その男、危険物につき-1- 軽やかな足音が、まるで昼間のような真白い光を降らせる月夜に響く。夜の静寂に良く似合う心地良い足音の背後から、その静寂を荒らす複数の乱暴な足音と、前を疾走する足音の主を口汚く呼び止める声。
降り注ぐ月明りを弾く、目にも鮮やかな赤く長い髪を揺らしながら、イレヴンはちらりと背後を振り返ると、かすかに口角を上げた。イレヴンを追いかけてきているのは剣を鞘から抜き放った状態の数人の男。イレヴンが闇雲に走っているようで、目的の場所へ向かっている事に気付いているのかいないのか。
……気付いたとしても、その意図までは解んねぇだろうなぁ……。
のんびりと心の中で呟いて、イレヴンは背後からの殺気に小さく笑う。
一方、身軽な動きで疾走するイレヴンを追いかけていた男等は、イレヴンの走る道の終端に気付いて、唇を歪めるように笑みを浮かべた。
この先は両脇の壁が高くなり、道が狭く人が一人通れる程の幅しかない。その上、都合の良い事にこの先は行き止まりだ。外敵からの進入を阻む為に、敢えて造られたこの街特有の入り組んだ道々を覚えきる事など、二週間程前にこの街に流れ着いたばかりのイレヴンには到底無理だろう。
―――― 正に袋のねずみというヤツだ。
やがて、イレヴンは男等が思った通り狭い袋小路へ入り込んだ。平均的な身長のイレヴンの倍程ありそうな高い壁に両側を挟まれ、目の前もまた高い壁。行き止まりの壁から数歩のところでぴたり、と足を止めると、イレヴンはゆっくりと背後を振り返った。
さほど間を置かずに駆け込んできた男等が、振り返ったイレヴンから少し距離を取って足を止める。
「もう逃げられねぇぞ?」
狭い道路の為に、イレヴンを囲むようには移動出来ず、狭い小道に一列に並んだ状態の男等を馬鹿にしたように一瞥して、
「お前等も逃げらんねぇ事に、気付いているのか?」
「…………何?」
不審に眉を寄せた男は、だがすぐにハッとしたように目を見開いた。
イレヴンが壁を背に立っている。人が一人通れるだけしか幅のないこの小道では、高い壁によじ登る事も出来ない。己等は一列に並ぶしか出来ない。
つまり、イレヴンと一対一で対峙するしか出来ないのだ。
イレヴンは面白そうに赤い目を細めると、ゆっくりと腰に佩いている鞘から手に馴染む双剣を引き抜いた。月明りを反射して輝く刃に、男等は手にしていた得物を構えるが、一直線に並ぶしか出来ないこの状況で、長い得物は圧倒的に不利だった。
「なァ」
ようやくその状況に気付いても、もう遅い。まるで気負う様子もなく立っているだけのイレヴンから感じる威圧感に、男等はじわじわと首を絞められているような錯覚を覚えた。
じりじりと先頭の男が後退ると、すぐに背後に立っていた仲間にぶつかる。面白そうに目を細めながらそれを見ていたイレヴンが、
「先頭のヤツから一人ずつ殺してやる。お仲間が一人ずつ減っていくのを最後まで見てろよ」
楽しげにそう嘯くと、男等はギョッとしたように目を見開くと一気に青褪めた。
この男、本気だ……!!
鼻歌でも歌いそうな程楽し気に見えるが、目は少しも笑っていない。くるくると手の中で弄んでいるイレヴンの双剣の刃はどこまでも薄く磨き上げられ、見るからに切れ味が良さそう。
「……誰から死にてぇ?」
それより何より、一切容赦するつもりのない殺気が、空気を伝ってちりちりと男等の肌を焼く。一対一で対峙してイレヴンに勝てるなどとは思えない程度には、男等には実力があった。このまま刃を交わせば、恐らく最後に立っているのは目の前のやたら色気のある男だと解ってしまった。
「ちょ、ちょっと待て!」
「何でだよ? 俺を殺すつもりだったんだろう? ……正当防衛じゃねぇか」
低く呟かれた言葉に、イレヴンと向き合っていた男が慌てたように剣を持たない手を振り回して声を上げる。だが、少しも悪びれた様子もなく、過剰防衛を正当化しようとするイレヴンに、男等は混乱した頭で必死に考えた。
何とかしてイレヴンを止めなければ! 本気で死んでしまう!!
「そ……、そうだ!! 俺達を殺せば、あの男の居場所は解らなくなるぜ?!」
その瞬間、ぴくり、とイレヴンの肩が動いたのを、男等は見逃さなかった。畳みかけるように次々に口を開く。
「主様は、気に入った男は皆お屋敷に地下にある秘密の部屋に連れて行かれる」
「その部屋に入るには、鍵が必要なんだぞ!? その鍵のありかを知っているのは俺達だけだ!」
「良いのか?! 俺達を殺してしまっても?!」
「お前の連れとはもう会えなくなっちまうぞ!」
「…………一つ、聞きてぇんだけど」
口々に騒ぐ男等の言葉のほとんど聞き流して、イレヴンはのんびりと男等の言葉を遮る。どこかつまらなそうな表情と口調に、口々に声を上げていた男等はぴたりと口を閉ざした。
こんな眩いばかりの月夜には不似合いな不協和音が止むと、再び辺りはしんと静まり返る。息を潜めてイレヴンの言葉を待つ男等を見て、鞘から抜いた剣はそのままに、イレヴンは背後の壁に背を預けながら続けて口を開いた。
「普通、攫われるなら、俺じゃねぇの?」
「…………は?」
一瞬、何を言われたのか解らなかった。
ぽかん、と口を開けて、露骨に訳が解らないと言いたげに首を傾げた一番前の男をじろりと棘のある視線で睨み付けて、イレヴンは溜まりに溜まった鬱憤を晴らすがごとく一気に喋りだした。
「普通、冒険小説や恋愛小説だったら、攫われるのは見た目も攫いやすい俺じゃねぇのか。何でお前等はあいつを攫うんだ」
「……自分で言うのか」
呆れたように呟いた男を剣呑な視線で睨め付けて、イレヴンはふん、と小さく鼻を鳴らす。殺されるかもしれない恐怖も忘れて、男は口を開いた。
「お前のようないかにも男も女も知ってるような男に用はないだろ?」
ぴくり、とイレヴンの肩が震える。
「強く逞しい躯と心。男として子孫を残すには最適な男が、男として価値があるに決まっている!」
ゆっくりと顔を伏せたイレヴンに気付かず、男等は再び今度は熱っぽく次々に声を上げた。
「あの男は理想の男だ。戦う事も知っている。強靭な精神と肉体。見るからに子孫を残す為に最適な男だと解るだろう!」
「主様もそう思っておられるから、あの男を選んだんだ」
「お前のように、例え戦いが強かったとしても、それ以外で劣っていては意味がないんだ!」
「……………………何が子孫を残す為だ」
顔を伏せたまま、終始無言で男等の言い分を聞いていたイレヴンは、しばしの沈黙の後、静かに口を開いた。低く低く、地を這うような低い声に、男等はイレヴンが何を言ったのか聞き取れずに首を傾げる。
再びしばし沈黙をしてから、イレヴンは不意にゆっくりと伏せていた顔を上げた。
「試してみるか? 俺が本当に劣っている男がどうか。そもそも、……何が、子孫を残す為に最適な男だ」
イレヴンはゆっくりと腰を落としながら双剣を構えた。降り注ぐ月明かりにその刃がひっそりと輝き、一番前に立つ男の目を射る。
「大体、お前らが崇拝している『主様』とやらも、同じ男じゃねぇか」
その剣の輝きに咄嗟に手にしていた剣を構えた男をちらり、と見やって、イレヴンは心底不機嫌そうに口を開いた。
「大体、何で毎回攫われたり洗脳されるのはあいつで、何で俺がその度に死ぬような思いをして助けにいかなくちゃならねぇんだ! 普通に考えたら、逆じゃねぇのか!? 俺は何か間違ってんのか!?」
びくり、と大きく肩を震わせて、分厚い前髪に目元を覆い隠している男は、あたふたと唯一自由のきく首を辺りに巡らせた。
「どうかしたのか?」
幾分青褪めた表情の男に、主は機嫌の良い笑みを見せた。
天井から垂れ下がっている鎖に両腕をしっかりと繋がれ、両足も同じように鎖で繋がれてなお、顔色一つ変えなかった男が、何故かうろたえたように辺りを見回している。
機嫌の良さそうな、けれど好色を隠そうとしない主をちらりと見上げて、男は口元に引きつった笑みを見せた。
「……殺される……」
「何を言う。これから存分に可愛がってやろうというのに」
芝居めいた大げさな表情で肩を竦める主に、男は違うと首を振った。
「俺は、頭に殺される……」
ぞくり、と背中を震わせたものは、言い知れぬ恐怖だった。
それがイレヴンの激怒の所為だと、男はきっちり気付いていた。