「隣、いいかね?」
そう声をかけてきた人はびっくりするくらい綺麗な顔してて、なんでこんな大衆ビストロバーにいるんだろって思った。
元気よくお肉にかぶりついて自分を労っていたわたしに、声をかけて返す間もなく隣に腰を落ち着けた男は朝尊と名乗った。
学校の先生だそうだ。
一度先生ってよんで、何かねって返されたらしっくりきすぎちゃって、そこから先生呼び。
教師やってるだけあって引き出しが多く、話題に尽きることは無かった。
むしろ豆知識や雑学で大いに盛り上がってしまい、気づけば終電まであと4分
駅の中の店だし駆け込めば何とか滑り込めるなと帰り支度をしていると、ふと手が腕を掴んだ。
「なに、せんせ…」
「ひとつ聞きたいのだがね」
「明日は土曜日。君もこんな時間までいるということは明日は休みでは?」
「実は先程話していたレア物のプラモデル、うちに飾ってあってね」
「見に来ないかい?」
そう言って笑った顔に見とれて、あと4分で、終電が来ちゃうのに、
掴んだ腕を這って指と指が絡んで、ああ、急がないと、あと、3分
「ふふ、震えているね。…どうしたい?」
答えなきゃ、ああ、あと2分、家に帰りますって、行って、わあ手大きい温かいきもちい
「おや、酔ってしまったのかね?ーー店主、お勘定を。ああ、彼女の分も。」
なにか、なにか言わないと、あと、あと…あれ?何言おうとしてたんだっけ
「さあ、行こうか」
そのまま、何がどうなったのかはっきりとは思い出せない。
気がついたら、しっとりとした木と墨の香りがする静かな部屋の布団の上。
間接照明に照らされた空間は、妙に落ち着く温度で、騒がしい街の夜とはまるで別世界のようだった。
「……目が覚めたかね?」
低く柔らかい声が、反対側からする。
首を動かしたら、椅子に腰かけて紅茶を淹れている朝尊の姿がある。スーツのジャケットは脱ぎ、シャツの袖を少しだけまくって。
一つ一つの動きが、なぜこんなに丁寧なのだろう。
「……ここ、どこ?」
「ああ、僕の家だよ。酔った君を連れて帰る以外の選択肢がなかったのでね。安心したまえ、誓って何もしていな…いや、靴下は脱がせたかな?」
「……靴下、…そっか」
ほんの少しだけ顔を赤らめて、しかし体には痛みも違和感もなく、確かに彼の言葉通り何もされてはいない。
けれどその優しさが、逆に胸に触れてしまってどうしていいか分からなくなる。
「あの、えっと、ありがとう。あと、変な寝言言ってたらごめん…」
「変なこと…ふふ、それはなかったよ。君は寝言まで可愛い人だった」
「……っ、せんせ、からかわないで」
「揶揄ってなどいないのだがね?」
少しだけ笑った顔は、夜のバーで初めて見た時と変わらず綺麗で、
けれど今は、それ以上に温かさが滲んでいた。
「……あの、プラモデル、まだ見てないんだけど」
「ほう。見るかい?」
こくんと頷くと、朝尊は嬉しそうに立ち上がって手を差し伸べた。
指先に触れた瞬間、すっと馴染むように絡めとられる。
「ふふ、これは……まだ帰せそうにないな」
「……先生のせいだよ」
「おや。それなら責任を取るべきだろうね。…この先は先生ではなく朝尊と。」
懇願するような声色と共に優しい夜が始まった。
まだ、何も深く知らないけれど。
この人の隣でなら、知ってみたいと思った。