もう一度、あの日を 目の前に立つのは、眉を釣り上げ、頬を膨らませて不貞腐れる少年。顔はそっぽを向いて目を合わせようとしない。殴られたのだろう。頬は赤く腫れ、痛々しさを演出している。視線を下げれば、身体にもいくつか打撲の跡。
「それで、どうして喧嘩なんかしていたんだ?」
椅子に座り、くるくるとペンを回しながら尋ねても返事はない。机の上に置かれた白紙の紙。寄宿舎で暴れていた団員をとっ捕まえて現在は当事者への尋問中だが、その当事者の一人は黙秘を貫いている為、調査は一向に進まない。
「カイン」
「…………」
「カイン・ナイトレイ」
「…………はい」
此方の睨むような視線に観念したのか、ようやく返事を返す。
「新入りの癖に随分派手にやったな」
「俺は悪くない……です」
ギロリと睨み付けると察したのか取って付けたような敬語。この子供は何度言っても話し方を直さない。大人を舐めているのではない。ただの癖なのだろう。
相手に十分に敬意を払い尊敬の念を込めた瞳で見つめ、人懐っこい笑顔で尻尾を振ってあけすけに他人の領分に入り込んでくるから余計に質が悪い。こんな風に懐かれれば、どんなに態度が悪くても、仕方がないな…と許してしまう、天性の人誑し。
その性質からか、入団してからも特段トラブルもなく、同期とも配属先の団員とも上手くやっていたと聞いていた。
なのに……カインは今回始めて揉め事を起こした。寄宿舎で他の隊の正騎士と取っ組み合いの喧嘩をしたらしい。らしい、と言うのは、カインが喧嘩の原因を話さずだんまりを決め込んでいるからだ。
揉めた相手曰く「あいつがいきなり殴ってきた」との言い分。勿論、普段のカインを知っている人間は彼がそんな癇癪を起こすタイプではない事は知っている。なのに、当事者は何も言わない。
「まったく…」
思わず溜息が零れ落ちる。こちらはとっくに騎士団を辞めた身だというのに。しかも目の前の子供が原因で職を辞任している。それがどうして……たまたまヴィンセント殿下に外遊先での経過を報告に城に戻った際に、馴染みの団員に見付かりこんな面倒事を押し付けられなくてはならないのか。
「カインは貴方に憧れていましたし、ニコラス様相手なら何か言うかもしれません。彼の為にも話を聞いてやってくれませんか」
そんな言葉と共に押し付けられた。冗談ではないと撥ね退ける訳にもいかない。
このまま何も言い訳をしなければ、カインに処罰を下す事になる。最悪、城を去る可能性もある。元騎士団長を打ち負かした将来有望な人材をこんな事で手放したくないのだろう。
……自分の時とは違って。
思わず頭を掠めた自身の卑屈な考えに眉を顰めた。
いつから、こんな風に自分は曲がってしまったのか、何が原因で、何に曲げられてしまったのか。
その『原因』が目の前にいる。はっきり言って関わりたくはない。
それでも神妙な顔で何度も頭を下げられたら断り辛い。騎士団を辞めたとは言え…、騎士に戻るつもりが無いわけではない。西の国での結果が良ければ、新しい力を手にして此処に戻ってくるつもりだ。その時に現場の人間との間に摩擦があれば追々面倒になる。人脈は大事にした事はない。
まったく…自分はとことん、この子供と相性が悪い。
―――コトン。
手にしていたペンを置く。立ち上がると古びた椅子が錆び付いた不快な音を奏でた。騎士団に戻ってきたら先ずは備品を新調しよう。
白紙の紙とは別の用紙を手にとってカインの元へ。コツコツと鳴る靴の音。カインはバツの悪そうな顔をしているが、決して此処から逃げ出そうとはしない。後退りもせず、憮然とした顔で立っていた。
バサッ!
手にした紙で二度、三度。カインの頭を軽く叩く。揺れる赤髪が面白くて、つい余計に叩いてしまったのは内緒だ。
「随分と派手にやっていたみたいだからな。お前が何も言わなくても目撃者が多くいる」
「…………」
「俺のことで何か言われたのだろう」
詳細は分からないが、カインは何度か「ニコラスを悪く言うな」と言い争っていたらしい。
「全くもってくだらない」
とうの昔に去った元騎士団長について、今更何を言い争う必要があるのだろうか。
「……くだらなくない」
ずっと黙っていたカインが口を開いた。久々に聞いたその声は、出会った頃より少し低くっている。
「何がだ」
顔を上げて真っ直ぐに此方を見詰める明るい琥珀色の瞳。
気が付けば視線の高さも差がない。身長だけではない。手脚も伸びて身体も大きくなっていた。あどけなさは残っているが、目の前にいるのはもう少年ではなく、青年へと変わっていた。
「……」
思わず、目を見開いた。
こいつは、あの日からどれだけ、強くなったのだろうか。
こちらが必死になって他国を駆け回っている間、鍛錬を積んで、修練を重ねて、成長していく身体にさらに力を身に付けて…先に進んでいる。
「あいつ…あんたとの御前試合を八百長だって」
肩を震わせながら呟いた。小さな声なのに芯の通った声ははっきりと耳に届く。怒りと失望を滲ませた瞳は決して揺らぐことはない。
「あんたが手を抜いたんだって…だから俺が勝ったって…」
そんな言い掛かりは散々聞いてきた。
子供相手に本気になんかなりませんよね。
子供に花を持たせるなんて、気が効いている。
団長が本気を出せばあんなやつ。
誰も彼もが、あの試合は、盛り上げるために仕組まれたのだと、用意された台本を演じたのだと、口にした。
当事者達の想いも、熱意も、情動も、興奮も、高揚も、知るのは試合をした世界で二人だけだ。
的外れで適当でいい加減でなんの意味もない言葉の数々。一々相手にする必要もない。時間の無駄でしかないのに。この子供は、その全てを拾い上げ憤慨し憤って、自分が負かした相手の尊厳を守ろうと拳を振るったのか。
「俺に対して文句とか…そういうのは、何言われたって構わない、けど!」
声が段々と大きくなっていく。興奮して、肩を大きく震わせながら叫ぶ。
「あんたとの試合は俺にとって凄く大事なもので、絶対に忘れられない試合だったんだ」
大切な宝物を奪われないように、子供が必死に声を荒らげている。
「必死になって、無我夢中であんたにぶつかって、あんたも俺の真剣に応えてくれた、子供だからって手を抜いたりしないで向き合ってくれたのに、なのに、それを知らない奴が好き勝手に馬鹿にしたり茶化したりするのは嫌なんだ、それは、あんたの誠実に泥を塗るのは、俺が…嫌なんだ…」
部屋中に響く声で叫んだと思えば、段々とか細く、切実な声へと変わっていく。瞳は伏せられ、睫毛が僅かに揺れ動く。
「それに…それだけじゃなくて…俺がこの歳で小隊長になったのは…その…俺、が…あんたのお気に入りで」
こんな生意気な子供を気に入った覚えはない。
不愉快極まりない。どこの誰がそんな下衆な妄想をばら撒いているのか、調べて上げて除隊させるつもりだが…さらに、『カインがお気に入り』を裏付けする未来しか見えないのが頭を痛くさせる。
「俺とあんたが…その、そう言う関係って…」
「………………」
男所帯において、そう言った話は日常の一端で、昔からよくある話だ。特段珍しい話ではないが、カインが無言の抵抗を選んだのはこれが理由なのだろう。こんなくだらない話を騎士団の記録に残すわけにはいかないと、もういなくなった元騎士団長の名誉を守るために、口を紡いだのだ。
ズキズキと痛む蟀谷を押さえる。本当に、とことん目の前の子供とは相性が悪い。関わってしまったのが間違いだった。
「お前は、…これからもそうやって問題事に関わっていくのか?無駄な事に時間を割くな」
「無駄って、だって、あんたはそんな奴じゃないだろ!」
「悪し様に言う人間にとって、真実かどうかはどうだって良い。ただ相手を貶せる餌があったらそれに食い付くだけだ。一々構うな」
ピシャリと言い切れば、納得いかないと頬を膨らませている。
乱暴に頭を撫で付けてやれば、少し機嫌が直ったのかどこか嬉しそうに笑う。青年のような少年は、まだまだ子供だった。
「そんなくだらない事を言ってくる奴にお前の時間を使うな。そんな暇があるなら鍛錬でもして、文句を付けられないぐらいに強くなれば良い」
「…………分かった」
釈然としない顔を浮かべているが、カインも此処らが引き際だと理解しているのだろう。いつまでも拗ねているわけにもいかない。だけど簡単に折れるわけにもいかなかった。
これ以上無言の抵抗を続けても、引けなくなるだけ、落とし所を与えてやった。
「お前が、誰にも文句を言わせないだけ、強くなればいい」
そう告げると、少年は頬を赤らめて嬉しそうに笑った。
◇◆◇◆◇◆
報告書と反省文を提出するように言って話は終わるはずだった。なのに、目の前の子供は瞳をキラキラと輝かせている。
「なぁ!折角騎士団に顔を出したんだから、あんたが訓練付けてくれないか!」
「そんな暇はない」
事実、この後に西の国へと行かなくてはならない。それに、さっさとカインから離れたくもあった。
「じゃあ見送りしないとだな」
「お前はさっさと反省文を書くべきだろう」
「遠慮するなって」
心から願い下げのつもりで言ったのだが、まったく通じていない。
付いてくるなと言っているのに、勝手に横に並んで歩き出すカインに、何を言っても無駄だと諦めた。
「ほんとにさぁっ、あいつ等人を見る目がないよな!あんたはそういう奴じゃないって、剣を交えたらすぐに分かるのに」
頭の後ろで手を組みながら文句を言う。子供らしく、頬を膨らませてぷりぷりと怒るカインを横目に、吐き出しかけた溜息を飲み込んだ。
「……案外見る目はあったのかもな」
「ん、今なにか言ったか?」
幸いにも独り言はカインの耳には入らなかった。首を傾げて聞いてくるカインの頭を軽く叩いた。
「敬語」
「何か言いましたか?」
「いや、お前も人を見る目は養った方が良い」
「そうか?わりと自信があるけど」
カインは、此方を見ながら得意気に笑った。琥珀色の瞳に写り込む顔は、誰よりも知っている顔だ。
「……ふっ、そうか」
青年と呼ぶにはまだ程遠く、知識も経験も乏しい若者。皮肉にも、琥珀色の宝石が憧れで曇り切っているのだと理解出来た。
何も知らない子供が愚かで、つい口の端が歪む。
『そんな奴じゃない』と言う人間のせいで、『そんな奴』へと曲げられていくのが、ほんの少し、ほんの少しだけ、悪くないと思ってしまった。
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