だって僕ら起きたばかり「あれ、雄おまえまたバイト?」
黒い無地のリュックを背負って歩いていると後ろから声をかけられる。振り向いて高校からの友達に元気よく頷いてみせた。
「バイト! じゃあねー!」
「おーがんばれよ」
そんな稼ぎたいのか、と聞いてきた友達は、今や何も気にせず灰原を送り出してくれる。今日最後の授業を終えて灰原は大学の最寄駅へと急いだ。
最近はもうスプリングコートの必要がない日も増えてきている。電車の中吊りには見頃を迎えた薔薇を宣伝する植物園の広告があった。
灰原の住むアパートから大学へは乗り換えなく七駅で行ける。その中間あたりに位置する駅は都心ほど栄えていないが住宅街が近くチェーン店や商店街のあるところだった。その駅から歩いて十分ほどに、灰原のバイト先がある。
『湖畔屋』という定食屋は五十代の夫婦が作る家庭料理の店だった。平日昼間の配膳は近くに住む一人娘が手伝い、夕方以降や土曜日など子育て中の彼女が働けない時間帯は学生のバイトで回している。バイトは灰原のほかに二人、どちらも女の子で、大学はそれぞれ違った。
賄い、というのは学生にとって大変ありがたいものである。アパートの最寄駅からたった数駅と近く、通学の範囲内で、賄いも出る上お客さんとの会話も多い。額を地面に擦り付けてでもここでアルバイトをしたい、そんな思いで面接に来た灰原を、店長を務める男は「元気が良くて気に入った」とあっさり採用し、笑顔の多い明るい灰原を常連は誰もが口を揃えて「天職だね」と褒めた。
しかし灰原がウキウキとこの店で働いているのにはもう一つ理由がある。店長にも友達にも言えない、大きな理由。
「あ、な、七海さん! こんばんは……っ」
名前まで覚えてしまった男。あと数ヶ月でやっと二十歳を迎える灰原と違い、その男はスーツを着ていた。不定期に夜ふらりと来ては毎回違った定食を注文する。
「こんばんは」
上擦った声の灰原にも柔く笑って受け入れる。自分にはない大人の余裕が灰原にはとても魅力的に映った。
今にも倒れそうなぐらい疲れ切った表情で彼がここに来たのはちょうど一年ほど前のことだった。灰原がアルバイトを始めた頃のことで、思えば金色の髪や日本人離れした瞳の色に日本語が通じるのか不安に思いながら水を差し出した際、丁寧に軽く頭を下げられたときから心臓を射抜かれていたのかもしれない。物腰柔らかい所作と、密やかな色香に。
「今日は何にしますか」
きっと僕に尻尾があったらブンブンと振っているんだろうな、とそんな馬鹿げたことを思いながら、それでも七海と関われるのが嬉しくて今日も積極的に話しかけに行く。
灰原にとって七海建人は、お金を稼ぐことよりも、社会の歯車になる経験よりも、賄いを頂くよりも、とりわけ大きい〝アルバイトをする理由〟になっていた。
◇◇◇
「だから出ないって」
質のいいソファーに腰掛けた男が面倒そうに息を吐く。長くすらりと伸びた足を組んで七海を見上げた男は、空色の瞳を不快そうに歪めた。
「分かってますよ。私からも言っているつもりです」
「じゃあ今日は何しに来たんだよ。進捗確認か?」
「差し入れです」
「おっ、七海~! さすがおまえはやっぱ違うね」
取り出したエクレアに飛びつき声色を変えて嬉しそうに一口頬張る。誰もが振り返る外見に恵まれた男は、最近人気の出てきた作家であった。恋愛小説からミステリーまで書きたいものを書いては世に出す。その出版元が七海の働く会社であり七海はこの男の担当だった。
「五条さん、何か飲みますか」
「コーヒー」
勝手知ったる仕事部屋を自由に回りコーヒーを淹れる。角砂糖は三つ以上が鉄則。今日は機嫌もいいし、最近は仕事を詰めているつもりもない。ストレスは溜まっていないだろうが、いかんせん恋人の夏油とはまだ会えていないようなので四つは入れておく。
「おまえの上司はほんとに僕の顔が好きだねえ」
ぽつりと馬鹿にするように呟かれた。それを「本当に」と返して無意識に溜息をつく。
『五条先生はさぁ、顔を出したほうがもっと売れるよ!』
興奮気味にそう捲し立てて、担当の七海に自社出版の雑誌に出るように頼めと伝えてきた。それが先月の初めのこと。顔出しなんてするつもりのない五条は当然断ったし、七海も承諾するわけがないと思っていた。ただ上司は一度や二度振られたぐらいで折れない。事あるごとに五条を説得しろと七海を会社から追い出すのだった。
「雑誌の売上あげたいだけでしょ」
「否めませんね。五条さんの小説ももっと売れるでしょうし」
「今の数字じゃ不満ってわけ? そもそも書きたいようにやってるのにさ、大きくなると発行部数がどうのってめんどくさいよ。そんなの作家に押し付けないでほしいね」
「おっしゃる通りです。ご迷惑を……」
おまえが気にするな、とでも言うように手を軽く振る。
五条悟は気に食わない人間はテリトリーに置かない。七海はいつ気に入られたかと言うと、特段何か事情があったわけでもない。ただ高校の後輩だっただけ。
目に入った金色の髪は普段なら五条の目には疎ましく映ったのかもしれない。けれど一瞬、制服であるブレザーではなく、黒い服を纏って不快そうに眉をひそめる顔が浮かんで、心臓がぐっと締め付けられた。夏油と初めて会った高校一年生の春と、全く同じ現象であった。そのときの心臓はぐっと、なんて軽いものではなくて、まるで一回転でもしたように騒いで涙腺を刺激するものだから、何が起こったのか理解する間も無く涙が溢れて仕方なかった。そこからずっと(順調にとは言えないものの)夏油とは隣り合って生きてきた今、後輩である七海にちょっかいをかけながらそれなりに幸せに、かつ、自由に過ごしてる。
「ああ、そうだ、今サスペンス書いてんじゃん?」
「そうですね」
「主人公を大学生にしてんだけど、今時の大学生ってやっぱバイトしてるもん?」
「今時も何も大学生の多くはバイトをするでしょうね」
五条家のあなたとは無縁だったでしょうけど、とは言わないでおいた。
あまり実家の話をしたがらない彼にしつこく聞くほど七海も馬鹿じゃないし興味もない。大層なお家柄だとは聞いているが詳しいことまで知っているのはそう多くなかった。
大学生というワードに、咲いたような笑顔を見せる黒髪の少年が浮かぶ。少年、という言い方は適当ではないかもしれない。それなりに成長を遂げた体つきをしているし、高校生ではあるまい。
灰原雄、という名前しか知らなかった。あとは米が好きで大食いで、人と喋るのも楽しいと言っていたことぐらい。
なるべく自炊を心掛けていた七海であったが、あの頃は仕事の右も左も分からず、加えて自身の限界も考えず、我武者羅に労働を重ねてしまっていた。起きて出社して適当に昼を済ませて残業しては帰りさっさと寝る。碌な栄養も睡眠も取れずにいた目先に飛び込んできたのが、自宅の最寄駅のそばにある定食屋だった。小綺麗な店内はリノベーションをしたばかりなのか、定食屋というには些か洒落ていて雰囲気も良かった。夫婦とアルバイトで回している店なんて珍しくない。特別面白いメニューがあるわけでもなく、店の自慢の一品や名物などもなさそうで、その割に繁盛している様子が不思議だった。
その理由も、今なら分かるのだが。
「大学生の知り合いいない? 後輩とか」
「……取材ですか」
「だってイメージわかねえし」
申し訳ないが仲のいい後輩なんて、と口を開いたところで飲み込む。
人の良さそうな灰原が、どうも頭から離れなかった。
来店するたびに嬉しそうに笑うあの顔が、どうにも。
「…………当たれそうな人なら」
「おっマジ? やっぱ持つべきものは優秀な後輩だね」
こんなときばかり頼って褒めてくる五条には何の反応も示さず、顔にも出さず、七海は緊張した。
七海さん、と話しかけてくれるあの存在とは、いわばただの客と店員であって、それ以上でもそれ以下でもない。それがもしかしたら変わるかもしれない、そんな可能性に七海は確かに高揚を覚えた。