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    さなこ

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    さなこ

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    花吐き病パロ。
    お恥ずかしながら漫画に出てくる架空の病気だと知りませんでした。
    オメガバースみたいに誰かが創作したのかと……。

    完治の方法は設定をいただいておりますが、発症するまでの時間など捏造したところもありますので、
    ご理解くださる方のみお読みいただければと。

    花を吐く「花に触ったか」
     ひとつ先輩である家入にそう聞かれ、七海は記憶を辿った。
     白い壁で囲まれた医務室、窓から入ってくる心地よい風に髪を遊ばせながら視線を下に向ける。思い出してみれば任務で訪れた中学校で少女(と言っても七海とふたつしか変わらない)が吐いた花を、確かに触ったかもしれない。
    「感染経路はそこだな」
     可哀想に、と全くそう思ってなさそうな声色で言われ、七海は「はぁ」と温度の低い相槌を打った。
     
     七海の胃の中から花が出てきたのは昨晩のことだった。

     あの日は低級の任務が入っていた。灰原と二人で夕食をとり共同浴場で身を清め、本を読み進めてから眠った。灰原は隣で漫画を読んでいた。七海の知らない(興味のない)漫画である。そろそろ寝るか、となった頃に灰原が腰を上げ「おやすみ」と手を振ったあと七海もベッドへ寝転んだ。そのままうとうとと眠りの世界へ入ったあたりで気持ち悪くなって意識が覚醒してしまった。何か悪いものでも食べただろうか、体調が悪いのだろうか、そう考えているうちに抑えられない吐き気が催してきて、自室のトイレに駆け込み、胃を震わせて吐き出しのがハナミズキの花びら。見ただけで花の名前が分かるほど知識があるわけではない。ただ、曲名にもなった花だったために前に一度調べていたから見覚えがあっただけ。
    「……は?」
     食用の花があることぐらい七海も知っている。けれど食べた覚えもなければハナミズキなんて見てすらいないのに。
     何かの呪いを受けてしまったのか、そう判断して溜息をつく。他に不調もないので、七海は明日の朝、先生や先輩に相談しようと決め水を一杯飲んで眠りについた。その先輩の中に五条や夏油が含まれていないことは言うまでもない。

     覚える気にもなれない正式名称を家入は口にした。とりあえず他に害はないらしい。吐く前は普通の嘔吐と同じで気持ち悪い気分になるが、吐いてしまえば割とすっきりする。胸につっかえた何かを吐き出して幾分か楽になるように、花は七海の胸を軽くした。
    「七海、具合大丈夫?」
     朝一番に家入の元へ出向いていたため二時間目から授業に参加する。今日初めて顔を合わせた灰原が七海を見るなりそう口を開いた。
     昨日一緒に過ごしていた級友を捉え、質問に頷く。ほっとしたような、まだ不安の残るような、なんともいえない顔で優しく笑った灰原を見て、急な吐き気。反射的に手で口元を覆って背を向けた。
    「七海!?」
     廊下にあるトイレまで駆けて行きたかったのに、それは叶わず教室前にぶち撒ける。胃液の混ざったそれは赤紫の花だった。咲き始めたばかりなのか満開にはなっておらず、少し口を窄めたように花が開いている。
    「わ、だ、大丈夫? 苦しい?」
    「ぁ……さわ、るな」
     ———感染経路はそこだな
     今朝方、家入から伝えられた旨を思い出す。七海は触ったから感染した。これに灰原が触れれば、同じ症状が灰原にも出てしまう。
     喉に張り付く胃液を無理に飲み込んでから咳払いをひとつし、七海はふらふらと立ち上がった。
    「七海、やっぱり今日休むべきだよ」
     二の腕を優しく掴まれる。触れられている感覚がなぜか愛おしくて泣きそうになった。
     灰原、と呼びたい舌を必死に堪えて口を結ぶ。
     本当は、本当はもう体を預けて沈んでしまいたかった。泣きついて苦しいと言いたかった。出ない勇気が胸をさらに締め付けて、七海を制する。
     七海には分かっていた。この病が叶わない恋をしている者にしか発症しないことも、自分がそれに該当する人間であることも。

     空が橙色に染まる頃、七海は目を覚ました。吐く頻度がそんなに高いなら今日は休め、と担任教師より指示があったので大人しく自室に戻って本を読んでいたがいつのまにか眠ってしまっていたようだ。昨晩、あまり深く寝れなかったのも要因のひとつだと思われる。
     腹は空いていない。水分は欲しい。しかし体を動かすのは怠い。
     ぼやける視界のまま何度か瞬きを繰り返し、枕に顔を押し付ける。毎日自分を包んで休息を与えてくれるベッドに擦り寄って低く唸った。気分はさほど悪くない。夕食はどうしようか、悩んだところで足音が耳に届いた。
    「七海ー、あっ……」
     ガチャ、とドアノブに触れた音がして七海はゆっくりドアのほうへ目を向けた。いつもは開けてある。灰原の部屋もだ。開けっ放しのほうが行き来しやすいから。
     しかし今日は違った。閉じこもっていたい欲が自然とドアに鍵をかけた。いつもなら容易く開くはずのドアが動かないことに灰原の困惑の声が上がった。
    「…………」
     ベッドからドアの向こうにいる灰原まで、距離はそう遠くない。しかし今の七海にそこまで大きな声を出す気力もなかった。仕方なく、ベッドからのそりと降り立ってドアへ手を伸ばす。なにやらガサガサとビニール袋を漁る音を拾いながら解錠した。
    「あっ、七海起きてた?」
    「……はい」
    「食欲ある? 菓子パンだけど七海の好きなやつ買ってきた。あとプリン! ゼリーもあるよ!」
     当然のように七海の心配をし、看病をしてくれる同級生にまた胸が苦しくなる。即席のカップスープまであった。こういう日は暖かいものを食べた方がいいだなんて、珍しく正論を唱えている。以前、雨に当たった灰原が風邪をひいたときは「体力つけなきゃだから」と丸いおにぎりを食べていたから(それに加えトマトを丸齧りし、唐揚げにまで手を伸ばしていた)灰原家の常識を疑ってしまったが、どうやらあの考えを七海に押し付ける気はないらしい。一般的な看病にほっとしながらお礼を述べた。
    「明日には良くなってるといいね」
    「……長く、かかるでしょうね、完治には」
    「ひとりで授業受けるの寂しいよ」
    「…………すみません」
     不毛な恋心を抱いたばかりに。
     その言葉はしまっておく、自分の中に。
    「そんなに難しい呪いなの? 家入さんでも治せないの?」
     どうやら灰原も自身の分まで買ってきたらしい。普段は寮母の料理か自炊をして生活をしているが、今日は彼曰く〝しょうがない〟という。さすがにゼリーやプリンは冷蔵庫になかったのでコンビニへ走ったそうだが、高専から最寄りのコンビニまでは意外と距離がある。不便な土地ゆえ、灰原は今日自炊をする時間を費やしお目当てのものを買いに行った。寮の食堂も事前に申請しておかなければ料理は出てこない。
     ガサ、とビニール袋を置いて灰原は部屋へ入ってきた。ゼリーを冷蔵庫にしまいながら、病のことについて聞いてくる。
    「すぐに治るものではないんですよ」
     拗らせた恋が叶うまで、もしくは自分の中で踏ん切りをつけるまで、花を吐き続ける。片想いには二通りの終わり方があるが、自分は後者だろうと七海は諦めていた。
    「そっか……今はどう? 苦しい?」
    「今はそれほど。さっき吐いたからかと」
    「そう。ごはん食べられそう?」
     はい、と頷きながら心が落ち着いてくるのを感じていた。
     灰原は結構うるさい。声が大きいのも一因しているが、動作も大きい。元気がいいと言えば聞こえはいいが、今まで大人しく静かに生きてきた七海にとってその声量は耳をつんざくものだった。
     それなのに、今は隣にいてくれるだけで心が洗われるから不思議だった。自分と正反対の存在だと思ったのに、その第一印象はどんどん崩れていく。意外と気遣いのできるところも、静かに寄り添ってくれるところも、共に過ごしてこなければ見えてこない部分だった。
    「せめて症状が軽くなればいいね」
    「吐く頻度が減ればいいんですけどね」
    「不定期にくるの? 吐き気って」
    「まあ、そうですね」
    「そっか……」
     よしよし。
     そう言って背中を優しく摩ってくる灰原に、七海は不意打ちを食らった。呼吸が止まって、心臓が震えた。
    「……、へ、いき、です」
     こういうところが、苦手だった。苦手で、嫌で、やめてほしかった。
     灰原には妹がいる。まるで末っ子のように元気に自由にすくすく育った灰原も、家に帰れば兄である。天真爛漫な雰囲気に合わず、時折兄らしい姿を見せた。それは七海の心を柔らかく包み込みどうしようもなくさせる。
     七海はこういう、灰原の〝お兄ちゃんの一面〟が大の苦手だった。きゅう、と心臓が鳴って、苦しくなって、困ったような顔つきになってしまう。それが灰原に対してときめいているのだと痛いほど分かっていた。
    「一緒に寝る?」
     背丈の変わらない、大きな黒い瞳。本当に同い年の男なのかと疑いたくなるほど澄んだ瞳に彼の魂の美しさを見たようだった。
    「———…………」
     何度か一緒に寝落ちたことはある。手配ミスでダブルベッドのホテルに通され二人ですやすや眠った任務の日だって。
     暖かくてすぐに眠ってしまう体温。隣で眠れたら不眠症になんてなるわけのないことを七海は知っていた。それに甘えてしまいそうな自分がいることにも気付いていた。
    「それ、は……」
    「背中とか摩ったほうが気分も楽になるでしょ!」
    「いや……、ぁっ、ぅ」
     込み上げる胃液、嘲笑うように食道を登ってくる異物。ぐっと喉奥を締め付けても体の内側からの勢いに勝てるわけがない。吐き出す寸前で右手を口に覆った。花をぶち撒ける最悪の事態にはならずに済む、そう油断したのが悪かったのかもしれない。指の隙間から零れ落ちた淡い桃色の花びらが、灰原が持ってきたビニール袋にびしゃびしゃと落ちた。太陽の光を両手で受け止めるような花弁だった。
    「ぅ……っぇ」
     胸の中にまだ詰まっている。背筋が冷えて、堪えきれずそのまま胃を震わせるとまた同じ花びらが口の中に溢れ返った。
    「七海……っ、吐いちゃいなよ」
     病の対処法なんて灰原には分からないのだろう。花であれ食べたものであれとにかく吐かせたほうが楽になると考えたのか、灰原は堪えようとする七海に気付いて背中に触れ、吐き気が止むまで摩り続けた。

     いくらか吐いて落ち着いてきた。どっと疲れて、ベッドに寝そべりたくなる。
    「ペチュニア……」
    「えっ?」
     花を見つめる灰原が呟いた。まさか花の名前を口にするとは思わず、七海も自分が吐き出した花を観察してみた。淡いピンクから、紫、白といった色が並び、花びら一枚だけのもの、開花した花の形をしているもの、それぞれだった。
     花については詳しくない。灰原もそうだと思っていたが、彼は花の名を呼んだ。
    「お母さんの誕生日の花なんだ、ペチュニア。誕生花って言って、ほら、誕生石とかは有名でしょ。鉢植えにして窓辺に置いてるんだよ、うち」
     懐かしい、と言って彼は手のひらにそれを乗せた。人の胃液がこびりついてるのによく触れるものだ。
    「灰原……、それは汚いから洗っ……」
    「あ、うん」
    「……ッ!!」
     灰原の手から花を毟り取る。突然の荒々しさに灰原は声を上げて驚いたがそんなことはどうでもいい。午前中、触るなと言ったのに灰原があまりに自然な流れで触るものだから反応が遅れてしまった。
    「触るなと言ったでしょう!」
    「あ! そ、そうだった!」
     ごめぇん、と謝りながらシンクで手を洗う。その慌てない様子に不安な気持ちが苛々と湧き起こった。
    「体はっ……!? なんともないんですか!?」
    「えっ、うん。別に赤くなったりもしてないよ、かぶれたりとか……」
    「そうじゃなくて吐き気とか!」
    「は、吐き気? あ、これ、感染するやつ?」
     一瞬だけ目を丸くしたが、灰原はやっぱり慌てない。タオルで手を拭きながら「へー」なんて花をまた見つめている。
    「そっかぁ、ごめんね七海。気を回してくれたのに触っちゃだめって忘れちゃってた。明日家入さんのところ行かなきゃだね。
     とりあえずごはん食べよ! 七海は食べれそう? あ、吐いたから水分摂らなきゃだよ」
     ぺちゃくちゃと喋りながら灰原はキッチンペーパーを手に取った。もう感染したからいいと思っているのか、七海が吐き出した花の処理を始める。ビニール袋の中にある弁当やらペットボトルやらを救出し、花を捨てるゴミ袋へと変えた。
    「……やらなくていい」
     嘔吐したものの処理なんて、人にさせたくない。ましてや灰原になんて。
    「いいよ、もう感染しちゃったし。あ、でもこれは僕の不注意だから七海は気にしないでほしいっていうか、ええと」
     キッチンペーパーを数枚取り、灰原の仕事を奪う。
     喋る気になれず無言のまま花をかき集めた。胸の中はぐるぐると不安が一杯で、自分の不甲斐なさに失望しそうだった。
     日頃から体力をつけているとは言え、嘔吐は肉体的にも精神的にも重い負荷がかかる。それを灰原にもなすりつけてしまった。
    「……口、ゆすぎなよ」
     頑固な性格であることを、灰原はよく分かってくれている。嘔吐物の処理をさせてもらえないと悟った灰原が大人しくコップに水道水を汲んだ。有無を言わさない雰囲気に、差し出されたそれを受け取る。
    「…………ありがとう」
     綺麗に拭き取って、花と一緒にキッチンペーパーを捨てる。ビニール袋を縛ってからありがたく口をゆすいだ。
    「お揃いになっちゃったね」
     照れ臭そうに、どこか申し訳なさそうに、灰原が笑う。感染させてしまったことを七海が悔いているから、そんなことは気にするなと言いたげな笑みだった。
     シンクにそのまま水を吐き捨てる。
     このまま、自分ひとりだけで抱えた気持ちも捨てられたら、楽になれるのに。

     重い、暑い、苦しい。
     そんな不快を感じながら目を覚ました。見慣れたカーテン、見慣れたサイドテーブル。薄らと朝日が漏れてきているのを認め、七海はまた目を閉じた。朝は強くない。
    「んん……」
     けれど二度寝をすることを、のしかかる三重苦は許さなかった。
     体を捻る。巻きつく正体を視界に入れ、七海は溜息をついた。言うまでもない、灰原である。
    「あつい……」
     うわ言のように呟いて腹に回る腕を掴む。寝起きの力じゃどかせない。身を捩って腕の中から抜け出そうとするとひっついてきた。
    「んん……」
     すうすうと健康的な寝息を立てる灰原に起きる気配はない。そのうち七海も面倒になって目蓋を下ろした。
     抱きつかれるのは、初めてではない。
     むしろ一緒に寝落ちた日は必ずと言っていいほど抱き枕代わりにされていた。鬱陶しい重さではあるが、七海はこの重さが好きだった。灰原とくっついている安心感は他の何からも得られない。布越しに伝わる高い体温も灰原が生きていることを教えてくれる。
     意識が遠のく。灰原に包まれてする二度寝は至高の時間であった。

     声が聞こえる。体を優しく叩かれている、気がする。
    「……み、ななみ」
     は、と目を開く。先ほどより若干明るくなった室内に、七海は迎えたくない朝を感じた。
    「起きた? おはよう! 具合どう? 大丈夫?」
     しぱしぱと瞬きを繰り返す七海をよそに、灰原は朝から喋り倒してくる。それにいちいち返事をするのも面倒なので、「んう」と鼻を鳴らして起きていることを伝えた。
    「朝ごはん食べようよー」
    「ん……」
    「まだ気持ち悪い? でも昨日起きなかったよね夜中」
    「んん……」
     欠伸が出た。ふぅ、と息をついてブランケットを手繰り寄せる。
    「それは……具合悪いの? ただ眠いの?」
    「んん……」
    「眠いだけじゃん!
     ね~朝ごはん~! 起きてよ~。家入さんのとこ行かなきゃだし~」
     聞こえた名前にハッと脳が覚醒する。
     そうだった、灰原も感染してしまったのだった。
    「……行きましょう」
    「ごはん!? 食べれそう!?」
    「家入さんのとこです」
    「え!」
     まだ起きてないんじゃないかな。
     そんな正論を述べる灰原を尻目に七海はベッドから抜け出した。

     昨日と同じ、白い壁の医務室。結局灰原の言った通り家入が早起きをしているわけはなく、一時間目のはじまる直前にここにいる。苦手な一般科目の授業から逃げられて内心ウキウキしている灰原には気付かず、七海は重々しく口を開いた。
    「灰原が、花に触りました」
    「…………マジ?」
     缶コーヒーを朝の一杯にしている家入が薄く笑う。ことの重大さをいまいち理解していない灰原は微笑みながら首を傾げた。
    「でも僕、吐き気ないんですよね。七海は起きてからちょっと吐いちゃったけど」
     朝、起きていない家入を何もせず待つなんて耐えられるわけがなく、結局ふたりで朝食をとった。空腹ではないが、食べられないわけでもない、そんな微妙な腹の具合に「食べれるなら食べておいた方がいい」と灰原が諭すので七海はそれに従った。
     普段なら美味しそうに食べ物を口に運ぶ灰原を見て癒されているのに、今日は違った。灰原が幸せそうに笑うたび、心臓を搾り取られるような痛みを感じた。それがどんどん吐き気へと変わっていったのだ。とうとう耐えられなくなり、食堂を抜けてトイレへ走った。
    「今朝は何吐いた?」
    「……向日葵」
    「夏だね~」
    「まだ夏じゃありません」
     呑気に笑う家入に頭が痛くなってくる。しかし、こんな厄介な病にかかって平常心を保てているのも、家入の落ち着いた空気のおかげでもある。
    「灰原は一回も吐いてないの?」
    「はい! 朝ごはんもおかわりしました!」
    「はは。いいことだよ」
    「僕はやっぱり感染してないんですかね?」
     顎に手を当てて目を細める灰原に、七海は悶々と昨日のことを思い出していた。
     灰原は、確かに手のひらに花を乗せた。花に触れることで感染するのなら、その時点で感染しているはずだ。
     しかし言われてみれば自分も花に触ってすぐに吐いたわけではない。その日の夜に発症したのだから、発症するまでに時間を有するのかもしれない。個人差があるような。
    「発症するやつらにはな、共通点がある」
     共通点、と灰原がぽつり繰り返す。
     そんな灰原を視界に入れることなく、家入は七海を真っ直ぐ見抜いて意味ありげに笑った。
    「…………恋、を、してない……」
    「正解。まあ七海も発症まで時間かかったから灰原も完全に発症しないとは言えないけどね。一昨日の任務で七海が花に触れたのが十五時頃だっけか? それから二十二時半過ぎに吐いたのなら七時間ほどは空いてる。灰原が花に触ったのは、今朝七海が吐いた時?」
    「いえ……昨日の夕方です」
    「よく寝れた?」
    「あ、はい、快眠でした」
     はは、と軽く笑いながらカルテか何かを書き込んでいく。
     八時間以上経過して何もないなら、発症する可能性はほとんどないという。七海はほっとして頭を下げ、灰原と医務室を出た。
    「七海」
     扉を閉めたところで灰原が声をかける。教室へ向かいながら「なんです」と返事をした。
    「好きな人いるの」
     灰原の静かな問いかけは音もなく七海を貫いた。

     その日は結局、七海だけ授業を休んだ。繁忙期ではないこと、二人がまだ低級なことが理由となり任務も入ってこなかった。
    『好きな人いるの』
     ベッドで寝そべったままの頭の中で灰原の声が響く。何度も何度も再生された、寂しそうな声。
     七海としてもこれだけ仲良くなれた人間はいない。友情以上の気持ちを抱いてしまうほどなのだから、この出会いは人生においてもとりわけ大きな出来事だと認めている。そう思っているのは自分だけだと悟っていたが、灰原も灰原で七海と親友でいようと努力していた。同級生が七海しかいないからか、五条と夏油の信頼し合う関係が輝いて見えたからか、七海には知る由もなかったが、とにかく灰原は七海の全てを把握しようとした。
     だから、ショックだったのかもしれない。灰原に何も教えず、七海がひとり恋をしていることが。全く気付かなかったことが。
    「……っ」
     じわじわと涙腺が緩む。あっという間に溢れて、シーツに染みを作った。ぐず、と鼻をすすって枕に顔を押し付ける。
     言えるわけない。当の本人に、恋をしていますなんて、言えるわけない。
    『そっか……』
     好きな人がいるのか聞かれ、思わず視線を逸らした。言葉を探したが見つかるわけもなく黙ったままでいると、灰原はぎこちない笑みを浮かべてそうかと溢した。無理に笑った顔は初めて見たわけじゃない。しかしその原因が七海になってしまったことは初めてのことだった。
     灰原に隠し事をしていたわけじゃないんだ。言ったら罪悪感で自分が潰れてしまいそうだったから、この想いは抱えたまま墓場まで持っていくと決めたから、だから言わなかっただけで、何も貴方を信用していないとか、自分を曝け出したくないと思ってるとか、そんなんじゃないんだ。
     ……と、言えたらどれだけ楽だろう。
    「ぅ、っぇ……」
     頭が上手く働かない。催した吐き気にも逆らわず、七海はそのまま花を吐き出した。床に吐き捨てるという考えすら浮かばなかった。
     小柄なリナリアの花は大量に吐き出されて枕を鮮やかに染める。七海はそれをぼんやり見つめ、ふらふらと口をゆすぎに立った。
     口内を綺麗にして最後の一杯を吐き出す。タオルで口を拭いたところで扉をノックする音と七海の名を呼ぶ声が聞こえた。比較的信頼している先輩の夏油だった。
    「七海、起きてる?」
    「……はい」
     話した覚えはないのに、夏油(と五条)は七海が面倒な病にかかってしまったことを知っていた。今朝すれ違った際に「完治するといいね」といつもの余裕な笑みでそう言われ危うく血管が一本切れるところだった。他人事だと思いやがって、と心の中だけで毒を吐く。
    『花吐くとか気持ち悪そ。なんも食えねーの?』
    『吐き気は不定期なので何も食べられないわけでは』
    『カワイソ~、薬とかは?』
    『治療薬ないんだよこの病。ね、七海。治るといいね早く』
    『…………どうも』
     この病は広く認知されているわけではない。
     その稀有な症状から存在は都市伝説のように知られているが、実際の感染経路や詳しい症状、治療については人々は関心を持たなかった。
     しかし夏油は何もかも知っているらしい。発症する条件も、完治する方法についても、七海の心も。
     痛くなってくる頭を抑え、七海は扉を開けた。
    「———灰原が吐いた」
     落とされた言葉に、七海の呼吸が止まった。夏油は眉を顰めたまま急いでいるように早口で話し続けた。
    「廊下で吐いたんだ、今は灰原の部屋に連れてってる。ご飯も食べれてない。一応水分は摂らせたけど、」
    「なんで……だって、朝、何も……」
    「…………発症条件が、揃ったのかもね」
     発症条件、と小さく零す。
     恋を、していたのか。なんで。今朝は何もなかったのに。吐かなかったくせに。どうして今になって。
     誰に、恋をしてる?
    「ぅっ、ぷ……ッ」
    「七海っ」
     先ほど吐いたばかりなのにまた胃が震えた。今までの嘔吐と比べ物にならないほど堪えきれない勢いのある吐き気で、七海はそのまま廊下にぶち撒けた。
     青紫や赤、鮮やかな色合いの花が落ちていく。アネモネ、と夏油が呟いた。
    「ぅ、え……」
     苦しい、気持ち悪い、まだ吐き足りない。ぐぐ、と胃を震わせて吐こうとしても、もう花は出てこなかった。昼食をとっていないためか胃液しか出てこない。
    「無理に吐こうとしないほうがいいよ」
     体を折って、夏油の足元にまで花を撒き散らす七海に夏油は優しく手を伸ばした。大きな手のひらが背中を摩るたびに幾分か気分が和らぐ。昨日の灰原の手のほうがずっと効果はあったけれど。
    「は、……」
     灰原。
     灰原に会いたい。
     どうしてかは分からない。余計苦しむことになるのは明白なのに、それでも七海は灰原に今すぐ会いたかった。呼吸を荒げながら隣の部屋を見る。黙ったままの扉、その向こうに灰原がいる。
    「七海の調子が良さそうなら看病頼もうかと思ったけど……七海も辛そうだね、何か欲しいものとか、」
    「いりません」
     少し胸が軽くなった。息を整えてから「片します」と断り部屋からキッチンペーパーを取ってくる。夏油の靴にかかってないのが不幸中の幸いだった。
    「……ビニールの手袋ない? ハンバーグ捏ねたりするでしょ?」
     直接触らなければ大丈夫だから、と夏油が微笑んだ。

     灰原、と呼びかけながら扉をノックする。返事がないので躊躇われたが、鍵がかかっていなかったため七海はそのまま部屋へ入った。
     廊下で吐いた花は結局夏油と二人で処理をした。いくら手袋をしようと人が吐いたものを片付けさせるなんて申し訳ないと思い断ったが、こういう時は甘えるものだよ、と受け流されたのである。
    『ご飯、食べれそう?』
    『……いえ、空いていません』
    『そう、水分は摂るんだよ』
    『はい』
    『吐けるといいね、百合』
     ビニール袋へ花を片しながら夏油が目を細める。その言葉の意味を知っている七海はどう返事をしたらいいか分からず、小さく首を横に振った。
     叶うわけありません、そんな意思表示だった。
     処理を終え、夏油に礼を述べる。それから口内を綺麗にして、ひとり、灰原に会いに向かった。
    「七海……」
     ノックをした際、返事がなかったが寝ていたわけではないらしい。普段うるさいくらいに元気な健康優良児が心細げにブランケットに包まっていた。
    「灰原」
     思わずベッドへ駆け寄る。病弱な印象を与える灰原に七海は泣きそうになった。
    「大丈夫ですか」
     枕に散らばる艶のある黒髪、シーツに沈む手。普段キリッとしている眉が下がっているだけで、こんなに雰囲気が変わるものだろうか。
    「……ん、大丈夫」
     気まずそうに視線を逸らしながら灰原は上体を起こした。寝てていい、と伝えても首を振るだけだった。
    「何か食べれそうなものとかあるか……ゼリーとか、プリンもまだ昨日のが……」
    「七海」
     心配する声が遮られる。静かに自分の名前を呼ぶ声が暗くて、儚くて、寄り添うようにベッドに腰を下ろした。視線だけで先を促す。
    「誰が、好きだったの」
     鳩尾のあたりが重くなる。まさかあの話が続いていたなんて思わず七海は息が詰まった。
    「それ、は……言う必要、ありますか」
    「ある。あるよ。ある……っ、知りたい、から」
    「灰原……?」
     ぽたりと、何かが落ちた。灰原の足元を覆うブランケットの上に。
    「だ、だれが、好きなの……」
     灰原が、泣いている。
     泣き顔は何度も見た。すぐに感情移入するから少しでも感動の要素があれば泣くのだ。一週間前の野生動物のドキュメンタリー番組だって簡単に灰原の涙腺を刺激した。
     自分の言動で灰原に無理な笑顔をさせてしまったばかりだというのに今度は涙まで。これももちろん、七海が原因となったのは初めてのことである。
    「———……灰原」
    「……なに…………?」
    「灰原、が……好きでした……」
     息を呑んだ灰原が顔を上げて七海を見つめる。七海にはまだ灰原と目を合わせる勇気は出ず、シーツにばかり視線を向けた。
    「え……え、い、今は?」
    「……いま、も」
    「ほ、ほんと? ほんとに?」
     話してしまったことに罪悪感が募る。灰原に何度も確かめられているうちに怖くなって睫毛が震えた。ぽた、と腿に水滴が落ちて初めて自分が泣いたことに気付く。
     焦ったように灰原が手を伸ばしてきた。腕を引かれて向き合うような体勢になると両肩を掴まれる。
    「僕も好き」
     今度は七海が息を呑んだ。たった五文字の言葉に心臓を射抜かれて瞬きすら忘れた。
     目線を上げる。祈るような表情の灰原とようやく目を合わせて、体の中心が震えた。心臓でも、具合の悪い胃でもない。中心というより体全体と言った方が正しいかもしれない。魂がじわじわと湧き起こる本能的な喜悦に耐えられず震えているようだった。
    「……うそ、だ……」
    「嘘じゃない」
    「じゃあ、だって、なんで、吐かなかったのに、なんで、でもさっき吐いたのは、」
     落ち着いて、といつも通りの笑顔を見せられる。ぐし、と荒々しく目尻に溜まった涙を拭ってから、対照的に七海の目には壊れ物に触るような手つきで指先に雫を乗せた。
    「夏油さんに言われたんだけどさ」
    「……はい」
    「あれ、片想いしてるから発症するわけじゃないらしいよ」
     ぱちぱち、と瞬きを繰り返す。
     七海だって知っている。単に恋をしている者が発症するわけではなく、叶わない恋をしているからそれが苦しくて、花になって吐いてしまうのだと。
     それを告げると灰原は「あー」と目線だけ天井を向いて言葉を探した。
    「ニュアンスは似てるけど……正しくは〝片想いを拗らせる〟と吐くんだって」
    「こ、じ、らせる……」
    「うん。僕、前から好きだったけど拗らせてはなかったから発症しなかったんだと思う。ちゃんと告白するタイミングとか考えてたし! 七海の好きなものもっと知って、もっといろんなところ遊びに行ってさ、『もう僕たち親友以上じゃない!?』ってなったら、告白する気だった!」
    「…………そ、そう、ですか」
     真っ当すぎる。
     同性だからとか、灰原に釣り合うのかとか、灰原の未来のこととか、呪術師という生きる道のこととか。いろいろ考えて塞ぎ込んでしまった自分が馬鹿みたいだと七海は呆れた。同時に、灰原の底抜けに明るく前向きな性格をまるで照りつける太陽のように感じた。
     拗らせてないから灰原は発症しなかった。しかし今朝になって七海には好きな人がいると知らされて真っ直ぐ伸びた恋の道を走れなくなってしまったわけだ。
    「僕のこと好き?」
    「……はい…………」
    「好きって言って」
    「す……好き、です」
     へへ、とだらしなく、けれど本当に幸せそうに灰原が笑う。僕も好き、なんてさっきも聞いた台詞を何度も伝えてくるから、ずっとずっと欲しかった言葉にまた涙が滲んだ。
    「……ッ、ぅ」
    「七海!? あ、……っ」
     多幸感の中の、吐き気。
     一瞬驚いた灰原もすぐに七海と同じように下を向いた。
     ぼと、と花が二つ落ちる。お互い吐いた花は同じ色、同じ品種のものだった。
    「……百合」
     白銀色の百合が静かにシーツに舞う。可憐なそれは祝福を奏でるラッパのように大きく咲き誇っていた。


     三日連続の医務室。百合を吐いてからすっかり症状のなくなった七海と灰原は報告のため家入のもとへ来ていた。今日は土曜日なので授業はない。
    「へえ、じゃあ完治だな」
    「やったー!」
     まるで物語を読み聞かせするように灰原が大きなジェスチャーを交えて家入に説明するので、七海はこの場から逃げ出したかった。先輩相手にいろいろ話しすぎな気がする。あと吐いた百合はそこまで大きくなかったぞ、と誇張するジェスチャーにつっこみを入れてやりたかった。
    「おまえも拗らせなきゃすぐ治っただろうに」
    「……すみません」
     遠い目をしながら謝る。こういうときは全てを受け流すに限るからだ。
    「ということで元気になったので遊びに行ってきます!」
    「おー、気をつけてな。街中でキスするなよ」
    「まっ、まだしません!」
     これからもするもんか、街中でなんて。
     頭を下げて医務室を出る。散々花を吐いた自室に戻り、財布やら携帯やら必要なものだけ持ち出す。
    「七海ー、行ける?」
     まさに靴を履こうとしたタイミングで灰原が廊下から声をかける。返事をするまでもなく施錠していなかった扉が開いた。
     体調も戻って胃も元気になった。今日は昨日の分まで取り戻す勢いで昼食をたくさん食べようと二人で決めてある。灰原と七海、それから先輩達も御用達の食べ放題の店。少し値が張るものの食事のクオリティも高い。
    「夕方の天気が怪しい。傘持ってくか?」
    「んー」
     足元を見ながら靴を履く。伏せた睫毛に灰原の浮ついた声が届いた。
     食べることしか考えられないからだな、と笑って顔を上げる。気付かぬうちに灰原との距離が狭くなっていて、すぐ目の前に照れたような顔があった。一瞬だけ驚いてぴくりと体が跳ねる。
     二の腕を掴まれた、と思った瞬間に、唇に柔らかいものが触れた。
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