宇宙のかけら「月が見たい」
そう言ったのは、僕だったか、あの子だったか。
サキは今、実家に帰っていた。最寄りの駅から歩いて四十分、それも平坦な道ではなく、峠とは言わないまでも、山を登り下りする狭い道を抜けた先にある。買い物ができるのは辛うじてコンビニが一軒、それと開いているのかいないのか分からないような小さな商店がいくつか。彼の生まれ育った町はそういう所だった。
声をかけて敷居を跨ぐ。奥の部屋から「おかえり」といくつかの声が重なり響く。事前に連絡を入れていたからだろう、この時期は畑仕事で忙しいだろうに、皆家に居てくれているらしい。
ありがたく顔を出して少し話をする。元気にやっていると近況伝えれば、幼なじみの名前が出てきた。
「きりくんは元気にしてるの? そっちに居るんでしょう」
「元気だよ。今でも一緒に遊んでくれてる」
「そうなの。相変わらずみたいで良かった」
彼も数年この町に住んでいたことがある。二人がまだ小学生の頃だった。彼の親の実家がここにあって、しばらく家族二世帯で住んでいたのだ。祖父母は今でも健在で、その家も変わらず建っている。
「今日は泊まらず向こうに戻るから」
「本を取りに来たんでしょう?」
「そう。また借りてくね」
「好きになさい」
居間を出て、一階の書斎に寄る前に自分の部屋にあった本を戻そうと二階に向かった。階段をのぼるたびに板が軋む。今壊れるなんてことはないだろうが、少し用心してそっと足をかける。
数ヶ月前に来た時と変わらない自分の部屋。けれど埃はなくて、小綺麗にしてくれているのが分かる。「いつ戻ってきても良いから」と言われている通り、掃除は欠かさずしてくれているのだろう。心の中で礼を言って、勉強机の横、本棚の前にしゃがみこむ。
鞄を下ろして読み終えた本を抜けた箇所に差し込んだ。シリーズ第四巻、何度も読んだ物語だが、ふと読み返したくなってはこうして取りに来ていた。次は第五巻、物語の後半に差しかかる回だ。
手に取ったそれをパラパラ捲ったり、表紙裏表紙を眺める。ややあって、緩慢に鞄にしまい込んだ。何気なく視線を棚に戻し、サキはあるところで目をとめた。最近、幼なじみと話題にした本だ。ついでに持っていって、彼にも読ませてあげようと口元を綻ばせた。
自分の部屋を後にして書斎に向かう。中に入ると借りていた本を戻し、次の本を吟味する。この前は現代小説だったし、今回は少し古いものを読もうか……。
家族に本好きが多く、結構な冊数、種類が集まったこの部屋。同じく本好きに育ったサキは、この好きなものに囲まれた空間で、何を読むか悩む時間が好きだった。
結局、二つまで絞って、どちらも持っていくことにした。電車の時間には少し余裕があるが早めに出るに越したことはない。最後に家族に声をかけに行こうと廊下を歩く。
「あら、もう帰るの?」
「電車の時間があるから」
「気をつけてね。……ああそうだ、少しだけ待ってくれる?」
「良いけど……」
呼び止めた母は、なぜか物置に行ってしまった。がさがさと物音がしていたかと思うと「これこれ」と呟いて戻ってきた。
「この間片付けたって話したでしょ? その時に見つけたんだけど、これ、あなたのよね」
そういってサキに差し出した。
「双眼鏡?」
「ええ。昔買ってあげた気がするわ」
「買ってもらった気がする」
「どうする? あなたが要らないなら近所の子にでもあげようかと思って」
「……それなら、このまま持ってく。ありがとう」
「まだちゃんと使えるから大丈夫よ」
もう一度感謝の意を告げる。また帰ってきなさいと微笑む彼女に手を振って玄関出る。縁側には祖父母が日に当たり、庭では父が植物の手入れをしていた。それぞれに挨拶をして、今度こそ家を後にした。
「月が見たい」
それを言ったのが僕だったのか、それともあの子だったのかは忘れてしまった。理科の授業で月の話を聞いたのがきっかけだと記憶している。学校で習ったことを確かめたくて、もしくは、ただ綺麗な月を眺めたかったのかもしれない。とにかく月が見たいと思って、幼なじみとそういう話をしていたのは覚えている。
……ああそうだ、肉眼では物足りないから、望遠鏡が欲しいとお願いしたのだ。そう、望遠鏡を。でも、買いに行ったところには売っておらず、似たようなものだからと代わりに双眼鏡を買ってもらったのだ。今思えばうまく丸め込まれたような気がするが、いずれにせよ今更だ。
満月の日、買ってもらった双眼鏡を抱えて、幼なじみを月見に誘った。名月ではないし、おだんごも無かったけれど。親は幼なじみとなら良いよと言ってくれていたし、幼なじみの両親も僕となら構わないと許してくれたらしい。水筒を首から下げ、望遠鏡を握りしめて山を歩いた。通り抜けたところに小さな丘があり、空が良く見える場所だった。山の向こうと言っても、子供の足でも二十分程度。道も整備されていたからこそ親たちは許したのだろう。
「おれ、ともだちとこんな夜にいるの、はじめて」
道中、まだ幼体だった彼がそう言って笑ったことをよく覚えている。
……きりくん、この頃からおれって言ってたっけ。懐かしさに頬が緩みそうになった。
はやる気持ちを抑えることなく、ふたりで丘を駆け上がった。視界が開けて、ぽっかりとあいた空にまるい月が鎮座している。そばで小さく感嘆の息を漏らすのが聞こえた。見れば、いつも伏しがちな目を見開いている。柔らかく光る薄い金色の瞳は、夜空に浮かぶそれとそっくりだ、なんて幼心に感じた。しばらくして、彼はそわそわとし始めた。こちらを、正確には僕の手元を横目で見ている。
「双眼鏡、使ってみようか」
そう笑いかければ、幼なじみは口をむずむずと動かし、こっくりと頷いた。
聞き慣れた駅名のアナウンスが車内に響く。双眼鏡を手にしたままうたた寝していたらしい。降りるのは次の駅だ。彼は慌てて鞄にしまい席を立った。窓の外を見れば、すっかり日が落ちていた。今日は十三夜だ。
翌日、サキはハイカラスクエアに来ていた。幼なじみとその友人と、そして後輩の四人でいつものごとくバトルをするためである。約束の10分前、エスカベース前に置かれたテーブルに座った幼なじみを見つけた。声をかけようと近づくと、見知らぬ少女と話し込んでいる最中だった。彼女は幼なじみと近しいゲソ色をして、タコロンTに身を包んだでいる。カモメッシュを被っており、勝手ながら親近感を覚える。一言二言交わすと、彼女はどこかへ立ち去っていった。じゃあ、と手を上げた幼なじみは、そのままこちらに手を振り始める。彼のことだから気がついているとは思っていたが、それでも気恥ずかしい。
「おはよ」
「おはよう。さっきの子は?」
「フレンド。たまに合流してくれる。わかば使いでさ、前線上げるのが上手いんだ」
彼はバトルのことになると少し口数が増える。目も心なしか輝いているように見えた。つられて自分も笑っているのが分かる。
そのまま話していれば約束の時間が迫る。後輩もそろそろ来る頃だろう。いつもなら彼がいる時点で共に来ているはずの、彼の同居人が今なお居ないのが気になる。
「ああ、あいつな、今ガチマ行ってるよ」
「え、見に行かなくていいの?」
「行ったんだけど、やっぱり遠くてよく見えないから戻ってきた。二人が来た時、俺たちが居ないのも困るし」
「連絡くれれば問題ないでしょう」
「まぁ、うん、そうだけど」
彼が気になるなら仕方ないか、と納得しようとして、サキは自分の持ってきたものを思い出した。
「そうだ、これ使ってみなよ」
「あのときの……?」
「うん」
差し出すと、彼はそっと手に取った。彼も覚えてくれていたらしい。ぱちりと目を丸くした。あの夜のように。彼はくるくると回しながらじっと眺める。
静かに見守っていると、バタバタと足音が近づいてきた。
「せんぱーい! きーさん! おはようございます」
「コウくん、おはよう」
「……ああ、おはよう」
コウは、さっそく彼の持つものに気がついた。
「双眼鏡? どうしたんすかそれ」
「ふふ、僕からのおみやげだよ」
ね、と彼を見れば、きょとんとした顔でこちらを見ている。いつもはまぶたで半月になっているその瞳が、また満ちている。
今日は満月。もう一度月見に誘ってみるのもいいかもしれない。