餌付けはさせるもの「吉丸ちゃん、手、血」
ぷっくりと滲み出る赤色。マメが何度もできては潰れて、皮の厚くなった掌に少しばかりの傷が入っている。
「――あっ…マジか!クソー…オイ雉、お前絆創膏持ってねえか?丁度切らしてんだ」
左手の人差し指を眺めながら、吉丸は目を細める。怪我には慣れているとはいえ、痛いものは痛い。隣にいる雉に目をくれてやることもなく尋ねた。
「…持ってない、ヨン」
「そーかそーか、ソーデスヨネ、山の皇帝は怪我なんかしないデスヨネー」
「昔はいっぱいしてたよ?」
「ガキん頃だろどうせ」
吉丸は眉こそ顰めているが、少し口角は上がっている。雉の幼い頃は知らない。写真でさえも見たことがない。だが、ふと中学の頃の雉の顔を思い浮かべる。あの頃の幼気な顔つきを、更に幼くして、鼻にでも絆創膏を貼り付けて…。そんな吉丸の頭の中に描かれたかつての雉弓射は、空想でしかないがとても愛らしく思えた。
「…とりあえずティッシュで止めるか」
部屋に積もった段ボールの山の合間を縫って、ティッシュを探す。
今日、雉が吉丸宅へ越してきた。
少し前から話は上がっていて――それよりももっと前から、雉は吉丸宅に幾度となく厄介になっていた。大学は違う。でも、ここから雉の大学へもそう遠くはない。初めの頃は、大会の後たまに打ち上げで…という程度だった。親交が深まるにつれ、結果的に吉丸が雉を餌付け――もとい、雉が餌付けさせるように仕向けて、なんだかんだと棲みつくようになった。もちろん無理強いなんてしていない。元々、面倒見が良く兄気質の吉丸だ。上京して一人暮らしを始めてからというもの、ホームシックに悩まされていたし、世話焼きを持て余していたのだ。そこに、丁度良く雉が収まってくれた。雉は出した料理はすべてうまいうまいと完食するし、同い年ではあるが一人っ子だからなのかどこかかわいげもあったりして、丁度吉丸の心を埋めたのだ。雉のことをかわいいと認めるのは吉丸にとってはかなり癪だが、やはり手料理を完食してくれた後の満足気な笑顔にはついつい癒されてしまう。そんな彼に、ライバルとしても友人としても徐々に惹かれていることは確かだった。
一方の雉だが、彼には明確に目的があった。雉にとっては唯一のライバルともいえる相手、それが吉丸だ。雉のデビュー戦から今までの数年間、数え切れないほどの勝負をしてきた。とはいえ雉は全戦全勝しているのだが、吉丸以外に雉を窮地まで追い詰める選手は現時点で他に居ないと言っても過言ではなかった。それほどまでに2人の技術は非常に高次元なものであったし、お互いの存在があったからこその賜物でもある。
しかし、大学レースが始まって暫くして、吉丸の調子は右肩下がりだった。妹の鈴音がサポートに来てくれている時もあったが、彼女ももう高校三年生だ。受験に集中しなければいけない。移動費や時間も馬鹿にならない。その為、吉丸のサポートは専ら自転車サークルのマネージャーなどが務めるようになった。しかし、今まで妹にすべてのサポートを任せていた“ツケ”が回ってきたのか、2人の呼吸はまるで合わずにいた。兄妹ならではの、息の合ったスムーズなボトルの受け渡し、メカトラ時の迅速な対応、そしてレース後のケア。妹・鈴音の磨きあげられたサポート力は、吉丸の想定以上のものであった。それに加えて吉丸自身の精神面も影響してか戦績が伸びずにいた。
それが、雉にとっては大変由々しき事態であった。
山の皇帝――マウンテンカイザーと呼ばれる彼には、他に実力の拮抗するようなライバルは存在しない。王の座を死守し、己自身に勝つことが彼にとっての1番なのは確かだ。だが、それと同時に吉丸の存在も彼には欠かせないものだった。
これまで、何度も雉の圧倒的な走りを見て戦意を喪失した選手を見てきた。雉がいる大会では優勝できない。そう何度も言われてきた。周りの尊敬と羨望と、嫉妬と怨恨の目。MTBの楽しさに比べたらどうって事はない。けれど、それならば、誰が彼を真に理解してくれるだろう。誰が、彼と正々堂々と戦って勝つという意志をぶつけて来るだろう。誰が、彼と真の戦いをしてくれるだろう。
雉には、吉丸しかいなかったのだ。
初めは、不調さえ治ればいいと、とにかく吉丸のメンタルケアに努めた。聞けばホームシックだという。それなら、と雉は吉丸の家に通いつめるようになった。家で1人だから寂しくなるのだ。なら、孤独を埋めてしまえばいい。そうこうしていると、吉丸は雉に頻繁に手料理を振る舞うようになった。雉は大学生になって初めて、ライバルが料理上手だということを知った。彼の手料理はとても美味しい。うまい、と伝える度に彼は微笑み、「そうかよ」と照れ隠しのように呟く。雉はそんな吉丸を見るのが好きだった。
少し欲が出た。
雉が吉丸宅に頻繁に出入りするようになってからは、もうすっかり不調は治っていた。その頃は大学1年の終わりだっただろうか。生活にも慣れたのだろう。吉丸の戦績は右肩上がりだった。
それでも、雉は吉丸の家へと通い続け、彼に世話を焼かれていた。
お互いに気付いていたのだと思う。2人で過ごす時間は、レースの時とは違ってどこかポカポカとするような暖かい気持ちになれる。
居心地がいい。
出来ることなら、ずっと、一緒にいたい。
この感情が少しばかり過剰なものだということはお互いに気付きながら…それでも何となく目を逸らし、気付かないフリをして、この感情に名前をつけないように、手料理を味わう日々が続いた。
吉丸のレシピ本に貼られた数々の付箋は、雉の好物で埋め尽くされていた。
ところが、雉はある事態に気付いた。
大学1年の終わり――直に2人は2年へと進級する。だが、それだけでは無い。妹の鈴音、彼女は吉丸の1つ下だ。つまり、雉らが進級すれば彼女も恐らく大学へ進学することになる。彼女のことだ、なんやかんやと理由をつけて兄を追ってくる可能性が高い。そうなると、果たして雉の立場はどうなってしまうのか。妹に取って代わられてしまうのではないか。自らその立場を望んで手に入れたというのに、雉はとんでもなく焦燥感に駆られていた。誤算。鈴音の進学が、ではなく、ここまで吉丸に惹かれ、吉丸を必要としていた己が。鈴音に追い出されてしまう前に、手を打っておかなければ。吉丸の住むマンションは、学生の一人暮らしにしては広かった。キッチンやバストイレは狭いものの、収納スペースは充実しているし部屋も2部屋。もしかすると、鈴音が引っ越してくるのを想定しての事かもしれない。吉丸家には悪いが、雉は少し賭けに出ることにした。