入れ食い腹部に刺されたナイフを、ライノーはぼんやりと見やった。刃渡は短いようだし、筋肉で止まっている。訓練を受けていない女性の腕力だ。自分に致命傷を与えることは難しいだろう。ライノーはゆっくりと自分の腹部にナイフを刺した女に視線を移す。彼女とは知り合いだった。自分の「姫」だ。それも「太客」の「姫」。彼女が刺したナイフから手を離し、一・二歩距離をとったところで、ライノーは口を開いた。逃げないのなら、対話の余地があるのだと思った。
「どうしてこんなことを?」
言いながらライノーは二つの予想を立てていた。一つは、女性が自分を殺害しようとしたが、技量不足で失敗したというもの。もう一つは、女性は自分を殺害するつもりはなく、なんらかの事情で足止めがしたかったり、傷を与えたがっていたというもの。いずれにしても、根本的な理由がわからない。自分は彼女を害するようなことをしただろうか。彼女の家計を圧迫しているということはあるかもしれないが、それは合意の上で行われているはずだ。いや、しかし人の心はそこまで合理的なものではない気もする。まだ自分が勉強中の機微だろうか……と考えたところで、ライノーは女が小刻みに震えていることに気づいた。寒さによるものではないだろう。俗に熱帯夜と呼ばれる現象で、今の時期夜中になっても気温が下がることはない。
「ホテルから」
「うん」
「出てきたでしょう。く、黒い、髪の女と……ねぇ、あれ、ライノー。アンタの客よね。掛けてるくせに掲示板荒らして、まんま痛客じゃん。掛け許してたのってそういうことなの? ……枕はしないって言ったのに。私がどんだけアンタに貢いだと思ってんの!?」
「あぁ」
思い当たることがあった。自分は確かに店に対して多額の掛け──付け払いとも言うらしい──をしている黒髪の「姫」とホテルに行った。それを彼女は見たのか、「掲示板」に流れてきたのか、とにかく認知したのだろう。
(僕が言葉を違えて、あの「姫」と性交をしたと思っているのか。それで僕を攻撃した)
「誤解だよ」
「……は? ねぇちょっと待ってよ、この期に及んでシラきる気? 写真あんだよこっちには。アンタみたいなデカい男が他にゴロゴロいると思ってんの?」
「えぇと、『枕』はしていないという意味で、誤解だ。彼女とホテルに入ったことは間違いないよ」
「はぁ?」
声が上擦っていた。かわいそうに、極度の緊張状態におかれているらしい。
「でも枕はしてない? ……そんなの、信じろっていうの」
「信じてもらえると嬉しいけど……難しいかな」
「無理に決まってるでしょ。っていうかちょっとは動じてよ。私アンタのこと刺してるんだけど」
「これくらいの傷、どうということはないよ。……ええと、君の心の痛みの方が何十倍も痛いはずだ」
ライノーは『相手が苦しんでいる時には、自分も苦しんで見せてこういうことを言うといいですよ』と、白い髪の同僚に言われたことを思い出し、実践した。「姫」の口角が上がったので、彼の話は勉強になるな、とライナーは思う。手を取ろうとして──人は身体的接触を増やすと好意が深まる──拒まれた。彼女の顔を見ると、ただ笑っていたのではなかった。泣いている。嬉し泣きか、とも思ったが、手を振り払われたあたり好意的な反応ではないのだろう。彼女の内面は、ライノーの知る範囲を超えて複雑なことになっているらしい。
「それ、さ。しょっちゅう言うよね。それしかないんだ。慣れてなくてかわいいって思ってたけど、なんにも考えてないだけなんだよね」
「……」
「……そもそも、なんなの。ちょっとくらい感情見せてよ。血が……出てるじゃん。痛くないの?」
「痛みはあるよ。でも君の痛みの方が」
「もうそれはいいから。……ねぇ、ふざける余裕まであるわけ? こっちはもう死んでやるくらい思って刺しに来たのに……」
女がぼろぼろと涙を流してしゃがみ込むので、ライノーも一緒にしゃがみ込んだ。視線を合わせるのはコミュニケーションの基本だと、本に書いてあった。
「本当に誤解なんだ。僕は約束は破ってないよ。一つも」
「じゃあ、さ。なにしにホテルなんか入ったの? アンタの大好きなおしゃべりをするため?」
「……」
女の頬を伝う涙が、不意にライノーの食欲を誘った。あの雫を舐め上げて、そのまま眼に前歯をかける。滑る歯の先で眼球の硬さを味わって、下瞼の柔らかいところを食む……。
ごく、とライノーの喉が鳴った。良くない、と思いつつも一度思いついてしまったものは止められない。考えまい、と思うほどに欲望がこびりつく。
(男体も食べ応えがあっていいけれど)
ライノーの目が情欲に濡れる。涙を拭う指の隙間から、女と目が合う。
「知りたい?」
女が息を呑むのがわかった。動いた喉ですら、柔らかそうだった。