アノコノハネ これから果し合いに向かうので、立会人を務めてくれないか。
我らが団長、双頭院学くん(リーダー)からそんな頼みごとをされたのは、冬休みが終わって一週間ほどが経過した週末の放課後、美術室の扉を開けてすぐのことだった。
「はなしあい?」
一瞬聞き間違いかと思って確かめたが、
「いいや、はたしあいだ」
わたしの聴力は、いたって正常だった。
二十一世紀のこの時代に果し合いってどういうことなのと考える時間も、承諾しようか拒否しようかを考える時間も与えられなかった。いつぞやの夜のようにリーダーに手を引かれたわたしは――半ば強制的に――、果し合いが行われるという美術室のテラスへ連れていかれることになったのだ。
「果し合いって、いわゆる決闘のことよね。ねえ、リーダー。誰かに手袋でも投げられたの?」
古い映画でそんなシーンを見たことあるような気がする。
「手袋ではなく書状だ。投げられたのではなく受け取ったのだ」
そう言って、リーダーが懐から取り出したのは、一通の封書だった。よくある封筒ではなく、入学式や卒業式で祝辞を述べる来賓が懐から取り出すあれ――折りたたんだ白い紙で祝辞が書かれた紙を包んでいる形状のあれ。その表に、墨痕あざやかな達筆で『果し状』と書かれている。
果し状を受け取ったので便宜上『果し合い』と呼んでいるが、封書の中に何が書かれていたのかというと、要するに試合の申し込みだった。
リーダーに勝負を挑んだのは誰かというと、美少年探偵団副団長、咲口長広先輩(先輩くん)の婚約者にして、悪魔と恐れられる小学一年生――川池湖滝嬢。彼女が指定した種目は羽根つきだ。
「立会人って、具体的に何をすればいいわけ?」
「なあに、難しく考える必要はない。試合の審判みたいなものだ。本来ならば湖滝くんの側からふたり、僕の側からふたり、合わせて四人の立会人が必要になるのだが、必ずしも正式なルールに則る必要はないとのことなので、立会人はそれぞれひとりで構わないそうだ」
「じゃあ、湖滝ちゃんの側の立会人って……」
「ナガヒロだよ」
オレンジ色に染まるテラスへ出ると、もうひとりの立会人の先輩くんが、制服姿の湖滝ちゃんと並ぶようにしてスタンバイしていた。
「やあ、川池湖滝くん。お待たせしたね」
「団長、本日は御足労いただき恐縮です」
かしこまって挨拶する先輩くんの隣で湖滝ちゃんは、わたしには目もくれず、真っ直ぐにリーダーだけを見つめていた。
羽根つきのルールはよく知らないけれど(そもそも一部の例外を除いて、わたしは羽子板を握ったことすらないのだ)、先輩くんによると、羽根つきには、ひとりで行う揚羽根(サッカーでいうところのリフティングのようなもの)と、ふたりで行う追羽根の二種類があり、リーダーと湖滝ちゃんがこれから行おうとしている追羽根は地域によって多少の違いがあるものの、基本的なルールはテニスやバドミントンとそう変わらないそうだ。
羽子板を持ったふたりが向かい合って立つ。ひとりが羽子板で羽根を打ち、相手が羽根を打ち返す。ラリーを繰り返し、先に羽根を落とした方が負け。
冬の日はすぐに暮れてしまう。羽根が見えなくなってしまうと試合を続けられないので、今回の試合は先に三点取った方が勝ちとなる。羽根を落とすと罰ゲームとして顔に墨を塗られ(墨汁と筆も準備されていた)、両頬にバツマークを書かれると敗者確定という具合。
午後四時きっかりに、湖滝ちゃんのサーブで試合が始まった。
カツンと軽い音を立てて、ふわりと浮かんだ極彩色の羽根が放物線を描く。
湖滝ちゃんは(羽子板を手作りするだけあって)さすがといった腕前だけれど、リーダーも負けていない。もっと激しい打ち合いになるのかと思っていたのだが、美術室のテラスは柱の位置の関係でコートとして使える場所が限られているせいか、ふたりとも下から羽根をすくい上げるようにして羽子板を動かしているので、想像していたよりもゆるやかなペースでラリーが続いている。
夕陽に照らされて、見目麗しい少年少女が羽根つきに興じる姿は、どこか詩的な雰囲気を醸し出していた。
ラリーが十数回続き、先に打ち損ねたのはリーダーだった。
湖滝ちゃんがリーダーの頬に、墨を含ませた筆を使ってバツマークを書き入れる。筆の先が頬に触れた瞬間、リーダーは「ひゃっ」と肩を震わせた。
「なかなか冷たいものだな」
続いてリーダーのサービスゲーム。今回もそこそこラリーが続き、ポイントを取ったのはリーダーだ。
今度はリーダーが湖滝ちゃんの頬にバツマークを書き入れる。湖滝ちゃんも同じように、睫毛を伏せながらちょっぴり肩をすくませた。
夕陽はまだまぶしさを失っていないけれど、じきに空は夜の色に変わるだろう。すぐに最終ゲームが始まった。
少し気にかかることがあった。わたしは、試合が始まった時から神妙な面持ちでゲームの行方を見守る先輩くんに訊ねてみた。
「急に果し合いを申し込むなんて……、湖滝ちゃん、どういうつもりなんでしょう?」
何か裏があるのでは……と考えてしまうのは、わたしのうがち過ぎだろうか。
「さあ、私も詳しくは……」
先輩の返答は(美声にしては珍しく)どうにも歯切れが悪い。それでもどうにかして聞き出したところによると――冬休みが終わる直前に湖滝ちゃんから先輩くんへ、リーダーとの果し合いの場を設けてほしい、ひいては、果たし状をリーダーに届けてほしいとの打診があったそうだ。リーダーへ伺いを立てるまでもなく、その場でそんなことは到底引き受けられないと突っぱねることもできた(もしも先輩くんがそうしていたら、わたしに御鉢が回ってきたかもしれない)。けれども、湖滝ちゃんがいつになく思い詰めた様子だったので、先輩くんはひとまず果たし状を預かることにした(要するにロリコンは幼女に絆されたってわけね)。ダメもとで先輩くんからリーダーへ果し合いの可否を問うてみたところ、意外にも快い返事があり、この場がセッティングされたとのこと。
最終ゲームは湖滝ちゃんが押しているように見えた。ふたりとも真剣な顔つきで、ほんのり上気した額にうっすら汗を浮かべている。白熱した打ち合いが続く。
「いい試合ね」
同意を求めたわけでも意見を求めたわけでもなかった。ただ無意識に、思ったことを思ったままつぶやいていた。
わたしの心情を察したからなのか、自分もそう感じているからなのか、或いはもっと別の思いを抱いているからなのか――それは分からないけれど、先輩くんは口をつぐんだままだった。一ミリたりとも一秒たりとも目を逸らすことなく、試合を見つめていた。最後まで見届ける――声に出さずとも、彼の美しい瞳がそう語っていた。
立会人としてではなく一観戦者として、彼女の友人として、終わってほしくない、このまま続いてほしい――そんなことを願わずにはいられないゲームだった。そしてわたしは、悟るように思った。湖滝ちゃんは――あのひねくれ者の小さな悪魔は、果し合いなんて遠回しな手段を取ったものの、ただ単純に、リーダーと羽根つきをしたかっただけなのではないだろうか、と。
ラリーが何回続くかを心の中で数えていたので、三十三回目で間違いなかったはずだ。リーダーが打ち返した羽根は冬の空へ高く上がり、打ち返しやすそうな軌道で湖滝ちゃんのもとへ落ちていく。チャンスボール、もとい、チャンス羽根だ。と、逆光の加減だろうか、湖滝ちゃんは一瞬、羽根を見つめる目をまぶしそうに細めた。手もとが狂う。羽根は、湖滝ちゃんが咄嗟に差し出した羽子板に触れることなく、すとんと床の上に落ちた。
「そこまで」
湖滝ちゃんが打ち損ねた羽根を拾い上げて、先輩くんが短く告げる。ゲームセット。湖滝ちゃんの頬の上で、勝者となったリーダーが筆を動かす。
両頬にバツマークをつけた湖滝ちゃんは、肩で息をしながらどこかぼんやりとした表情を浮かべていたけれど、ふしぎなことに、負けたというのに悔しそうでも不機嫌そうでもなかった。おまけに――まったく思いがけないことに――、湖滝ちゃんは悪魔らしからぬ動きをした。リーダーに向き直ると、こちらが見とれてしまうほど優雅な仕草で、彼に向かっておじぎをしたのだ。
思わず見入ってしまっていたので、湖滝ちゃんが頭を上げたタイミングで彼女と視線がぶつかった。長い睫毛の下の瞳がわたしを睨めつける。
「――何だよ」
ジロジロ見てんじゃねぇよと続けて、湖滝ちゃんはわたしからぷいっと視線を逸らせた。
「試合、惜しかったわね。ほっぺたのバツマーク、石鹸で洗って落としてあげようか?」
わたしの問いかけに、湖滝ちゃんはふるふると首を横に振った。
「長広に落としてもらうから、いらねぇよ」
それだけ言うと、湖滝ちゃんは先輩くんの背中に隠れるようにして身体を寄せた。小さな手が先輩くんの上着の裾を掴む。まるで、すがりつくように。
先輩くんは、少し驚いたように目をみはり、少し困ったように眉を下げ、見ようによっては、少し安心したように表情をやわらげた。
「――お家へ帰りましょうか」
湖滝ちゃんがこっくり頷く。
幼女の手を取ると、わたしとリーダーに目礼して、先輩くんはテラスを後にした。
フランス窓が閉まる。ふたりの姿が窓の向こうに消えたのを確認して、わたしはリーダーに声をかけた。
「羽根つき、上手なのね。びっくりしちゃった」
くふんと鼻を鳴らすと、リーダーは誇らしげに胸を張った。
「何を隠そう、僕は、むかし遊びの授業で揚羽根連続百回達成の記録を打ち立てた美少年だぞ」
意外な特技があったのね。ついでに訊いてみようか。答えてもらえるか分からないけど。
「ね、リーダーはどうして、湖滝ちゃんの果し合いを受けようと思ったの?」
「なあに、理由はとてもシンプルだ。冬休みの終わりに家の近所で羽根つきをしている家族を見かけてね、それ以来、僕も羽根つきをやってみたいと思っていたのだよ。需要と供給がたまたま一致したというわけだ」
「たまたま、ね……」ちらりとリーダーを見やって、わたしは小さく息を落とした。「――ずいぶん都合のいい『たまたま』があったものね」
わたしがため息に垂らしたスポイト一滴ほどの皮肉は、リーダーの唇から「ふふん」とこぼれる笑い声にくるまれて、冬の空気にふわりと溶けた。
「腑に落ちないといった顔をしているね。けれどね、眉美くん。有限なる生において、予測不能の偶さかに出くわすことは――それが幸であるにしろないにしろ、決して稀なことではないのだよ」
朗らかに微笑むリーダーは、頬にバツマークがあっても、少しも美しさが損なわれることはない。むしろバツマークが、彼の美しさを何倍にも増幅させている気さえしてくる。
頬を撫でる風が冷たくなってきた。いつまでもテラスにいたら風邪をひいてしまう。不良くんの紅茶が恋しくなる。
「我々もそろそろ部屋へ戻るとしようか。このままだと、ふたり揃ってトナカイよりも真っ赤なお鼻になってしまいそうだ」
颯爽とした足取りでフランス窓へ向かうリーダーの背に、わたしもてくてくついていく。
フランス窓の前まで来た時だった。
「そうそう」
真鍮製の取っ手へ伸ばそうとした手を止めて、リーダーがゆっくり振り返る。「先ほど言い忘れていたが、もうひとつ、果し合いを受けることにした理由があったよ」
人差し指を立てると、リーダーはうたうように言葉を継いだ。
「湖滝くんが果し状にしたためた字が、とても美しかったからさ」
美しくあることを信条とする美少年が奇々怪々な挑戦を受けて立つ動機としては、なるほど理に適っているなと思った次第。