想いの力 阿国が風邪を引いた。
桶に張った水に布巾を浸し、固く絞る。その水温は肌を刺すように冷たい。それも当然だ。今しがた外の井戸から汲んできたばかりの井戸水なのだから。
黄昏をとうに過ぎ、陽が暮れた外では乾風が吹き、薄い障子窓をかたかたと鳴らしている。閉めているはずなのに灯明の灯りがゆらゆらと揺れるのは、この部屋にもどこからか隙間風が入ってきているからだろう。炭を焚いた室内は中々に暖まる気配がなく、七緒はもどかしく唇を噛んだ。
──せめて雪が降らなくて良かったけど…。
巡る季節は冬を迎えている。にも関わらず隙間風のあるような宿は寝具まで薄かった。逗留する客はなにも大名ではないのだから、どこも同じくそれはよくあることなのだが、病人には些か心許なかった。衣を重ねても満足に暖を与えてやれず、自らは悪くなくとも申し訳なさを感じる。
「阿国さん…」
絞った冷たい布巾を苦しげに横たわる阿国の額に乗せる。七緒の手は悴んで赤くなっていたが、同じく赤くなった阿国の頬を見れば何も気にならなかった。
阿国が不調を見せていたのは今朝からだった。七緒が目を覚ますと、いつものようにもう支度をあらかた整えていた阿国が、何やら沈思するように黙りこくっている。すぐ隣なのに七緒の起床にも気付いていないようで、訝しんで寝転んだまま軽く袖を引いてみると、ようやく気付いて笑顔を見せてくれたのだった。
──ああ、起きたの。おはよう。
気付かなかったことに対してだろう、すまなそうに眉を下げ優しく頭を撫でてくれる。しかし、七緒はやはり先ほどの様子が気になってどうかしたのかと尋ねたのだった。それに対して、阿国はしばし逡巡したようだった。だが七緒の諦めの悪さは阿国もよく知るところだろう、すぐに観念すると実は体調が少し優れない、と白状してくれた。
「でも大丈夫だよ。今日一日踊ることくらい何てことないから。踊って汗をかいて、それで夜はさっさと寝て。そしたら明日からはもういつも通りさ」
こだわりなく笑う阿国は、確かに顔色もそこまで悪くは見えなかった。不調と聞けば当然心配にはなるが、しかしだからと言って舞台に穴を空けることを、阿国はその矜持からして決して良しとしないだろうことも知っていた。七緒は阿国の言葉を信じて、その意志を尊重したのだが。
「阿国さん…!大丈夫ですかっ!?」
舞台から降りた途端、阿国はふらついた。七緒は阿国が舞っている時から彼の汗の量の多さに気が付いていた。やはり心配になって終演と同時に見物していた客側後方から急いで舞台袖に回ったのだが、案の定阿国は限界を迎えていた。平行を崩した阿国をなんとか支える。寄りかかる阿国の脇の下に肩を差し込みながら、間に合ってよかった、と思うと同時に少なからずの後悔も過る。
「…ごめん。あんたの顔見たら力が抜けたみたいだ…」
「やっぱり無理してたんですね…。宿に戻りましょう。今日はもう休まないと…」
「うん…今日の分は終わったからね…。流石に疲れたよ…」
「もう…」
どこまでも舞を中心に考える阿国に、七緒はこの時ばかりは呆れた。
世話になっている一座の者に事情を話して、明日の出番を削ってもらう。報酬が減る、と後の帰り道で阿国はぼやいたが、それは聞き流した。阿国が七緒のことをいつも優先してくれるように、七緒だって阿国を大切にしたかったのだ。
額の布巾は幾らもしないうちに温くなってしまう。こまめに絞り直しながら汗も拭い、時折首筋に手を添えて体温も確認する。
「──気持ちいい…」
何度目かに冷たい手を添えた時、ぽつりと阿国が呟いた。固く瞑られていたそのの目がゆるりと開いて、七緒は安堵する。
「…気分はどうですか?寒いとか気持ち悪いとか、ありませんか…?」
「平気だ…。…今はもう夜か」
はい、と頷いて辺りを振り返る。閉め切った部屋は外の様子を伺えないが、四隅に落ちる影や揺れる灯明の灯り、しんとした人の気配、そのどれもが寝静まろうとしている町の刻を示している。
「ずっと看病してくれていたんだろう…?君も今夜はもう休んでくれ。私ならもう大丈夫だから」
ふぅ、と一息ついて、阿国は頬に当てていた七緒の手を取る。
「この手…芯まで冷えている。いつまでも付き合っていては君まで身体を壊してしまう」
「いいえ、付き合います。阿国さんが心配なんです」
「私も君が心配だ、と言ってもか?」
「現状心配をかけている方が言わないでください。それより蜜柑食べませんか?風邪といえば果物ですよね。さっぱりしますよ」
阿国の配慮を笑顔で退け、寝ている間に調達してきた蜜柑を得意げに見せると、手厳しい、と呆れていた阿国はやれやれと苦笑した。お互い今更口にはしないが、幼い頃の思い出の一つにそれはある。
「いただこう。それを食べたらまた眠るから、そうしたら君もほどほどで休むように」
気怠そうにしつつも上体を起こそうとする阿国を支え、身体にかけていた衣の一枚をその肩に着せかけながら七緒は頷く。
「分かりました。…じゃあ、食べさせてあげますね」
「…え?」
返事も待たず、七緒は蜜柑に爪を立てる。皮を剥いて一房もぎると、阿国の口元に寄せた。あの頃はただ見守られながら食べるだけだったが、今は二人共大人になり、そして少しばかり悪知恵だってついている。
「はい、口開けてください」
「え、いや…それは…。じ、自分で食べられる」
元々赤らんでいた阿国の頬の色が更に一層深まる。
「分かってますよ。でも病人は甘やかしてあげたいんです。向こうの両親や兄さんも私が風邪を引くと甘やかしてくれました」
「それは君が子供だったからだ。…いや五月はそんなことは関係ないだろうが。とにかく私は子供ではないしっ…」
「はい、どうぞ」
恥ずかしがる阿国の唇にもう無理矢理蜜柑を押し付ける。条件反射で開いた口に放り込むと、七緒は満足感に笑んだ。
「美味しいですか?」
「……七緒…」
阿国は咀嚼しつつも恨めしげに見てくる。
「これは甘やかす、ではなく乱暴、と言わないか?」
「そんなに嫌ですか…?じゃあやめますけど…」
七緒がしょんぼりと俯くと、阿国は慌てだす。
「あ…いや、そういうことではない。ただ恥ずかしいだけで、君から与えられるものが嫌なわけないだろう」
「本当ですか?良かった。じゃあもう一粒どうぞ」
してやったり。七緒はにっこりとまた阿国の口許に蜜柑を運んだ。
「……今夜はやけに意地悪いじゃないか」
唖然としていた阿国は諦めたように溜息を吐いて、渋々といった様子で七緒の手から蜜柑を食べてくれる。確かに意地悪だ、と七緒自身も自覚していたが、普段から阿国にしてやれることなど限られているのだ。こんな時くらい過剰でも甲斐甲斐しくしたくなる。
「…私、やっぱり今日は休んでもらった方がよかったな、て反省していたんです…」
親鳥と雛鳥のように一房運んでは食べさせながら、七緒はぽつぽつとこぼす。
「阿国さんの責任感ももちろん分かるんですけど、私はそれをそのまま受け入れるんじゃなくて、阿国さんが無理しないようちゃんと進言すべきだったんです。阿国さんが体調が悪いって教えてくれたのなら尚更…」
「………」
「支えるって、ただ相手を尊重して手助けするだけじゃなくて、時には歩調を緩めさせたり、時には背中を押したり…無理がないよう見極めることが大事なんだなって、思ったんです」
「…私は君が頑張れと言ってくれれば、どこまでも頑張れるけれど?」
「だから…!それが駄目なんですってば」
差し出されるままに大人しく食べていた阿国がくす、と笑うが、七緒は撫然とする。しかし阿国はまた小さく笑って、逆に七緒の指から蜜柑を取ると、それを口に放り込んできた。反射的に噛むと、じゅわ、と甘い果汁が口内に広がった。
「私は支えに、力になる相手がいてくれるということはとても幸せなことだな、と今日思った。多少無理をしても注意深く見守ってくれて、例えそれで倒れても受け止めてくれる君がいる…。君と出会うまでは想像もしなかった未来だ」
風邪のせいだろうか、少し儚げに阿国は微笑する。
「私はずっと一人で、こんな風に誰かと…他ならぬ君と寄り添える日々が訪れるなんて望みの一つにもなかったから、本当に毎日が幸せなんだ」
伸びてきた阿国の手が、七緒の手を取って柔らかく握ってくる。いつもより熱いその掌だったが、いつもよりも更に優しい。
「君が私の隣にいる。君が私を見ていてくれる。なにより君が私を想ってくれている。君は色々私を手伝ってくれるけれど、ただ一緒にいてくれるだけで本当はもう十分なんだ」
阿国は優しい。甘過ぎる、とさえ時折思う。先程食べた蜜柑のようにじんわり胸に沁みる言葉は嬉しいが、七緒にはそれでは足りない。
「…そんなの嫌です。一緒にいるなら尚更、私はもっと阿国さんの役に…助けになりたいです。ただ背負われるだけなんて絶対に私は私を許せません」
「──うん。だから私はもっと君が好きなんだ」
「っ…──」
今高いのはどちらの体温だろうか。外の寒さなど忘れてしまうくらい阿国の想いに包まれる。この大きさに七緒はいつも敵わない。言葉を継げなくて、熱い頬を隠すように俯いてしまう。しかし、相手は病人であることを七緒は失念してはいけなかった。
「七緒…──っ」
急に咳き込む阿国にどきり、とする。慌てて顔を戻すと、丸まった阿国の背を支える。
「阿国さんっ…」
「ごめ…っ…大丈夫っ……」
「もう寝てください。話に付き合わせてごめんなさい」
阿国を再び寝かせて、七緒は阿国の口許まですっぽり被るように重ねた衣を引き上げる。それに阿国は少しもどかしそうに首を振ったが、七緒は衣で押さえつけた。
「ちょ…七緒っ」
「駄目です。早く治してもらわなきゃ」
「その前に窒息して…」
「しません」
嗜めて寝かしつける。阿国は不服そうにしていたが、やはりそこは病人だった。いくらもしないうちに微睡んでいき、やがて再び寝息を立て始める。七緒はまた額に絞った布巾を乗せながら、少し湿った髪を梳いて阿国の頭を撫でた。このまま隣に寄り添って寝てしまいたいが、阿国はそれを望まないだろう。翌朝気付いた時、風邪がうつるだろう、と眉をひそめるに決まっている。だからまた心置きなく笑い合って、お互い寄り添えるためにも元気になってほしい。それに、阿国の舞を待つ観衆のためにも。
「早く、快くなってくださいね…」
それが阿国の喜びに繋がるなら、七緒はきっとなんでもやってみせる。