるだろう。探しているものだって、案外近くにあるかもしれないよ」
無惨の手にはもう力は入っていなかった。ただ怪訝な色を浮かべた赤い目が、答えに喰らいつこうと金の瞳を覗き込む。淡く鈍い金の光は無惨の知らない様々の事象を内包し、無限の深さを持っているようだった。目の持ち主は青ざめた顔で、穏やかにぽつぽつと語り続ける。
「ねえ、今でなくても良い、いつか話してくれないか? 君の昔の話。過去の出来事は変えられない。けれど、今を変え、未来を変えることにより、過去の持つ意味と評価を変えることはできる。君が病みがちな身体で生まれ、鬼になった意味はこれから先の未来にある。変えていこう、いつか君が真に人生を愛せるように。
君は最強にして暴虐たる鬼の祖、鬼舞辻無惨であり、僕の認めた唯一の友、永遠の望月の君だ」
柔らかく力強い琥鴞の言葉が、優しく膏薬を塗り込むように無惨に浸みていく。暫しの沈黙の後、無惨は琥鴞の上から退き、琥鴞を見下ろして、右肩を治しておけ、と命令しながら襖の方へ歩む。そして閉まる前に後ろを一瞥し、弱々しく掠れた声で呟いた。
「いつか、な」