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    AllBlue193

    @AllBlue193

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    AllBlue193

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    10/27発行予定のプロローグ・第一章の一部です。

    物語を通してのメインCPはngisですが、第一章の序盤はかなりrnis要素が強めです。

    ~現時点での注意事項~
    ・キャラクターの架空の親戚が出てくる
    ・諸事情でrnちゃんの出身地が鎌倉ではありません。

    10/27新刊チラ見せ進捗*プロローグ*

     ザザン……ザザン……。
     逢魔時、島の空は夕闇に包まれた。
     わずかな夕陽の残影を映すばかりの暗い海の波打ち際に向かって、吸い寄せられるように歩みを進めた。草履を脱いで、冷たく湿った砂浜に足跡を残す。
     パチャ……チャプ、チャプ……。ザザン……ザザン……。
     寄せては消える波が、素足を砂ごと浚っては戻っていった。砂だけが海に連れられて、俺の生白い足は浜辺に沈んだまま、動かない。立っているだけの水死体だな、と自嘲するのは何度目だろうか。
     そんな俺を、ミャァーオ、マーオ、と頭上のウミネコが寄ってたかって笑いものにした。睨み返す気力もなく、ただ廃棄されて役目を失った澪標のように立ち尽くす俺の肩に、一羽のカモメが留まった。
    「クゥー、クゥー」
     カモメは、ウミネコ共と違い、クチバシの先端が赤く染まっていない。だから俺は、振り払わずにそっとしておいた。赤という色は、嫌でも血を想起させる。それから、己の生まれ持った頭髪も。どちらにせよ、ロクなものではない。
     カモメとウミネコは、似て非なる生き物だ。俺は学者先生ではないから、生物の細かい分類に関してはさっぱりだが……最大の違いは、夏になると海を渡るか、留まるかだ。
     もう、梅雨も明けた。今俺の肩に留まっているカモメも、俺の知らない海の向こうへと旅立つのだろう。
    「夏になれば、お前たちはこの島から離れていく。その前にどうか……俺を連れていってはくれないか?」
     俺がそう語りかけると、カモメが羽ばたいて肩から離れて、どこかへと飛び立ってしまった。カモメの鳴き声はだんだんと遠ざかり、砂浜には俺とウミネコ共が取り残された。ああ、まただ。いつだって、カモメは羽根すら残さずに飛び立っていく。立つ鳥跡を濁さずとは、このことだ。
     代わりに俺を取り囲んだのは、ウミネコ共の猫なで声だった。俺も、コイツらも、このロクでもない島で一生、膿のように溜まっていくだけだ。遠い遠い海の向こうから目を背けて、ずっと背後に控えていた使用人の方に振り向いた。
    「冴さま、お呼びがかかっております」
    「今行く」
     鳥籠の中に戻れば、あとは一晩中囀るだけの見世物になるのみ。今日も、明日も、未来永劫……死ぬまで海の向こうに渡れないままの俺を、ウミネコは嘲笑いながら送り出した。

    *第一章:まれびと*

     ワンフォーオール、オールフォーワン。
     一人はチームのために、チームは一人のために。

     俺、潔世一が高校三年間、部活で耳にタコができるぐらい聞いてきた言葉だ。チームは一丸になって戦い、俺はチームの歯車として貢献した。高校三年間の集大成の結果はというと……県大会ベスト4。全国大会は、実家でミカンを剥きながら鑑賞した。
     なんで俺がそこに立っていなかったんだろう、なんて思ったのは、松風黒王高校に決勝で敗れたあの高二の冬のときだけ。寒すぎて手の感覚が無くなって逆に寒くないみたいに、俺は何も感じなかった。

     高三の冬に引退して、慌てて受験や進路のことを考えてみたけど……サッカーバカの俺が入れるところはだいぶ限られていた。先生も、俺のセンター試験の成績を見て、頭を抱えていた。特に理系科目が壊滅的すぎて、目も当てられない。スポーツ推薦も考えていたけど、成績が平均以上じゃないとダメらしい。文武両道なんて、俺には無理ゲーだ。
     とりあえず、ネットの検索欄に【サッカー 強い 埼玉 大学】で検索することにした。第一条件としてサッカーは続けたい。もちろん、お遊びのサークルじゃなくて、部活で。プロになれるかも?なんて甘い期待はしていないけど、社会人になって社会の歯車になる前に、自由に時間を使えるなら、俺はサッカーにつぎ込みたい。
     それから、実家から通えるところがいい。できれば一時間以内。その条件を満たし、なおかつ俺の学力で入れるところは、自ずと一つに絞られた。
     家から電車で一時間の近場で、サッカー部がちゃんとしてて、川越にキャンパスのある大学の、スポーツ科学科。合格した時は、父さんと母さんが美味しい焼肉屋さんに連れて行ってくれて、合格祝いとして本革のパスケースをプレゼントしてくれた。美味しいお肉と革になった牛さん、ごちそうさまでした。ありがとう。
     そして、大学で一年間過ごした率直な感想としては、想定以上に充実はしていたな、と思った。学科のみんなはスポーツ推薦で入ってきたヤツがほとんどで、体育会系のノリと圧がややキツイ時もあったが、根が明るくていい奴ばかり。
     特に、千葉の波風高校からやってきた蜂楽廻とは、かなり波長が合った。エキセントリックな言動が多くていつも振り回されているけど、サッカーの話になるとお互いのイメージが合致しまくって、ついつい夜遅くまで語ることもあった。一人暮らしの友達の家に泊まるのは、いかにも大学生って感じでワクワクした。
     部活は、俺と蜂楽含め高校サッカー経験者が大多数で、全国大会のテレビで名前を聞いたことがある奴もいた。みんなガチでやってるし、高校での練習よりレベルが数段上で、毎日筋肉痛に苦しみながらも、充実した毎日を過ごしている。
     サッカーのついでに勉強をしつつ、サッカーが好きなやつらと一緒に練習して仲良くなって……一難高校でやっていたことと、あまり変わらない。チャリ通か電車通学か、制服か私服かの違いぐらい。むしろ、理系科目をそこまで頑張らなくてもいいぶん、大学の方がやりやすい。高校サッカーの延長戦、アディショナル・タイムを楽しんでいるような感覚だった。

     ……ウチの部に、とんでもない化け物が入部するまでは。

    「糸師凛。ポジションはFW。以上」
     ウチの部は、新入生およそ100人を含めた300人以上の選手が在籍している。そのため、新入生自己紹介タイムは、広い講義室を貸切って行われた。そんな中で、糸師凛は学部も学科も出身校も意気込みも語らずに、必要最低限の情報だけ喋って終わってしまった。席に座った後は、頬杖をついて、窓の外の景色をつまらなさそうに眺めていた。
     愛想ゼロの鉄面皮は、イケメンアイドル俳優のような、南の国の綺麗な海の色の切れ長の瞳と、バッサバッサの下まつげに縁どられていた。
     彼の一挙手一投足に対し、マネージャー陣から軽く黄色い悲鳴が上がっていたが、先輩や先生方は厳しい顔をしている。
     俺たちは彼の挨拶にパチパチパチ……とまばらに拍手をしたが、この生意気そうなイケメン新入生が、厳しいスポーツの体育会系縦社会でやっていけるのかどうか、俺個人としては勝手に不安になっていた。
     だが、それは杞憂に過ぎなかった。
     その後の新入生選抜VS一軍先輩チームのエキシビションマッチで、糸師凛は圧倒的なサッカーの実力で全ての外野を黙らせた。他の新入生も一軍の先輩たちも皆、糸師凛のマリオネットの糸で操られるがまま、踊らされていた。
     大学生になるまでなぜスカウトされなかったのか、彼の地元のスカウトマンの目は節穴じゃないかと思うレベルだ。今すぐにだって国内一部リーグのレギュラーFWになれるだろ。
    「す、げえ……」
     針の穴を通すようなキック精度。国内一部リーグへの内定が噂されている一軍の先輩たちをゴボウ抜きにするほどのサッカーIQと視野。そして、ロクにスペックも知らないであろう新入生たちを巧みに操る分析力と戦術センス。フィジカル・メンタル・インテリジェンス、生まれ持ったモノが違う天才が、努力の果てに到達した最高地点。それが、糸師凛のサッカーだった。
    「なあ、蜂楽。見たか……?」
    「うん。あれはヤバいね。スーパースペシャルな〝かいぶつ〟だ」
     蜂楽も同じものを感じ取っている。一軍の先輩方もコーチ陣も、彼のサッカーに釘付けになっていた。当の本人は、相変わらずの鉄面皮のまま、一筋だけ顎を伝った汗をビブスの裾で拭いて、こう吐き捨てた。
    「どいつもこいつも……話にならねえ。ぬるすぎて死にそうだ」
     フィールドで屍になっている敵味方両方を不愉快そうに睨みながら、やや濡れた前髪をかき上げた。そんな不遜な態度を取っても、誰も異議を申し立てられる人間はいなかった。
     そんなわけで、初日にして即一軍レギュラー入りした糸師くんは、色めき立つマネージャー陣や先輩方の誘いをすべて断り、夜遅くまで一人で自主練に打ち込んだ。残っていたのは、俺と蜂楽だけ。あとは全員、新入生歓迎会に行ってしまった。
     糸師凛は俺たちに視線も寄越さず、そそくさとロッカールームから荷物を引き上げ、部室を後にした。
    「蜂楽」
    「うん。追いかけちゃお♪」
     俺と蜂楽は、部室近くの裏門で待ち伏せをした。糸師くんは楽屋口で出待ちされたアイドルみたいに、あからさまにため息をつきながら俺たちを睨みつけた。
    「ハァ……何の用だ、ストーカー共」
    「ストッ……?!いやいや、違うから!つーか俺、一応先輩!敬語!」
    「フン……ドヘタクソのチビを敬う気なんてサラサラねぇよ」
    「んなっ……!」
     流麗な顔から、ド直球の暴言が飛び出してきた。ヘタクソにドまで付けて強調し、おまけに身長までディスられた。ワンストライク、ツーストライク、バッターアウト。華麗なる見送り三振だ。
     いやいや、身長は日本人男性平均身長以上だっての!顔と体格のせいで175あるように見えない、と言われるのがザラだけど……。何か言い返そうとしたが、俺よりも先に蜂楽が動いた。
    「にゃはは、凛ちゃんってばキビシ~♪でも、ネンコージョレツとかどーでもいいのは同意!」
    「おい、寄るなオカッパ。暑苦しい」
     蜂楽はエナメルバッグを持った糸師くんに抱きつく、というよりは衝突しに行った。つーか、そこそこ仲いい友達の俺は苗字呼びで、あからさまに蜂楽をウザがってるコイツは下の名前にちゃん付けなの、すげー謎なんだが。相変わらず、ヘンな距離の取り方をする奴だな、コイツは。
    「お、下の名前で呼ぶのはオッケー系ですか?潔も呼んじゃいなよ♪」
    「え?ははは……遠慮しまーす」
     糸師くんは俺をものすげえ形相で睨みつけてきた。いやいやいや、〝凛ちゃん〟なんて呼べねえって。あんな殺意丸出しなのに、蜂楽は面白がっている。どうなってんだよ、コイツの心臓は。鉄でできてんのかよ。
     糸師くんの頭上の古い街灯は、チカチカと電気が付いたり消えたりを繰り返していて、そこだけ雷が何度も落ちているようだった。
    「屁理屈捏ねてんじゃねえ。新入生と馴れ合いがしたいだけなら、他を当たれ」
     抱きつく蜂楽を振りほどき、帰ろうとする糸師くんの前に回り込んで、俺はアリクイの威嚇ポーズみたいに立ちはだかった。足を止め、舌打ちをして俺を見下す視線は、春真っ盛りなのに真冬の夜のように冷たかった。それでも、俺はコイツに山ほど聞きたいことがある。
    「おい、ちょっと待てよ。お前と色々、サッカーの話がしたい」
    「そうそう。お前、〝かいぶつ〟でしょ?興味がじゃんじゃん湧いてくる!お前のこと、もっと知りたいんだ♪」
     蜂楽は通せん坊する俺の後ろで、ひょっこりと俺の肩あたりに顔を出してから、あからさまに不機嫌そうな顔で突っ立っている糸師くんの肩と腰、それから股に、モグラ叩きのモグラみたいに、顔を引っ込めては出してを繰り返した。
    「俺も、お前の脳みその中身がどうしても気になるんだ。試合を見返しながら、俺の思考との答え合わせをしてほしい」
     実は、糸師くんの新入生テストの試合を、こっそりスマホで録画していた。どうしてこの状況でこの選択肢を取ったのか、どこまで彼の読み通りなのか、みっちり答え合わせをしておきたかった。彼の思考のメカニズムを解析して、喰いたい。
    「……ハァ、お前らみたいなザコと話して、何になる。メリットは?」
    「う~ん。なんだろうね、潔?」
    「やべえ、考えてなかった……」
    「ねえなら帰る」
     通せん坊している俺を押しのけて帰ろうとする糸師くんを、蜂楽が羽交い絞めにした。
    「凛ちゃんお願い!帰らないで!潔と一緒に俺んち行こ?」
    「オイ、帰るっつってんだろ!離せ!この!」
    「なあ蜂楽、なんかメリットないか?お前んち、なんかあったっけ?」
    「うーん……あ!モンブラン、冷蔵庫にあるけど、食べる?結構いいやつ!」
    「………………フン」

     ということで、モンブランに釣られたサッカーモンスターと、一晩中新入生テストの動画を見返した。
     蜂楽が果汁100%のパイナップルジュースを開けて、糸師くんにモンブランとプラスチックのフォークを手渡した。栗のクリームを頬張ってモグモグしている間は、なんだか年相応に見えた。
     まだ未成年の三人による、ノンアル健全新入生歓迎会は、作戦ボードを交えて大いに盛り上がった。
    「お前がこの場面で5番に出したのって、こういうことで合ってるよな?で、ここのカウンターに繋いでいったってことか?」
    「……ハァ、見りゃわかるだろ。雑魚が」
    「でも、凛ちゃんはかなりキワッキワのコース狙ったよね~?でも、それってそう見えるだけでさ……パスが決まるって分かってたってこと?」
    「ハッ……アイツらは俺が博打を打つような相手じゃねえよ」
     糸師くんは俺や蜂楽、試合中の新入生や先輩方に容赦なく毒を吐きまくったが、それもしっかりとした実力とストイックさがあってのもので、不思議と嫌な感じはしない。蜂楽からもらったモンブランは、クリームの跡をほとんど残さず、上品に食べられていた。
     試合の動画は終わり、後は帰るだけ。帰り支度をする中、俺はどうしても糸師くんのことが気になって、サッカーと関係のないことを話していた。
    「糸師くんさ、学部と学科ってどこ?」
    「経済学部経済学科。グローバルコースだ」
    「え、スポーツ推薦じゃねえの?すご……」
     意外や意外、あんなサッカーの実力を持ちながら、スポーツ推薦ではない学科の、しかもグローバルコースの学生だったのだ。糸師くんの地元のスカウトマン、節穴すぎだろ。
    「え、グローバルコースってさ、留学とかあるやつでしょ?ナイストゥーミーチュー、アイムファイン!センキュ~」
    「おい、オカッパ。バカにしてんのか……?」
    「ぶぐぇ~!」
     糸師くんは、仮にも先輩の蜂楽をオカッパ呼ばわりして、アイアンクローで物理的に黙らせた。これ、蜂楽だからいいけど、飲みの席に行ってたら、どうなってたのかな……と、苦笑いしながらぬるいジュースを飲み干した。
     これが、俺らと糸師くんとの出会いだった。
     俺と蜂楽は糸師くんのサッカーに一目惚れして、ストーカー呼ばわりされてもお構いなしにアタックしまくった。最初は頑なに心を閉ざしていたけど、ジュースとモンブランで誘わなくても俺や蜂楽の家に来てくれるようになったから、他のサークルのメンバーよりは、打ち解けてくれたと信じたい。
     そして、あの衝撃の春から数ヶ月が経ち、あっという間に夏が来てしまった。練習で汗だくになった後、クーラーの効いた俺の家に集合した。ベッドに腰かけて横並びになりながら、一軍メンバーの試合をみっちり解析していた。糸師くんはiPadを持っているから、真ん中にして俺らで挟んだ。
     直前になって連絡したのに、三人分のクッキーを母さんが焼いてくれて、麦茶も用意してくれた。母さんは俺の勉強机に盆を置いて、クッキーの大皿とキンキンに冷えた麦茶が入ったコップを置き、俺たちに向かってほほ笑んだ。
    「はい、廻ちゃん。凛ちゃん。クッキー、好きなだけ食べていいわよ~」
    「わ~い!バナナクッキーだ~!イタダキマス!」
    「うふふ、後で優さんにも持って行ってね?」
    「ありがと~♪伊世ちゃん大好き~!」
     優さんとは、蜂楽廻という自由奔放な問題児を女手一つで育て上げた、スーパーウーマンのことだ。新人戦の時、俺の母さんとスタジアムの応援席でたまたま隣同士になって、その場で意気投合したらしい。その後、俺と蜂楽が友達同士だと知って、こんなこともあるのね~と二人して笑い合っていた。
     元気そうに見えて、案外付き合う人間を冷静に選ぶタイプの蜂楽も、俺の母さんを伊世ちゃんと呼んで懐いていた。バナナクッキーを一枚取って口の中に放り込むと、目を鍋のしいたけの切れ込みみたいに輝かせながら、次々に頬張った。
    「うんま~♪やっぱり伊世ちゃんの手作りバナナクッキーが一番!凛ちゃんもそう思うよね~?」
    「……」
     蜂楽は俺の母さんにすっかり胃袋を掴まれていたが、糸師くんは相変わらずの仏頂面だった。それでも、ポリポリと小さな口でつまんだあと、「……うまいっす」と漏らしていたから、母さんはあらあらうふふ~と口元を押さえて笑っていた。
     糸師くんはクッキーを黙々と上品に食べ進めているが、ポロポロと崩れやすいが故に、口の端に食べかすがついてしまっていた。
    「あ。糸師くん、口についてるよ」
    「……?!よ、余計な、お世話だ、タコ……」
     口元の食べカスを手で取ってあげたのに、なんだよタコって。俺は軟体生物じゃねえっての。まあ、俺はそんな横暴な後輩を許すぐらいの度量はある先輩だから、別にいいけど。
    「あらあら。世っちゃんと凛ちゃんは、仲良しさんね~。ジュースもあるから、後で持ってくるわ~。うふふふふ……」
     母さんは空になったお盆を脇に挟み、俺達に手を振って去っていった。仲良しさんって、俺と糸師くんが?……ないな。仲良しさんなんて言われて、糸師くんはゆでダコみたいに真っ赤になって怒ってるし。
     でも、俺はこの天才のことを、もっと知りたかった。試合映像の前半が終わったところで、今まで聞いても答えてくれなかったことについて、インタビューすることにした。
    「なあなあ、糸師くんってどこの高校だったの?お前がスカウトされてないの、絶対おかしいって!」
    「……愛媛県の鄙鐚ひなびた高校だ。家から一番近いのがここだが、お前の想像をはるかに超えるぬりぃド田舎だ」
    「へぇ~……なんか意外だな……どんなとこだろ」
    「フン……見ても面白くなんかねえよ」
     糸師くんはため息をついて腕を組んだ。どれどれ……と、鄙鐚ひなびた高校付近のグーグルマップを見て、納得した。鄙鐚ひなびた高校がある鄙鐚ひなびた島は、愛媛県と広島県の間に浮かぶ島の一つで、フェリーを使わないと来れない僻地だった。どの家屋も全体的に赤茶けていて、潮風で錆びていた。コンビニも飲食店もほとんどなく、古いバス停があるだけの、港町の寂れた風情が写真から伝わってくる。
     しかし、糸師くんが愛媛県のド田舎出身って、なんか意外だ。方言や訛りがないし、私服も綺麗系だから、勝手に関東圏出身だと思っていた。
    「お、シーサイドですな~!波風高校もすげー海近いよ!海仲間だね♪」
    「?勝手に同類項で括るな、オカッパ」
    「むー……凛ちゃんって、俺だけに当たりキツくな~い?潔にはやさし~のに」
    「え、そう?」
    「チッ……」
     母さんといい蜂楽といい、糸師くんが俺と仲良しとか優しいとか、言っていることはよく分からなかったけど、サッカーモンスター以外の側面を教えてくれたのは、俺を先輩として慕ってくれているみたいで、嬉しかった。
    「なあ、サッカー始めたのって、いつから?」
    「覚えてねえ。気が付いたら、兄ちゃ……兄貴とボール遊びしてた」
    「え、お前って弟なの?あ~……でも、兄って感じもしないよな」
    「うんうん。凛ちゃんって弟系ってカンジするよね~」
    「そうそう、凛って、意外と甘いもの好きだし、ちょっとカワイイとこあるっていうか……あっ」
    「…………」
     しまった。蜂楽につられて馴れ馴れしく下の名前で呼んでしまった。糸師くんはソファでため息をついて、麦茶を啜った。なんか、ちょっと怖い顔をしている。やばい、地雷踏んだかな。
    「うわ、ごめん糸師くん。そんなつもりはなくて……その……えっと……」
    「おい」
    「ハイ……」
     うわ、顔こわっ。眉間にシワを寄せまくり、俺を睨みつけている。うわ、絶対怒ってるし。糸師くんから散々悪口をマシンガンのように言われるに決まってる。
     ちなみに俺が今まで糸師くんから言われた暴言は、以下の通りだ。ザコ、タコ、バカ、マヌケ……などなど。今思い返すと、なんか小学生みたいだな。でも、あの顔と体格と声で言われると、グサッときて落ち込んだりする。俺だって、人間だし。
     いったい何を言われるのかと身構えていたが、糸師くんはボクシングのガードの姿勢を取った俺にため息をついて、頭をポン、と優しく叩かれた。
    「……俺のことは、凛でいい」
    「うっわ!凛ちゃんがデレた~!やっぱり、潔のこと大好きじゃ~ん!」
    「なっ……!ンなわけ、ねえ、だろ……!気色悪ィこと言うな、オカッパ」
     デレた、とは?よくわからないけど、頭ポンポンとか、俺より身長高いアピールすんなよな。どうせ女の子にやってんだろ?これだから、高身長イケメンは困る。
    「え、ホントにいいの?じゃあ……凛、くん」
    「オイ。凛でいいって言ってんだろ」
    「うわうわうわ!イイ雰囲気じゃ~ん!俺、お邪魔虫?帰っちゃおっかな~」
    「ウゼエ、オカッパ!散れ!潔、テメェも帰れ!」
    「いや、ここ俺の家……」
     と、色々あったが、この日を境に糸師くん……いや、凛との距離はグッと縮まっていった。最初の頃に比べて、なんだか反抗期の弟みたいで可愛く見えてきた。

     そして、一年が経ち。俺と蜂楽は無事に三年生に、凛は二年生になった。凛はグローバルコースなので、二年の秋から一年間、アメリカへ留学に行ってしまうのが決まっているらしい。
     凛は一年生の時点で既に国内リーグのスカウトから声がかかっているが、この留学が終わり次第、中退してオファーを受けるつもりなのだとか。
     つまり、凛と俺たちは、夏休みが終わればお別れなのである。
    「やだやだやだやだ~~~~~!!凛ちゃんとお別れなんて、したくな~~~~~~~~~~い!!」
     真夏の夜のファミレスに、ミンミンゼミに負けない音量の叫びが響き渡った。

     蜂楽がファミレスの中心で叫ぶ一時間前、俺達は練習終わりにちょっとお高めの和風ファミレスへとやってきた。メシを一緒に食うこと自体はよくあることだけど、今回は珍しく凛が提案してきたものだから、俺達は仰天した。四人掛けの席に案内されるや否や、蜂楽が真っ先にソファで腕を広げて、一人だけの席を陣取った。
    「にゃはは、この席は蜂楽さまのものなのだ~」
    「いや、別に取ったりはしねえけど……な、凛?」
    「フン……余計な真似しやがって……」
     余計な真似?よくわかんねえけど、最近こうやって1:2で別れる場面で蜂楽が1を選んで、俺と凛が隣同士になることが多くなった。俺は別にいいけど、凛は気まずいだろうな。俺、一応年上の先輩だし。蜂楽のワガママにも困ったものだ。
     ふぅ、とため息をついて席に座ろうとしたら、テーブルにおしぼりもお冷もないことに気が付いた。ここはセルフサービスだから、席を立って取ってこないといけない。蜂楽も凛もワガママ野郎だし、取ってきてよと言われる前に、先手を打つことにした。
    「じゃ、俺お冷とおしぼり取ってくる」
    「ありがと~♪」
    「フン……」
    「あれれ?凛ちゃん、なんかさみしそ~だね?一緒に行かなくていーの?」
    「ウゼェ……!」
     蜂楽のちょいウザ絡みに対し、血管がビキビキに浮き出ている凛のそばからそそくさと離れた。最近、凛は蜂楽に絡まれると、すぐ俺に対して八つ当たりをしてくるようになった。こうなったのはお前のせいだとか、アホ面を見てるだけでイライラする、とか。流石にちょっと傷付くから、蜂楽にやめろって言ってもニヤニヤされるだけで終わった。
     ふう、とため息をついて、氷の入ったお冷とおしぼりを、指の間に挟んで持って行った。
    「ねえねえ。潔のこと、そんなに大好き?ずーっと見てんじゃん♪蜂楽サマにはお見通しなのだ~」
    「チッ……オイ、いい加減黙れオカッパ」
    「おやおやぁ~?図星かにゃ~?」
    「ふざけっ……」
     ガタン!凛が席を立って、蜂楽の胸倉を掴んでいる。会話の内容はよく聞こえなかったけど、やっぱり何か揉めているみたいだ。せっかく凛のお誘いでファミレスに来たのに。台無しになってしまう前に、いつも通り俺が仲裁することにした。
    「はい、持ってきたぞ~。こんなとこでケンカはやめろよな!」
    「チッ、ケンカじゃねえよ……」
    「ありがと潔~♡えらいえらい。大好き♡ちゅっちゅ~」
    「ちょ、蜂楽!なんだよ、いきなり!くすぐってえっての!」
     蜂楽は俺の髪をわしゃわしゃと、犬を撫でるように触ってきた。じゃれるのはいいけど、俺のぴょろっと出てる毛が崩れるから、もっと抑えめにしてほしい。
    「おい。オカッパ……」
     すると、凛が真っ黒なオーラを出しながら、俺たちを睨みつけた。蜂楽に絡まれたせいでお冷とおしぼりがまだだから、怒っているに違いない。慌てて蜂楽から離れてお冷とおしぼりを机の上に置くと、またしても蜂楽が燃料を投下し始めた。
    「あ、凛ちゃんごめんね?アイムソーリー、ヒゲソーリー!」
    「テメェ!」
    「もー!早く注文するぞ!」
     胸倉を掴もうとした手をメニュー表で遮ると、凛は大きなため息を吐いて、大人しく席に着いた。凛のイライラの元凶である蜂楽はというと、反省の色は一ミリもなく、早速メニュー表に夢中になっていた。
     凛が選んだのは、期間限定メニューの鯛めし茶漬け膳。税別1200円……つまり、税込1320円のお高いメシだ。醤油や塩を付けて、そのまま食べるもよし。薬味を入れて食べてもよし。そして、最後はお茶漬けでフィニッシュ。
     俺はせいろそばを早々に食べ終わった後、食後の抹茶かき氷に手を付けながら、凛が丁寧かつゆっくりと鯛茶漬けを味わう所を見届けた。
     一方、蜂楽はいかにもジャンキーな揚げ物の盛り合わせを頼んだ。フライドポテト・いかげそ揚げ・鶏の唐揚げがカゴいっぱいに入っていて、油と肉の匂いが食欲をそそった。俺の胃袋にはせいろそばとかき氷しか入っていないので、余計に美味しそうに見えてしまう。これが飯テロってやつ?
     蜂楽はケチャップとタルタルソースで味変をしつつ、揚げ物を次々と口に放り込んだ。うう、うまそう……。じーっと眺めていたら、蜂楽が俺の目の前にケチャップのついたポテトを差し出してきた。食べていい、ってこと?
    「はい、シェアハピ~♪ポテト食べていいよ~」
    「いいの?やった!」
     蜂楽の差し出したポテトと、皿のポテトに手を付けた。カラダに悪いけど、こーゆーのが一番美味いって相場が決まってる。大学三年生は二十歳の大人だけど、まだまだ肉と脂に飢えている。ましてや、まだ未成年の凛はなおさらだろ。鯛茶漬けなんてシブいもんで満足できねーはず。
    「な、凛も食おうぜ。いいよな?蜂楽」
    「モチ!凛ちゃんも食べて食べて~」
    「ハッ……フライドポテトは死ぬほど身体に悪いだろ」
    「ストイックだなぁ……ほら、食えよ。はい、あ~ん」
    「………………フン」
     夜のポテトは罪の味だ。一度手を付けたら止まらない。俺たちは、塩っ気の効いた山盛りのポテトをつまみながら、凛がなぜ俺たちを誘ったのかを聞き出した。

     で、凛からお別れを切り出されて、蜂楽が絶叫したというわけだ。お高めのファミレスで注目を集めてしまうのはやめてほしいが、気持ちは痛いほどわかる。
    「蜂楽、落ち着けって。気持ちはわかるけどさ……」
    「うう~~……じゃあ、潔はさみしくないの?」
     正直なところ、かなり寂しい。でも、凛は環境に恵まれなかっただけで、本来もっと早い段階でプロ入りをしていたはずだ。蜂楽をなだめつつ、ため息をついて頬杖をつく凛に、俺の本心を伝えることにした。
    「いや、俺もすっげえ寂しいけどさ……凛は鄙鐚ひなびた高校じゃなかったら、本来もっと早い段階でスカウトされてたと思うし。そのために上京してきたんだろ?」
    「……ああ。俺は、島から出るためにここにやってきた。グローバルコースを選んだのも、海外のサッカーチームに行く予行演習みたいなもんだ」
    「お~。日本から海外へ、ビッグドリームだね!凛ちゃんなら絶対イケるよ!なんてったって、蜂楽サマの弟子なのだから~!はっはっは!」
    「誰が弟子だ、雑魚オカッパ」
     ケロッと立ち直った蜂楽が、凛に向かってウィンクをして、可愛らしく星を飛ばした。凛は眉間に突き刺さった星をどこかに放り投げ、蜂楽を三白眼になって睨みつけている。この二人のやり取りがもう見れなくなるかと思うと、なんだか悲しくなってきた。
    「そっか……海外か……。凛と、もうお別れなんだな……」
     氷だけになったお冷のグラスが、カランと涼しげな音を立てた。グラスの底には水滴が溜まっていて、そこには萎れた双葉が映っていた。あれだけ騒いでいた蜂楽も、湿気ったポテトをつまんでため息を吐いて、物憂げに頬杖をついていた。
    「……潔」
    「……なに?」
     凛が俺の方を向いて、俺の名前を呼んだ。凛の真剣な表情と低い声色を前にして、丸まった背筋がピンと伸び、やや緊張しつつも次の言葉を待った。
    「夏休みにバイト、しねえか」
    「え……?」
     まさかの提案だった。夏休みにバイト?いきなりどーゆーこと?俺の顔に疑問符が付きまくっている。海の家とか、花火大会の屋台とか?俺はまだしも、どちらも凛がやっているイメージはない。こんがり焼かれた凛を想像して、いやいやないない、と首を振った。
    「嫌か」
    「いやいや、違う違う!ちょっとビックリしただけ。ね、どんなバイトなん?教えてよ」
    「ああ。バイトといっても、肉体労働じゃねえ。夏休みの一ヶ月間、俺と一緒に実家に帰って、俺の兄ちゃ……兄貴の話し相手になればいい」
    「え?それだけ……?」
     夏休みのバイト、という言葉からは想像もつかない内容だった。凛のお兄さんの話し相手になるだけ?確かに愛媛県のド田舎まで行かなきゃいけないのは大変だけど、果たしてそれがバイトとして成り立つのだろうか。目の前にいる蜂楽も、ポテトをケチャップに浸したまま、キョトンとした表情をしていた。
    「ああ。兄貴は身体が弱くて、あまり遠出ができないからな。田舎暮らしで暇を持て余してる。金をやるから暇潰しの相手を連れてこい、だとよ」
    「へぇ〜……」
     凛からお兄さんの話を聞いたのはサッカーを始めたきっかけぐらいで、人となりや見た目などはまったく知らない。でも、その言い回しになんだか血筋を感じた。
    しかしまあ、人と話すだけで金をやるって、凛もお兄さんも、ブルジョワの箱入り息子なのかも。確かに凛の身なりは綺麗だし、食べるものもリッチだから、実家が太いのも納得感はある。じゃあ、バイト代はどれぐらい出るんだろう。ちょっとした好奇心と下心を交えつつ、聞いてみることにした。
    「あのさ。……バイト代って、どんぐらい?」
    「100万円だ」
    「え?!ひゃ、ひゃくまんえん?!」
    「交通費も別途支給……らしい。メシと家はウチで提供するから、着るものだけでいい」
     なんと、破格のお値段が提示された。交通費、旅費、その他諸々すべて負担してくれるのか。ハードルが一気に取り払われた。それは蜂楽も同様で、彼はすぐさま手を挙げて立候補の意思を示した。
    「はい!はい!俺、やりたい!!おしゃべり得意だよ~!任せて!」
    「言っとくが、俺の実家は鄙鐚ひなびた島を遥かに超えるド田舎の離島だ。マジでなんもねぇぞ。オカッパは確実に三日で飽きて干からびて死ぬ」
    「え!島?アイ・ラブ・アイラーンド!アンド海!一ヶ月ぐらい余裕だって~」
    「……これを見ても、まだ言えるか」
     凛がグーグルマップに〝神薙島〟と入力すると、東京から遠く離れた瀬戸内海に、ポツンと浮いた小さな島が画面の中心に映し出された。
    「え……コンビニどこ?」
    「ンなもんねえよ」
    「海の家は?!」
    「あるわけねえだろ」
    「え、じゃあ逆に何があるの?」
    「だから、何もねえって言ってんだろ」
     凛はマップ上にピンのついた場所を次々とタップした。神薙島にある観光スポットらしきものは、森の奥深くにある灯台と、島の最北端の神社に、寂れた民泊。公共の建物は、公民館と、廃校になった小中学校と、診療所ぐらいだ。
    「ぶ〜。こんなトコに一ヶ月なんてムリムリ!俺はパスかな〜」
    「うわぁ……ホントに何もないんだな。うーん……誘ってくれるのは嬉しいけど、迷うなぁ……」
     すると、凛は民泊の近くの家屋を指差した。なんの変哲もない古民家だが、何かがあるのだろうか。
    「潔。地図には載ってねえが……ここに美味い鯛茶漬けの店があるぞ。漁師が獲れたてをご馳走してくれる」
    「行く」
     ということで、鯛茶漬けにまんまと釣られた俺は、父さんと母さんに許可を取り、夏休みの一ヶ月間、愛媛県の離島・神薙島に滞在することに決めた。交通アクセスの悪さを考慮して、一日目と二日目は松山空港から移動して道後温泉の宿に泊まり、そこから神薙島に行く予定だ。
     そして、時は2022年7月30日、土曜日。現在時刻は8時30分。ついに旅立ちの時がやってきた。これから、父さんの車のトランクに荷物を乗せて、最寄駅まで送迎してもらうことになっている。父さんは車のエンジンを鳴らして、一足先に冷房をつけに行ってくれた。
    「じゃ、いってきます」
     俺が手に持っているのは、機内持ち込みサイズの無骨なシルバーのキャリーケース。これは父さんが仕事で出張に行く時に使っていたものだ。一歩先に社会人になったような気がする。まあ、中身はほとんど服とお泊まりセットだけど。
     それに加えて、家にあるもので一番大きいリュックを背負っている。ほんとはいつも使っているリュックでよかったのに、蜂楽が追加で荷物を詰め込みまくったせいで、バックパッカーみたいになってしまった。蜂楽曰く、夏満喫お楽しみセット、らしい。
    「おっも……」
     俺のリュックはもう、二郎で全マシ大盛りを頼んだ後の腹みたいにパンパンで、アスリートの俺でさえも足元がフラフラになってしまった。
    「世っちゃん、ちょっといい?」
     玄関を出ようとした俺を、母さんが引き留めた。手に持っているのは、翡翠の勾玉が連なったブレスレットだった。
    「神薙島に行くのよね?これ、よかったら着けていって」
    「え?まあ、いいけど……」
     正直、これ以上は荷物になるからやめて欲しかったけど……。せっかく用意してくれたものだし、とりあえず左手に着けていくことにした。

     埼玉から羽田空港まで、電車で約一時間。そこで凛と合流して、松山空港へと向かった。
     ちなみに、凛も蜂楽に色々持たされていたのか、スマートな青緑色のキャリーケースの上に、異物感のある黄色いハチ柄のボストンバッグが乗っていた。凛の綺麗系の服装とも相まって、なんともミスマッチだ。
     凛の服装は、夏の薄い素材のカッターシャツに、深緑のスキニーパンツと黒いベルトで、全体的に上品にまとめられている。胸元のボタンは空いていて、セレブみたいなサングラスが引っ掛けられていた。おまけに、生成色の高そうな革靴を履いていて、どっかのイケメンアイドルですか?というオーラを醸し出している。
     一方俺は、ユニクロの胸ポケット付きの黄緑色の半袖Tシャツに、母さんがGUで買ってきたのびのびウエストの灰色のカーゴハーフパンツ、高一の時にしまむらで買ったテキトーな黒いサンダルという、庶民の夏の三点セットに身を包んでいた。
     隣の高級イケメン野郎と一緒にキャリーをゴロゴロしていると、「え、やば、超かっこいい……」「モデルさん?アイドル?」「隣の子、弟くん?」「かわい〜」という会話が否が応でも聞こえてきた。弟は凛の方だし、俺は年上の先輩だっつの!可愛いと言われて、男のプライドが傷ついた。
     俺は先輩らしく、胸を張って先陣を切り、手荷物預かり場まで行こうとすると、「逆だバカ」と首根っこを掴んで連行されてしまった。
     それからエコノミークラスで搭乗するかと思いきや、モニター付きの超豪華な椅子のプレミアムクラスへと案内され、機内食が運ばれてきた。特に、変な名前のソースがかかったローストチキンと、湯葉が乗った穴子と茄子とカボチャのトロトロの煮物が最高だった。
    「うま……」
    「……」
     俺たちの周囲は、白髪の紳士やふくよかなマダムなど、人生の余暇を楽しんでいる方々がほとんどで、周囲の目やマナーなどを気にしつつ、黙々と無言で平らげた。
    俺も凛も、朝っぱらから重い荷物を持って移動しており、昼飯を食べた途端に眠気が襲ってきた。静かで涼しい快適空間でリクライニングを倒せば、あっという間に一時間半が経ち、松山空港に到着した。
     着陸の衝撃で強制的に起こされた俺は、あくびをしながら荷物の到着を待った。
    「ふぁぁ〜〜〜……ん〜〜〜〜っ!」
    「おい。気色悪ィ声出してんじゃねえよ」
    「はぁ?もう、空港で喧嘩ふっかけんなっての!」
    「フン。これでヨダレの跡拭いとけ、アホ面」
     凛はスキニーのポケットからハンカチを取り出して、俺の口元を拭った。これじゃ、どっちが年上かわからない。これがイケメンモテ男ってやつ?いやいや、俺にやっても意味ねえだろ。
    「なあ。そーゆーの、女子にやれよ。俺にやっても意味ないって」
    「?アホに男も女も関係ねえよ。公衆に晒すんじゃねえ」
    「なんだよその言い方。横暴だなぁ……」
     そう言いながらも、俺たちは手荷物を受け取って、到着ロビーにたどり着いた。
     すると、オレンジジュースが出てくると噂の蛇口が、すぐ目の前に見えてきた。真っ二つになったみかんの絵の中心に蛇口が付いていて、かわいらしいオレンジ色のクマ?のようなキャラクターが、みかんの上にちょこんと乗っている。
    「ね、ね、蛇口!オレンジジュース!飲も!」
    「はぁ……言っとくが、あれは有料だ。400円も取られるぞ」
    「え?!」
     よく見ると、1カップ400円のポップが貼り付けてあった。無料でじゃぶじゃぶ出てくるわけではないらしい。でも、こんな遠いところまで来たんだし、飲まないわけにはいかないだろ。
    「店員さん、二杯ください!」
    「オイ……」
    「俺にも奢らせろって!センパイだし」
    「……フン、勝手にしろ」
     蛇口をひねって、プラスチックのカップにみかんジュースを注いでいく。うわ〜ホントに蛇口から出てる。凛にスマホを持たせて、その様子を撮ってもらった動画を、家族LINEにアップロードした。すると、母さんがすぐさまオカッパ頭のほんわかした女の子のスタンプを押してくれた。へへ、うまそうだろ〜。
     みかんジュースをアップで撮ったあと、すぐさま喉にジュースを流し込んだ。旅疲れした身体に、冷たくて甘酸っぱいみかんが染み渡る。
    「くぅ〜〜〜しみる〜〜〜〜!うまぁ〜い」
    「フン……ジュースで大騒ぎとか、ガキかよ」
    「うるさいなぁ。お前も飲めばわかるって、凛!」
    「……」
     凛は一口つけた瞬間、ゴクゴクと喉を鳴らして一気に全部流し込んだ。表情はあまり変わらなかったけど、凛は意外と感情が態度に出やすい。やっぱお前も好きなんじゃん。
     あっという間に空になったカップを店員さんに渡してから、俺は凛の方を向いた。ここからどこに行くかはチャットで教えてもらっていたけど、土地勘ゼロの方向音痴の俺にとって、ここから先の移動は凛頼みだった。
    「次、どこ行く?」
    「温泉宿まで、14時10分発の伊予鉄のリムジンバスで移動する。さっさと行くぞ」
     現在時刻は13時40分。あと30分後には出発するようだ。凛は乗り場に向かおうとしているけど、時間に少し余裕がありそうだし、せめて、二階をちょっとだけでも覗きたかった。
    「ね、ね、二階にショップあるみたいじゃん?見てこうよ」
    「ハァ……その荷物でか?」
    「別に今買うわけじゃないし、よくね?」
    「……貸せ」
     凛は俺のリュックを強奪して、自分のキャリーから黄色いハチ柄のボストンバッグを外して俺のキャリーの上に乗せた。代わりに、俺のリュックを自分のキャリーに乗せて、どこからか取り出したゴムバンドで持ち手に括り付けた。
     凛が荷物を交換してくれたおかげで、背中がすげえ軽くなって、移動もしやすくなった。同じ男としてちょっと悔しいけど、凛が親切にしてくれたのは嬉しかった。
    「うお〜!軽い!ありがと!」
    「別に。フラフラ動かれて、目障りだっただけだ」
    「凛……それって、ツンデレってやつ?俺が女の子だったら絶対勘違いしてるって!モテ男は違うな〜。なんでお前彼女いねーの?」
    「……俺にも事情はある。お前には関係ねえ」
     そう言って、凛は俺より先にエスカレーターのステップに乗った。そのあとに、俺も凛の背中を追った。右手に持った荷物を持ち上げようとも思わず、俺と凛の間の段差が縮まることはなかった。
     二階に到着してすぐ、エスカレーターの先に顔出し看板があることに気がついた。みかん色のクマ(?)と、すだち色の人相の悪いクマ(?)が、袴を着た男女を挟んで立っている絵が描いてある。男女の顔と手はくり抜かれていて、ここから顔と手を出してください、という感じだった。
    「ねえ、ねえ、凛!看板!撮ろ!」
    「お前一人でやれ」
    「だーめ。俺は凛との思い出を残しときたいの!」
    「ハァ……一枚だけだぞ」
    「やった!じゃ、凛はあっちな」
     俺が指差したのは、和装の男……〝坊っちゃん〟の方。イラストは大人の男性だけど、下駄のあたりに坊っちゃんと書いてある。何か元ネタがありそうだけど、イマイチピンと来なかった。その後ろで、人相の悪いすだち色の〝ダークみきゃん〟が不敵に笑っていた。
     凛は(おそらく)お坊っちゃまだし、人相の悪さもダークみきゃんにそっくりだ。うんうん、我ながら完璧な采配。
    「オイ、声に出てんだよ。撮るなら早くしろ、マドンナ野郎」
    「うぐ……」
     仕方がないとはいえ、俺は女の方の〝マドンナ〟とみかん色の〝みきゃん〟の方に移動した。撮影用のスマホ置きを利用して、さん、にー、いちでパシャリ。仕上がった写真を確認すると、俺は笑顔でピースしているのに対し、凛は三白眼でカメラを睨みつけ、中指を立てていた。
    「ちょっ……!も〜。母さんに見せらんねえよ、こんなの〜撮り直せって!」
    「フン、確認しなかったお前が悪い」
    「ぐぬぬぬ……」
     結局、その写真は俺のスマホの中でお蔵入りになった。色々クレームを申し立てたかったけど、荷物を持ってもらっているし、ここは我慢。行きがダメなら帰りで撮ればいい。
     二階のお土産コーナーに寄ると、じゃこ天にポンジュース、地酒なんかも置いてあった。いよてつショップ……〝いよ〟か。伊予柑とかもそうだけど、なんだか母さんの名前がいっぱいあるような気がして、縁もゆかりも無いのに勝手に親近感が湧いてきた。
    脳内にみかんのクマ、みきゃんと腕を組む母さんのイメージ映像で埋め尽くされた結果、いよてつショップで目に付いたのは、案の定伊予柑グッズだった。
    「ね、飲むみかんゼリーだって!絶対うまいじゃん」
    「オイ、買わねえって言ったろ。荷物になるだろうが、タコ」
    「いや、これはあくまで水分補給。お土産じゃねーから!」
    「ハァ……ゴミは自分で捨てろよ。浮かれポンチのポンジュース野郎が」
    「誰が果汁100%だよ!お前にはやんねーからな!」
     というわけで、水分補給の名目で伊予柑味の飲むみかんゼリーだけ買って、リムジンバスを待つことにした。
     バスに揺られて40分、そこから徒歩5分で、道後温泉の宿に辿り着いた。建物は四角くて現代的だけど、木の柱が幾何学的に並んでいて、和風な雰囲気を醸し出している。
     エントランスの豪華さから察するに、相当いい宿なんだろうな。さっきからすれ違うのは、身なりの良い老夫婦と、仲の良いご婦人たち、それから裕福そうなカップルなど。飛行機のプレミアムシートと同じような客層だったけど、ほぼカップルしかいなかった。
     館内は静まり返っていて、スマホのシャッター音ですらも響き渡った。母さんに送ったら、すぐさま目を潤ませてキラキラさせた白い人間のスタンプが返ってきた。既読早いなー……。
     凛によるチェックイン手続きが終わったあと、俺はスマホの画面から目を離し、モダンで和風な館内を歩きながら、その美しさにため息を漏らした。
    「すげー……」
    「部屋はここだ」
     凛と一緒に部屋の中に入ると、そこはとても広い空間が広がっていた。長〜いソファがあってなお、広い。
     部屋の奥にはクイーンサイズのでかいベッドがあったけど……あれ?一個だけ?凛も疑問に思ったのか、フロントに電話をかけた。どうやら宿側の手違いで、ベッドが一つ分になったらしい。もう他の部屋は満席らしく、宿泊料金を一部お返しします、と平謝りされた。
    「チッ……ったく、なんだよ……」
    「あ〜……俺、イビキかかねえし、寝相はいい方だから、大丈夫だって」
    「そういう問題じゃねえよ、クソが……」
    「わかったわかった、端っこ寄るから!凛はデカいし、いっぱい使っていいからな!」
    「だから……ハァ……もういい」
     凛はブツブツと文句を垂れながら、ベッドやテーブルに諸々荷物を置いた。まあ、野郎同士で一緒に寝るとか嫌だよな。俺は特に気にしてないけど、凛が気にするなら、極力端っこに寄ろうと決めた。
     荷物を下ろしたところで、早速部屋の中をチェックすることにした。ソファの前にはでっかい画面のテレビもあるし、全体的に木のいい匂いがして快適。アメニティのタオルも今治タオルの最強ふわふわ仕様!すると、その近くにタオルとは違う小さい布の塊があった。手に取ってみると、それはふわふわのびのび素材の靴下だった。
    「あ、靴下だ!ふかふかぁ〜これ、持ち帰っていいやつ?」
    「俺はいらねえから、二足持ってけ」
    「やった!ありがと、凛」
    「フン……靴下ごときで、安い奴だな」
    「え?だって俺、庶民だし。ブルジョワのお前とは違うの!」
     凛は相変わらず、俺に喧嘩を売ってんのか親切にしてんのかよくわかんねえけど、靴下のレパートリーが増えてラッキーだった。
     それから空港で買ってきたみかんゼリーを冷蔵庫に入れると、中に二つ、カゴに入ったオレンジ色の袋があって、そこには〝丸ごとみかん〟と書かれていた。
    「丸ごとみかんチーズケーキ……絶対うまいやつじゃん!な、凛!」
    「……俺を見るんじゃねえ。言っとくが、やんねえぞ」
    「べ、別に!そんな意味じゃねえよ!な、三時のおやつにしようぜ?」
    「……」
     凛は無言で開封し始めた。文字通り、丸ごとみかん一個分が入ったチーズケーキの写真を撮ったあと、凛がプラスチックナイフで切り分けて、黙々と食べているところを激写した。
    「オイ、撮んな」
    「へへ、うまそーに食ってんじゃん」
    「消せ」
    「やだ。お前との思い出、残しときたいし」
    「……邪魔すんな」
     そう言って、凛は再びチーズケーキを口に運んだ。本当に美味しいものを食べると、眉間のシワが平らになって、目をわずかに見開きながら、無言で食べ進める癖があるようだ。仏頂面のくせに、超わかりやすいな、お前。
     俺もチーズケーキにプラスチックナイフを入れると、レアチーズケーキに包まれたみかんの断面が露わになった。白とオレンジのコントラストの綺麗さに、思わず昇天しそうになった。すげえ、これがインスタ映えってやつだ!何枚も写真を撮ったから、もう悔いはない。いただきます。
    「でらうまぁ〜!なにこれぇ、しあわせぇ〜♡あまじょっぱくてサイコ〜♡もっと食べた〜い!」
    「夕飯は18時からだ。食いすぎるなよ、アホ」
    「いいのいいの、散策すればお腹空くって!行こ行こ!」
    「チッ……お前一人なら迷子になるだろうが、ポンコツ」
    「え〜?凛は行かねえの?じゃあここでゴロゴロするわ」
    「ハァ……」
     俺は、汗だくのシャツとカーゴパンツを脱ぎ捨てて、温泉旅館っぽい浴衣を着てみることにした。凛もかっちりした服を脱いで、浴衣ではなくゆったりした作務衣に着替えた。
    「どう、凛?着れてる?」
    「全部やり直しだ、死人」
    「え、マジ?なあ、ちょっと直してよ」
    「ハァ〜……そこで立ってろ」
     そう言うと、凛は容赦なく俺から浴衣を剥ぎ取った。帯を引っ張られた勢いで、俺の体はクルクル回ってしまった。お代官様かよ。
    「あ〜れ〜お代官様〜!」
    「ウルセェ」
     文句を言おうとしたけど、凛は案外真剣に俺の浴衣を着付けてくれた。こーゆーのがサラッとできるってことは、やっぱいいとこのお坊ちゃんなんだな。
    「すげ〜……なんでもできるじゃん」
    「お前がモノを知らねえだけだ。甘ったれ野郎」
    「むー……」
     18時になるまでゴロゴロしているつもりだったけど、俺がふかふかのベッドで寝転がっている間に、凛はスーツケースの荷物を整理していた。
    「何してんの?」
    「風呂の準備だ」
     凛はトラベル用の網目状のバッグに、お風呂セットや下着の替えを詰め込んでいた。トランクの中にはヨガマットもあって、旅行先でも日課を忘れないストイックさに感心した。
    「あ、俺もやる!」
     俺はスポーツ用品店の名前が書いてあるビニールショルダーバッグに、お風呂セットを入れている。高一の時から使っているから、ところどころかすれてはいるけど、まだまだ現役だ。
     とりあえず旅館のタオルと下着をテキトーにぶち込んでいると、いまだに開けられていないハチ柄のバッグが目に付いた。
    「そーいやさ。それって、何入ってんの?」
    「?……まだ見てねえ。島に入ってからのお楽しみ、だとよ」
    「ふ〜ん。でも、一体何入れてるかわかんねえじゃん?変なスライムとか入ってそうだし……確かめといた方が良くね?まだ夕飯まで時間あるしさ」
    「……」
     凛は爆発物処理でもするかのように、慎重にファスナーを開けた。すると、〝りんちゃんへ ばちらめぐるより!〟と書いてある手紙が置いてあった。封筒は小学生女子が使っていそうなファンシーなハチ柄で、本当に大学三年生が書いたものなのか?と思わせる代物だ。
     凛は嫌々ながらも広げて目線を追って読んでいたが、みるみるうちに顔が鬼の形相へと変わって、手紙を持って怒りに震えていた。
    『りんちゃんへ。島ライフを楽しくけん全におくるために、ばちらセンパイからのプレゼントです!りんちゃんはきっと、だーいすきな人といっしょに、いろいろエンジョイしたいよね。でも島にドンキないじゃん?だから、コスプレ服とか、オトナのおもちゃをいっぱいつめこんじゃいました☆モチ、ヌメヌメローションも、0.01ミリのアレもあるよ✌︎おもいっきり夏休みをエンジョイしてね♪ ばちらめぐるより♡』
    「オカッパ、コロス……!」
     凛はビリビリに手紙を破り捨て、紙クズとなったものをゴミ箱にダストシュートした。そして、ハチ柄のボストンバッグからなぜか出てきた縄で、ジッパーを閉めたボストンバッグをグルグルに縛り付けた。
    「え、何?何が書いてあったの?てか、なんで封印してんの?教えろよ〜」
    「ンなもん教えるかよ……!海外に行く前に、お前を殺してオカッパ野郎をぶっ殺す!」
    「なんで俺?!」
     凛は殺意に溢れる目つきでボストンバッグをゴミ箱に投げ込もうとしたが、俺の顔を見るなり、盛大な舌打ちをしながら元の位置に戻した。やっぱ凛って、蜂楽が絡むと変になるよな。謎にキレられつつも、18時になったので、二人で食事会場に行くことにした。
    「うっわぁ〜〜〜〜……すげえ……」
    「……」
     黒を基調としたシックな空間の中、二人がけの真っ黒な木製のテーブルと椅子に案内された俺たちの前に、和食のコース料理が次々に運ばれていった。
     焼き野菜が乗ったちっちゃい伊予牛のステーキも当然おいしかったけど、俺が何より感動したのは、イサキの刺身だった。こちらイサキとスズキとカツオと……あとなんだっけ?になっております、と言われて出された時。
    「イサキかぁ、食べたことないな。埼玉、海ないし。俺、名前を井崎や伊佐木に間違えられがちなんだよなー」
    「フン。早く食え、鮮度が落ちる」
    「ま、それもそうだな。いただきます!」
     ほんのりすだちの匂いがついたお醤油をつけて、イサキと思われるものを口に運んだ。……やばい。うますぎる。身は淡白で癖がないが、炙られた皮がくっついていて、それが香ばしさと旨みを引き立てている。口に含んでモグモグするたび、幸せの味がする。
    「う、うまぁ〜〜〜!!こんな美味しいお魚、初めて食べたぁ〜〜〜〜〜!!」
    「大声出すな、みっともねえ……オイ。そんなにうめえなら、タイとトレードするか?」
    「え、いいの?凛はイサキ食べた?」
    「一枚食べた。だから、いい」
    「やった!……ん〜〜〜〜〜っ、ほっぺたが落ちるぅ〜〜〜〜〜〜〜♡」
    「騒ぐな、アホ面。……フッ」
     俺が刺身でこんなに感動しているのがおかしかったのか、ほんのわずかに口角を上げて笑った気がする。何か言おうと思ったが、すぐさま仏頂面で鯛めし茶漬けに夢中になっていたから、そっとしておいてやった。
     それから、〆のデザートに紫芋と葡萄の水羊羹ベイクドケーキと、サッパリした夏みかんを味わって、心も体も満たされた。
    「あ〜食った食った、うますぎ〜!」
    「マジ優勝だな。まあ、鯛めしだけはあの島の方が上だがな」
    「え、アレ超えてんの?!やば、超楽しみ!」
     帰り道にそんなことを言いつつ、俺たちは部屋へと足を進めた。すると、俺たちと同じタイミングで食べ終わった若い男女カップルが、自撮り棒を片手にスマホへ話しかけつつ、廊下を歩いていた。たぶん中国語で通話していて、スマホのスピーカーからは、二人のどちらかの母親であろう、おばさんの声がしていた。
     ちょっと迷惑だな……と思いながらも二人のそばを通り過ぎようとしたら、俺たちが見ているにも関わらず、熱烈にキスし始めた。エレベーターの扉の前でそんなことをされてしまったので、通れなくなってしまった。
    「えっ……」
    「チッ……おい。そこのカップル、公衆の面前でイチャつくのをやめろ。不愉快なんだよ、クソが。《Hey. Stop flirting in public, you couple. It's not very nice, damn it.》」
     どうしよう、と思っていたら、凛が英語で対応してくれた。かっけえ、流石グローバルコース生。カップルは凛を睨みつけながら、閉じるボタンを押して俺たちを締めだした。
    「アイツら、ここをラブホかなんかだと思ってんのかよ、クソが」
    「凛、ありがと。俺じゃ対応できなかったよ」
    「フン。とっとと行くぞ」
     結局、次のエレベーターで部屋へと向かうと、二郎を食った時とはまた違う、腹から栄養がみなぎる満足感で頭がふわふわしていた。でも、さっきのことがあって、やや気まずい空気になっている。この空気を断ち切るべく、次の話題を口に出すことにした。
    「ねー……どうする?大浴場行く?」
    「……お前はどうしたい」
    「んー……凛、アレ見たろ?今の時間帯はヤバそうだよな……」
    「チッ、公共の場でサカりやがって。なら、部屋の風呂だな。一応、露天風呂になってる」
    「え、マジ?」
     風呂を覗きに行くと、確かにそこはやや狭いながらも、源泉掛け流しの露天風呂だった。なるほど、これはこれで風情があっていいな。すると、風呂の前の張り紙には、こんなことが書いてあった。
    『掛け流しの道後の湯を、存分にお楽しみください。あなたの大切な方、またはご家族の方と一緒に、極上のひとときを』
     なんじゃこりゃ。凛も同じことを思ったらしい。
     俺は……さっきのカップルを目撃した時みたいな気まずい空気を振り払うべく、俺は全力でふざけることにした。
    「なぁ、凛さま〜。一緒に入りましょ?うっふん♡」
     俺はクネクネと体を動かして、浴衣の胸元をわざとはだけさせ、凛にしなだれかかった。
    「…………オイ」
    「な、なんでしょう、凛さま?」
    「本当に、入るのか」
    「じょ、冗談に決まってるだろ!え、もしかして……一緒に入りたかった?」
    「…………んな訳、ねえだろ。とっとと入ってこい」
    「へーい」
     凛はお酒も飲んでないのに真っ赤になって俯いていた。こんな見た目で、案外ウブだったりすんのかな?それにしても、冗談通じねえよな、凛って。言われるがままに、お風呂に入ることにした。
    「あぁ〜……いい湯〜……」
     初めて入った個室の露天風呂はとにかく気持ちよくて、旅の疲れが一気に溶けたような心地だった。木の柵からはわずかに風が吹き込んで、温泉の匂いに加えて、なんかの木の匂いもする。隙間から見る道後の景色は、ポツポツと電気が灯る松山の街と、その向こう側の山々が、コントラストを演出していた。ん〜やっぱお風呂ってサイコー。
    「なあ、凛!すげ〜いい湯だよ!」
    「…………あっそ」
     振り返って、風呂のガラスの扉の向こうにいた凛に呼びかけたが、俺の方を頑なに振り向こうとしない。風呂のネタバレがそんなに嫌なのか?変なやつ。
    のぼせる前に風呂から出て、備え付けのシャンプーやコンディショナー、ボディーソープで体を洗った。俺が持ち込んだやつよりもかなり上等で、心なしか髪もサラサラになり、ほんのり柑橘系の匂いがした。
     ふわふわ最強の今治タオルで体を拭けば、スッキリサッパリ大優勝!
    「あ〜サッパリした〜!凛、次お前な?」
    「……ああ」
     凛はボクサーパンツだけの俺の体を上から下まで見た後、心ここに在らず、という様子で返事をして、風呂に入った。
     俺は周りから身体が薄いってよく言われるけど、部活でそれなりにフィジカルトレーニングを頑張ってる。きっとナイス肉体!って思って、見惚れたに違いない。ふふん、俺だって筋トレは頑張ってるからな。
     冷蔵庫に冷やしておいた伊予柑ゼリーをちゅーちゅーと飲みながら、髪を乾かした。伊予柑うまぁ〜!大優勝!
     ベッドに寝っ転がってドライヤーをかけながら、家族LINEでさっき食べたフルコースの話をしていたら、凛が風呂から上がってきた。パンイチで出た俺と違って、ちゃんと作務衣を着ている。
    「オイ……なんでまだ裸なんだよ」
    「え、ああ……じゃあ着替えるよ」
     もうちょっと俺の肉体美を見ててもいいんだけど?まあ、このまま着替えもせずに寝落ちたら、同じベッドでパンイチの男と一緒になるから、嫌だよな。
     しょうがないから、浴衣に着替えることにした……が、うまく着付けられない。どっちが前でどっちが後ろだったっけ?視線だけで凛に助けを求めると、盛大にため息をつきながら、俺の浴衣を剥いだ。
    「貸せ、甲斐性無し」
    「スミマセン……」
     最初に着付けられた時よりも、心なしかキツめに着せられた。後でこっそり、緩めておこう。
    「凛センセー、これ、着付け代です」
     俺は、飲みさしの伊予柑ゼリーを渡した。ちょっとぬるめだけど、風呂上がりなら十分美味しいだろ。
     凛は戸惑いを隠せなかったのか、目を見開いていた。そうか、いいとこの坊っちゃんだから、回し飲みなんてしたことないのか。
    「ああ……飲みさしでゴメン。でもうまいよ、これ」
    「……こういうのを、他の奴にもやってんのか」
    「え?まあ……蜂楽とかにはよくやるよ。庶民はこーやってうまいもんを友達にシェアすんの」
    「?」
     蜂楽の名前を出した途端に、凛は眉間に皺を寄せまくって、俺を睨みつけた。え、そんな怒る?凛は、俺の想像を超える潔癖症なのかもしれない。
    「もう、そんな怒るなよ。じゃあ俺が飲むからさ」
    「チッ……飲まねえとは言ってねえだろ、グズ」
    「え?」
     凛は俺の手からゼリーのパウチを奪い取り、一瞬で飲み干してしまった。飲みたいなら素直に言えよな、もう。
     それから歯磨きをして、まったりとした夜を過ごした。ヨガマットを広げた凛の横でヨガのモノマネをしたあと、ベッドの中で凛とのLINEに今日撮った写真をアルバムに載せていたら、眠気が襲ってきた。
    「んっ……ふぁあ〜……眠たくなってきた……今、何時?」
    「22時だ」
    「あ〜……微妙〜……どーする?」
    「……明日は移動だけで三時間もかかる。しかも、高速バスと航路だ。早めに寝ろ」
    「ん、じゃ、おやすみ……」
    「フン。とっとと寝ろ」
     凛は俺の代わりに電気を消してくれた。できるだけ、端っこがいいんだっけ?凛に身体が当たらないように、モゾモゾと端の方に動いて、それから……俺の意識は、ふかふかのクイーンベッドに吸い込まれていった。

     あな愛おしき かんなぎの子
     あなめでたや まれびとの子
     みなうつくし 我が落とし子
     わだつみの海を 鎮めたまえ
     やまつみの山を 治めたまえ

     真っ暗な空間に、何か、子守唄のようなものが、聞こえてきた。どこかで聞いたような……それこそ、俺がうんと小さい頃。何にでも泣いてしまう泣き虫の俺をあやしていた、母さんの声に似ていた。でも、これは母さんじゃない。母さんじゃなかったら……なんだ?
     気がつくと、俺はどこかの島の砂浜に立っていた。磯の香りと陽の光の匂いを運んでくる潮風が、肌を撫でている。すると、俺の立っていた場所からどんどん干上がっていって、たくさんの鳥居が並んでいる一本道が出来上がった。
    『おいで』
     脳内に、蜂楽でも凛でもない、若い男の声が響いていた。この声を知らないはずなのに、知っている。××××が、待っている。××××の俺を、求めている。
    「今、行く……」
     サンダルを履いた俺が、鳥居を潜ろうとした瞬間。後ろから何かに引っ張られた。振り向くと、周囲は白い壁に覆われ、壁紙はポップなみかん色の水玉模様になった。
    「え……?」
     すると、俺に向かって緑色の悪人面みかん、ダークみきゃんがダッシュで駆け寄ってきた。逃げようとしたが、俺は全然動けなかった。俺にはゆるキャラのような手足がついていて、トテトテとしか動けない。あっという間にダークみきゃんに追いつかれてしまった。
    「クックック、レアチーズみきゃんよ!オレ様が食べてやるダーク!」
    「やめろ〜!」
    「ワンワン鳴いても無駄ダーク!まわりのチーズをペロペロして、剥き出しのみきゃんにしてやるぞ〜!」
     愛媛県のローカルな児童番組のような絵面で、レアチーズケーキでコーティングされたみきゃん……俺を、ダークみきゃんがペロペロ攻撃し始めた。特に、首の後ろらへんをめっちゃ舐めてくる。
    「そんなトコやめろよ〜!」
    「やめろと言われたら、もっとやりたくなるダーク!」
     天邪鬼のダークみきゃんに、何を言っても無駄だ。俺はなんとか抵抗して、ダークみきゃんを振り払った。
     すると、ズテーン!とダークみきゃんは倒れ、顔だけがコロコロと転がった。そこから現れた中の人は……凛?
     凛は頭の取れた着ぐるみの格好のまま、フラフラと俺に近づいてきた。何をするつもりだ……?凛は俺が被っていたみきゃんの頭を取り、舌をだらんと垂らしながら俺に抱きついた。そして歯を剥き出しにして、着ぐるみの中にいたせいで汗だくの首筋に……!
    「わっ……?!はぁ、はぁ、夢……か……」
     目覚めると、凛と俺の背中同士が、ピッタリくっついていた。ドクドクと鼓動する、凛の心臓の音が聞こえるぐらいに。俺、端っこで寝てたはずなのに、どうしてこんな近いんだ?とりあえず凛を起こさないように、慎重に手繰り寄せた枕元のスマホを見ると、まだ朝の5時6分だった。あんな夢を見た後だったから、うなじを触るとやや湿っていて、髪は寝汗で張り付いている。今日はゆっくり朝風呂に行く予定だし、二度寝することにした。

    「また会えた。俺の、××××……さあ、俺と……一つになろう」
     また、あの若い男の声だ。周囲は海が広がっていて、俺の目の前には鳥居が点々と続く一本道が開けていた。みきゃん達はもういない。ふらふらと、声のする方へ歩いていくと、そこには、身体の至る場所が真っ白で、髪の長い綺麗な男の人がいた。真っ裸だけど、幽霊みたいに下半身が透き通っていた。でも不思議と、怖いなんて思わない。だって、彼は俺の××××だから。
    「一つ、に……?」
    「ああ……俺達は、元々一つの存在なんだ。だから……ね?」
     全裸の俺と、男の人の唇が重なり合った。なんと、夢の中で男の人にファーストキスを奪われてしまった。ショックなはずなのに、何も嫌悪感が湧いてこない。この人が美しいから?いや、そんな次元の話じゃない。肉体の交わりではなく、魂同士が抱き合って、溶け合って……。
    「気持ちいい……?」
    「ぁ、あ、キモチ、イイ……!××××……!」

     ピピピピ……。毎日、朝の6時にかけていたアラームが鳴り、モゾモゾと手を伸ばして止めた。横にいたはずの凛はどこかに消えていた。
     二度寝したらとんでもない夢を見てしまって、朝勃ちしてしまっていた。なんとかやり過ごそうにも、おさまらない。凛には悪いけど、とりあえず一回トイレで抜いてしまおう。
    「ん……ぅ……トイレ……」
     寝ぼけた頭でトイレに向かうと、凛がトイレにアメニティーの消臭スプレーを何回も吹きつけていた。消臭しすぎて逆に臭え!
    「ちょ、凛!かけすぎだっつーの!一体どんなウンコしたんだよ」
    「ウルセエ、死ね!テメェのせいだ、この野郎」
    「なんだよそれ〜!朝っぱらから理不尽すぎだろ……」
     なんつーか、朝から元気だよな凛は。このやり取りですっかり目が覚めた俺は、そそくさと朝風呂の準備をすることにした。凛も誘って、いざ八階の展望風呂へ。
     朝の早い時間帯に行ったから、誰も客はいなかった。展望風呂はガラス張りの空間が広がっていて、外から朝の柔らかい光が差し込んでいた。黒を基調としたカッコいい大人の雰囲気の床と壁も相まって、いつまでもゆったりとしていたいぐらい、リラックスできた。
    「ん〜……誰もいなくてよかったな、あの変なカップルが来てたらどうしようかと思った」
    「片割れがいなけりゃ静かだろ」
    「まあそーだなー……」
    「……」
     会話はそこで途切れた。朝っぱらからブチギレていた凛も、いい湯加減の源泉に浸かると、眉間のシワが取れ、心地よさそうにしていた。だが、ふと己の右腕に視線を移すと、せっかく伸びたシワが再び戻ってきた。凛の右腕に何が?と思って、近寄ってよく見てみると、そこにはびっしり噛み跡がついていた。
    「お前、それどーしたん?」
    「……チッ、関係ねえだろ。寝相が悪かっただけだ」
    「どんな寝相だよ!やっぱお前、変なヤツ〜」
     凛が変なヤツであることを再確認し、朝風呂を終えた俺たちは、同じフロアのラウンジへやってきた。
     凛は早くヨガをやりたかったらしいけど、〝夏限定ひとくちアイス〟の案内を見た瞬間に、手のひらをひっくり返した。凛って、アイスが好きなんだな。
     凛は青いやつ、俺は白いやつをもらった。もらった棒アイスは親指ほどの長さしかないから、部屋に持って行くまでに溶けてしまいそうだった。
    「ここで食べよっか」
    「ああ」
     俺たちは近くにあったソファに座り、水分補給がてら、一緒に食べることにした。白いアイスは優しいヨーグルト味で、湯上がりにピッタリだった。
    「ね、それ何味なん?教えてよ」
    「見りゃ分かんだろ、ソーダ味だ」
    「え、うまそうじゃん。俺のはヨーグルト味!食べる?」
     俺が食べかけの棒アイスを差し出すと、口を尖らせて眉間にシワを寄せた。凛は確か、回し飲みや回し食いに対して潔癖症っぽいそぶりを見せるけど、素直じゃないから欲しいって言えないってパターンだったよな。
    「……別にいい」
     ほら、物欲しそうにこっちを見てるのに、ぷい、と目線を逸らされた。わかりやすいやつめ。自分の持っているアイスを、さらに凛の口元へ近づけていった。
    「食わねえって言ってるだろ」
    「いいからいいから……あ」
     すると、俺のアイスがそのまま木の棒から外れて、手のひらの上に塊ごと落ちてしまった。
    「うわぁ……もぉ〜……」
     流石にこれをあげようとは思わず、かといって手を拭くものや皿があるわけでもないから、そのまま手についたものを舐め取ることにした。
    「ん、ぅ、じゅる、ぅ……」
     手のひらから手首にかけて、ヨーグルト味のアイスだった液体が滴ったところまで、入念に舌で綺麗にした。
    「て、テメェ!朝から何やってんだ、このッ……!」
    「ぁ、ああ、ごめん。手についたの舐めるとか、下品だよな」
    「クソッ……いいから、早く食え!」
    「へいへい」
     その後、部屋に戻ってベトベトしたところを洗った後、俺たちは朝食の会場へと向かった。
     朝食はバイキング形式ではなく、座席まで食事が配膳されるタイプだった。ふっくらツヤツヤの愛媛県産のお米に、ダシの効いた卵焼きと焼き魚、それから鯛のアラの入ったお味噌汁。
     もうこれだけで満足なのに、新鮮な野菜や、つやぷるのお豆腐、絶品のじゃこ天、それから〆にはデザートの伊予柑と、至れり尽くせりの朝食だった。
    「う〜……もうお腹いっぱいだ……」
    「ああ……」
     俺たちが部屋に戻ると、凛は即座にソファへもたれ掛かり、俺はベッドにダイブした。
    「ねー……お腹落ち着いたらさ、外行こうよ」
    「……行きたい場所があるのか?」
     チェックアウトは11時までだけど、島に行くまでに色々温泉街を巡っておきたかった。ゴロゴロしている間に、ネットで調べた道後温泉スポットの中から、行きたいと思ったところをピックアップ済みだ。
    「うん。道後温泉の本館と、みかんジュースの飲み比べ!あとは一六タルト!」
    「あんだけ食って甘いモンかよ……。ちなみに、本館は改修中だ」
    「え、あ、そうなんだ……」
    「まあ、縮小営業中だから、行けば雰囲気だけでも味わえるだろ。とりあえず9時になったら出るぞ」
    「うっす……」
     チェックアウトを済ませたあと、一旦荷物を預けて、散策に出かけることにした。スーツケースとリュックたちを預けようとして、ふと、売店が気になってしまった。
    「あ、ちょっと待って。預ける前に、売店見ていい?」
    「荷物になるだろ、帰りの空港で買え」
    「ご、ごもっともです……」
    「……まあ、どうしても欲しけりゃ郵送すりゃいいだろ」
    「その手があったか……!じゃあ、ちょっと見てくる!」
     俺がどうしても気になっていたのが、売店の目玉商品である、急須と蓋付きの湯呑みだった。砥部焼のツルツルした陶器に、シンプルなみかんが描かれていた。この前、夫婦でお茶を飲んでいたらうっかり割っちゃったって言ってたし、ちょうどよさそう。
     お土産用に持たされたお金を握りしめて、夫婦への湯呑みと急須を、郵送してもらうことした。
    「じゃ、行こっか」
    「フン……無駄遣いしすぎるなよ」
    「わかってるって!」
     その後、俺たちは全部荷物を預けて、改修中の道後温泉本館へと訪れた。本来の正面口ではなく、東側の入場口を使って、一部のみ営業中らしい。文化財になるぐらい立派で古風な建物だったけれど、その屋根のもっと上に視線を移すと、建物が布のテントで覆われていた。ただの青いビニールシートではなく、何やら山の絵のようなものが描かれていた。
    「へ〜……工事中だけど、オシャレだな〜」
    「気になるのか?こっちに回ってみろ、もっと大きな絵が描いてある」
    「え!見たい見たい!」
     本館をフェンス沿いに回り込むと、青と黄色と黒の折り紙を千切って、目を瞑りながらペタペタと貼り付けたような色の布に、真っ白な二羽の鷺が描かれてあった。デカすぎて、この画角だと全部収まりきらない。
     ド派手な背景だけど、鷺はかなりリアルに描かれていた。前衛的な芸術と、古風な旅館の佇まいが、見事に共存している。
    「すっご!フェンスにも続いてるじゃん。芸術的だな」
    「フン。サッカーバカのくせに、芸術なんてわかるのか?」
    「これでも一応、高校の美術はいい成績取ってたの!にしても、すげえ迫力だなぁ……どうにかして全部映らねえかな?」
     俺がスマホでどうにか全部収まる撮影スポットを探していると、凛は腕を組んで、二羽の鷺を見比べた。
     遠くを見て、首を伸ばした鷺と、己の下を見て、首を縮こませて羽根の中に仕舞おうとしている鷺の視線は、永遠に交わらないだろう。
    「……二羽の鳥、か」
    「なんか言った?」
    「ただの独り言だ。オイ、お前はあそこに行きたかったんだろ」
     凛は、一六タルトの店のある方を指差した。一六タルトは、タルトと言われて想像する洋菓子ではない。ロールケーキのような見た目の和菓子で、クリームの代わりにあんこが詰まっているのだとか。
    「うん、行く!」
     話題を逸らされたような気がするけど、あんこの誘惑には勝てない。あんだけ豪華な朝食を食べたのに、もうお腹が空いてきた。別腹ってやつだ。
     一六タルトの道後本館前店は、一階が野外とそのまま繋がっていた。奥に入るとエアコンが効いていて、ややひんやりとした風が、移動でうっすらと汗をかいた俺たちの肌を冷やしてくれた。
     商品のラインナップは、看板商品の一六タルトに加え、ケーキやエクレア、フィナンシェなんかも売っていた。でも、こんな所まで来て、フツーの洋菓子を食べるって選択肢はない。うまそうだけど。
    「あ、みきゃんとダークみきゃんのひと切れタルトも売ってんじゃん」
    「ガキっぽい見た目だな」
    「柚子味に、宇治抹茶味だって。宇治抹茶好き?」
    「……俺は、栗づくしの方がいい」
    「はいはい。あ、塩レモンだって!絶対うまいじゃん!え〜悩むなぁ〜……」
     ということで、島で食べる用に凛は栗づくし、俺は塩レモンを選んだ。賞味期限が一ヶ月以上あるから、おやつには困らなさそうだ。
    「なあ、上のカフェスペースで食べれるみたいだけど、どう?行く?行かない?」
    「……別に、行かなくはねえよ」
     そして、二階のカフェスペースで、柚子味の一六タルト、三色の餡子に包まれた坊っちゃん団子、そしてお抹茶のセットを頼んだ俺たちは、しばらくまったりと過ごすことにした。
     一六タルトは、ほのかな柚子の香りがする餡子が、ふわふわのスポンジ生地に包まれていた。盆の上についてきた先割れフォークで切り分けるたびに、無くなって欲しくないと願うばかりだ。
     坊っちゃん団子は、茶葉の香りが漂う抹茶餡と、ほのかに卵の味がする黄色い餡と、シンプルかつ王道の小豆餡の最強トライアングルで構成されている。
     そして、このあまぁ〜い二つの和菓子を、キリリとした苦味と芳しい茶葉の香りでまとめ上げる、器に入ったお抹茶。作法とかよくわかんないけど、凛のモノマネをしつつ、ちびちびと飲んで堪能した。
    「最強トライアングルだぁ〜♡しあわせぇ〜♡」
    「……オイ。みかんジュースの飲み比べは、どうするんだ」
    「あ、行きたい。11時に出発する?」
    「ああ。行くなら、早く行くぞ」
    「オッケー」
     一六タルト・坊っちゃん団子を堪能した後は、蛇口からみかんジュースが出ると評判のお店へと向かった。
     1970年代のレトロな雰囲気を残した店内には、蛇口がずらりと並んでいた。その数なんと、圧巻の二十種類。
     三種、五種、十種を選べるトレーがあったけど、カフェで色々食べたし、三種を選ぶことにした。
    「すげ〜……どれ選べばいいんだろ」
    「選んでやろうか?」
    「え?」
    「この旅の中で、お前が喜ぶ味はだいたいわかった」
    「すご、エスパーじゃん。じゃ、よろしく」
     凛が指差した蛇口は、清見、せとか、果試28号と書かれていた。何、果試28号って?昔のロボットアニメみたいな名前だな。とりあえず、オススメされた通りに注いでみた。
    「凛は何にするんだ?」
    「河内晩柑、ブラッドオレンジ、果試28号だ」
    「出た、28号。うまいん?」
    「いいから黙って飲め。お前の頭の中のみかんの常識を書き換えろ」
     意味わかんねー。飲んだだけでそんな変わるかよ、大袈裟だな。そこまで言うならと、早速果試28号を試してみることにした。まずは一口、そっと含んでみると……。
    「…………!!」
     一口だけなのに、あまぁ〜〜〜いジューシな果汁が舌の上で踊り、爽やかな香りが鼻を通り抜けた。俺のいない全国大会をリビングでただ眺めることしかできなかった時に食べた、あの苦々しいみかんの味を完全に塗り替えてしまった。埼玉のスーパーでテキトーに買ったみかんとは、格が違いすぎる。
    「凛。これ……ヤバい。俺の中のみかんの常識が、完全に上位変革アップデートされた……!」
    「果試28号は、愛媛でしか獲れねえ高級みかんだ。テメェらの雑魚みかんとは格が違ぇんだよ」
    「ゴクゴク……ぷは、ヤバい……!28号、恐るべし……!」
     果試28号のジュースは、あっという間に消えてしまった。他にも、清見とせとかが残っている。凛も28号をキメたあと、河内晩柑とブラッドオレンジに手をつけた。
    「なぁ、お前のも気になるんだけど。分け合おうぜ」
    「……全部飲むなよ」
    「当たり前だろ!」
     甘いもの、酸っぱいもの、甘酸っぱいもの……どれも美味しかったけど、俺にオススメしてくれた品種は、全て甘味が強いものだった。俺が大の甘党なのを、完全に見抜かれている。
     凛は俺のこと、よく観察してくれてるんだな。容赦なく吐かれる暴言さえなければ、ほんとにいい後輩だ。夏が終わったら会えなくなるのは、やっぱり寂しい。口の中に残る柑橘は、どこか苦い後味がした。
     それから、宿まで荷物を取りに行って、一六タルトをキャリーに押し込んだ。駅に辿り着く頃には、もう12時半になろうとしていた。
    「どーする?駅の中で座っとく?」
    「オイ。その前に……上を見てみろ」
     凛が指差したのは、駅前の大きな時計台だった。12時半ちょうどになると、文字盤がひっくり返って、あの空港の顔出し看板で見た〝マドンナ〟のような昔の女学生らしき人形が現れた。
    「あれって、空港にいた〝マドンナ〟?なんのキャラクター?」
    「まさかお前、『坊っちゃん』も知らねえのかよ」
    「坊っちゃん……ああ、え?なんか……聞いたことはあるけど……なんだっけ?」
    「夏目漱石だ。教科書に載ってる文豪ぐらい、勉強し直してこい、バカ」
    「うぐ……」
     へいへい、どうせ俺はサッカーバカですよ、凛さん。いい後輩だって思ってたけど、前言撤回。すぐ先輩のことをバカって言うのやめろよな、もう。
     カラクリ時計を見守った後、バス停まで行って高速バスで一時間。そこから急いで今治港まで行って、フェリーで一時間。凛のいた高校のある鄙鐚ひなびた港まで汽船が走っているけれど、高校の思い出話などを聞く元気はなかった。
    「潔。港に着いたら、すぐ神薙島行きの船が出る。紫色の〝みかげライナー〟に乗るぞ。……オイ、聞いてんのか」
    「うぷ……船酔いした……助けて……」
     朝食をしっかり食べて、なおかつ甘いものを飲食していたから、お腹は空いてないけど、船酔いのせいでふらふらになってしまった。みかんジュースが、逆流しそう……!
    「チッ……酔い止めは持ってねえのかよ」
    「キャリーの中、置いてきちゃった……」
    「ハァ〜〜〜〜……オイ。どこまでお前はバカなんだ。水出せ、飲ませてやる」
     キャリーケースは荷物置き場にまとめられてしまっている。凛は、手荷物として持ち込んだ自分のリュックから、酔い止めを取り出した。
    「んく、く、ぅ、ぷはぁ……!生き返るぅ〜……」
     凛は酔い止めのタブレットを俺の口に放り込んで、ぬるくなった水で流し込んだ。ほんと助かる。意味不明な言動や暴言はもう、全部チャラにしたっていい。
    「ハァ……帰りに同じことしても、助けてやらねえからな」
    「ハイ、凛センセー……反省します……」
     そして、鄙鐚ひなびた港にたどり着いた俺たちは、〝みかげライナー〟と書かれた小さな船まで歩みを進めた。白い船体に、紫色の一本線が描かれているのが特徴的だ。
     すると、船から誰かが降りてきた。二十代の若いお兄さんだけど、立派に筋肉がついていて迫力がある。顔は日焼けでこんがり焼けているけど、こちらを見て笑った時の歯は真っ白だった。髪の毛は栗色で、潮風で痛んでいるのか、ぼさぼさになっている。汗だくだけど、スポーツマンみたいな清潔感があって、人の良さそうな顔をしていた。
    爽やかな若い船乗りさんは、凛の持っていた切符にハンコを押した途端に、すぐさま抱きついた。
    「凛〜!久しぶりだな、元気か?都会でも飯、食ってるか?」
    「オイ、わたるさん。抱きつく前に、船を出航させてくれ」
    「おいおい、すっかり都会にかぶれちまったなぁ。兄ちゃんは悲しいぜぇ〜?お前がちっちゃい時は、渉にいちゃ〜んって呼んでくれてたのに……」
    「ウルセエ、さっさと出航しろ!」
     渉さんと呼ばれた船乗りの彼は、自分より身長の高い凛をあやすように、ぐしゃぐしゃと艶やかな黒髪を撫でまくっていた。俺の知り合いでこんなことができる奴は、恐れ知らずの蜂楽ぐらいだ。
     もしかして、凛の兄ちゃんってこの人のこと?いや、どう考えても超元気そうだし、やっぱ違うよな。
     もみくちゃにされている凛が、俺にどうにかしろ、という目線を寄越してきたので、酔い止めの恩を今返すことにした。
    「えー、オホン。あの、俺のもスタンプ押してもらっていいですか?」
     神薙島への片道切符を、渉さんなる人に差し出した。彼は凛に構うのをやめ、俺の方へと歩み寄った。
    「お、君がその……例の、まれびとさん?」
    「まれ……びと?」
    「ああ。ウチでは、神薙島にやってくる旅の人は、まれびとって呼んでるんだ。凛が都会からまれびとさんを連れてくるって話は、もう島中のみんなが知ってるよ」
    「うえ〜……有名人かよ、俺」
    「神薙島は人口50人未満の離島だ。噂は一日経たずとも広がる。間違っても、目の前のおしゃべり野郎の前で粗相をするなよ」
    「おいおい、俺の口は堅い方だぜ?ほらほら、あんたのをスタンプしてやるから、乗り込んでくれよ?」
     渉さんは、俺の切符にスタンプを押して、真っ白な歯を俺に見せながら笑った。同じ日焼けをした年上の若い男性ではあるが、サッカー部の先輩たちとはまた違う雰囲気で、素朴さと逞しさを感じられる。
    「んじゃ、乗員二名様。こちらのお座席へどうぞ。定刻通り、出発いたします」
     渉さんが運転席に着くと、みかげライナーはエンジンを唸らせ、凛の生まれ故郷……神薙島へと出航した。
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