鴨居百の百物語 夏代秋市朗との邂逅 思えば、俺が四季会に引きずり込まれたのは五年前のこの時期だった。
ホストの黒服のバイトしてたら突然ガサが入って、サツに見つかる前にと死に物狂いで従業員名簿と就労契約書をカバンに詰めて逃げた。
金庫に金しか入れない不用心な店長のお陰で書類が突っ込まれている引き出しは俺でも触れたし、フロアでサツと店長が言い合っている僅かな時間さえあれば充分だった。
バイト先のバックにヤクザがついてる事はとっくに気付いていたし、親と縁を切った家無しプー太郎だったから、とにかく生きなければと必死になっていた。サツに掴まれば今までやって来たヤクザの下請けバイトが明るみに出る。前科者になるよりも、ヤクザの報復が恐ろしかった。
前の店長はヤクザに連れて行かれたのだ。俺たち雇われの下っ端の目の前で裸に剥かれて唇が無くなるくらいボコボコに殴られて、「お前らこうなりたいか?」って聞かれた。
この書類には俺含めあそこで働かされていた人間の情報が載っている。サツがこの書類を手掛かりにヤクザの根城まで辿り着けば、俺は前の店長どころじゃない報復を受けるだろう。
痛いのは嫌だった。
死ぬことは、不思議と怖くなかったけど。
十一月の夜道は死ぬほど寒くて、バイト着のカッターシャツ一枚じゃ生きた心地かしなかった。鼻の頭がシャーベットみたいにキンキン凍っていく気がして、でも足を止めたらピストルのリロード音がすぐ背後から聞こえて来るような気がして、俺は腰に巻いた薄っぺらいギャルソンをバタバタ絡ませながら喉から血が出るまで走った。
どれくらい走ったか、気付いたら知らない公園の水飲み場で血混ざりのゲロを吐いていた。なんか痛いのか喉が渇いたのか分からなくなって、吐いては水を飲んでまた薄いゲロを吐くというセルフ拷問みたいな事をしていた。
アドレナリンが鎮火する頃には身体中の水分が全部抜けたみたいで、唯一の荷物であるカバンを抱き締めながら公園の硬い芝にひっくり返っていた。切り干し大根ってこんな気持ちなんだ...と考えるくらい、精神は落ち着き始めていた。若しくは、限界に近かった。
「......よう、大丈夫?」
キーーン、と細い耳鳴りがする中で聞こえた幻聴を頼りに視線をうろつかせると、知らない男が隣に座っていた。
男は高そうな(相場はよくわからないが、なんか高そうに見えた)スーツを着ているのに、俺の顔を覗き込む様に地面に臀をつけて座っている。
暗くて、顔はよく見えない。
胡座をかいているがそれでも分かるくらい長い脚で、ほんのりゲロの匂いがする俺とは対照的にいい匂いをしていた。
男はキュンと唇の端を持ち上げて笑う。暗い中で白い歯が見えた。
「どっから逃げてきたの、ぼく」
「......ライター、を」
「ライター?」
迷子に語りかけるような、優しい声だった。つられて俺は迷子みたいにか細い声で男と話す。
「ライター、貸してくれませんか」
「......火遊びならやめときな、ぼく。火傷するよ」
「もや、燃やしたい、これ」
「ン......。貸しな、お兄さんがやってやろう」
「これ、ここに、紙...ゲホ、ごれ......!」
男にカバンを差し出す。仰向けになったまま両手で掴んでいたカバンは、全身全霊の力を込めても俺の胸から三センチくらいしか浮かなかった。男はカバンを受け取り、中を漁って「コレ?」と紙の束を取り出した。
それ!!と叫びたかったけど、頷く気力も無くて、俺はぐったり目を閉じた。
男はペラペラと名簿を捲って「あー!」と声を弾ませる。
「あー!お前『エト』の下っ端の下っ端の下っ端から逃げてきたのかァ」
「.........ゔ」
「一般人にしては色々知り過ぎたんだな、お前」
「ぅ、うう」
「ハハ、残念。お兄さんもソッチの世界の人でした」
「ゔっ、ゔ〜〜」
「アハハ。泣くな泣くな〜」
死刑宣告をされた。
目の前の男もヤクザだった。
俺は血ゲボを吐きながら寒空の下ここまで逃げてきたというのに、結局ヤクザに捕まってしまった訳だ。
そりゃ涙くらい出る。
目を開ける事もできず、俺はチミチミ泣いた。しゃくりあげる度に舌の付け根から血の匂いがした。
「ま、及第点だな。度胸だけは本職並ってとこで」
「ひっ、ひっ...」
「よし。お兄さんが拾ってあげよう」
「う、ゔぁぁ〜〜」
「おい何で泣く、助けてやろうって言ってんの!」
「ごべ、ごべんなさい〜」
「あーあーきちゃない......暗ェし拭くに拭けねえだろ、もーー」
あ、俺殺されるんだ。
拾うとか助けるとか、これルビで「解体」「死の救済」とか書かれるやつだ。
俺は正常な判断ができない脳味噌でとりあえず命乞いをしたが、なんか全く聞いて貰えてない感じで余計泣けてきた。
俺どうやって殺されるのかな。
バラバラに解剖されて、海外に売り飛ばされるのかな。
火あぶりは嫌だな、痛そうだし。でも今寒くて死にそうだから温まって丁度いいのかも......。
そんな事を考えていると、気のせいか暖かくなって来た気がする。目を閉じているけどなんか明るいし。
明るい?
不思議に思って、俺はやっと目を開ける。
「ほうら、明るくなったろう...ってな」
つまみ上げられた名簿が、めらめら燃えている。
その名簿一枚あれば、ヤクザは名簿に載っている人間をストーキングして何十万と搾り取ることが出来る。若しくは何でもやらせる奴隷にだって。なのに、目の前のヤクザの男は、見ず知らずの金無し宿無し威厳無し野郎の俺の言う事を聞いて名簿を燃やしてくれた。
炎のまろい光に当てられて男の顔がハッキリと見えた。
顔に傷跡のある、怖い目をしたヤクザだ。微笑んでいるけれどびっくりするくらい親近感の湧かない笑顔。本物のヤクザってこんな感じで笑うんだ、と思った。
今まで見てきたヤクザの中で一番怖い顔をしていたけど、俺は、緊張と恐怖でゆらゆらしていた心が「ストン」と落ち着いたような気がした。
男は燃える書類を地面に下ろし、それを火種にしてカバンに火をつけた。書類以外になんにも入っていなかったから別に燃やされても構わない。大きくなった炎は、じんわり暖かかった。俺がひっくり返っているすぐ横で燃やされたから温まるより炙られてる感じがしたけど、間近で炎を見ていると「あぁ、逃げきれたんだ」と思えた。
正確には、ヤクザから逃れて別のヤクザに捕まったのだけれど。
「ガキみたいな顔してるな。いくつ?」
「...十七です...」
「嘘だろ、本当にガキじゃん」
「み、身分証とかありません......」
「まァ調べりゃ分かンだろ。名前は」
「鴨居百です...」
「カモイモモ、呼び辛。名前の五分の三がモじゃん」
「カモって呼ばれてて......仕事できないと『鴨鍋にすんぞ』って脅されてました...」
「そういや腹減ったな。おし、モモちゃんお兄さんと鍋食いに行こっか〜」
「たすけて......たすけてください......」
「だから助けてやるんだって。ほら立った立った」
男、お兄さんはチミチミ泣く俺の首根っこを掴んで引き起こした。
なんとか立てたが、二人立って並ぶとお兄さんは見上げるくらい背が高くて思わず「ビルだ...」と呟いた。
「ビル?あー、ビールも飲みたくなって来た」
「あ、あの、お兄さん...」
「はい、お兄さんです」
「ァ怖......」
「ハハ。カシロでいいよ」
「か、カシロさ...ま」
「様つけられるくらいならお兄さん呼びがいいな」
「カシロさん」
「ハハ。俺怖がられてる?」
「イエその、ハイ...」
「嘘つけない奴だな、モモちゃん」
カシロさんはニコニコ笑っている。怖っ...。申し訳ないけど本当に怖い。
ニコニコ笑ったまま俺の顔をハンカチで拭いてるもんだから、余計に怖い。手つきも優しく拭うってより犬を拭く感じのやつで、なんかモチャモチャ揉まれてるからどさくさに紛れて鼻とかもがれるんじゃないかとハラハラした。
「とりあえず、俺ら『夏』がモモちゃんを悪ーいヤクザから匿ってやろうね」
「え?」
「まァ悪い奴しか居ないけど、善人の寄せ集めよりはまだ生きやすいだろ。見た感じまだまだ一般人の水で息してるな、早いとこコッチの水に慣れた方がいいし...とりあえず上に話通して『暦』に引き継ぐか」
「えっ、なんですか、何ですか夏って」
「あらら。流石にそこまでは知らないか」
カシロさんは、俺の顔を片手で掴んだ。鼻と口を一気に塞がれた驚きと恐怖で心臓が飛び上がり、寒さで皮膚の感覚なんかとうに無いのに変な汗が背中を流れる感覚がした。
素手で触られて初めて分かったことがある。
これは俺の本能的な勘だけど、なんにも確証なんて無いけれど。
この人はきっと、素手でも人を殺せるんだ。
そう思った。
カシロさんは俺の目を見て、凶悪な微笑みを深めた。
「ようこそ、『四季会』へ。長生きしろよ」
五年前の真冬の出来事。
俺はこうして裏社会の金字塔、四季会に引き摺り込まれた。
正式に構成員になる際に書かされた書類に、当時どんな抗争でもかすり傷一つ負わないと噂のステゴロ殺し屋に血判を捺させた事により一悶着あったが......またそれは別の話。
如何せん五年も前の話なのだ。
今となっては、遠く小さい過去の思い出。
四季会 所属『夏 - 爆竹』 夏代秋市朗 身元引受け人
四季会 所属『夏 - 群蝶』 朝凪愛出 証人
四季会 所属『暦』 鴨居百