かたわら 築年数十五年、鉄筋コンクリート造りの三階建て。そこが私の住むアパートだ。小虎からは徒歩三十分ほどで、駅からは徒歩十分ほど。あたりに商店街もあるし、コンビニも近いので助かっている。
マフラーを少し緩めながら階段を上がっていく。私の部屋は二階の角部屋だ。時期が時期だから角部屋は望めないと思っていたのだがちょうど空きがあった。これも大般若さんが手配してくれた。
(面倒見はすごくいいよなぁ)
近所づきあいは特にない。隣の家の人とあいさつをすることがあるくらいだ。あとは商店街の店の人に顔を覚えられたりコンビニの店の人に顔を覚えられたりとそのくらいだろう。
大般若さんのことを聞くと大体「ああ、あの変わり者の美人さんね」と返ってくる。
商店街の人いわく、「人当たりはいいけれどミステリアス、でもそこがそそるのよね」だの、「この前爺さんのオルゴールを買い取ってもらったよ。壊れてるのに直してくれたみたいでさあ、ありがたいやね」だの、「ええ、あそこで働いてるの? いいわねぇ。大丈夫? 私が代わってあげましょうか?」だのと話す。
総括すれば美人で気さくだが遠くから眺めていたい人、なんだろうか。まあわからなくもない。
(一年経っても大般若さんのことはよくわからないしなぁ)
美術品を口説くし、手先は器用だし、やたらとイケメンな親戚筋がいるし、時折とんでもない価格のものを持ち出してきたかと思えば、壊れて使い物にならないようなものをそれなりの価格で買い取ってくるし。
変人であるのは間違いないがそれだけではないこともわかる。
(うまく言葉にできないや)
ベッドの上にごろんと横になってマフラーを解く。バーバリーのそれももう五年は使っているだろうか。昔からものもちが良くて一つのものを長い間使う傾向がある。そのぶん流行には疎く、型落ちしたコートなども平気で使ってしまう。
私はこの街にいて何か変わっただろうか。
もちろん環境を移すということはそれに応じて変化するということだから、変わったところはあるのだろう。K市にいたころは商店街の人に話を聞くなんてこともしなかったし(からといって付き合いがあるとも言えないが)、自炊よりコンビニの弁当を買うことが多かった。仕事が忙しかったし私生活でも男に振り回されていた。
(あんな男からもらった靴なんて、捨ててしまえばいいのに)
玄関のほうをちらりと見やる。靴棚に置いてあるボルドーの五センチヒールのパンプス。ここに来た時に履いていたものだ。
きっと君に似合うと思ってと言って、男は買ってきた。確か付き合って二年目とかそのくらいだったと思う。普通の付き合いだったけれど、私は彼のことが好きで好きでたまらなかった。もうどうしようもないほどに好きで、いつもその好きを抑えるのに必死だった。
のろけ話を聞いてくれる相手がいなくなったらその男に自分がいかにその人を好きなのかを伝えた。その人は最初の内は嬉しそうに聞いていてくれたけれど、じきに嫌そうな顔になって、そうして私を試してくるようになった。
私は努力した。好きだという気持ちが伝わるのなら、伝えて許されるのなら、たとえ仕事中に「雨が降ってきたから俺の家の洗濯物取り込んでおいて」と言われようと、デートの約束の当日に「ほかの友達と遊ぶことになったから今日はキャンセルで」と言われようと耐えた。そうして頑張って頑張って、時折彼は私に贈り物をくれて、でも結局待っていたのは別れだった。
私の行動は間違っていたに違いない。のぼせ上っていた。恥ずかしくて仕方ない。でもそれでも好きだったのだ。その好きだったを私はまだどうすることもできない。
靴、腕時計、ネックレス、バッグ、そのどれも贈ってもらったもの。
そしてそれらは、微妙に私とは合わなかった。
でも合わせようと思った。当時の私いわく、「愛の力」で。
(私は本当に馬鹿だ)
新しく職が見つかった、引っ越しをするといった時の親の呆れた声。なんで実家に帰ってこないのと責める雰囲気。まさか男に捨てられて何もかも嫌になりましたなんて言えるはずもなく、ただなんとなくと適当にごまかしてやり過ごした。
軽く起き上がってコートも脱ぐ。化粧をしているからこのまま眠ってはいけないけれど、もう今は何もしたくない。
頑張りが報われることなんてそうそう多くはない。
その現実を知っていてなお、夢を見てしまったのだ。
あの男の一番になれる夢を。私と同じ熱量で愛してもらえるという夢を、二人で生活を共にして、子どもを産んで、育てていくという夢を。
子どもにはなんて名前をつけたい? と聞いたとき、「なんでもいいよ」と返ってきた。それすら私には愛しかった。もうその頃には心が離れていたのだろうと今は思う。
「明日何しよう」
仕事がない日は一日中家で過ごすことが多い。たまに散歩に出かけたりはするけれど、どうにも気力が起きない。
(小虎に行こうかな。大般若さんもそう言ってくれたし)
もしあそこが仮の宿なら私もいつかどこかにいくのだろうか。
そんなことを考えながら化粧を落とさないまま眠りについた。