沈黙の贖罪。「ヨルン、もう帰るぞ」
「……、」
「ヨルン」
返事のない様子にため息をつき、クレスはヨルンの腕を引っ張り上げる。掠れた吐息と嗚咽をヨルンは吐く、そのため息に沈まぬようにクレスは一層強く彼の腕を掴んだ。
「(今日はひどいな)」
一向に歩き出せそうにないヨルンの背を撫でる。普段ならば嫌がるその仕草も今は反応する気力もないのだろうされるがまま。ぐったりとしたヨルンを見かねて寄りかかるように促せば、彼はクレスの大柄な体にそのまま寄り縋った。
足元には黒く澱みはじめた血の泥が広がっている。普段であれば必ず銭を供え祈っているだろうに、今は立つだけで精一杯のようだった。
クレスはヨルンが動くのを待つことにした。
彼は時折こうなることがあった。ぴたりと静止して動かなくなる。それは大抵根深い部分で痛みを堪えている時だということを、クレスはこれまでの付き合いで理解しつつあった。
顔には出ないが彼にとっても人を殺めることは大きなストレスなのだろう。
ヨルンの仕事というものは精神的な負荷があまりにも大きなものだ、長い間慣れ親しんだとてそれを帳消しにすることは難しい。
酒も飲まない、色も好まない。煙草なんてもってのほか。ストレスの負荷は凄まじい癖してそれを消化する悉くが苦手ときた。
酒を飲まないのは体に合わないから。色も好まないのは盗餓人を見てきたせいで行為を見ただけで気分を害するから。煙草は臭いで気持ち悪くなるから。元から抱えている痛みが大きすぎて何も受け付けないのだと、かつて似た経験をしたクレスには理解できてしまっていた。
こればかりは……何をどうやって上手くやれないのだ。
どう足掻いても本人の問題だ。手っ取り早い酒も彼に頼まれて酒の飲み方を教えたりもしたが、結局ダメだった。酔えないのだ、彼は。
酔いも、祈りも、果ては縋ることさえも。
「(自縄自縛だ。……本当にこれでいいのか?)」
辺獄を見てからというもの彼が静止することが増えた。
『この仕事が自己満足でしかないことは分かっているつもりだった』
辺獄での探索にある程度慣れが出始めた頃、クレスは一向に眠ろうとしないヨルンを叱ったことがあった。何日も寝ていないせいで異様にハイになっていたのだ。……時折写記やら試練やらで追い詰められすぎて尋常じゃないハイテンションと集中力を見せることはあったし、実際その状態に入ったヨルンはこれ以上なく強いのはクレスも認めているものの状況が状況だ。
”お前いい加減にしろ“と一喝怒鳴った。休む判断を忘れるほどに冷静さを失ってる場合じゃないのだと、その強さを出すのは今ではないのだと言うつもりだった。
『ただ、それでも、俺がやってきたことはなんだったのだろうと』
そうして宿屋の一室で胸ぐらを掴んで吐き出させた言葉が、クレスの耳に未だ張り付いている。
『今更…‥どうしたらいいんだ……』
『分かってた。ここからの人生ずっとおんなじだ、わかってたつもりだった』
『まっくらだ、何にもない……最初から、何も、おれは何もできていなかった』
徹夜でハイになっていた熱が急に冷え切り、ぽつりぽつりとした吐息が徐々に嗚咽になる音を聞いていた。
『飲み込まなければいけないはずなのに、向き合うと恐ろしくておかしくなりそうなんだ……! クレス! 教えてくれ……俺はどこへ向かえばいい? 何を殺せばいい!! いっそ誰か決めてくれ……』
"もう何も考えたくない“と喚いたヨルンを、クレスは結局また一発ぶん殴ることになった。
何が正解だったのか、クレスにもわからない。クレスも頭に血が昇ってそれどころではなかったし、あの時は感情のまままた怒鳴ってしまって部屋から飛び出してしまったのだ。
ただそれでもあの時殴られ倒れたヨルンは、次の日の朝にはクレスに頭を下げてきた。『昨日はすまなかった』と、『これからも、これからのことも……自力で考える』と。
『考える時間をくれ』と。
クレスは途端にヨルンのことが恐ろしくなった。
昨晩確かにヨルンに立ち止まらせるために声をかけた、”休む判断を忘れるな、旅団を率いる立場だということを忘れるな“と言いたかっただけで、全ての現実を飲み込めと言うつもりはなかった。
クレスは、ヨルンが見ている辺獄がどんなものかを全く想像できていなかったのだ。
「(最悪だ、なんで考え付かなかった? こいつは今自分が人生かけてやってきたことが全部ひっくり返されてるんだぞ! ……だめだ、何を言っていいか……)」
人を率いる長の先達のつもりでヨルンの少し前を歩いてきたクレスにとって、今回のすれ違いは重いものだった。
これまでの旅ややり取りでもあった根本的なズレが、生きてきた世界の違いの差が、こうして時折牙を剥いてくる。
それでもクレスは先達として立ち続けてきた。最初は、今に思えばクレスはヨルンを利用したかっただけなのだろう。
「(タイタスへの復讐が、いつの間にかこんなに遠くまで来てしまった)」
使えると、思ってしまったのだ。地べたとかしたクレスよりも年若く、人の才能を見抜き人を動かすセンスもあった。こいつを育てればあのタイタスの首筋に手が届くかもしれないと欲を掻いたのだ。
実際、クレスの思惑は成功した。成功してしまった。
タイタスを倒したことでクレスが旅を続ける理由を失った。そして言いくるめて騙すような形でクレスの代わりに団長を背負わせたヨルンへの、どうしようもない罪悪感が残った。
罪悪感を感じさせまいとクレスはずっと”元雪狼”として強かな先達のように振る舞ってきた。全盛期を過ぎた体ではあるものの、それでも頼ってくるヨルンを失望させたくなかったのだ。
「(お前に行き先を決めてもらっていた俺が、文句を言えた話じゃないんだ。でもお前が求める俺は、今一番求めてる言葉はそうじゃないんだろ)」
本音を押しつぶしながらクレスは傍のヨルンに問いかける。
お前は、どうしたい?
「きついか」
頷く。
「もうやめにするか?」
少し考え、首を振る。
「……やめたくない」
絞り出すような声で、ヨルンは確かに答えた。
「そうか」
誠実であればあろうとするほど正しさが首筋を押し潰す。けれども正しさや道徳的な尊さこそが、こうまでしてでも戦うヨルンの旅の理由なのだ。
罰のようだった。
代わってやりたかった、甘えさせてやりたかった。許して、やりたかった。
だけれどもそれらは全てヨルンにとっては致死性の甘い毒でしかないのだ。それを分かっていて与えるのはクレスの自己満足でしかない。
それはきっと、正しいとは言えない。
「歩けるか?」
こくん、と。小さく頷いた彼はクレスから離れ、ゆっくりと死体の側に膝をつきそっと硬貨を置いた。
そんな祈りを、クレスはただじっと見つめていた。
/
時間はそこそこ流れ、決戦という幾らの決戦を乗り越えて、神の門ですらも勢いのまま蹴破り諸々大きな問題が片付いた翌る日のこと。
「まさかこいつを介抱する日が来るとはな」
クレスは珍しく酒場でため息をつくことになった。
「んー……」
「大丈夫か?」
「むりだな」
「そうか」
カウンター席で溶けるように突っ伏しているのがあのヨルンだとは、世の中不思議なこともあるもので。
どうにもウィンゲートやナールといった同年代の友人たちと呑んでたら、隣から乱入してきたミディヤたちに見事に潰されたらしい。
セイルが申し訳なさそうにクレスを呼びにきたので何事かとも思ったが、友人相手にハメを外せるようになったと思うと中々感慨深い。
「ねむい……」
「歩けるか?」
とりあえず部屋まで付き添ってやろうと様子を伺うと、ヨルンはじっとクレスを見て、そしてふっと目線を逸らしこういった。
「……。むりだな」
「一瞬迷っただろお前」
「そんなことはない。今日はもうだめだなぁ、誰かが手伝ってくれないと動けないなぁ」
顰めっ面が酒でふにゃつき、無防備で普段とは全くかけ離れたふわふわでダルダルな物言いをしては期待するようにクレスを見上げている。
これじゃあ、足元に転がってべろんべろんに伸びて甘える猫のようだ。
「ガキかお前は……。全く、部屋まで送ってやるからちゃんと歩け」
「水欲しい」
「後で持ってくから大人しくしろ」
「さすが副団長、やさしいな」
「褒めても何にも出ないぞ、団長」
肩を貸してずるずる歩く。全身の力が抜けてクレスに全力で寄りかかってくる重さが、なんだか心地いいのはきっと酒の匂いに当てられたに違いない。