午前十時の幸福 いつのまにか寝ていたらしく、気がついたら洗い終わった洗濯物はすべて干し終わっていて。
昨日着ていたTシャツや、同居人の練習着や、ジーンズが、開け放たれた窓の向こうでそよぐ風に翻っている。
枕がわりにしていたクッションからゆるりと頭を持ち上げる。フローリングに直接寝ていたから体が痛い。タオルケットがわりにバスタオルが掛かっているのは、彼の仕業だろうか。
ぼんやりと、洗濯物の向こうに広がる青い空を見上げる。
そういえば、今日は気温が二十数度を越えるとか、天気予報で言っていたっけ。思いながら、目を眇める。この部屋は、方角的に午前中な直射日光は差し込まない。なのに雲一つない空はきらきらと眩しくて、目に痛い。そう思った。
腹回りはバスタオルに守られていたけれど、外気の入り込む部屋のなか、Tシャツにハーフパンツという出で立ちではやっぱり少し肌寒い。足先と手先は少し冷えてしまっていて、せめて少しでも体温を守ろうと膝を抱えた。その上に頬をのせて、まだ重たい瞼を閉じる。小さく纏まれば自分の中に僅かに残った温もりを末端まで分け合えるような気がした。後から考えたら、完全に寝惚けた人間の思考なのだけれど。
「お、研磨、起きたか」
「…起きてない」
背後から声が掛けられて、ぼそりと返す。何となく気配はしていたから、家の中の何処かにいるのだろうとは思っていた。振り返らずに答えると
「起きてんじゃん」
ぶはっ、と男はおかしそうに噴き出した。同居人で――恋人でもあるその男からぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。どこか粗っぽい手つきだけれど、それを嫌だと思ったことはない。掌が離れるその一瞬、親指の腹で慈しむように優しく撫でられることも含めて。
「クロ」
「ん?」
「……ありがと。洗濯物、干すの」
記憶が正しければ、今日の洗濯当番は自分だった筈だ。洗い終わった洗濯物がこうして干し終わっている、と言うことは寝転けている研磨の代わりに彼が干してくれたのだろう。
「…気持ち良さそうに寝てたからなぁ」
クロ、と呼ばれた男がその場に洗濯籠を置き、研磨の傍らまでやって来て腰を下ろす。ちらり、と隣に目線を向ければ、研磨と同じようにクロ――黒尾も洗濯物の向こうに広がる空を眺めていた。
再び窓の向こうへと視線を向ける。入り込む心地よい風に頬を撫でられて、ぼんやりしていた意識が少しずつ明瞭になる。
薄く軽いカーテンも風に煽られふわりと揺れた。遮光機能もない、安物のそれは簡単にはためき、翻る。
こんなにも涼しげで心地よい風が吹くのに、空は青々としているから、恐らく外はとても暑い筈だ。何せ夏に向かうこの季節、日差しは日に日に強くなる。出来れば今日は外には出たくないなと、引きこもり気質の研磨は思った。
勿論、そんなことを思っていると黒尾に知れようものなら、「こんな気候のいい時期、今しかねーんだぞ」と笑って引っ張り出されてしまうだろう。だから、言わないけれど。
そこまで考えて意識をまた傍らの、恋人へと戻す。一通りの家事を終わらせてくれたのだろう、着ているTシャツに水が跳ねた後が残っている。長い前髪で隠れて、その目元は見えないけれど、口許が優しく結ばれているから、多分機嫌は良いのだろう。
息を潜めて、手を伸ばす。
フローリングに投げ出された黒尾の掌。その上にそっと自分の指先を重ねたのは、多分ちょっとした悪戯心だ。
黒尾は一瞬、僅かに目を見張って、それから「つめてぇ」と微笑った。
「何でこんなつめてーの、お前の手」
「冷えるんだよ」
末端冷え性の研磨と違って、黒尾の掌はいつも暖かい。握られると、温もりが伝わってホッとする。
そのまま指先を絡めてみたり、掌を擽ったり、互いにしばらく他愛もない手遊びを繰り返す。そのうちに、黒尾の悪戯心に火が着いてしまったのか囚われた薬指の根本が口元へと寄せられて。あ、と思うより早く、かぷり、と甘噛みされた。
「痛い」
微笑いながら、指を引こうとするけれど、黒尾はその手を離さない。寧ろ、両方の掌で抱き込むようにして研磨の手をまるごと拘束する。
覗いた瞳は意地悪に笑っていて、あぁ、これは研磨を困らせたいのか、と知る。
甘噛みした箇所をなぞるようにペロリ、と舐められ、トクリ、と、自分の中のなにかが動いた。唇から覗く白い歯も、意地悪く這う赤い舌も。全部、自分の大好きなものだ。大好きで、大切な、同居人で幼馴染みで恋人の。
拒む理由なんて何一つない。
手首を捕まれ、引っ張り込むように研磨のからだを引き寄せる手つきはどこか乱暴で、でも研磨も文句ひとつ言わず、されるがままに黒尾の胸元に倒れ込む。
肩を抱き込むようにして落とされた口接けは、まるで噛みつかんばかりの勢いだ。唇の合間から舌を差し入れられて、口内をいいように蹂躙される。歯列をなぞり、呼吸まで奪うかのように好き勝手振る舞う侵入者。その動きに自らも応えるように、媚びるように舌を絡めれば、視界の端で黒尾の目が細められたのが見えた。ちゅっ、ちゅぱ、と水音が響いて更に、その口接けは深くなる。
まるで、支配欲を満たすようなキスだな――思いながら、それでも、それを心地よく思う自分がいる。黒尾にならいい。負けるとか勝つとか、そんなものはとっくに超越した。彼になら惜しみ無く平伏して、寝転がって腹だって見せてやれる。
離れかけた黒尾の薄い唇を緩く食む。離れていくのが一瞬だって惜しい。外気のせいで部屋の空気が冷たいから、暖かなその体温にもっと寄り添っていたくなる。
「なぁ、研磨」
名を呼ばれ――互いの唾液で濡れた唇を指先で拭いながら、黒尾を見上げる。掌が、底意地の悪い笑みを浮かべた彼にぎゅっと握られ、再び囚われた。ちゅ、と指先にまた唇が落とされる。
「暖めてやろうか」
「エロ親父じゃん」
思わず笑うと、黒尾もまた、可笑しそうに笑った。意地悪な笑みが崩れ、楽しそうな幼くも見えるそれへと変わる。なのに研磨に向かう目線はどこか熱を孕んでいて。
そのアンバランスさにゾクゾクした。
「キライじゃないだろ?」
聞かれる言葉に否定も肯定も返さない。黒尾の首に回した細い腕がなによりの答えだと、多分、黒尾も解っていた。
そのまま二人、フローリングに横たわって、また口接ける。お互いのからだを掻き抱くようにして。呼吸を奪うように舌を吸い、絡めて、擦り合わせるように互いを求める。
部屋が寒いから、外は暑いから、風が心地いいから、体温が恋しいから。気持ちがいいから、もっとキモチよくなりたいから。全部が理由で、でも、それだけでもなくて。
多分、一緒に居ることと同じだ。研磨は思った。こうする事が二人にとっては極自然なことで、そこに理由なんて必要ないのだ、と。
床は固く冷たかったけれど、多分すぐ気にならなくなるだろう。既に体は熱を持ち始めていたし、それよりももっと早く、もっと深く、互いに夢中になりたかった。
今が午前中だということも、此処が日中の何もかも鮮明に見える明るい部屋だということも全部忘れて、腕も足も絡め合って。
首筋を這う黒尾の唇の感触や、Tシャツの隙間から忍び込む指先の焦れったい動き、頬をくすぐる黒尾の髪の毛まで、全部の感覚を黒尾で満たすように。
少し固い黒髪を優しく梳く指先や、頬に触れる唇の柔らかさや、研磨の足が絡まる感触が、黒尾の心を満たすように。丁寧に睦んでいく。
外の、輝くような目映い世界よりずっと、この少し寒い、二人だけの空間が愛おしい。
ふと視界の隅に、白い月が見えて――きれいな空だな、と快感に溺れかけた思考の片隅で思う。酷く幸せで、満たされて。
「きょうは、クロの好きにしていいよ」なんて耳元で言いながら、その肩に額を押し宛てた。