瞼が重い。まだ閉じていたい。
「こほっ」
吐き出される息が熱い。喉の奥が焼けるようにひりつく。
体がだるい。寝ていたいと思うのに、あちこちが痛くて、少しずつ意識が覚醒する。
「?」
音がする。匂いもする。顔を戸の方へ向けると、襖の隙間から灯りが漏れている。
営業が終わってから倦怠感を訴える体を叱咤して着替えた。そして、なだれるように布団に潜った。
あちらの電気はつけていないはずだった。
すると、すっと戸が開いた。
「治、起きてんのか」
「え、きたさん…?」
「体調はどうや?」
「…なんで…こほっ」
ここにいる、という問いは咳に阻まれた。
「あんま良くなさそうやな。おかゆ作っとるけど、食えるか?」
「…はい」
そう言って北が寝室に入ってきて、治のそばにしゃがみ込み、おでこに手の平をあてた。
「まだ熱いな。…どしたん?」
愛しい人の顔を見て、心が緩んだ。目に込み上げまでくるものがある。
「…っいえ。北さん、ここおったら風邪移してしまう」
「俺のことは気にせんでええから。今おかゆ持ってくるな。卵と梅干し、どっちがええ?」
「…両方」
「ふふ。わかった」
台所から届く調理の音に幸せを感じる。北には早く帰ってもらった方がいいと思いつつ、風邪で弱ってる心には離れがたく、つい甘えてしまった。
両方だなんて。自分は本当に食いしん坊なのだな。
北が鍋敷とお椀を持って来て布団のそばに置いてから再び寝室を出る。そしてまた戻ってきた時には、鍋掴みをつけた両手で湯気が立ち上りくつくつと音がする小鍋を持って来た。それを鍋敷の上に置いて、お椀によそってくれた。
今度、お盆を買おうかなと思った。
「すんません、作ってもらっちゃって」
北がスプーンでお椀の中をかき混ぜながら、ふぅ、ふぅ、と息を吹きかけている。
「ええって。体起こせるか?」
「ん…」
身体がだるい。歪めた顔を見て、北が背中を支えてくれた。
「はい。食えるか?」
「…あーん、して」
「ふふっお前…ここぞとばかりに甘えてきよるな。はい、あーん」
卵の旨味、梅干しの酸味がぼーとする頭や曖昧な味覚にも「美味しい」を届けてくれた。
「うま」
「よかった。はい、次。あーん」
大好きな人が自分のために作ってくれる飯って、本当に美味しい。
北はお椀が空になるまで食べさせてくれた。
再び布団に横になり、北がお椀を洗ってる音を聞きながらどうしようか考える。
重たい体を叱咤して何とか布団から出て襖を開けると「トイレ?」と聞かれた。
「はい。あと、下行って明日の仕込み確認せんと」
「え?明日?」
「?そうですけど…。明日1日頑張れば、その次の日は定休日なんで」
「…ほうか。とりあえずトイレ行ってき」
緩慢な動きで用を足してトイレを出ると北に「ちょっと」と呼ばれた。
「はい?」
「ここ座って」
「ん」
「…お前の店やから、余計なことはほんまは言いたないんやけど、」
「?」
「お前のその体調で作ったおにぎりは、本当に「おにぎり宮のおにぎり」か?」
「…」
「お客さんに体調隠しながら作ったおにぎりって、ほんまにお前が美味しいって思うおにぎりか?」
「…でも、バイト君もおるし」
「せやな。でもそのバイトくんは宮治ちゃうやろ?」
「…はい」
「宮治の真似をして作ることはできるかもしれんけど、例えば、そのバイト君が握ったおにぎりが、はじめての「おにぎり宮のおにぎり」のお客さんもおるかもしれんよな?」
「はい」
「それ考えた上で、明日どうするか決めた方がええと思うで」
「…はい」
「もし本当に明日営業するんなら、仕込みは教えてもらったら俺が見に行くから」
情けない。情けない。
自分の店なのに。自分が看板なのに。その自分が体調不良で臨時休店するなんて。そんな自分が情けなくて、許せない。
「はい、これ飲んで。水分大事やからな」
経口補水液をコップに注いで渡してくれた。きっとここに来る途中で買ってきてくれたのだろう。
「ちょっと布団に横になって考えます」
「ん。それがええ」
フラつきながらも立ち上がった瞬間、涙がこぼれてしまった。
「治?」
店の営業が終わって片付けながら通話した北との電話の中で「体調がいまいち」とは伝えた。
自分が布団に倒れ込んでる間に、夜にも関わらず北は駆けつけてきてくれたのだ。
そして飲み物を買って、おかゆを作って。
大切にしてもらってるな、と思う。
自分を大切にしてくれてる人が作った大切なお米を、大切なお客さんに満足いくもので提供できるだろうか。
がんばることはできると思う。
でも、万が一風邪をお客さんに移してしまったら。バイトくんに移してしまったら。ミスをしたら。もっと情けない。
自分が無理をしてでもがんばるところは、今じゃない。もっと大事な燥ぐときがあるだろう。
「北さん」
「ん?」
「明日…休みます」
「そうか」
「…ちょっと下行ってきます。貼り紙、せんと」
「俺やろうか?」
「いえ。ここは、ちゃんと俺がやります」
「そうか。無理せんとな」
《店主風邪のため、◯月◯日は臨時休業いたします。ご来店くださったお客様、申し訳ありません。
この貼り紙を見たと言っていただければ、次回来店時に小鉢をサービスさせていただきます》
「よし」
暖簾を下ろした店の戸にセロハンテープで貼り付けた。
本当に申し訳ないと思う。だから少しでも誠意を見せたかった。
「できたか?」
「はい」
戻ってきて治はすぐに布団に入った。
するとすぐ北が側に来た。
「明日の朝田んぼに出てまうから。一応おかゆ多めに作っておくわ」
「え、泊まっていかはるんですか?」
「おん。ソファ借りるで」
「そんなん、北さん疲れ取れませんよ」
「俺がいたくているんやから、ええって」
目の奥がじわりと沁みる気がした。
「お前はもう寝とき」
少し汗ばむ治の額に手を当て、そのまま頭をするすると撫でる北の手。この心地よさに無意識に瞼が落ち、眠りについた。
◇
「体調はどうや?」
翌日夕方になって、北がまた来てくれた。
「昨日よりは全然。それよか洗濯物、干してくれたんですね」
「そんくらいしかできんけどな」
感謝を伝えた治は、まだ布団に横になっていた。調子が昨日より良いのは嘘じゃない。でもまだ、少し熱とだるさが残っていた。
日中起きた時は北が作り置きしてくれてタッパーに移されたおかゆを鍋で温めて食べた。
昨夜、あーんを強請った自分を思い出して恥ずかしくなったが、風邪のときくらい甘えても良いだろうと割り切った。
「それより治、これ」
体を起こして布団に座る。
「なん?何か買うてきてくれたんですか?」
「ちゃう。はい」
そう言って手渡されたのは、折り紙だった。
「?」
不思議に思い折り目を開いてみると、拙い字で文字が書かれていた。
「『てんちょおさん はやく よくなってね』…」
「これも、店の戸の前に置いてあった」
北がビニール袋から出してきたのは、スポーツドリンク、のど飴、ミネラルウォーター、ビタミンCのサプリなどなど。
「みんなに、愛されとるなぁ」
堪える間もなく、目からぼたぼたと涙が溢れた。鼻水も止まらない。
「こっちはばあちゃんから」
紙袋を覗くとトマトときゅうりに、茹でられてラップに包まれたとうもろこし、カットされてタッパーに入ったスイカだった。
「みんな待っとるで。早く、治さんとな」
北がティッシュを手渡してくれた。
「…あい」
もらったものや残りのおかゆで早めの夕食を一緒にとった。
「今度、お礼させてください」
「俺に?ええって、別に。…あぁ、でも、せやな。お礼して」
「何がええですか?」
「お前のおにぎり食いたい」
「え?おにぎりでええんですか?それいつも食うてるじゃないですか」
「そ。そのいつも、がええねん。いつものお前のいつものおにぎりがいっちゃん美味しいねん」
「…もぉ!泣いてまうやないですか」
「泣いたらええよ」
鼻を啜りながら誤魔化すように残りの口の中におかゆを掻き込んだ。
ソファに横になりながら、北が台所で洗い物をしてる後ろ姿を見る。
「…ええなあ」
「治、」
「は、はい!」
「風呂入ったか?」
「まだ、ちょっと体怠くて」
「ほな、タオル温っためて拭こか?」
「え、いや、そんなことまでしてもらうのは…」
「ええからええから。シャワー浴びへんのやったら拭こ」
布団行っとき、と促され寝室に入り下着だけの姿になる。ぶるっと寒気がして布団の上に座り薄手のタオルケットをかぶる。
すると温めたであろうタオルの端を摘み、ぱさぱさと振りながら北が寝室に来た。
「ちょぉ、熱なった」
治のすぐ横に座り腕を取った。脇から腕をすっと拭かれると、先程まで気にしていなかった汗のベタつきが拭われてすっきりした。
「気持ちええ…」
「ふふ。よかった」
少しずつ移動しながら、背中、首周り、反対の腕を北が治の肌に触れ暖かいタオルで丁寧に拭いていく。
正面に来て、胸元、腹部を拭かれるときには、この場で出すべきではない欲情が沸きそうになった。
「はぁ…」
「治、」
嗜めるような声色と細められた目。でも口角はにやりと上がっていた。
「治るまでは、あかんよ」
続けて足の指の間、足の裏、ふくらはぎを通り、腿の裏側を拭いていく。パンツに手をかけた北を咄嗟に止めた。
「そこは、さすがに」
「あかん?」
「あかん。自分でやる」
「さよか」
北が「ほなお前の着替え出してるわ」と言ってタオルを渡されて、北が収納ケースに向かっている間に自分で下着の中を拭いた。
こんなところ拭かれたら、我慢できる自信がなかった。
北にタオルを渡して新しい下着と着替えを受け取り、重い体をなんとか動かして着替えた。
大して広くもない部屋だ。洗面所からしゃばしゃば、という音が聞こえる。もしかすると先程のタオルを手洗いしてくれているのかもしれない。
「…好きや」
一人の寝室でぽつりと呟いた。
治のわがままを北は受け入れてくれて、最初だけ同じ布団に入ってくれた。
「俺ね、双子やないですか」
「おん」
向かい合って抱きしめる。北の頭部からシャンプーのいい匂いと彼自身の匂いがして、癒された。
「でね、どっちかが風邪ひいたら治った頃にもう片方が風邪ひくんですよ」
「あぁ」
「やからね、風邪ひいたほうは、親と一緒の寝室に寝るんですよ。だから、俺も侑も小さい頃はそれを、ラッキーって思とって」
「へえ」
「風邪ひいてるほうは甘えられるし、ひいてない方は子供部屋を一人で過ごせる」
「なるほど」
「でもね、結局片方に風邪が移るから、治りかけるともう子供部屋に移って、甘えられんのですよ」
「…」
「だから、こうやって片割れもおらんくて北さんに甘えられんの、すごくええなって思いました」
「それで遠慮なく甘えてきたんか」
「ふふ」
「まぁ、風邪ひいてる時くらいいくらでも甘えたらええよ」
「やった」
北をより一層強く抱きしめて、頭に頬をすりすりと擦りつけた。
「でも、ちゃんと治すこと第一やで」
「はい」
長く話したせいか、心地よい疲れが睡魔を呼び寄せた。瞼が落ちてくる。
「あとね、」
「ん?」
「早く、北さんと…一緒に、住みたいなって…」
「…」
「そしたら、北さんが風邪ひいても、甘やかせるなって…」
「…うん」
「思うてん…」
すぅ、と寝息を立てて寝てしまったので、そのあと北が「せやな」と言って額にキスしたのを治は気づかなかった。
◇
『今日は大丈夫やった?』
「おかげさまで体調もばっちりで、お客さんもいつも通り来てくれました」
『それはよかったな。小鉢はみんな食べてくれたんか?』
「それがね、」
店内で食べるお客さんもテイクアウトのお客さんも「体調は大丈夫か」と労ってくれた。
すんません、と言って小鉢を持ってくる旨を伝えると、みんな一様に「いらん」と言ったのだ。
「もちろん、食べてくれはるお客さんもおったんですけどね。みんないらんて。しかもね、」
『うん?』
「いつもより気持ち、客単価、高かってん」
『おぉ』
「なんや、お客さんに気ぃ使わせてしまいました」
『おにぎり宮の店長は、お客さんが気ぃ使いたくなる人なんやな』
「…」
『それくらい愛されてるっちゅうことやし、これからも頑張りやっちゅう励ましなんやろ』
「…期待に応えられるように頑張ります」
『ふふ、せやな。俺も、そんなおにぎりに負けず劣らずの米作り続けられるように頑張るわ。あとは…』
「はい?」
『お前との家も考えないとな』
「い、家?!」
『お前が言うたんやで。忘れたんか?』
「…思い出して、きました」
『甘やかしてくれんやろ?』
「はい、それはなんぼでも。なんなら今でも」
『ふはっ楽しみにしとる。まずはお前のおにぎりやな』
「次の納品の後、食べる時間あります?」
『おん。したら、夜行くわ。んでそのままお前んち泊らせて』
「…はい」
続けて発注する米の量の確認など2、3やりとりをして電話を切った。
本当にいろんな人に愛されてるなと思う。だから、どうしたらそれを返していけるかを考えていた。
でも、今の北とのやりとりではっきりした。
自分はおにぎり屋だから。
お客さんに愛し続けてもらえるおにぎりを作り続ける。それが、お返しになるのだと思う。
『いつもの』を続けることは決して簡単ではないと分かった。
だからこそ明日もその先もずっと、おにぎり宮の『いつもの』を作り続けるんだ。
「っし」
治は帽子を被り直し、明日の営業に向けて食材や仕込みの確認を始めた。