始祖様とはとちゃんがバーに行く話「東海道、酒が飲めるところに連れて行ってくれ」
仕事終わりに俺のところへやってきた兄さんは開口一番そう言った。不機嫌さのにじみ出る声色に、またつばめに何か言われたのかと思ったが口に出すと更に機嫌を損ねそうだったので心の内に留めておく。
「突然どうしたの?」
「酒を飲めるようになりたい。特急が宴席で茶ばかり啜っていては情けないだろう」
確かに兄さんは酒に弱かった。大陸に居た頃はまだ若かった事もあり、酒を初めて飲んだのは日本に来てからだが、少し飲んだだけですぐ真っ赤になり倒れてしまうような人だ。
俺は体質的に酒に強かったので今まで酒で嫌な思いをしたことはないが、酒に弱い人間を子供扱いし、馬鹿にする者が居るのも知っている。
正直心底どうでもいい話ではあるのだがいかんせん相手は兄さんだ。
これから先に兄さんが宴席で嫌な思いをしないように根回しすることは不可能ではないのだが、ここで俺が断ったらどうなるかも想像に難くない。
おそらく兄さんは自らその辺にある酒屋に趣き、適当な安酒を買って家で飲んで倒れるのだろう。
俺たちは人ではないのでいきなり強い酒を大量摂取したところで死ぬことはないだろうがそれではあんまりだ。というより、それで兄さんの目標である『酒が飲める』に到達出来るとは思えない。
「んー…、わかった。俺の行きつけでよければ連れていくよ」
「構わん。よろしく頼む」
こくりと頷く兄さんを見て、頼られているという実感になんだかむず痒い気持ちになった。
***
小さなビルの2階、コンクリートが打ちっぱなしの無機質な階段を登った先に現れた木製のドアには『OPEN』の札だけが吊るされている。
俺が迷いなく扉を開いて入ると、兄さんは少し緊張の面持ちで付いてきた。
「おや、お久しぶりですね」
「ああ」
俺を見るなりカウンターの向こうでグラスを拭いていたマスターが顔を上げた。こじんまりした店内には数人の客が思い思いの酒を楽しんでいる。
店の一番奥、カウンターの一番端に兄さんを座らせると、俺はその隣に腰掛けた。
「お元気そうでなによりです」
「そういうあんたは白髪が増えたな」
「人間ですからねぇ」
よく通っていたころと変わらない、いや、少しシワの増えた顔が笑う。
俺たちには縁遠い話だが、こういう人間を"いい歳の取り方をしている"というのだろう。
「今日はいかがなさいますか」
「この人に軽めのを作って欲しい。なるべく甘くて飲みやすいものを。俺も同じものを頼む」
「かしこまりました」
物珍しそうに店内をキョロキョロ見回していた兄さんが「え」という顔でこちらを見上げる。
「東海道。ここにお品書きはないのか」
「あるにはあるけど…任せたほうが兄さんに飲みやすいの作ってもらえるから」
「1杯いくらかかるんだ?」
「金額気にしたことないからちょっとわからないかな…」
兄さんの頭にはわかりやすく疑問符が浮いている。
確かにいきなりバーに連れてきたのは少し上級者すぎたかもしれないが、今の兄さんには酒に対する苦手意識を減らして、酒が飲めたという成功体験をさせるべきだ。
「おまたせしました」
そうこうしている内に橙色の液体が注がれたグラスが2つ運ばれてきた。
次いで、小皿に盛られたナッツと氷水が兄さんの前の置かれる。
「これは水か?」
「そう。酒飲むと脱水状態になりやすいから同じ分だけ飲んでね」
「わかった」
そう言うと兄さんは神妙な面持ちでグラスを傾ける。大きな氷がカラリと軽い音を鳴らした。
兄さんは少量を口に含んだあと、何かに気がついたように目をぱちくりさせながら小さく「あまい」とつぶやく。
「東海道、これは本当に酒なのか?」
「勿論。軽くしてもらってるけど間違いなくアルコールは入ってるよ」
「しかし、とても甘くてジュースのようだ。」
「おいしい?」
「おいしいが…」
おそらく兄さんにとって酒というのは苦かったり辛かったりするものだったのだろう。困惑しながら再びグラスに口をつけた兄さんは、はっと思い出したように水を飲んだ。
兄さんがひとり静かに味わっている間に俺も同じものを飲む。ここのマスターの腕は信用しているが、兄さんが一杯飲みきって問題ないか確かめるためだ。
うん、まぁ問題ないだろう。俺からすれば酒を飲んでいる気分にもなれないが兄さんには丁度いいように思える。
「二杯目いかがです?」
兄さんより先にグラスを空にした俺にマスターが声をかけてきた。
「じゃあ俺が好きそうなウイスキーを適当に…水割りで」
そういうとマスターはあからさまに珍しい。という顔をした後、酒を作り始めた。確かにここでウイスキーを飲む時はストレートかロックが多かったがそんな顔しなくてもいいだろうに。
「お前はよくこういった店に来るのか」
「最近はあまり来てないけど昔はそこそこ通ってたよ」
そこそことはよく言ったものだ。毎日のように飲み歩いていた時代もなくはない。飲まないとやっていられなかったというのもある。
では逆にいつから酒浸りではなくなったかと考えると、それは間違いなく兄さんが現れてからだ。
「ふむ……」
「兄さんこういう雰囲気苦手?嫌だったらすぐ言ってね」
「いや、酒を飲む場所というのは騒がしいものという印象があったがここは落ち着いていて良い。みな酒を味わい、堪能しているのだな」
「よかった」
心底胸をなでおろす。俺の行きつけで限りなく客層が良く、静かに飲める店を選んだのだ。お陰で兄さんもずいぶん緊張が解けてきた様子でもある。
もしかしたら若干酔いが回ってきているのかもしれないが、これくらいならまだ許容範囲だろう。
兄さんは自分のペースでゆっくりと、ときにバーテンと軽い会話をしながらグラス一杯のカクテルを飲み干した。
店を出た後、兄さんの足取りはしっかりしていて体調も悪くなさそうだ。
「お酒飲めたね」
「これを飲めたと言っていいものかやはり疑問ではあるな…」
「これから少しずつ強めにしていけばいいんだよ」
「わかった、その時はまた頼む。あの店はよい場所ではあったが私ひとりでは少し入りにくい」
「うん。兄さんもお酒飲めるようになりたいからって無理して強いの飲んだら駄目だからね」
「そんなことはしない」
本当かなあ…と心の中で思いつつ、また兄さんと飲みに行けると思うとそんな些細な事は気にならなかった。
後日再び同じバーに一人で訪れると、マスターに「あんなに楽しそうにお酒を飲む貴方を見たのは初めてですよ」と至極楽しそうに言われてしまった。
自分がどんな顔をしていたかなんて想像したくはない。妙な気恥ずかしさを覚えて、またしばらくこの店に来るのは控えようかと思ったが兄さんが来たいと言ってきたら連れてこなければならないのを思い出した。
「その話、ボトル入れるから忘れてくれ」