宿の日の話「なァ、たまには宿に泊まれよ」
「は?」
それは、いわばいつものイレヴンの気まぐれだった。
いつもは文字通り、常に影のように傍に居て、イレヴンの意を汲んですみやかに彼の求めるものを差し出す。
各街や森の奥、その他人の目に付かない場所にある拠点でしか、まともに相対する事はほとんどない。そんな、『精鋭』と呼ばれている者達の中、分厚い前髪に目元を覆い隠した男は、のんびりとしたイレヴンの言葉に首を傾げた。
「宿……スか?」
「そ。たまには宿に泊まれよ。今日、隣の部屋空いてるってさ」
まるで良い事を思い付いた、と言わんばかりのイレヴンに、男は引きつった笑みを唇に浮かべた。
明るい陽射しの下であっても、あくまで「影」として動く事も多く、日々なるべく目立たぬように動いている身だ。まさかそんな事を言われるとは思ってもなかった。
「や、何で……」
「普通の顔して宿に泊まるお前が見てぇなって思ったから」
宿代ぐらい払ってやるぜ?
どこまでも軽い調子で言われて、男は頭を抱えた。どうせイレヴンのいつもの気まぐれで、明るい陽の下で清潔な宿の部屋に居る男の違和感を楽しみたいだけだろう。
とはいえ、断ってこの青年の機嫌を損ねるのも得策ではない。男は不承不承小さく頷いた。その嫌々な態度すら面白いのか、イレヴンは楽しげに笑ったのだ。
「……何ソワソワしてるんスか」
「あ、いや、何というか……」
最初はテンション高く昼日中から男を連れて露店巡りや食べ歩きを楽しんでいたが、やがて夕食を終えて宿に戻り、シャワーを浴びて部屋に戻ってきた時。昼間のテンションそのままに男の部屋に酒の入った瓶を片手に突撃してしばらくは、宿にある小さなテーブルを挟んで酒を飲んでいたのだけれど。
シャワーの気配を残したままの男に、イレヴンはやがてソワソワと落ち着かない様子を見せ始めた。
不思議そうに首を傾げる男をちらりと見て、イレヴンは拗ねたように目を逸らしながら口を開く。
「……何か、お前がこうやって同じ宿に居て、俺の隣の部屋に居るって思うと、ちょっと、何か、落ち着かねぇっていうか……」
もごもごと口の中で呟かれた声に、男は前髪の向こう側の目を瞬いた。
別に四六時中影に潜んでいる訳ではない。むしろ普段からイレヴンがひたすら懐いているあの男を静かに見守る事もあるのだから、明るい場所に居る方が多いともいえる。
それなのに、どうにも落ち着かない。
自分が言い出した事なのに、とどこか困ったように男から目を逸らしたイレヴンの耳は、ほんの少し赤くなっていた。
思いがけない反応に、男はしばし黙り込んでいたが。
「頭」
ふと呼ばれてイレヴンが視線を戻すと、男は唇にそれはそれは楽しそうな笑みを刷いた。
「あんた、時々ホント可愛いッスよね」
「な……!!」
ぎょっとしたように目を見開いたイレヴンに低く笑って、男はゆっくりと立ち上がる。基本怖いもの知らずなはずのイレヴンなのに、彼は男の動きにびくん、と肩を跳ね上げた。
男は小さなテーブルを回って椅子に座ったまま動けないイレヴンの前に立つと、
「今夜は俺の部屋に泊まって下さい」
「え」
「あんたを抱き潰したくて仕方ねぇんスよ」
けろりと告げられた言葉に、イレヴンは今度こそ大きく目を見開いた。
「ッ、な、何……ッ!?」
「いやー、あんたが可愛いのが悪いッスよね」
「意味解んねぇ!」
「俺が解ってたら良いッスよ」
言いながらイレヴンの手を掴んで引き寄せると、ぎゃあぎゃあと怒鳴りながらも抵抗する事なく男の腕の中におさまった。
「言い出しっぺはあんたでしょうが」
「お、俺だってこんなに緊張するとは思わなかったし!」
「緊張してるんスか」
この色鮮やかで、色事において経験した事がないものなどないだろうに、時々堪らなく可愛らしい反応をするものだから。
「……ホント、意味解んねぇ」
「それで良いッスよ」
この青年の何気に無防備な迂闊さも、時折見せる可愛らしさも、知っているのは自分だけで良いのだ。