私の愛する人
七種茨は乱凪砂の恋人であった。
けれどその知らせを受けたのは乱家からの通達で、事故が起きてから一日が経過していた。緊急連絡は家族のもとへ。それがこの国の法律だった。
ピッピッとバイタルの音が部屋に響く。茨はかれの指にはめられたパルスオキシメーターの、邪魔にならないように小指だけに触れていた。憔悴していた。人は極限の悲しみに見舞われたら泣けないんだな、とぼんやり思う。
凪砂はひどい状態だった。
右半身がぐちゃぐちゃになったと云う。生きているのが奇跡だった。頬の肉が裂け、右目が潰れ、頭蓋が陥没した。
包帯と保護フィルムで覆われた体。誰だかわからない。――凪砂でなければいい、と思ってしまった。長い銀髪は全て刈り取られ、あの美しい太陽の瞳は隠れている。
こえを、聞きたい。
いつものように、ただ、自分の名前を呼んで欲しかった。
***
凪砂が目覚めたのは三日後だった。乱家を経由して連絡が入る。息を切らしてたどり着いて、乱夫妻に後はよろしくお願いします、と云われた。自分を呼んでいるという。
病室に、二人だけになった。
「閣下、凪砂さん」
閉じられた左の目が開く。
「かっか」
左の手が伸びてきて、それを震えながら握った。
「いば――ら」
「ええ、ええ、茨です。閣下」
「顔――が――いたい――よ、――茨」
頬が裂けているからだろうか、たどたどしくくちを動かして、とぎれとぎれことばをうかべた。
「よく――見え――ない、な――」
「ええ、片眼ですから、仕方ありません」
「わたし――だめか、な――いばら」
「……大丈夫です、閣下、大丈夫であります」
「いばら――なか、ないで――」
「……泣いてなど、いません、閣下……閣下と、話が出来て、自分は、嬉しくて……」
凪砂の指先が茨の涙を拭って、それから、優しく頬を撫でた。いつも凪砂がする、愛情の示し方だった。
***
リハビリをすれば右半身は使えるようになるという。体を起こせるようになってから凪砂は、意欲的に訓練をこなした。茨は凪砂の病室に毎日通った。以前より顔を合わせている、そんな気がする。
Edenの活動は休止した。
凪砂の事故については伏せた。面白おかしく書かれたらたまったものではない。
「凪砂くん! 大丈夫? 痛くない?」
「うん――大丈夫――だよ――」
「これ、おひいさんとこのシェフが作ったチョコレート詰め合わせっす。……食べられます?」
「小さく作らせたからね! おくちで溶けるようにしたからね! ぼくも食べよう」
「こらおひいさん〜〜それはナギ先輩のでしょうがよ〜〜」
「ありが――とう」
日和とジュンが見舞いに来てくれた。他の面会は謝絶している。二人はいつもの調子でいてくれた。それ以上でも以下でもない話し方で、そこにいてくれる。最近のESのこと、ブラッディ・メアリのこと、ジュンがハマっている漫画のこと……。茨はなんだか嬉しかった、また戻れる気がした――それは夢のようなことだけれど。
二人が帰って、凪砂は少し眠った。疲れるのだろう、仕方がないことだ。茨はその寝顔を見届けて、部屋を後にしようとした。
「いばら――」
呼ばれた。
「なんですか、閣下」
また椅子に戻る。そうして、一つになった朱金の瞳を見つめた。
「茨――わたし、――いばらが、すき――まだ、」
凪砂は困った顔をしていった。
「すきで、いて――いい――かな」
「俺も、」
言葉が詰まった。
「……自分も、閣下をお慕いしています……ええ、ずっと……」
凪砂の右手が、震えながら茨の頰に触れた。二人で、ちいさくわらいあっていた。
***
その少年が茨と凪砂のマンションに尋ねてきたのは、たまたま茨が帰っていた時だった。
乱凪砂さんに、云われてきました、とインターホンで云う顔立ちの良い少年を、茨は訝しながらなかへ通す。このマンションを知っているのは凪砂と日和とジュンくらいだから、場所をファンが特定したとは考えづらい。――凪砂が指示したのだろうか。なんのために?
あなたの大ファンなんです、茨さん、と少年は興奮して話し始めた。短い銀髪の赤い目をした少年はうさぎみたいだった。純粋無垢な話し方をする。出会った当初の凪砂がこんな風だった、そうだ彼に連絡しなければ、そう思ったが今は寝ているかもしれない、今夜会いに行こう、そこまで考えて茨は適当に相槌を打っていた。
――Edenになれるなんて夢見たいです、と少年は云った。
「は?」
……かいつまんでまとめると、凪砂が、そういったと云う。君は今日からEdenの一員だから、茨の言うことをよく聞くように、と。
一点の曇りもない瞳で、少年は茨を見つめて、わらっていた。
「……はは、聞いてないですね、それは……」
泣きそうになるのをこらえて、茨は少年に話をする。凪砂の一存だから決定はできないこと。多分――おそらく――絶対――Edenの一員にはなれないこと。研究生でコズプロへ所属したいのなら、凪砂が迷惑をかけたのだから優遇すること。
笑顔を貼り付けて、資料を渡して、茨は少年を帰した。
凪砂に会わなければ。
こんなことをして。
なめられている。
代わりなんて。
いないのに。
あなたの。
代替は。
ない。
「……かっか……」
なんだか嫌な予感がした。茨は支度もしないまま、病院へ走った。
***
病室に、凪砂はいなかった。
看護師に伝え、病院中を探して、また部屋に帰ってくる。端末がない。端末の位置情報を取得すると、二人のマンションにある。茨はまた急いでそこまで走った。
部屋に着く。
「閣下!」
叫んでも、返事はなかった。
テーブルに、端末と紙があった。
ごめんね、とだけ書かれていた。随分震えた文字だった。通帳、財布、パスポートがない。場所を覚えていたのか――煩わしいことはしないなんていっていたのに。なんだか可笑しくなって、茨はわらってしまった。
いままで凪砂の意思を聞かずに全て決めていた。
これは凪砂の意思なのだろう。
「あんたまで――俺を、捨てるんですね……」
わらいながら、部屋の隅にずるずるとへたり込む。
部屋は静かだった。
頰に触れた。かれの手を思出だす。
茨は孤独と欠落を知ってしまった。それはきっと凪砂に出会わなければ知ることもなかった感情だ。こんな暗くて重いものを背負わなければいけないのか、と途方に暮れてしまう。
そんなのまっぴらごめんだ。
捨てられて、泣くだけの子供じゃなくなった。
茨は涙を拭って、端末を操作し始めた。
***
世界の果てで、土まみれになって、凪砂はそこに居た。
「閣下」
「……いば、ら――」
閣下は掘削道具を落として、目を見開いてこちらを見ていた。
「土まみれですね」
「……」
「こんなに汚して」
「どうし、て――」
困惑した表情を浮かべて、近づいた茨を見つめていた。
「俺の、最終兵器が、いなくなっては、困ります」
「……なにと――戦う――の」
アイドルとして、戦えないでしょう、そう凪砂は訴える。茨の野望のための、兵器だった。そういう契約で、そういう関係のはずだった。茨が困ると思っていた、こんな体になってしまって、君を縛ってしまう、君が好きだから――自分は不要だ、そう凪砂は考えていた。
「世界とです。世界と戦います。俺とあなたを引き離そうとする世界を、壊しましょう――あんた、忘れてませんか? 最終兵器である前に、俺の恋人でしょ?」
「……わたし、じゃ――だめ、でしょう」
「なにが? 確かに閣下はだめだめ閣下ですけれど。勝手に出て行って。俺を置いて。一人にして。捨てていっちゃうんですから」
「茨は――自由、だ、よ――私を――忘れて、よ」
「嫌です!」
茨は凪砂の胸ぐらを掴んだ。掴んで、叫んだ。
「あんたは一人しかいない、俺の愛する人は一人しかいない、あんたしかいない。代わりなんていないんです、乱凪砂の代わりなんて。……わかれよ、ばか、あほ、すかぽんたん」
「いばら――なか、ないで――」
「……泣いてなど……っ」
凪砂の指先が茨の涙を拭って、それから、優しく頬を撫でた。いつも凪砂がする、愛情の示し方だった。
(210127)