Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    42_uj

    @42_uj

    ☆quiet follow Send AirSkeb request
    POIPOI 27

    42_uj

    ☆quiet follow

    のばまき。
    のばらちゃんの爪にマニキュアを塗るまきさん。
    読みたいものを書きました。八十八橋後、渋谷前。
    ※虎伏におわせっぽいのがちょっとあります。

    (2021年5月23日)

    ほんとうの敵について あっいかん。これは盛大に投げられた、畜生。畜生っていうのはじぶんへの悪態で、パンダ先輩の悪口じゃないですからね。地面が遠くなって空がちょっと近づく。でもあわてない。怖くない。オーケー。なんなら空の朱色が綺麗。夕焼け。「おーやってるねえ」って真希さんの笑い声がきこえる。きこえるくらい私は冷静だ。滞空の高さがピークを超える。よし、正しく落ちるだけ。これくらいの高さなら呪力でかためる必要もない。前傾の姿勢をつくって衝撃を想像する。そのあとも戦いは続くってこと忘れちゃいけない。最初につま先が地面に触れるけど、そこで着地を脚に任せるのは間違い。体重が膝に乗る前に、用意していた上半身を丸めたまま倒す。落下の衝撃を回転に変えるのだ。両手のひらで地面を受けたら、斜めに前転。右腕、それから背中、左腿でひとつづきに地面をなぞるように転がる。うん、肘も肩も腰もちゃんと庇えた。回りきったらすぐに体を起こす。膝もぜんぜん平気だ。立ち上がりきる前に地面を蹴って、完璧うまい具合にスピードをのせれた。パンダ先輩の巨体に突っ込むみたいに走っていく。けど「よし、今日はここまでだな」と先輩が言うので急ブレーキ。「えっ、もうかよ」。つい気の抜けた声が出た。時計を仰ぐと確かに決められた時間が過ぎたところだった。私は汗まみれだしジャージも砂だらけだけど、でもまだまだやれるって気がする。
    「ちょっと最近、手ェ抜いてない?」と半分本気で訪ねると、
    「バカ。お前がどんどん強くなってんだよ」と後方から真希さんが声をかけてくれる。「でも、そうだな。物足りなくなってきたようならこっちも出方を考えねえとな」
     それで真希さんのちょい体温低めの指先が私の頬を撫でていくものだからたまらない。たぶん顔についてた土を払ってくれたのだ。
     お礼を言おうとするけど、すでに先輩たちでの話し合いが始まっていて、かなわない。
     ついでに遅れて疲れに追いつかれたみたいで、どっと体が重くなった。
     ふらつきながらベンチまで歩いて、ベンチの背にかけておいたタオルを回収する。汗を拭く気力もすぐには湧かず、ベンチに座りこんだらタオルを頭からかぶる。あーあ、息が整ったらストレッチもしないと。
     トラックを見遣ると先輩たちはしっかり立ってときどき笑いを混じらせながら余裕のようすで話をしてるし、虎杖はなんかまだ走ってるし、伏黒はそもそも任務でいなくて、私だけ置いていかれてるってかんじがする。
    「やってらんねー」と思ってもないことをつぶやくと、きこえたわけでもないだろうに虎杖がこちらを向いて、笑顔で手を振ってきた。苦笑いで手を振り返す。こいつは規格外の体力と筋肉の化身だから比べても仕方ないってわかってる。でも、私がパンダ先輩に訓練をつけてもらっている横で虎杖は真希さん狗巻先輩とそれぞれにとっての訓練をしてるんだよなと考えたら、実際やってられないような気さえしてきた。
     いや、じぶんが成長していることはわかる。わかってるんだ。今だってへばってはいるけど、数ヶ月前はこんなもんじゃなかった。八十八橋の任務でも確実な手応えがあったじゃないか。あーでも、あのときも虎杖がいなかったらどうにもならなかった……。
     やめだやめだ。こういうのは野薔薇さんには似合いません。
     やっとタオルを払って立ち上がる。前に真希さんに教わったやりかたでストレッチをする。このあとはもう授業もない、早く寮に戻ってシャワーを浴びよう。
     先輩たちが話を終えたのかバラバラに校庭を歩いていくのを見るともなしに見ていると、真希さんがこっちに向かってくるのがわかった。
    「野薔薇、このあとはもう予定ないだろ? 飯食う前にちょっと時間あるか?」
     少し離れたところから呼びかけられる。よく通る声だ。
    「はい!」こちらも今できるだけの発声で返す。
    「じゃあシャワー浴びたら部屋行くわ」と言ったあとで真希さんは少し考え、付け足す。「オマエの準備終わったらLINEしてくれたら向かうから」
     しびれちゃうね、完璧な気づかいだ。
    「ありがとうございます!」
     真希さんはうなずいて見せたあと、さっと踵を返して早足に女子寮の方向へ向かう。私のほうが絶対に準備に時間がかかるのにな。あんまり待たせないようにしないと。
     
     真希さん。真希さん。真希さんのことを考えながら温水をかぶる。どうせ夕飯のあとに風呂に行くしシャワーは汗を流すだけでいいやっておもってたけど、部屋に真希さんを呼ぶとおもうとちゃんと肌を磨いておきたい。でも、できるだけ手早く。話ってなんだろうな。ちょっと言いにくそうな雰囲気だった気がする。気のせいかもしれないけど。
     これは、告白ってことは考えられないでしょうか。つまり、愛の……。
     と考えてみるけど、まあありえないでしょうね。真希さんはじぶんのことを大好きな後輩にだからってほだされるような玉じゃない。ていうか、こういうことを考えてるってことは、私が真希さんのことを好きなんだろうか。
     真希さんのことは大好きだ。
     第一印象は正直よくはない、どころか「何なのこいつ」ってかんじだった。でも彼女がヤバいおうちを離れてこの高専にいるっていうこと自体のものすごい意味を知って、境遇にくさらず鍛錬を続ける姿やそれで得たのだろう強さを目の当たりにして、好きにならずにはいられなかった。たぶん私自身の境遇を重ねたのもある。沙織ちゃんを重ねちゃってるところがある。
     憧れの沙織ちゃん。
     好きだっていうなら、沙織ちゃんやふみちゃんも大好き。伏黒と虎杖のことだって、まあ好きといえば好きだし、それならパンダ先輩や狗巻先輩だってそう……だけど、私にとってやっぱり特別になるのは女の子たちだという気がする。ただ、私の人生に影響を与えるのがそうだってだけで、影響の面でいうとまあババアもそうだよね。私が女の子を好きになるタイプの女の子なのかっていうのはときどき考えてしまうんだけど、自分でもわからないままだ。男のことを好きなのだろうと勘繰られたり、自分で「カレシ」が欲しいと言ってみたりするときのもやっとしたかんじは気になるんだよね。でも、もし私が同性愛者だとしたら、なんか虎杖と伏黒もデキてんじゃねえのってところがあるし、ただでさえ数の少ない呪術師のさらに3人だけの同期が全員そうってこと、あり得る? マイノリティオブマイノリティすぎじゃない? 宝くじで7億円当てるよりかはあり得るんだろうか……。
     いや、違う。
     そもそも今はこんなこと考えてしまってる場合じゃない。
     慌ててユニットバスを出て裸のままスマホで時間を確認する。よかった、意外と時間は経っていない。けど真希さんから2分前にLINEが来てて、「まだかかりそうか?」とある。連絡を待ってから行くってじぶんで言ったのにあんまり待ててないところ、かわいい! マッハで体を拭き、服を着て、大丈夫ですのスタンプを送る。

     ドアがノックされるので「どうぞ!」と返事をする。ちょうどローテーブルに冷蔵庫から出したラムネを運ぶどころだった。
    「お、気が利くじゃねえか」
     ドアを開き、ラムネに気づいた真希さんはうれしそうだ。前にふざけて駄菓子屋で買ったとき、こういうの子どものころ許してもらえなかったんだよって喜んでた。それを私は覚えていたし、私がちょっと執念みたいに覚えてるってことを真希さんもたぶんよくわかっている。
     テーブルの向かい側にあぐらをかいて座り、真希さんは私の部屋をちょっと珍しそうに見渡す。
    「やっぱりだいぶ物が増えたな」
    「そういえば久しぶりですよね、真希さんが部屋まで来てくれるの」
    「なんだかんだ忙しかったからな」
     真希さんの手のひらがビー玉を押して、ビー玉がラムネのくびれに落ちる。瓶のなかでしらしらと泡が弾けるのがスローモーションみたいに見えた。真希さんは私が猫みたいにビー玉に夢中になってるのなんてまるで気にしてなくて、ドレッサーに並べられたネイルポリッシュを目で数えている。
    「気になる色があったら塗りますよ」
    「いや、私はいいや」と真希さんはドレッサーを眺めたままで言った。「でも塗らせてもらおうかな」
     どういうことですかって訊く前に真希さんは立ち上がって、手を伸ばし、深い赤色のポリッシュを持ち上げていた。RMKのディープローズ。名前に薔薇のついてる人間がローズって色を塗るのちょっと恥ずかしくないかって躊躇したけど、大人っぽい絶妙な色みに負けてついこのあいだ買ったやつだ。
    「野薔薇、手ェ出せ」
    「え、あっ。私が塗られるってことですか、真希さんに」
     テーブルに向かい直した真希さんに両手を差し出す。真希さんはまず私の右手をとった。私は左手をテーブルに預ける。
    「こうしてればオマエ、逃げないだろ」と真希さん。右手の人差し指の爪を撫でられる。「こういうのってなんか下地みたいなの塗るんだっけ?」
    「逃げたくなるような話なんですか」。もしかしてマジで告白なんだろうか。
    「どうだろ。逃げたくはならなくても、ちょっとウザいかもしれない。お説教だから」
    「なるほど」と私はちょっとホッとしたような、いや残念なような複雑な気分だ。
    「それで、これってこのまま、これだけで塗っていいやつか?」
    「あっ、ベースコートもありますけど、でもなくても大丈夫」
    「ならいいや」
     真希さんがポリッシュの蓋を開ける。敵を前にしたみたいな真剣な表情で。やばい、手汗かきそうで嫌だなってそわそわしてしまう。赤色に濡れた刷毛にまず親指の爪をなぞられる。すっと親指が涼しくなった。手がちょっと震えたの、真希さんにも伝わってしまっただろうか。いや、単に冷たさのせいですからね。
     そっと真希さんの表情をうかがうと、ちょうど彼女も顔を上げたところだった。眼鏡の奥の瞳と視線がぶつかる。真希さんはニッと笑って、「じゃあ、お説教タイムだ」といたずらっぽく言った。

     どんなお説教でもしっかり受け止めますって覚悟とともに背筋をのばしたけれど、真希さんがまず言いにくそうにためらいながら、「あー、野薔薇、どんなに頑張ってもどうにもならないことがあるって言われたらどうする」と訊ねるので、さっそく挫けそうになってしまった。「そりゃ私にはみんなみたいな突出した才能はないですけど」みたいに、つい卑屈になる。でも努力はずっとしてますし、真希さんだってさっき強くなってるって言ってくれた、うう、だけどそりゃそれでも無理なものはあるかもですけど……。
    「いや、才能とか努力の話じゃねえんだ」。真希さんは私の卑屈を遮る。「構造と差別の話だよ」
    「こおぞお……」
    「真依からきいた。交流戦のとき桃とどんなだったかって」
     憎い名前に「は?」て低い声が漏れそうになるけど、押し留める。
    「すみません、ご家庭の事情もよくは知らないのに生意気言っちゃって……?」。実際あのあと自分でも反省したのだ。「それに、半年も一緒にいないのに、真希さんのこと言われた私がキレるんだから、向こうはもっとそうですよね。売り言葉に買い言葉っていうか」
    「んー、それも違う」
    「ちがう……」
     真希さんの言わんとしていることがわからずに、私はおうむ返しするしかできない。
     刷毛は中指の爪まで来ていた。意外と難しいなと爪と指の境目を慎重に攻める真希さんに、はみ出してもあとでなんとかできるんで大丈夫ですと教える。大丈夫なんで、続けてください、話を。
    「そうだなあ。オマエ、そんなニュースとか見ないだろ?」
    「見たり見なかったりですね。ついてたら見る……」
    「それは見てるって言わねえの」と真希さんは私をちょっと子ども扱いする。「医大の入試の不正、わかるか?」
    「いだいの、にゅうしの、ふせい」。わからない……。
    「まあ別に、わからなくても仕方ない」
     マジでわかってない私に、真希さんは説明を始める。公正であるべき大学の入学試験で、女子学生の数を制限するための不正な点数操作があったこと。それが今年の夏に発覚したのだということ。ひとつの大学の不正発覚を皮切りに、ほかの大学にも追及の手が伸ばされつつあること。
    「そんな」と私がドン引きしているのをよそに、
    「でも別に、誰も知らなかった秘密がいきなり世に出てきたってわけじゃない」
     真希さんは感情のない声色で説明を続ける。目に見える数字としての不正の発覚は大きなスキャンダルだけど、誰も気づいていなかったわけではないということ。とくに医大を受験する女生徒たちやその指導をする教師にとって、「女子は男子よりも努力しなければならない」という不条理は、当たり前の常識のようになっていたということ。
     説明のあいだに私の右手の爪にはディープローズの赤色がそろっている。真希さんはその右手を持ち上げて、顔に近づけ、気泡がないかを確認する。大丈夫そうだなとつぶやいたあと、次は左手にとりかかる。
     そして説明も続く。
    「たとえば、女は男みたいには働き続けることはできないから、男の医者を多くするために人数を操作するのは仕方ないって言うやつもいる。でもそもそも、そうやって働く環境自体を男を中心に、女は産んで家のことをやってっていうふうな社会になってること自体が問題なんだ。構造の話っていうのは、そういうこと」
     そこまで言い終えて、いったんネイルを塗る手を止め、ラムネをあおぐ。私も飲もうかなとおもうけど、右手の爪はそろって塗り立てだし、左手もすでに親指と人差し指には色が載っていて、ちょっと心許ない。真希さんは私の躊躇に気づいたようで、身を乗り出して私のラムネを手に取り、飲み口を私の口元へと近づける。
    「真希さん?」と面食らってしまう。
    「あ、角度難しいよな。爪乾かしたほうが早いか? これふーってしても大丈夫?」
    「大丈夫じゃないです」
     つい声に出して笑ってしまった。ふーってしたら気泡入っちゃいますよ。乾くのはちゃんと待たなきゃ。
     そして真希さんの差し出したままのラムネに唇をつけて、もっと傾けてください、と目で合図する。真希さんはうやうやしくそれに従ってくれる。3口ぶん嚥下して、また合図。ラムネは机に戻される。なんだか味がわからなかった。喉が炭酸を通っていくのだけが生々しくかんじられた。
     ふたりして何やってんだ私たちって顔を見合わせてちょっと笑って、その後でお説教とネイルの時間が再開となる。
     つぎはMeTooという運動についての話。これは私もきいたことがあった。映画好きの虎杖がショックを受けたようすで話してたことがあった。去年の秋頃にハリウッドから広がった性暴力の告発。今も大きくなり続けている声のこと。これも今暴力が始まってそれが告発されているわけではなくて、ずっと当然のことになってた暴力が、やっと暴力として告発されるようになりつつあるのだということ。
     そりゃあそれらはとんだ不条理だ。でも。
     真希さんの言わんとしたことがなんとなくわかってきた気がして、胸のあたりに冷え冷えとした感情が湧いてくる。
    「真希さんも、アイツらみたいに考えてるってことですか。男と女は違うって、女は義務で強くもかわいくもならなくちゃいけないって」。できるだけ失望を乗せないようにっておもったけど、声は少し掠れてしまった。そういう考えもあるっては知ってます。なんていうか、とらわれるってかんじじゃないなら、考えが違ってても真希さんを尊敬する気持ちは変わらないんで……、みたいなことを言いたかった。でも口がうまく動かない。
     テーブルにのせた右手で拳を握りそうになって、まだネイル乾いてないやって気づいてやめる。
    「馬鹿」と真希さんは短く言った。「オマエいま、私を諦めようとしたろ」
     違う。いや、違わないかもしれない。私はやっぱりうまく返事ができない。
    「そんなふうには考えちゃいねえよ。現に私がかわいかったことなんてないだろ」
     茶化すように言う真希さんに「いやかわいいですよ、そういうところ!」と言いたいけど、そういう場面じゃないことくらいはわかる。
    「それに、アイツらも別にオマエが受け取ったかもしれないみたいに、女の生きかたはもう決まってるんだとか、そういうことを言ってるってわけじゃない」
    「そう……なんですか」
    「まあ、たぶんだけどな」
     真希さんはそこでちょっと黙ってしまう。左手の小指の爪を塗り終え、また丁寧な確認をするためだ。私の左手を私につながってないみたいに持ち上げ、いろんな角度から見て、「よし」と満足そうにする。ネイルポリッシュに蓋をしたあと、大きくのびをする。「あー緊張した」という真希さんの声で、私の緊張もすこしほぐれたようにおもう。続けてください。
    「オマエは強さに女も男も関係ないっておもうだろ」
    「……おもいます」
    「まあ、ほんとうに強さだけの話をするなら実際にそうだろうっておもうよ」と真希さんは私の目をしっかり見つめながら言った。「けど、強さだけの話をできるようにはできてない」
     言っただろ。しつこいようだけどな、今やっと表にでてきた入試の不正だとか暴力みたいにな不合理が、そもそも暗黙の了解みたいに横たわってる。そういう、できてない社会で、女は男を世話して……世話っていうのは、いろんな意味でだな。それでさらに、できれば、男を産むのが役割だ。と説明を続けるあいだも、真希さんの視線は私をとらえ続ける。強さを求められるのは男の役割のためってことになってるから、女が同じようにしたけりゃまず役を果たしたうえで男並みにしてみろってことになる。まず男が高下駄履いて、女は地べたに裸足でいるような状態なのにだ。しかも、高下駄履いてるやつらはじぶんの履いてる下駄の存在に気づいてないときた。だからそのあり得ん状態を指摘したらこう言われる。ありもしない差別を言い訳にして努力をしないからそうやって低いところにずっといることになるんだってな。
    「ほかに、たとえばそういう社会では、そうだな、同性愛も許されないってことになる」と言われたときは心臓が跳ねたけど、真希さんは気づかなかったようだった。「そりゃ制度的に結婚するなんかはできなくても一緒にいればいいって言うのは簡単。けど結婚する男女が得られる権利は持てねえんだから、その持てなさをないことにはできない」
     それからも真希さんの話はどんどん続く。話し慣れてるってわけではないんだろうけど、ずっと考えてきたんだろうってことは伝わる。私はその内容の半分も理解できた気がしない。でも真希さんの話ぶりには真希さん自身を納得させているようなところもあって、私を無理に理解させようとしているわけじゃないとわかる。とにかく聞くしかない。完全に聴講モードだ。テーブルに置いたままの両手の爪からはどんどん冷たさが剥がれていって、ネイルが乾きつつあることがわかる。
    「最悪だろ?」と真希さんに問われて、それには同意する。「で、これはこの国とか世界の、呪術関係ない部分の話で、そんなふつうの場所がすでに最悪なんだ。私らのいるのは、この最悪を煮詰めたみたいな最悪中の最悪の呪術界の老舗というわけ」
    「でも、真希さんはじぶんの力でそこを抜けて、強くなってる」と反論するみたいに言ったけど、これはほとんど話を進めるためだけの発言だった。
    「ふふ。ありがとな」
     真希さんはちょっとはにかんで、「でもその話はまたちょっとあとだな」って、また講義を続ける。
     いいか、女を差別するクソの構造が実際にあるとして、女は一枚岩じゃない。だから、そんな構造なんて本当はないって、本人のとらえかたと努力次第で強くも弱くもあれるように考えるやつもいるし、憎い構造は絶対に動かせないからそのなかでできる限りのことをするべきだっておもうやつもいる。私らから見れば差別されてるだろって状態をニュートラルなものだってことにして、差別なんてそもそもなくて、望んでそうしてるんだからそれで幸せだって言うこともできる。そういう違う意見の女たちで争うこともできるわけだ。
     それでだ野薔薇。そういうやつらが争ったとして、どの側が勝つのかはまあそのときどきだろうけど、どいつが勝ってもかまわないってやつがいるだろ。そう、構造そのものだ。私らの……って言うのはあれだな。私の独り善がりかもしれないから。うん、だからとりあえず私の……私の敵はそいつだ、構造。構造を意識する……そこに差別があるってのを認めるのは、その構造にとらわれてるって見えちまうかもしれないけど、違う。意識しないとぶち壊すこともできないだろ。
    「私は強くなりたい」と真希さんの声に力がこもった。「呪術師として、誰よりも強くなりたい。家の誰よりもな。見返してやりたいって言ったことあるだろ。私はうまいことやってここに来れた。でも置いてきた家でクソはずっとくすぶってる。私が強くなってクソを無視できるようになったって、クソがある自体が我慢ならないんだ。一掃したい、強くてお家のために使えるやつでなきゃ残れねえみたいなクソの構造をぶち壊したい。わかるか」
    「か」と私の口から間抜けな声が出た。真希さんの強い口調に、誰なための怒りなのかまざまざと感じて、でも嫉妬してるどころじゃなかった。なんてかっこいいんだろうって。「かくめいじゃないですか」
    「はは、それができたらいいんだけどな」。真希さんは照れたように笑って、そこでやっと視線をずらした。私の乾いたネイルを見ている。
    「それに、別についてこいとか言わないから安心しろ。私だってまだガキだし、ただきれいごと言ってるだけかもしれない」
    「そんなことないですよ」
     口ではそう言ったけど、ほんとうは「じゃあなんでこの話をしたんですか、お説教っていうか、革命のお誘いじゃないですか」という興奮が喉からこぼれそうになっていた。
    「まあ野薔薇は私が見てるもんを見てえだろ?」
     真希さんは「違うか?」と確かめるようにふたたび私と視線を交わした。違わないです。大正解です。私も気づいてなかったけど、それがいちばんの正解だとおもいます。何に抗いたいとか従いたいとかじゃなくて、まずあなたの見てるものが何か、知りたかった。知りたかったって気づいたのも今この瞬間ですけど。
     やっとのことで「はい」とだけ声にした。
    「よかった。だから話した。……けど悪いな、ずいぶん時間とらせちまった」。真希さんはあぐらを崩してもう一度のびをする。「そういえばこれ、どうやったら終わりなんだ? なんか合図とかある?」
     話がネイルに移るとさっきまでいさましい戦士みたいだった真希さんが幼稚園児みたいになるのでやっぱり笑ってしまう。
    「合図とかはないですけど、たぶんもう乾いてる」
    「どう確かめるんだ?」
    「指の腹で触ってみるとか」
    「乾いてなかったらどうなる」
    「指紋がつくだけですよ」
     指紋はつけられねえな〜と真希さんはテーブルに突っぷす形になって私の爪を見つめている。
    「真希さんの指紋ならつけてほしいくらいだけど」と言いながらじぶんの左手で右手の爪に触れる。指紋はつかない。「しっかり乾いてます。ありがと真希さん、きれいに塗ってくれて」
    「よかった」
     真希さんは心底安心したようすで私の手をとる。
    「写メ撮っといてもいいか」
    「なんですかそれ」
    「いや、記念に。マニキュア爪に塗るとか初めてしたから」
    「えっマニキュアを塗る自体の話ですか? じぶんの爪にも塗ったことない?」
    「悪いかよ。あ、いや悪いか。ごめんな超初心者がやっちまって」
    「やだ違います、すっごくうれしい! 真希さんの初めてもらっちゃいましたね」
     いつもの調子に戻って戯れていると、不意に空腹に気づいた。
    「そういえば夕飯どうします? 真希さんも準備ないようだったら、一緒にコンビニまで歩く?」
    「いや、それはまたつぎの機会だな」と真希さんは私の手をとったまま立ち上がる。「野郎どもに鍋の準備させてるから、行こうぜ」
     手を軽くつないだまま、部屋を出て、女子寮も出る。鍋パーティーの準備が進んでるらしい男子寮の部屋へと向かいながら、「あと、オマエが自分の力でオマエのクソ田舎を出てきたっていうのもわかってるつもりだ」と真希さんは付け足した。いやわかってるっていうのは逆に失礼だよな、私はオマエじゃねえんだから。けどオマエがここに来たのはオマエの努力によるものだけど、それは打てば響くようなわかりやすい環境があったからじゃなくて、まあ運の良さとかもあるんだろうけど、それはオマエがほんとうの本当にマジでがんばったからだよ。真希さんの手に力がこもるので、私もディープローズの輝く手で握り返した。鼻の奥がつんとしちゃう。「なんか酔っ払いみたいですよ真希さん」って茶化しながら、ああまた強くなる理由ができてしまったな。なんだか背中が震えそうだった。
     真希さんみたいに強くなりたい。虎杖や伏黒にくらいつきたいから強くなりたい。私は強い私が好き。だから強くなりたい。私はかわいく着飾る私が好き。それを勝手に弱さと結びつけるようなバカを否定したいから強くなりたい。沙織ちゃんに会って恥ずかしくないくらい、ふみちゃんを心配させないくらい強くなりたい。
     そして、真希さんのするだろう革命を見届けたくなってしまった。呪術師として生きる以上、死の淵はつねに近くあるとおもうべきだろう。だけど、真希さんのつくる新しい世界を、生きて迎えたい、だから、そう。強くなりたい。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    ❤😭😭😭👏💖💖
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works