不機嫌の理由 なかよく教室を出るミオリネさんとシャディクさんを見送った後、わたしは図書室へ向かいました。今日は第三水曜日。月に一度、エランさんとおすすめの本を紹介し合う日です。
(今月のおすすめ本は何かな……)
少女漫画はたくさん読んでいるけれど文字の本はあまり読んでこなかったわたしでも読みやすい本を図書室の蔵書から見つけて、エランさんが教えてくれるのです。そのお礼に、わたしもおすすめの少女漫画をエランさんに紹介しているのです。ミオリネさんと一緒に買ったぬいぐるみチャームを付けたスクールバッグの中には、わたしからエランさんへの『今月のおすすめ本』がばっちりスタンバイしています。
ちなみにミオリネさんは茶色のベレー帽をかぶったタンポポ色のゴールデンレトリバーさんのぬいぐるみを、わたしは緑色のTシャツを着た白い毛並みの垂れ耳わんこさんのぬいぐるみをスクールバッグに付けています。
(先月エランさんから教えてもらった、衣装だんすの奥にふしぎな国が広がっているお話もおもしろかったな。お話の中に出てきた、いくらでも食べたくなるプリン、わたしも食べてみたいな)
エランさんが教えてくれた新しい本のページをめくる度に、わたしはいつも、新しい世界の扉を開いているような心地になるのです。
図書室の扉を開け、カウンターの図書委員さんにぺこりと挨拶をします。書架のあいだを抜け、閲覧スペースへ向かいます。いつものように長方形の大きな机に文庫本を拡げて座っているエランさんの後ろ姿が見えました。
きれいな後頭部。タッセルの耳飾り。
胸の奥がきゅうんとします。
エランさんが今日もわたしを待っていてくれた――それだけで、背中に羽根が生えてふわふわ宙に浮かんでしまうのではないかと思えるほど、幸せな気持ちでいっぱいになるのです。
すうっと息を吸い込んで、わたしは一歩前へ足を踏み出しました。
「こ、こんにちは」
図書室で落ち合うのは今日が初めてではないのに、エランさんに声をかけるこの瞬間はいつも緊張して、心臓が口から飛び出てしまいそうになります。
読んでいた文庫本からエランさんがゆっくり顔を上げます。ちらりとわたしを見て、
「こんにちは」
(あれ?)
気のせいかでしょうか、エランさんの表情が、少しばかりくもっているように感じるのです。
(エランさん……、何か怒ってる? わ、わたし、自分でも気づかないうちに、何かしでかしてしまったのでしょうか?)
先ほどとは違った意味で心臓がバクバクします。不躾かとも思いましたが、自分の気持ちなのに自分で気持ちを抑制することができません。わたしはまじまじとエランさんを見つめました。
「――どうかした?」
エランさんがふたたび顔を上げます。
「あ、あの……」
エランさんの向かい側の椅子に腰をおろしながら、わたしは思い切って言いました。
「エ、エランさん、何だかご機嫌ななめのように見えます。もしかして、わたし、エランさんに何か失礼なことをしてしまったのでしょうか?」
榛色の瞳を丸くさせて、エランさんはわたしからぷいっと顔を背けました。
(ああっ! やっぱりわたし、何かやらかしちゃったんだー!)
顔からさあっと血の気が引いていきます。口の中がからからに乾いていきます。
何か言わなければ……と、ぐるぐるする頭で言葉を探そうとしたとき、机に頬杖をついたエランさんが、わたしから顔を背けたまま、ぽつりと言いました。
「――さっき、君を教室まで迎えにいった」
「ほえ?」
ちょっぴり拗ねたような口調で、エランさんが言葉を続けます。
「シャディクとずいぶん楽しそうに話していたよね。せっかく話し込んでいるのに邪魔をするのは野暮だと思ったから、声はかけずに先に図書室へ来たんだ」
「ほ……え?」
――シャディクさん……と、わたし、が?
(ほええええ!)
わたしは首がもげそうな勢いで頭をぶんぶん横に振りました。
「た、たたた、確かにシャディクさんと話していましたけど、先週のテニス部の練習試合で見たエランさんがものすごくものすごくものすごぉーくカッコよかったってことを、シャディクさんに語っていたんです!」
「え……」
エランが、みたび顔を上げます。ついさっきまでエランさんのまわりに漂っていた不機嫌な空気が、いまはきれいさっぱり消え去っているように思えました。
ある可能性を察して、どくんと胸が高鳴ります。
(こ、こんなこと聞いたら、自惚れすぎてるって思われるかもしれないけれど……)
それでも、聞いてみたい気持ちを止めることができません。わたしはごくんと唾を飲み込みました。
「エランさん、ひょっとして、じ、じぇらしー? って、ヤツ……ですか?」
――わたしがカッコいいって思っているのは、エランさんだけですよ?
本音を忍ばせながらわたしがおずおず訊ねると、エランさんは穏やかに目もとを弛ませて、ごめんと言いました。
「君の言うとおりだよ。シャディクと話しているときの君があまりに愛らしい顔をしていたから、おもしろくないなって思ったんだ。後ろ向きな気持ちが膨らんで、つい子どもみたいな態度を取ってしまった。君は何ひとつ悪くないのに、僕が勝手に嫉妬して勝手に不機嫌になっていただけだ。ごめん」
「エランさん……」
エランさんから放たれた言葉が、あの日の強烈なサーブのように、わたしの心に深く突き刺さります。
「い、いえ、そんな、エランさんが謝る必要なんて全っ然ないですよ。むしろ、その、不機嫌の理由が分かって、わたしはほっとしているというか、喜んでいるというか……」
「うん」
しどろもどろになってしまうわたしを優しく見つめて、エランさんがゆっくり頷きます。慈しむような眼差しが、わたしに無限のパワーを注いでくれているような、そんな気がするのです。
「とにかくです! エランさんがヤキモチを妬いていたって分かって……、わたし、すごくすごく嬉しいんです!」
それに……と、わたしはふふっと笑って言いました。
「『愛らしいものについて語るとき、語る側も愛らしくなる』って、前にエランさんに教えてもらった本に書いてありましたよ。断言できます。シャディクさんと話しているときのわたしが愛らしく見えたのだとしたら、それはわたしが、わたしの愛らしいと思うひとについて話していたからだって」
「スレッタ……」
目と目を合わせて、わたしたちはふたり同時に笑みをこぼしました。
「ひとつ、いいかい?」
「はい。ひとつでもふたつでもみっつでも、いくらでも何でもどうぞ!」
「カッコいい云々の話、これからは他の誰かじゃなく、一番初めに僕へ直接伝えてほしいな」
「~~っ!」
――エランさん、今日も殺人スマッシュがキレッキレですぅ!
心拍数がめきめき上がっていくのを感じながら、わたしはこくこくこくこくと何度も何度も頷くのでした。
(このあとすぐに図書委員さんから『静かにしてください』と注意されちゃいましたが、エランさんがわたしに向けてくれた慈しむような眼差しを、わたしは生涯忘れることはないでしょう)