Gのフェルマータ「弾けんだ、ピアノ」と彼は言った。
「意外?」
わたしが訊ねると、「いいや」と首を横に振る。
「『ピアノとか、いかにも高尚な趣味を持ち合わせているとは、やっぱスペーシアンのお嬢様は違うな』なんて言ったら、その喉噛み切ってやるから」
鍵盤の上に右手を滑らせ、ゆっくり指を押し込む。
まずはCの音。――うん、ちゃんと調律されてる。
ドレミファソラシドシラソファミレド――と音階を弾いて、
「習っていたのよ、子どもの頃に」
D、A、C――
「クソ親父に無理矢理やめさせられたけど」
E、G、C――
「ピアノ、好きか?」
D、F、G、H――
「うん」
C、E、G、C――
「鍵盤に指を落とし込むだけで、呼びかけたら応えるみたいに音を返してくれるから」
まるで友達に手を振ったら、何の屈託もなく振り返してくれるみたいに――
カデンツァの次は、レッスンをやめる直前まで練習していた前奏曲の旋律を右手でたどる。
「手が小さいから、和音を弾くときもオクターブを鳴らすのがやっと。楽譜通りに拾えない音もあって、もどかしくて」
――どれだけ離れた鍵盤にも楽々届く大きな手に憧れたの。
ふいに、背後に気配を感じた。
背中からわたしの身体を覆うようにして、鍵盤の上、わたしの手の甲に重なる彼の手のひら。わたしの指のあいだに彼の長い指が入り込む。
「え、あの、ちょっ……」
「マジでちっちぇえ手」
わたしに寄り添う、わたしよりも少しだけ低い体温。短く切りそろえられた爪。少し荒れた指先。
心臓が跳ねる。肩が縮み上がる。
「拾えなかったのって、どの音?」
「え? ええっと……」
一瞬でからからに乾いてしまった喉から、わたしは声を振り絞り、Gdurの鍵盤の場所を彼に告げる。
わたしの指だと届かない鍵盤に彼が指を落とし込む。
わたしの指だと拾えない音を彼の指が拾い上げる。
わたしの音。
彼の音。
ふたり一緒に鳴らす音が重なって、むかしのわたしが諦めたハーモニーを奏でる。
(これって、これって――)
「初めての共同作業?」
「は? 調子に乗るなよ」
胸の奥がくすぐったい。鼻で笑われたって気にしないわ。
「なあ、この曲って弾ける?」
ふんふんと彼が鼻歌で奏でるメロディは、わたしもよく知ってるメロディだった。最初で最後の発表会で弾いた曲だ。一生懸命練習した曲だ。数年ぶりだけど、指が覚えているはず。
「まかせて」
ウレタン製のクッションが張られた椅子を引き寄せて、ペダルに右足を乗せる。軽く息を吸い込み、左手でオクターブのGの音を拾う。右手を滑らせて、三連符のモチーフが紡ぐメロディを奏でる。
弾き初めはちょっぴり不安だったけれど、だいじょうぶ。弾けるわ。
――好きな曲なの?
ピアノを弾きながらわたしが目顔で訊ねると、いつものいじめっこみたいな顔じゃなく、穏やかにはにかんで、彼はこくんと頷いた。
ああ、かみさま。
彼はこんなにも容易く、わたしに呪いをかける。
だって、もう手遅れ。上書きされてしまった。
舞台袖で覚えた緊張感でもスポットライトの熱でもあたたかい拍手でもない。
このメロディを聴く度に、わたしは今日を思い出す。わたしは彼を思い出す。
(もうっ……、どうしてくれるのよ……)
鼻の奥がツンと痛い。
かみさま。
わたしの望みは、わたしの檻。
わたしの喜びは、わたしの鎖。
かみさま。
かみさま。
どうか。
――彼にも同じ呪いを。
終止線から数えて最後の二小節。リタルダントをかける。
ふたりきりの音楽室。
かすかな灯油の匂い。
ため息のように響くGの和音。
わたしの子どもじみた祈りは、降りしきる雪と一緒に、フェルマータの余韻に溶けていった。