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    ぐれ☔︎

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    ぐれ☔︎

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    7月24日発行予定の新刊サンプルです
    プロ御×和傘職人倉/文庫サイズ200P程/全年齢
    現在作成中の為、ページ数、価格等未定で申し訳ございません
    ⚠️御幸の記憶が曖昧
     名前ありモブが出ます

    .

    休日には雨やどりを 懐かしい夢をみた。
     いや、懐かしい、というのも違うかもしれない。
     ぱたり、ぱたりと大粒の雨が頭上の透明なビニールをたたく音、霞む景色、じっとりと肌にまとわりつく空気、濡れた肩先。やけに雨音は響くのに、隣を歩くひとの声は聞こえない。その顔も、三十センチと離れていないのに、空と同じようにぼんやりと滲んでいる。身長差で少し下にある顔が笑っているのか、怒っているのかさえわからない。けれど不思議と不安は感じなかった。きっとよく知っている相手なんだろう。それに、軽く腕を伸ばして傘を差し掛けてくれているひとに、悪意などある筈がなかった。
     目を眇めても、肝心なところにピントが合わない。もどかしさに、片手を伸ばしたところで——ふつりとその映像は途切れた。

    ◾️

     バシャリ。避けきれなかった水溜りの跳ね返りを受けて、スニーカーはおろかジーンズの膝下までがまだらに染まる。服装にはそれほどこだわりはない。けれど、いやだからこそ、貴重な気に入りの品が汚れるのはいただけない。思わずこぼれた舌打ちが雨音に紛れる。
     頭上に掲げた手などまったく無意味だ。ついさっきまでは薄曇りの散策日和だったのに、容赦なく雨粒がぶつかってくる。足元にはきっちりと石畳が敷かれていて、足を踏み出す度に跳ねるのが、泥水でないのだけが救いだった。眼鏡のレンズを伝う水滴が、視界を面白おかしくかき混ぜてくる。この状態で探し物をするのは諦めるしかない。ひとまず、大きく迫り出した軒下に駆け込んだ。
    「ったく、何だってんだ」
     長い梅雨の真っ只中。気温は低くないけれど、身につけているものが濡れてしまえば容赦なく体温は奪われる。タクシー移動だからと横着して、傘を持たなかったのを悔やむも、今更どうにもならない。肩に張り付く布地の不快感に眉を顰めた。
     今日はなんだかついていない。日課のランニングを終えて、朝食準備の最中にけたたましく鳴り響いた呼び出し音は、今思えばまるで警報みたいだった。
     渋々通話ボタンを押して聞こえてきたのは、思わず端末を耳から離すほどの大声。勢いよくまくし立てる相手に相槌を打っているうちに、目玉焼きは隅が焦げてしまった。呼び出しを結局は断りきれず、貴重なオフをつぶす羽目になったのだ。
     もそもそと焦げ目をさけて朝食をとり、ニュースを眺め、鏡の前で適当に髪を撫でつけたタイミングで再び着信が入る。表示は一時間前と同じく『カワタさん』。最近少し腹が出てきたと嘆くベテラン投手は、思い立ったら少しもじっとしていられないタイプだ。投手にはそういう人間が多いのか、単に俺の周りがそうなだけか。
    「おーい、御幸ぃ」
     後部座席の窓から悪びれずに手を振るカワタさんに、苦笑しながら車に乗り込んだ。俺が球団の世話になって、もう十年近い。カワタさんとも同じだけのつきあいだ。こうしてこちらの都合もお構いなしに呼び出すような面もあるけれど、含んだところのない付き合いやすい人間ではある。一軍に上がった当初なんかは、随分と気にかけてもらった。そんな人を無碍にするわけにもいかない。
     いつもの家族自慢を聞きながら、タクシーの車窓を眺めてどれくらい経っただろうか。二人して降り立ったのは、どこか古めかしい街並みだった。
    「へえ、こんなところあったんですね」
    「いい雰囲気だろ。小さいけど城下町っぽくてさ」
    「で? 目的は決まってるんですか」
    「いや。ここなら何かあるだろと思ってよ」
    「つまり、行き当たりばったりなんですね」
     そんな風に慣れた気安さで言葉を交わしているうちに、目敏い人間に気付かれてちょっとした騒ぎになってしまった。近くで何やら催しがあったらしい。平日の割に人出が多かったのも良くなかった。しばらくは営業用の笑みを浮かべていたもののキリがなく、アイコンタクトを交わして方々に逃げ出した先で、このスコールのような雨。
     ——もう今日はおとなしく家にいるべきだろう。
     内心ぼやきながら見上げた軒下からは、ぼたぼたと大きくなった滴が、止め処なく地面へ落下している。雨はあまり好きじゃない。とっくに治った筈の古傷が疼くような不快感と、霞む視界。ドームならまだいいけれど、屋根がない球場だってある。
     睨んでいても変わらない景色にため息を吐いて、眼鏡をシャツの裾で拭った。その布も濡れているのだから、気休め程度の効果しかない。前髪から滴り落ちる粒で、また視界が遮られた。全てが白くけぶって見える。大通りから一本奥に入ったせいか、人通りはぐんと少ない。その人達もこの急な雨で、他人に構っている余裕はなさそうだ。みんな一様に足早に歩いていく。
     つーか、どこだよここ。水気を含んで鬱陶しい前髪をかき上げながら、辺りを見渡した。人を避けて適当に走ったせいで、さっきカワタさんといた場所さえ曖昧だ。いっそこのまま帰ってしまいたいけれど、便利な通信機器があるせいでそれも叶わない。
     尻ポケットからスマホを取り出そうとしたところで、盛大にくしゃみが飛び出してしまった。束の間の休養が終われば、また試合漬けの毎日なのだ。こんな事で体調を崩すわけにはいかない。さっさと連絡をとって用件を済ませてしまおう。濡れた指で何度か画面を叩いていると、カラカラと軽い音が背後から聞こえた。
     音にひかれるように顔を上げる。避難していた軒下の引き戸が開いたのだ。勝手に拝借している手前、詫びを入れなければならないだろう。考えるより先に口が開いた。
    「あ、すみません勝手に。少し雨がおさまるまでお邪魔しても——」
     言葉が尻すぼみになる。扉の内側の相手は、目を丸くしてこちらを見ていた。俺より十センチくらい背の低い男。年はそう変わらないように見える。短い前髪と眉毛の下で、驚いた猫のような瞳が見上げてくる。
    「あの?」
    「……ああ、すみません。突然だったので」
     男は何度かゆっくりと目を瞬かせた後、視線を落としてやや掠れた声を出した。雨音に紛れてなんとか耳に届いたそれは、どこか不自然な抑揚をもっていた。テレビで見る顔だとでも気付かれたんだろうか。でもさっきの騒ぎみたいに、こちらにずかずかと踏み込んでくる気配はない。男の視線はさっと俺の濡れネズミになっている全身を辿った。タイミングが良いのか悪いのか、またひとつくしゃみが口をついて出る。
    「随分降られましたね。今の時期は多いですから」
     幾分落ち着いたように聞こえる男の声に安堵して、警戒心を抱かせないよう表情を緩めてみせた。お前の作り笑い、腹立つ、なんて同僚からは評判の顔。扉を開けてすぐに、体格の良い男がつっ立っていたらそりゃ驚くだろう。そっと相手を観察しながら、少しの違和感を納得させる。
    「うっかり傘を置いてきて、参りました。ここ、少しお借りしても大丈夫ですか」
     再度願いを口にして、肩をすくめながら空を見やる。雨粒の勢いは一向に衰える気配を見せない。返事のない男に視線を戻して、思わずひょいと眉が上がった。表情ばかり気になっていたけれど、着物を身に纏っていたのだ。結婚式だとか、格式ばった場所でもない限り、街中ではそう見かけない。けれどこの辺りの古民家、と言っていいのか、深く時を重ねた景観にはしっくりと馴染んでいた。
    「……構いませんよ、どうぞ」
     銀鼠色の袖がひらりと揺れて、引き戸が大きく開かれる。男は身体を横にずらした。どうやら中に入れということらしい。
    「えっ、ここで十分ですって」
     慌てて手を振ると、苦笑まじりの返答があった。
    「そこに居られる方が気になります。仮にも客商売ですし」
     男は建物の内から腰の高さくらいの黒い板を引っ張り出して、扉の側に立て掛けた。彼の背中に隠れて内容は見えないけれど、おそらく看板だろう。とっさに避難した先は、民家ではなく店先だったらしい。そう言われてしまえば固辞するのも難しく、そうっと店内に足を踏み入れた。
    「お邪魔しま、す」
     和紙のランプシェードがいくつも吊り下げられて、建物の中をやわらかく照らしている。一歩踏み込んだところでぐるりと見渡すと、灰色の外とはまるで別世界だった。色とりどりのまあるい花がいくつも咲いている。円の中心に向かって骨が何本も走っていて、その間にはぴんと和紙が張られている。
    「へぇ……和傘、ってやつか?」
     壁面に並んだ様々な色や模様を物珍しく眺めていると、奥に引っ込んでいた男がタオルを差し出してくれた。傘を背景に、白いそれがやけに浮かび上がって見える。
    「あ、スミマセン」
     土間を見れば、俺から滴り落ちた水で模様ができてしまっている。慌てて受け取り、さっと身体を拭った。随分と手触りの良いタオルだ。ついでに眼鏡も拭わせてもらって、頭にタオルを乗せる。すっきりとした視界に、一段と鮮やかになった色が飛び込んできた。
     俺にとっても傘は身近な存在だ。でも今まで手にしたものは、布やビニール製のものばかりだった。形は似ていても、別物のように思えてしまう。
    「珍しい、ですか」
     入り口に立ったまま、近づくでもなく眺めていると、背後から声が掛かった。店内には俺と、俺を招き入れた男しかいない。時折風にあおられた雨粒が扉を叩くだけで、とても静かだった。さっき看板を出していたから、開店したばかりなんだろう。
    「実物は初めて見たかもしれないです」
    「馴染みないですよね、ふつう」
     男が眉を寄せて笑ってみせた。そうするときつい印象の目元がほどけて、どこか近寄りがたい雰囲気が少しやわらぐ。やはりさっきは警戒されていたんだろう。
    「これって、普通に雨の日に使えるんですか? なんか舞台とか時代劇とかのイメージだけど」
    「ああ、いくつか種類があって。舞台用の舞傘とかは濡れると駄目ですね。この辺りのものは油が引いてありますから、雨傘としてご使用いただけます」
    「へえ……」
     指し示された藍色の傘をじっと見ると、確かに艶々としていて表面に膜が張られているようだった。油を塗れば紙でも水を弾くのか。どれくらいもつんだろう。目で細かな骨を辿っていくと、ふと小さなプレートが目に入った。黒に金字の数字が並んでいる。俺が普段使っている傘より、一桁、二桁ゼロが多い。思わず目を瞬かせた。野球で飯を食うようになってもう随分経つとはいえ、どうにも金銭感覚がなかなかアップデートされない俺には、ふらりと訪れた先で簡単に財布を開ける額ではなかった。うっかり伸ばそうとしていた手が引っ込む。
     あまりに正直な動作に、しまった、と男を横目でうかがう。彼は特に気にしたような素振りも見せずに、穏やかに告げた。
    「通り雨でしょうから、止むまでどうぞご自由に」
     横長の木製椅子を勧めて、くるりと背を向ける。濃紺の帯が僅かに揺れて、おそらく作業スペースがあるのだろう、店の奥へと歩いて行く。
    「ありがとう、ございます」
     静かな空間にひとり残されて、改めて店内を見回した。高価なものを扱っているのに、随分と他人に対して寛容なひとだ。寛容というより、あまり関心がないのかもしれない。行く先々で騒がれる事に嫌でも慣れてしまった俺にとってはありがたいけれど、些か無用心ではないだろうか。他人事ながら気になってしまう。
     やけに天井が高くて、立派な梁が何本も見える。壁に目を向ければ、ギャラリーのようになっている手前側には、等間隔に様々な色柄の傘が並んでいる。無地のものもあれば、白がぐるりと円を描いていたり、勢いよく線が躍っていたりもする。低い位置の梁にはランプと競うように、華やかな模様のひと回り小振りの傘が吊り下げられていた。これが舞傘ってやつだろうか。
     ふらりと店内を一周してから、すすめられた椅子に腰を落ち着けた。入り口のすりガラスからは、さっきよりも僅かに明るく見える光がもれている。雨音は相変わらずだ。
    「……あ、忘れてた」
     尻に硬い感触がして、スマホの存在と、ここに逃げ込む前に行動を共にしていた顔をようやく思い出す。光を点した画面には、数回の着信とメッセージが入っていた。ちらりと店の奥をうかがうと、男の姿は見えないが気配はあった。
    「すみません、少し通話してもいいですか」
    「どうぞ。あ、もし他の来客があったらご遠慮ください」
     衝立の陰から、投げるような返事が届いた。初めの印象とは違って、少し高めのよく通る声だった。
     若干声を潜めたとはいえ、静かな店内では筒抜けだったかもしれない。なにせカワタさんの声は大きい。通話を終えて、やれやれと息を吐いた。カワタさんは上手いこと近くのカフェに逃げ込んだらしい。贈り物を探すという今日の目的を果たせていないから、雨が上がったらまた合流しないといけない。この時間に目ぼしい店を探しておけよ、と言われたものの、初めて訪れた街で皆目見当などつかなかった。
     大体どうしてそんな用事に俺を付き合わせるのか。他にいくらでも流行に詳しい人間がいるだろうに、と小さく抗議すると、どうやら該当する人物は昨夜羽目を外して、未だに寝こけているらしい。歳の割に若く見られる事の多いカワタさんは、呆れるほどの酒豪だ。まあ、雨の中カフェまで走ってこいと言われなかっただけマシか。
     時間つぶしにはなるかと、手元の画面にタクシー内で話していたこの街の名前を入力する。そうするだけで瞬時に情報が溢れるのだから怖いくらいだ。検索上位のサイトを表示させて、ついついと指先で画面をスクロールする。
     いくつもの写真が流れていく中、ぱっと色鮮やかな傘が現れた。もしかして、と今まさに俺が腰を落ち着けている店内と見比べると、傘の模様は違えど、店の内装は完全に一致していた。へえ、結構大々的に紹介されてんだ。
     この店のサイトではなく、街全体を紹介した記事だ。他にも喫茶店や蕎麦屋、革製品の店なんかも取り上げられている。一通りページを流し見てから、また上へと戻った。『shelter』という店名らしい。和傘とは何だかミスマッチのように思えるけれど、紹介文によれば現代的なデザインも積極的に取り入れているらしい。そんな姿勢と、古い木の黒々とした様を存分に活かした店構えには合っているんだろうか。
    「あの、」
     雨音をBGM代わりに、ついつい記事を読みふけっていると、頭上から声が降ってきた。気付けば手元に影もかかっている。慌てて顔を上げた。
    「はい?」
     二人しかいない店内で、声を掛けてきた相手は当然彼だった。ふわりと白い湯気が漂って、湯飲みが差し出される。
    「ありがとう、いただきます」
    「自分のついでですから」
     中身をずっと啜ると、ほうじ茶だろうか、染み入るように腹がじわりとあたたかくなる。思わず、ほうっ、と長く息を吐いた。思っているよりも身体が冷えていたらしい。ほとんどひと息に飲み干してしまった。
     俺が店に飛び込んでから、どれくらい経ったんだろう。体感的には十五分くらいだろうか。すりガラスの外を見やる男の横顔をそっとうかがう。淡い光に照らされて、すっきりとしたラインが浮かび上がっている。ずいぶん親切にしてくれているけれど、あまり居座っては迷惑だろう。
    「通り雨かと思ったんですが、なかなか止みそうにないですね。よければ、どうぞ」
     頭からタオルを外すと、彼がそれを受け取って、代わりのようにシンプルな墨色の傘を差し出された。
    「え?」
    「店名入りの貸出し品ですけど」
    「そんな、悪いですって。なかなか返しに来れないと思うし」
    「ああ、気にしないでください。貴方みたいな人が持ってくれたら、宣伝になるかな、って。返すのはまた近くにお越しになるような事があればで構いませんよ」
     そう言って男は人好きのする笑みを浮かべた。何故だか懐かしい、と感じる笑みだった。普段からそうしていればいいのに、なんて思ったところで、この男の普段なんて知らないのに気がついた。
    「でも、」
    「お連れの方がお待ちなんでしょう」
    「まぁ、そうなんですが……」
     通話は静かな店内に響いていたから、いやでも耳に入ったんだろう。
    「試合、がんばってくださいね」
     受け取りあぐねている俺の言葉を遮るように、そう告げられた。こちらに興味がない、と思っていたのにどうやら気付かれてはいたらしい。それでも嫌な感じはしなくて、気付けば差し出された傘を受け取っていた。
     少々コツがいるらしい開き方から、保管方法まで。簡単に説明を受けて店を出る。雨は少し小降りになっただろうか。
     ほんのひとときの休息に、不思議と心が凪いでいた。

     ぱらん、ぽろん、という和紙に落ちる雨の音は、まるで楽器を奏でているみたいだ。カワタさんがいるというカフェに向かいながら、ついつい頭上を見上げてしまう。墨色の傘は、内側からだと水滴がほとんど見えない。雨足が強まると途端に音色も弾んで、憂鬱な気分を拭ってくれた。
     傘ってどこかに置き去りにしてしまいがちだから、気をつけないと。まあ、これだけ存在感があれば大丈夫か。手にした傘をくるりと回しながら、そんな事を思う。
     竹と紙でできているのに、意外としっかり重さもある。彼は宣伝代わりと言ったけれど、店名は持ち手に記されているだけだ。ただ持って歩いているだけでは、あまり意味がないような気がする。地味な色合いのものを渡してくれたのも、俺があまり注目を集めたくないのを察してだったりするんだろうか。交わした言葉は多くなかったけれど、きっとやさしい人間なんだろう。もう少しだけ、あの空間にいたかったかもしれない。
     珍しい事もあるもんだ、と他人事のように思いながら、傘とスニーカーで水滴を跳ね上げつつ石畳を歩く。五分もしないうちに十字路に洒落たカフェを見つけた。通りから覗くと、テラス席の奥を陣取っていたカワタさんが、立派な傘を背負って現れた俺に目を丸くしてみせた。あ、その表情さっきも見たな、とぼんやり考えているうちに、スマホを構えて写真を撮られる。
    「なんなんですか、いきなり」
    「どうしたんだよ、それ。やけに洒落てんじゃねえか。買ったのか?」
    「借りただけですって」
     教わった通りにゆっくりと閉じた傘を、持ち手を下にして立て掛ける。店先に用意されている細長いビニール袋には収まりきらないだろう。テラス席でよかった。
    「借りた、ってお前まーた女落としてきたのか。さっき群がってた中のひとりか? えぇ? どうなんだ」
     にやにやと眺めてくるカワタさんに苦笑を返す。悪い人ではないけれど、こうしたちょっかいは遠慮したい。
    「違いますって。そんなしょっちゅう口説き落としてるみたいに言わないでくださいよ。人聞き悪い」
     カワタさんの前に置かれたカップには、紅茶にレモンでも入れたのか、明るいオレンジ色の液体が注がれていた。そういえばコーヒーが苦手だったか、といつしか知った情報を引っ張り出す。椅子をひいて腰を下ろし、店員を呼び止めて適当にブレンドを注文した。
     テラスの屋根はテント生地のようで、さっきの傘とは違ってボン、ボボンと太鼓にも似た鈍い音がしている。そういえばカワタさんの他にも、コーヒーが苦手だった男が身近にいたような気がするのに、はっきりとは思い出せなかった。不安定な空模様のせいだろうか、今日はなんだか思考が霞む。
    「それ結構値段するんだろ、ほいほい貸してくれるようなもんじゃねえよ」
     ゴマの乗った薄焼きクッキーをかじりながらのカワタさんの言葉に、傘の先をつついてみる。水滴をきれいに弾いたそれは、艶々と光って誇らしげだ。
    「やっぱり、そうですよね。さっき雨やどりさせてもらった店で借りたんですけど。色々よくしてもらって……って男の人ですからね」
     なんだ、とカワタさんは下世話な興味を失ったようだ。代わりにまじまじと傘を眺めている。
    「へえ、綺麗なもんだな」
    「俺も初めて使いましたけど、これ差してみると雨音もおもしろいんですよ」
     カワタさんは指先をぺろりと舐めて、ふうんとひとつ頷いた。いつの間にかクッキーの小皿は空っぽになっていて、描かれた緑のツタだけが皿の上を飾っている。湯気を立てたブレンドが届いたが、どうやらゆっくり味わう時間はなさそうだ。
    「これ、いいかもしれねえな」
    「はい?」
    「おい、御幸。ここの店案内しろや、近いんだろ」
     瞬きをひとつ。カワタさんの目的を察知して、思わず不満の声をあげた。
    「ええ……カワタさん、ひとりで行ってくださいよ。俺さっき出てきたばっかなんですよ」
    「恩人なんだろ、客連れてきたって言えばいいじゃねえか。あ、その前に服屋な。着替えにTシャツくらいなら買ってやんよ」
    「どうしたんですか、やけにやさしい……って、いたた」
     カワタさんに引っ張られた耳たぶをさすりながら、出会ったばかりの男の顔を思い浮かべた。確かに随分とよくしてもらったのに、何の礼も出来ずに出てきてしまったのだ。別に気にしていないかもしれないけれど、客を紹介したら喜んでくれるだろうか。会ったばかりの人間にそんな事を思う。
     ほんの少し話しただけだというのに、どうやらするりと懐に入り込まれてしまったらしい。本当に珍しい事もあるものだ。

    ◾️

    「こんにちはー」
    「いらっしゃいま、せ……」
     カラリとすりガラス付きの扉を開くと、入り口横にあの男が佇んでいた。展示の入れ替えをしていたようで、ぽっかりと空いたスペースの前でうぐいす色の傘を手にしている。俺の顔を見とめると、思案気に寄っていた眉がひょいと上がった。どうやら覚えてくれているらしい。
    「約束通り、コレ、返しに来ました」
     右手に持った二本の傘を掲げてみせると、男は眩しいものでも見るように目を細めた。夏本番といった容赦のない照りつけが、表の白っぽい石畳に反射して、余計に明るく感じるのだ。店内に足を踏み入れ、引き戸を閉める。天辺は過ぎたものの太陽がまだまだ元気な時間帯だからだろうか、路上には猫の子一匹見あたらなかった。少し歩いただけでも首筋を汗が伝う。
    「すみません、わざわざ。かえって申し訳なかったですね」
     男は手にしていた傘を展示スペースに置くと、身体ごとこちらに向き直った。その顔は以前よりも日焼けしていて、大きな白目が際立っている。ずっと室内にこもって作業をしているだけでもないらしい。
    「いや、助かりました。おかげで先輩の用事もすぐに済んだし」
    「奥様への贈り物、でしたっけ。日傘、喜んでいただけましたか」
    「先輩上機嫌でしたし。ばっちりです」
    「それは、よかった」
     男が薄く笑った。どうしたんだろう。カワタさんと連れ立ってこの店を訪れた時は、もっと溌剌とした表情を浮かべていたのに。今は俺が最初に雨から逃げ込んだ時のような、なんというか、曖昧さを感じる。
    「今日は着物じゃないんですね」
     場をつなぐために、目に入った男の服装を口にした。作務衣というやつだろうか。紺の上下に、足元は雪駄だった。
    「ああ……あれは、取材用で」
    「取材?」
    「時々あるんです。町おこしに力入れてるらしくて、会報とか。何かと世話になってると断りづらくて」
    「わかります。俺も何かと逃げ回ってるんで」
     心の底から同意すると、ふっと男の口元がゆるんだ。
    「貴方はそうもいかないでしょう」
    「はは、野球だけしてたいんだけど」
     借りていた傘を渡して確認を促すと「丁寧に扱ってくださったんですね」と軽く開きながら、男がまた目を細めた。その表情が癖なんだろうか。もっと快活な様も似合うのに。袖からすらりと伸びた腕には綺麗に筋肉がついていて、職人というよりはスポーツ選手のような印象だからかもしれない。
    「くらもち、さん」
     そっと名前を口にのせると、広げた傘を回していた男の動きがびくりと止まった。恐る恐る、といったぎこちない動きで視線が俺をとらえる。まるで人馴れしていない野良猫のようだ。
    「……あ、すみません。さっき言ってた取材のひとつかな。お店の場所調べようとしたらサイトにお名前載ってたので」
     店の紹介と共に、写真と短いインタビューも掲載されていたのだ。そんなに見かけない苗字だからか、なんとなく頭に残っていた。馴れ馴れしかっただろうかと慌てて弁明すると、男は探るような視線をふいっと逸らした。あまり人付き合いは得意な方じゃない。自身の発言を省みて、これでは不審人物のようだと冷や汗を流す。
    「ああ、そうでしたか」
    「年も一緒なんですよ。なんか勝手に嬉しくて。本当、スミマセン」
    「人たらしなんすね、意外と」
     じっとこちらを見ていた男——倉持が、眉尻を下げながらくしゃりと表情をくずした。距離が少し縮まったようで、内心ほっと息をつく。
     野球関係者以外で自分から積極的に話し掛けたのは、一体いつ以来だろう。まだ三回目の訪問、そのうち二回は同じ日だ。顔を合わせたのはほんの僅かな時間、文字で知り得た情報の方が多いくらいなのに、どこか気になってしまう。あまり周りにいないタイプだからだろうか。はっきりとした理由はわからないけれど、繋がりを持ちたいという思いは確かに存在していて、己に素直に行動した結果がこれだ。
     滅多にないからこそ、こうした直感は信じるべきだと思っている。
    「えっと、ここ倉持さんのお店なんですよね」
    「場所はお借りしているんです。伝統を守るためって、色々支援してもらってのことですよ」
     古い街並みの所々に、リノベーションというのだろうか、上手く手を入れて若い世代
    が出店しているらしい。ネットの紹介記事の中でもそれらしい事が書いてあった。
    「この前も先輩と少しだけ作業見せてもらいましたけど、誰にでもできるような事じゃないでしょ」
    「やる気と根気だと思いますけどね……御幸、さんは苦手ですか。こういう作業」
     遠慮がちに名前を呼ばれる。前回の去り際にそっと応援された事で、職業を把握されているとは思っていた。が、あらためて名前を呼ばれると少々気恥ずかしく、そして嬉しかった。
    「細かいのはどうも性に合わなくて。御幸、でいいですよタメなんだし」
    「そういう訳には」
    「敬語って話しづらくないです? なんかこう、口がこわばって」
     片手で自分の顎をつかんでみせる。学生の頃はどうやって友達をつくっていたんだっけ。少なくとも、『友達になろう』だなんて声をかけた記憶はなかった。数少ない同年代の友人は、大抵が野球つながりだ。友人と言うよりも、同志やライバルと言った方がしっくりくるかもしれない。気の置けない仲間で大事な関係だけれど、たまに、ほんの少しだけ、他の関わりが欲しくなる。距離を置いて自分の野球を眺めたい時なんかに。
    「倉持さん、なんか初めて会ったって感じがしなくて。古い知り合いみたいな。なんだろう、この店の雰囲気のせいかな」
    「……それは、光栄、です?」
    「ふはっ」
     悩んだ末に途切れた言葉と、妙に跳ね上がった語尾に思わずふきだしてしまった。心外だとばかりに倉持が見上げてくる。つるりとした目に黒目が泳いで、三白眼が際立った。背は俺より頭半分低いけれど、眉をしかめられると結構な迫力がある。丁寧な物言いの時はもちろん表情も気を使っていたのだろうが、こっちの方がやっぱり何だかしっくりくる。
    「だいたい、まだ客でもないし」
    「まだ、って?」
    「これだ! っての見つけてちゃんと買いたいと思ってて。邪魔しないように気を付けるから、また作業みせてくださ……くんない?」
     軽く腕を組んだ倉持は、不可解だとばかりに器用に片眉だけをあげた。きっと表情豊かな人間なんだろう。
    「駄目?」
    「……見るだけなら別に構わない、けど。そんなおもしろいもんでもないだろ」
     俺のくだけた言葉に、同じように返してくれたのが嬉しい。こういうの久々だな、と自然と笑みが浮かんだ。倉持には申し訳ないけど、丁寧な言葉遣いはあまり似合っていないような気がする。短くて吊り上がった眉の印象が強いせいだろうか。
    「んーおもしろいっつうか、落ち着く、かも」
    「はあ。変なやつ」
     溜息を吐いた倉持が視線を手元の傘へと向ける。俺が返した傘を閉じて、入れ替え途中だったらしいうぐいす色の傘を飾る。この色も悪くないな、と眺めていると裏手から軽やかな声がした。
    「ただいま戻りましたー」
     黒のエプロンをつけた女性が入ってくる。俺と目が合うと慌ててぺこりと頭を下げ、肩で切り揃えられた柔らかそうな髪が揺れた。どうやらここの店員らしい。高校、いや大学生くらいだろうか。前回は倉持一人だけだったけれど、店番も作業も、となるとひとりでは難しいんだろう。
    「あー……こいつ、客じゃねぇらしいから」
     倉持は彼女に向かってひらひらと片手をふる。自分で言い出した事だから否定はできない。けれど順応が早過ぎないだろうか。苦笑いを浮かべてみせると、不思議そうに首を傾げられた。お構いなしに倉持は彼女へいくつか指示を与えて、作業場へと足を向ける。その後ろ姿を目で追っていると、そこにいると邪魔だから、と同行を許された。
    「言っとくけど、ずっと同じ作業だからな」
    「普段通りでいいって。あがっていいの?」
    「どうせすぐに帰る気ねぇんだろうが」
     渋々といった声がする。「お邪魔します」と、呟いて倉持の気が変わってしまう前にと慌てて後に続いた。丁度俺の膝くらいの高さだろうか、土間より高めに設けられた作業場には畳が敷かれている。今住んでいるマンションには和室がないから、畳の感触は久しぶりだ。上がり込むとふわりと草のような香りがする。もしかすると畳じゃなくて、そこかしこにある骨組みのにおいなのかもしれなかった。
     カワタさんと訪れた時には、和紙を染める作業を少しだけ見学させてもらった。今日は何だろう。いくつかの道具を揃えて、どっかり胡座をかいた倉持の手元をそわそわと見つめる。ちらりと一瞬こちらの様子をうかがった後、倉持は開いた傘と向き合った。視線がすっと鋭くなって、表情が引き締まる。あ、いま他の事思考の外に追い出したな。もちろん、俺のことも。
     位置を何度も調整して、やがて骨張った手が黙々と動き始める。何やら細い糸を引き出している。傘に、糸? と行方を追っていると、倉持は器具に固定した骨組みに手を伸ばした。指先が細かく揺れ動く。どうやら糸を傘の骨にひたすら通しているようだ。そういえば俺が借りた傘にも、頭上に紫の細かな模様があった気がする。
     あれ、糸だったのか。洋傘よりも骨の数は数倍多い。その一本一本に糸を潜らせていくのは、気の遠くなるような作業だ。節の目立つ指を器用に動かして糸を編む横顔は、真剣そのもの。口を挟むのは憚られて、そっと眺めた。慣れた作業なんだろう。少しも淀む事なく、手と骨組みの間を糸が生き物のように流れていく。
     知らず知らずのうちに自分まで息をつめていたのに気付いて、邪魔しないようそっと吐き出した。倉持は背中を丸めて前傾姿勢になっている。体勢が辛くないのかと気になり出した頃。すべての骨に糸を通し終わったのか、傘を持ち上げてくるりと回した。出来栄えを確認しているのか、獲物を狙っているようなするどい視線だ。その先には濃い藤色の和紙を背景に、美しく糸が交差していた。円形の中に細かく規則的な模様が張り巡らされたさまは、蜘蛛の巣を思わせる。近くで見ていたのに、まったく手順がわからない複雑な模様。
     納得のいく仕上がりだったのか、倉持はこくりとひとつ頷いた。作業がひと段落したのかと思えば、迷わず違う色の糸を手に取って、重ねるようにまた編んでいく。作務衣の袖が捲れてのぞく二の腕が、やけにしっかりと硬そうだ。
     今日は雨音もない。ただただ静かだった。さっきの店員だろう、ほうきを使う微かな音と、遠くに蝉の声がする。ひっきりなしに動く指先と、集中しているせいか瞬きの少ない目。その中で対象を追って動き回る瞳を見ているだけなのに、ひどく心が躍った。
     球場で対戦相手の動きを予測する時とは、別の種類の高揚感。工芸品に興味を持つだなんて、自分自身でも意外だった。やってみたいのかというと、また違う。
    「御幸さん、さぁ。練習とかねーの」
     くぐらせる糸の色が変わること、三回。今度こそひとつの作業が終わったらしい。どれくらいの時間が過ぎたのだろう。腕を頭上へ持ち上げて、ぐっと伸びをした倉持が俺の方へと顔を向けた。緊張状態から解放された瞳からは鋭さが消えて、その反動か少しぼんやりしているようにも見える。
    「御幸でいいって。午前練しっかり出たし、ちょっと涼しくなったら自主練行くよ。休憩も大事な仕事」
    「そーかよ」
    「また見に来てもいい? 邪魔してなければ、だけど」
    「変わってんなぁ……まあ、好きにすれば。気分転換にでもなんなら」
     目を丸くした俺に、倉持は背中を向けて立ち上がる。次の傘に移るようだ。
     どうやら、少々不調だったのを知られていたらしい。野球中継か、スポーツニュースでも見ているんだろうか。しっかりと筋肉のついた手足を見るに、やっぱり以前は何かスポーツをしていたのかもしれない。
    「そんなに顔に出てるつもりはなかったんだけどな」
     ぺたりと無駄に頬を触ってみる。いつもの、皮が厚いと言われる顔だ。
    「……態度に出てんだよ」
    「えぇ。そうか?」
    「普段と違うもん見たくなったんだろ。ま、無理するこたねぇよ。御幸さんがちゃんと構えてたらついてくるって」
    「そういうもん?」
    「そーいうもん」
     なかなか思い通りにいかない連携に焦りを覚えていたのは確かだった。倉持が言うように、まったく違う世界に触れて、思考をリセットしたかったのかもしれない。
     倉持がしたように、ぐっと上がっていた肩の力を抜いた。


    (後略)
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