名前を言ってはいけない ドラケンは柄にもなく動揺していた。実家に呼ばれ、女たちの飲み会に誘われたのはいい。ファッションヘルスがあるビルの五階に去年できた呑み屋は完全個室。安いうえに設備がいいし、飯も洒落ていて、酒も各種そろっていると飲み会の定番になっている。これは彼女たちにとって息抜きなのだ。イヌピーが誘われるのも、いつものことだ。ただでうまい飯が食えるし酒も飲めるとイヌピーも喜んでいた節もある。しかし、いつもは隣の席を死守しているのに、今日は引き離されたのだ。
「ま、たまには、オレとサシで飲むのもいいだろ」
「正道さぁん」
「許せ。あいつらもいろいろ鬱憤たまってんだよ」
女たちがイヌピーを構いたがっていたのは知っていたが、まさか正道さんまで使うとは。
ドラケンから引き離され、女たちに囲まれたイヌピーは「イヌピー、恋バナしようよ」と言われて、さらに困っている。バイク屋に来るヤンキーどもには鉄拳をくらわすイヌピーだが、女には甘いところがある。そして。
「彼女はいない」
イヌピーは正直者だった。知った顔の女ばかりということもあるだろう。
「えー。イヌピー、彼女いないのォ」
「彼女はいねーけど、いっしょに暮しているやつはいる」
イヌピーは正直者だった。
さすがに名前は言わなかったが、ココのことだろう。梵天の最高幹部。
それ、言っちゃいけないやつじゃないかな、とドラケンは思った。酒で酔って、忘れたということにしよう。ビールを煽る。
「え。いつから?」
「けっこー前」
「でも彼女じゃないの?」
「オレ、実家おいだされて、それで一緒に暮らしはじめたっていうか」
ヘルスの女たちは複雑な事情を抱える者も多い。「あるある」「わたしもオトコのマンションに居候したわ」などなどイヌピーの言葉に頷いている。
「彼女じゃないってことは、告白してないってこと? そのままはよくないと思うな~」
「そうなのか」
「イヌピーに言われるのぜったい待ってるって」
なにせ飲み会の恋バナである。誰も本気にしていないし、軽口だが、イヌピーは真摯に受け止めているようだ。「どうすればいい?」と相談する始末である。こうなると女たちも身を乗り出す。
「おい、イヌピー」
「まぁまぁ、イヌピーの恋路を応援しようぜ」
さすがにドラケンも腰をあげようとしたが、正道に引き留められる。イヌピーの恋は応援したいけど、相手がまずいんだって。しかしうっかり名前を出すわけにもいかない。ドラケンの実家はファッションヘルスだ。梵天とつながっているわけではないが、夜商売のつねとしてまったくの無縁というわけではない。ドラケンが躊躇しているあいだに、イヌピーが「告白……したほうがいいか?」と女たちに訊ねる。女たちはぜんいん首を縦に振った。
「そりゃそうだよ。待ってるよ。てか、今まで待たせたんなら、結婚しようくらい言ってもいいと思う」
「そう、か」
「早い方がいいって。今しちゃいなよ。ウチらも応援してるし」
ぜったい面白がってるだけだろう。しかしイヌピーは正直者で、女に弱く甘かった。テーブルに放置されていたイヌピーのスマホが差し出される。ほらほら、と促されるまま、イヌピーはスマホを受け取った。
「正道さん……」
「ん、なんだ。真剣な顔して」
「これから起こることは他言無用で」
「え、なに? なにが起こるって?」
ドラケンは腹を据えた。なんでも来い。ウォッカを煽り、顔を叩く。気合を入れた。
一方のイヌピーだが、ワンコールで相手につながったようだ。
「ココ、結婚しよう」
イヌピーのドストレート豪直球に、ビルが揺れた。ほんとうに、物理的に、ビルが揺れたのだ。
それまでイヌピーの告白に興味津々だった女たちが「え、なに? 地震?」と慌てふためいている。
揺れのは発信源は上か。つまりビルの屋上。ドラケンは冷静だった。
「おちつけ、ビルの屋上にヘリが止まっただけだ」
「は? ヘリ?」
「正道さん、さっきも言ったけど、これから起こることは他言」
むよう、を言う前に、完全個室の飲み屋のドアが開いた。
「ココ」
梵天の最高幹部が息を切らせて、立っていた。さすがにこの展開は予想していなかったのだろう。めずらしくココの髪が乱れている。
「イヌピー、そういうことはもうちょっと段階を経て言ってよ、さすがのオレもびっくりだよ」
「駄目か」
「駄目じゃないから迎えに来たんだろ」
「迎え? 今からどこかに行くのか?」
「イヌピーが言ったんだろ。結婚しようって。日本じゃ結婚できないないからな。どこに行くかは今から考えるから、とりあえずヘリに乗って」
「わかった」
わかっちゃうのかよ。
しかしドラケンにはこの展開は予測出来ていた。
「お土産頼むわ。どうせ新婚旅行すんだろ。一か月後には絶対もどってこいよ」
「わかった」
一か月かよ、と渋い顔をしているココは無視することにした。イヌピーは義理堅いし、ココはイヌピーに甘いから、なんとかなるだろ。ちなみにプラス一週間は誤差とする。オレも甘いなとドラケンが反省するなか、イヌピーと、その伴侶になる予定の反社は手を取り合って出て行った。そのあとをぞろぞろと護衛がついていく。バカップルに巻き込まれ、あいつらもご苦労様だな。
彼らが個室から去ってしまうと、残されたのはドラケンとヘルスの女たちと正道だ。
「え、どういうこと。あのひとがイヌピーの彼女?」
「つーか彼氏な」
「わたし、あの人、知ってるかも。梵天の」
「言うな言うな。ぜったい言うなよ」
「つーか、イヌピーの電話から秒できたよね、あの人。イヌピー、結婚しようしか言ってないよね。場所もなにも言ってなかったよね」
「……イヌピーのスマホにGPS入ってんだろ」
「GPSって飲み屋の部屋までわかんの?」
「……」
「……オイ、ドラケン。なんか言えよ」
女どもに詰め寄られ、ドラケンは切れた。黙ってられなくなったともいう。
「たぶん、あいつ、このビルのオーナーなったんじゃねーの」
「え?」
「たぶん、あいつ、イヌピーが立ち寄る可能性のあるところ、ぜんぶ買い取ってんだと思う」
「は?」
「たぶん、あいつ、イヌピーを二十四時間監視してる。そうじゃねぇと理屈が合わねぇ」
「……」
「イヌピーはガキの頃からあいつといっしょにいるから、もう麻痺してんだよ」
「…………」
ドラケンを含め、その場にいる誰もが黙った。店の女たちは梵天のことをなんとなく理解している。詳しくは知らずとも、触れてはいけないと肌で感じ取っている。その最高幹部がイヌピーの彼氏、いやあと数時間で夫になるのか。
ちなみにドラケンが頑なにココの名前を出さないのは、盗聴されている可能性を配慮してのことだ。ほぼ盗聴されていると確信しているが。ココも暇ではない。というか忙しいはずだ。イヌピーの発言以外はスルーしているだろうが、万が一を考えて言わないことにしている。
そんなドラケンの態度に女たちも思うところはあったのだろう。今日はベテランの女たちばかりでよかった。新人がいなくてよかった。
「イヌピーのダンナすげぇな。自家用ヘリってこと?」
「まじ金持ってんじゃん。さっすがぁ!」
「一か月の新婚旅行すごくない? お土産にシャネルたのんどけばよかったぁ」
「えー。シャネルダサくない? いまならさぁ……」
満場一致で「イヌピーのダンナはすごい」ということで済ませることにした。あとは忘れることにした。このビルが梵天の持ちビルであるらしいことも忘れる。この飲み屋が梵天の支配下にあるだろうことも忘れる。それがこの世界を生きるコツである。
ちなみにイヌピーが帰ってきたのは二か月後だった。
「ごめん。なんかカレンダーがなくて、日にちの感覚がわかんなくなってたら、遅くなった」
「帰ってきただけいいとするか」
ドラケンもたいがいイヌピーに甘い。お土産を披露されながら、ドラケンは苦笑した。
「つーか、店にこんなにはいんねぇよ。いや、まじで」