午睡 夏から秋へ──季節は移って暫し、開け放した窓から麗かな陽光と共に緩く爽やかな風が部屋に吹き込む。ほんの少し開けた廊下へ出る障子の隙間を通り道に、その風は何か微かな秋草の香りを運び、それと同時に手許でふわりと匂い立つのは、磨りたての墨の芳しい匂いだった。
文机に向かって阿国が丁寧に磨った墨は艶々と黒く、穂先を浸して紙面に運べば、筆先は淀みなくさらりと滑って気持ちがいい。阿国は密やかな鼻歌混じりに、帳面に筆を走らせた。
興行での収入、生活での支出、こまめに出納を管理するために阿国は日頃から帳簿をつけている。特定の座に属さず旅芸人を始めた頃からの習慣だ。といっても余りに長期間の帳簿を持ち続けても旅の荷物になるから、年単位でまとめて写し替える用の一冊と、現行の一冊のみに留めている。
帳簿の隣に並ぶ平型の硯箱は、背後で眠る七緒と共に選んで、最近新調した一品だ。
店で見つけた時、黒漆に萩と水紋で遊ぶ千鳥が描かれた素朴なこれを、可愛い、とほとんど使わないはずの彼女の方が先に気に入ってしまった。しかし阿国にはいまいち趣味ではなかったから少し購入には悩んだが、その彼女がはしゃぐ様はむしろ千鳥よりもよっぽど可愛らしく見えて、ついそのまま承諾してしまったのだった。
収入は大きく変わっていないのに二人分に増える支出と、少しずつ侵されていくこれまでは身の回りになかった趣味の彩り。しかし阿国はそこに不自由さは微塵も感じていない。感じるのはもう単身ではない、己の身の上の幸甚のみ。
阿国はほわりと暖かくなる気持ちに頬を緩ませ、首だけを捻って背後を見遣った。先ほどからずっと背に寄り掛かる重みは心地良い温もりだった。
上体ごと背をこちらに預け、傾いたまろい頭は愛らしいつむじを惜しげもなく阿国に晒し、華奢な肩と共にすうすうと緩やかに上下している。和やかな陽気に誘われたのだろう、いつのまにか眠ってしまっていた七緒の手には、勘定を頼んだ出納の書き付けがかろうじて握られていた。
寝顔は生憎うかがえない。だが、阿国にはその表情が手に取るように分かる。朝に夜に、いつも隣で間近に見ているからだ。
彼女の寝顔は昔の面影を残し、少し幼くてあどけない。普段は強い意志のこもった眉はまったりと弛み、吸い寄せられそうな蜜色の瞳は瞼の向こうに隠れてしまうが、代わりにくっきり半円を描いて瞬くことのない睫毛は、じっくりとその一本一本まで観察できて飽きることはない。思わずつつきたくなる柔らかさを持つ、薄ら開かれた桃色の唇も阿国は好きだった。
小さく微笑して、起こしてしまわないようゆっくりとまた体勢を戻す。そうして阿国は再び筆を構えたが、一度意識を向けた愛しい七緒の重みと体温は、先ほどよりも鮮明にじんわりと身に染みて、やがて微かな寝息につられるように、ふわふわとした微睡みが阿国にも訪れはじめた。
「──ああ…、これじゃもう…手に付かない…」
悩ましく溜息を吐いて、阿国はいっそ簿記を放棄すると、筆を置いて振り返った。そのまま七緒を抱き締め、一緒に横ばいに倒れ込む。
「ふぇ…──えっ…阿国…さん…?」
すると流石に七緒も目を覚ましてしまったが、すかさずその目に手を当てて視界を覆ってやった。
「いいよ…もうちょっとお休み。わたしも少し…あんたと一緒に休みたい…」
戸惑う七緒にゆっくり言い含めるように囁いて、阿国も目を閉じる。からっぽにした頭で感覚を広げれば、確かにこの気候は七緒を抜きにしても、ゆったりと心地が良かった。
しかし阿国の胸を真に満たすのは、いつでも彼女の存在で間違いがないのだ。日々の営みの中に、人生の中に、燦然と輝く阿国がようやく手に入れた星の光明──それが七緒だった。
阿国は思う。微睡みの中、ただ純粋にこの幸せな時を噛み締めながら、心から思う。
──君を抱えて生きられること、君を感じて生きられること──それがこんなにも、嬉しいんだ。