一匙の悪しき心「伊地知さん、恵は卵のおかゆが好きなの」
「へえ、じゃあ一つ出してもらって良いですか?」
間もなく日が沈もうかという頃合い。小さな小さな六畳一間。台所ではくつくつとなにかが煮える音。
顆粒の出汁とほんの少しの塩とを準備して、伊地知は昼ごはんを食べたままと思わしき食器達を洗っていた。午前の授業が終わった辺りで津美紀から電話を受けた伊地知は、恵の体調不良を知らされた。幸い、任務もなくアパートに直行し、制服を脱ぐ間もなく台所に立っていたのだ。小学生二人は本日学校を休んだらしい。
冷蔵庫から卵を取り出した津美紀は、その丸みを大切そうに両手に持っている。
「私、卵割るの得意なんだよ」
「じゃあ混ぜるところまでお願いします」
伊地知と津美紀が穏やかに笑いながらも、恵を気遣って小さな声で会話をしている。その声が心地よく、しかし発熱している身体は重く、恵は寝返りを打つことさえも叶わなかった。無理に身体を動かせば呻き声が出て二人を心配させてしまいそうだ。そんな思いもあり、ふうふうと熱い呼吸を繰り返している。
洗い物を終えて手を拭いた伊地知は、恵が寝ている布団の傍に膝をつく。
「薬を買ってきたから、おかゆを食べたら飲みましょうか」
「……ゃ、だよ。いらねぇ」
「もう小二でしょ? 恵が飲める甘いの買ってきてもらったんだから飲みなさい!」
一つ年上の異母兄弟は手厳しく恵を叱りつける。伊地知からすればまだ小学二年生。養育者もおらず熱が出たなんて心細かったに違いない。伊地知はそっと額に手を置いて、熱の篭った幼い恵を労わった。
「熱いですね。苦しいでしょう。濡れタオルを用意しましょうか」
水気まだ残っている冷たい手が心地良いのに離れてしまう。
「ぁ……」
「どうしましたか?」
「……おでこ、しててほしい」
「うん、いいですよ」
優しい微笑みとともにまたも乗せられたひやりとした大きな手。気持ちいい。ほっとする。恵の熱ですぐにぬるくなっていくのに、どうしてこんなにも安心するのだろうか。
幼い恵にはその心地を説明するだけの技量はなかった。ただ、じわりと迫る眠気にうとうとと身を任せ、この手がずっとここにありますようにと小さく祈っていた。
そんなこともあったな、と懐かしく思いながら呪術高専生になった恵は鍋に火をかける。火は弱いが米と水が踊り出す前に、と単身者向けの築浅マンションかと思うほど綺麗な廊下を歩く。ここは呪術高専内の寮室だが、学生と特級術師とではここまで差が出るのかと思うと世の摂理と理不尽を感じてしまう恵である。手に持ったスポーツドリンクが汗をかいているが、常温の方が良かっただろうかと思いながらも扉を開ける前に一呼吸置いて、小さくノックをする。しかしその中からはなんの返事もない。仕方がない。そう自分に言い訳をしてからノブを捻った。暗い部屋に廊下の明かりが差し、こんもりとしたベッドの布団が動く気配。
「ん……ごじょ、さん……?」
「すみません、俺です。五条先生から連絡きてないですか?」
「……っ、すみません。連絡いただいてましたね……」
いつもは眼鏡できちりとスーツを身にまとっている伊地知が、非常にぐったりとした様子でTシャツ姿で横たわっている。掠れ声で呼んでいた名前は、彼の上司であり恋人である特級術師のもので、ほんのりと期待と甘えが乗った声色が恵にとっては毒であった。
恵の師であり恩人である五条は現在仙台出張であるが、伊地知が補助監督室で倒れたという旨の連絡を家入から貰っていたらしい。しかし、家入が立て込んでいたことと、本人も解熱剤が切れただけですと強く言ったこともあり、診察は即終了。帰宅中に倒れそうだという判断から現在最も療養に向いているであろう五条の部屋にて身体を休めている、という顛末である。
恵の自主鍛錬中に、携帯が鳴り響いたのが三十分前。
『ってことで、ほんとは僕が伊地知の傍にいたいんだけどさぁ。まあ仕方ないから恵よろよろ~』
という指令が下った。なぜ俺が、と思った恵だが、その理由は分かっている。小学生の頃から呪術の鍛錬を呪術高専で行なっていたのだ。反抗期に入る前までは、鍛錬後に伊地知や家入と、五条のこの部屋で夜ご飯を食べることもあった。関係性や距離感が、他の学生とは違うのだ。
五条の部屋に足を踏み入れた時は久しぶりに入ったな、と間取りを思い出していたが、流石に寝室に入るのは初めてで内心あまり落ち着かない。見たことがないくらい大きなサイズのベッドが、これは五条だけで寝ることを想定されたものではないのだと思い至らせてきて視線を彷徨わせてしまう。確かにこんなプライベートな空間に他の学生が入るのは気を使うだろう。
身体を起こそうとする伊地知を手で制しながら、恵は用件だけを端的に伝えた。
「おかゆ、作ってるんで飲めるんなら先にスポドリどうぞ」
「ありがとうございます。……伏黒くん、おかゆ作れたんですね」
「津美紀に教わったんで」
その津美紀はあなたから教わったんで。という軽口は言えなかった。好意を寄せている人間が目の前でいかにも具合の悪そうな顔をしているのは心への負荷がかかる。いつもよりも掠れた声と、ゆったりとした喋り方が痛々しい。
「伏黒くんは、卵のおかゆが好きでしたもんね」
「……そんなしょっちゅう熱出してないですよ」
幼い頃の自分の好みを覚えていてくれたことに心が跳ねてしまう。誤魔化すように熱はあるんですか? と聞けば、そうなんです、と力なく笑う顔。かつて伊地知や津美紀がしてくれたように、どれ、と額に手を当てると驚くほどに熱かった。
「あ……きもちい」
ひやりとした恵の手に目を閉じてうっとりとする伊地知は、弱く、脆く、あまりにも迂闊に見える。弱っている姿など、親類や恋人でもない他人に易々と晒すものではないだろうと恵の中に滲む苛立ち。手を離した恵は、ああ、と思い出した風を装って、鍋の様子を見に行きますねと踵を返した。
火の元まで帰りつくと、米がたっぷりと水を含んでやわく崩れ、とろりとしたおかゆが出来上がろうとしていた。伊地知は顆粒出汁を使っていたなと探してみたが塩しか見つけられず、ぱらぱらと塩をふって味をみる。元より食が細い人があんなにぐったりしていては量自体が食べられないかもしれない。そう思いつつも皿を探すべく簡素な食器棚の引き戸を開いた。
ペアの平皿、ペアのマグカップ、ペアの茶碗。どこを見ても五条と伊地知、二人だけのもので溢れていてなんとも言えない気持ちが込み上がる。割れてしまったのか相方のいない白磁の椀を選び取って、それにおかゆを注ぎ分けることにした。
次にスプーンは……と引き出しを開けようとすると、ポケットの中に入れていた携帯が震えて、着信を知らせる。発信元の名前を見てげんなりしたのは一瞬だけで、いつも通りに通話ボタンを押した。
「はい」
『伊地知どうだった?』
低等級の任務の感想を聞くくらい、軽い調子で尋ねる特級術師。無駄に整った、あの緊張感のない顔が目に浮かぶようだと思いつつ、恵は木のスプーンをチョイスした。
「熱は高いです。今から薬飲ませますけど。……俺が最悪な男じゃなくてほんとよかったですね」
『知ってる~。恵が最低な男じゃないから任せたんだよ』
「……」
『おーい? めぐみぃ?』
「あんた、ほんとに最低っスね」
『それも知ってるって。でも恵じゃなかったらあいつもっと気ぃ遣うでしょーが』
「……。分かってます」
なにを明言した訳でもない、なにを宣戦布告したわけでもないのに、五条は当然のように全てを見抜いており、その上での「お使い」だったと知らされた。恵とて、病人にあれこれしようなどという気は全く起きないが、仕事では決して見せないであろう姿を見せられて動揺せずにいられるほど達観してもいなかった。
『明日には帰るからって言っといて』
「俺づてで言わせようとすんの性格悪いですよ」
『バレた? まあいいや。伊地知をよろしく』
そんなこと言われなくても、やるべきことはちゃんとやる。と内心で言い返してあまりにも失礼な電話をぶつ切りした。
他の学生や同僚だと伊地知が気を使うだろう。家入は緊急の処置が入っている。小学生の頃から何かと面倒を見ていた恵ならば他の者よりは勝手が分かるだろうし、性格的にも構いすぎずに必要最低限のことをして去るだろう。それらが、自分が選出された理由である。はっきりしている。そういうことだ。と恵は自身に言い聞かせる。
恋のライバルになどならない、伊地知は恵に靡かない
そう算段をつけているであろう五条が意地悪く舌を出している姿が恵の脳内に浮かんだ。あまりに馬鹿にした仕草をしてくる想像上の恩師にカチンと腹を立てつつ、椀におかゆを少量だけ。
おいしいです、ありがとうございます
熱で朦朧としながらも、伊地知はきっとそう言って小さく微笑むのだろう。警戒もなしに、恵の善意を信じ、なにが入っているかも分からないおかゆを口に運ぶのだろう。
恵は自分の下心と劣等感が恐ろしく肥大していくのを感じてしまった。病人相手にどうこうという話ではなく、伊地知という人間が己を懐の深いところに入れてくれている嬉しさよりも歯がゆさが勝ってしまったからだ。
師に言った前言を撤回しよう。実行には移さずとも、自分は充分最低な男である。師にも、想い人にも、信頼されるに値しない。彼らの信頼を損ねることなど決してしないと誓うが、ぐんぐんと秘密裡に育つだろうこの後ろ暗い感情は、いつか飼い慣らすことができるだろうか。
悪人を自覚した恵はきゅっと口元を引き締めて、優しく寝室の扉をノックしたのであった。
終