さかせる あっ今ここなんだ。唐突に理解する。夜が静かで目眩がする。少し前を行くあの子があたしの名前を呼んで早く行こって促してくれるけど、ごめん。ごめんね。あたしは行けない。
ぜんぶ覚えている。繰り返し思い出してきたのだから。
校門を出たときは普段通りだったはずだ。アブラゼミとクマゼミのやかましい合唱。急な坂道の先に落ちて行く夕日があんまり赤くて目に痛いくらいで、けどそれだっていつものことだった。ただ、あたしはとにかく苛立っていた。悔しくて、打ちのめされたような気持ちでもいた。泣いたら負けだっておもいながら眉間に力を込め、景色を睨みながら坂をくだっていた。道の両脇には細い水路、水路をこえてみかん畑が広がり、青い実をつけた木々が影絵のようになっている。みかん畑の道を抜けると民家と田んぼが交互に現れる。田んぼのだいぶ育った稲の隙間で水面が金色に光ってきれい。視界の端には海沿いにある工場の煙突が遠くそびえる。煙はまっすぐのぼっている。風がないから歩きやすい。
歩調を変えずにいつもの坂をいつも通りにくだって、最初は何も気づいてなかった。じぶんのなかの悔しさに向き合うのでせいいっぱいだったのかもしれない。
だけど、気づく。いくら道をくだっても、景色が変わらなくなっていた。夕日も海に消える手前でじっと動かない。そういえば蝉の声がきこえなくなっていた。いつから? いつから変だったんだろう。変な永遠に迷い込んだみたいだった。道は蛇行するけどだいたい一本道で、毎日通学しているんだ。間違えるはずがない。
嫌だな、怖い。
ついさっきまで胸を満たしていた悔しさがさっと引いて行くのがわかった。代わりに、何か冷たい、ざわざわした感情が喉元まであがってくる。
立ち止まって振り返ると、自分の足元に影がないことに気づいた。何なんよこれ。また向き直って坂の下を見る。ちゃんと夕日はある。いや、動かない夕日はちゃんとしとらんけど、光が向こうにあるのにこっちに影が現れんのは変やろ。もう自分が今どこにおるんか全然わからんかった。見慣れた風景とおもうのに、目の前の民家はめっちゃ見覚えがあって誰か友だちの家やって感じるのに、それが誰なんか思い出せん。なんで誰もおらんのよ、それだっておかしい。確かに今日あたしはずいぶん下校が遅くなってしまったけど、運動部や吹奏楽部はこのくらいの時間に帰っているはずだ。なのに誰もいない。「嘘やろ」と情けない声が出た。足の力が抜ける。しゃがみこんでしまう。しゃがみこんでも足元に影が固まることはなく、校則をきっちり守った短い靴下が場違いなほど白く見えた。
じ じじ
不鮮明な音を耳がひろって、顔をあげる。蝉の声の始まり部分かとおもったけど違う。すぐにその音は大きなハウリングに変わる。あちこちの電柱に取り付けられたスピーカーがいっせいに鳴り出していた。町内放送? 戻ってこれたん?と期待する。でもダメだ。全然ダメ。放送される声は人間の肉声のようにはきこえた。でも声がつくっているのが知っている言語とおもえなかった。そもそもこれは言語なん?
ぶわあ ばぁいりじでじ らけおゃおあぶぴあ あうぱふじおんお ふゅぬえ
意味じゃない、音なだけの声。それが複数のスピーカーから何重にも重なって重なって頭のうえに降りかかってくる。ふだんの町内放送でさえこの重なりのせいでうまくききとれないのだ。いっそう不気味で嫌だ。すごく嫌だ。ふだんの町内放送について考えてしまったのも失敗だった。いつもこのスピーカーたちがわんわん重なりながら伝えてくるのは老人の行方不明についてだったから。ああ、あたしの迷い込んでしまったここって何か裏側みたいなところで、表側ではあたしが消えとって、今あたしの行方不明が放送されとるんでは……? クソ、なんでうちの中学はいまだにケータイの持ち込みが禁止なんだろう、馬鹿。ケータイ持っとったら何か友だちや父母と連絡とれたかもしれんのに……いや、とれんかったとき一層怖いかもしれんけん、持っとらんくてよかった……?
わやだよ。すっかり地面に座り込んでしまって、7月の夕暮れの地面に何の熱も感じないことにまた怯え、あたしここで死ぬんだろうかって、もう鳴り続けとるはずの放送もきこえん、心臓ばかりうるさくて、そういうときだった。
「子ども?!」
驚きを含んだ声が正面から響いて、ふたたび顔をあげた先には知らない女の子が立っていた。短い茶髪、見たことのない制服、こちらに向かって延びる長い影。この子には影がある。逆光でよくわからないけど、たぶん目が合ったはずだ。女の子はさらに驚いたように一瞬だけ顔を反らせる。「嘘。ホントに人間の子ども……?」女の子はあたしの顔を見つめながら呟いて、それからハッと表情を硬くする。もうあたしを見ていない。あたしの背後を見ている。――本当は影になってどれも曖昧だったけど、わかったのだ。
おもわずあたしも振り向き、女の子の視線の先を追っていた。
何もない。民家と田んぼと電柱だけ。
とおもうのに、女の子はきびしい表情のまま何もない空中を睨みつけていて、後ろ手になにか――たぶん金槌と長い釘数本を取り出し、「伏せて!」と言った。あたしに言った。次に女の子が放った言葉はききとれなかった。それは知らない単語――わからんけど、呪文のような――だったからで、謎の言語だったからじゃない。女の子はあたしを飛び越えるみたいに大股に走って、その先で大きく金槌をふるった。釘の一本一本が意思を持ってるみたいに飛んで、そして空中に消える。
何が起こってる?
女の子はあたしには見えない化け物とでも戦っているかのようだった。華奢に見える手足が凶暴な獣のようにしなって、女の子は駆け、飛んで、何度も金槌が振るわれる。戦っているようだったけど、踊っているようでもあった。ストリートダンス。あたしは恐怖も忘れて女の子の踊る背中を見つめていた。
ステージは突然終わる。
大きな跳躍のあと少しのあいだ滞空していた女の子が静かに着地し、風が起こった気がした。冷たくて清涼な風。女の子は着地後もしばらくこちらに背中を向けていた。息を整えているようだった。そして振り向いて、あたしを見た。
今度ははっきりと顔が見えた。違う、はっきりはしていない。なんだろう、顔の半分がもやに隠れたようになっていた。向かって右だから――女の子の顔の左側がわからない。右目だけがこちらの様子をうかがっている。
「ジュレイ……じゃあ、ないわよね……」
女の子が独りごとを言ったのか、あたしに呼びかけたのか、わからなかった。
「あの」とあたしから話しかける。「ありがとう……ございます」
たぶんあたしを助けてくれたんよね。あっとるよね。女の子は返事をせずに、それぞれの手に金槌と釘を持ったままゆっくりこちらに近づいてくる。本当に見たことのない制服だ。女子の学ランって初めて見た。このへんの子どもではない、ここらは中学も高校もラインの色が違うセーラー服ばっかりやけん……とあたしが女の子を観察するあいだも、彼女の表情は硬いままだ。すぐ前に立たれると、女の子の身長があたしとそう変わらないこともわかった。あたしのことを子どもと言っていたけど、この子も子どもだ。でもその表情はずっと大人びで見えた。あたしのことをすごく警戒しているのが伝わってきて、もしかしたら次の瞬間この女の子はあたしに金槌を振るうのかもしれない、とおもったけど、不思議と怖くない。怖くないのにすごくドキドキする。
「ごめん」女の子の体から緊張がとれるのがわかった。「ジュリョクを感じない……人間よね」
女の子は慣れた手つきで背中側のポーチに金槌をしまってくれる。
「それで、私のこと、見えてるのね……?」
変なことを言う子だ。女の子の右手があたしの頬にのばされる。触れられるとひんやりした。
「さわれる……」と女の子はまた変なところに感動している。
「見えとる」と言いかけてから、方言が恥ずかしくて言い直した。女の子がテレビのなかのひとみたいにきれいな標準語でしゃべるから。「見えてるし、さわれます」
頬に添えられたままの手に、こちらから触れる。手首をとらえて、おろす。女の子の手は指先だけじゃなく手首までひんやりしていて、もしかしたらこの子こそおばけなのかもしれん。それでもやっぱり怖くなかった。女の子の手首をずっと握っていたいようにおもったけど、それも申し訳なくてすぐに放してしまった。
「変なこと訊くけど、ごめんね」女の子はまた謝る。「ここはどこ?」
あたしこそ訊きたい。さっきまでいつもの通学路にいたはずなのに、突然こんな裏側に来てしまって――でもとりあえず、いつも暮らしている表側の市の名前を言った。
「四国……?」と女の子は目を丸くしている。
「愛媛県です」と補足した。
「うどん……」
「それは香川」
「あっごめん」謝るのは3回目だ。「ええと、じゃあ……」
「いいんです。えっと、お姉さん……?は何者で、っていうか、いま、何と戦っとったんですか。戦っとったんで当たってます? ここ、見た目はいつもあたしが暮らしとるところと同じなんですけど、なんか今すごく変なんです。何か知っとられるんですか?」
混乱している様子の女の子をさえぎって訊ねると、じぶんのおもってたよりもどんどん質問があふれてしまった。
「私はジュジュツシで、そう、戦ってた。ここ……ここは私にはシブヤ駅の続きに見える」
女の子はあたしの質問に切れ切れに答えながらも、やっぱり自分自身に言い聞かせるようにつぶやく。
「ジュジュツシ? シブヤ? 渋谷って、東京ですか?」
頭のなかで変換できなかった。渋谷はちょっとわかった。渋谷? 渋谷なんてめっちゃ遠くだ。海の向こうやんか。
「ねえ、今っていつ?」女の子はあたしの質問には答えてくれなかった。
「いつ?」
変な質問につい訊き返してしまうけど、「7月、」と素直に今日の日付を言った。
「……西暦は?」
「2010年」ますます不思議だけど、そう答えた。
女の子が息を呑む。そして「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」と顔を伏せて唸るように声を投げ出すので、あたしはつい後退りする。
「そうか、ああ、死ってそういうことなの? 時間も場所も関係ないんだ、そうなのね? ずっと歩いてたけど……生は有限で一方向だけど、死は無限で行き来可能? ふふ、何それ。やっぱ私、死んだのか……」
女の子はさっきあたしがそうしていたようにしゃがみこんで、わけのわからないことを言いながら肩を震わせている。泣いているのかとおもって気後れしたけど、これは笑っている。
「だ、大丈夫ですか……?」
「……うん、大丈夫。落ち着いてきたわ」
女の子は顔をあげ、上目遣いにあたしを見た。不敵な笑みが顔中に広がっている。
「私は呪術師」と女の子が立ち上がる。今度は不思議と言われた言葉の意味がとれた。「呪術高専1年、釘崎野薔薇。驚かせてごめんね。あなたは?」
あたしは握手のためにのばされた手をとって――やっぱり手のひらは冷たかった――名前を言った。
「中学3年生です」
「あら、1個下かあ。子ども扱いしちゃった、気を悪くしないでね」
「いえ」
すっかり調子を取り戻したらしい表情や声、背格好は同じ子どもにおもえたけど、やっぱり彼女をずっと遠く感じる。気を悪くなんてしなかった。
「あの、死んだって……?」
「ああ、いいの。こっちの話よ」野薔薇さんは微笑んで、あたしに追撃を許さなかった。「けど……私って今、ちゃんと人間よね?」
どういうことだろう。表情をうかがうと、不敵な瞳がほんの少し不安に揺れているようにも見えた。
「人間です」とあたしは答える。「……ちょっと顔の左っかわが見えんですけど」
「やっぱりそうなのね」
野薔薇さんは自分の左頬に片手を添えた。顔を覆う黒いもやみたいなものに手まで紛れてしまう。
「でも呪いになっちゃったってわけでもない……みたいよね。ならいいわ」
「あの……?」
「ううん、これもこっちの話。気にしない気にしない」と野薔薇さんはやっぱり明かしてくれない。「でも、あなたをおうちに帰さないとね」
手をつよく握られて、もう片方の手にずっと触れたままだったことに気づいた。あたしの体温がうつったのか、野薔薇さんの手の冷たさをもう感じない。なんだか慌ててしまって、パッと手を放す。失礼だったかなと気になったけど、野薔薇さんは気にした様子もない。
「帰れるんですか?」
「うん。なんたって私が来たんだからね」
あたしと野薔薇さんはしばらく坂をくだりながらおしゃべりした。呪霊だとか領域だとかいろんな説明をしてもらったけど、いまいちぴんとはこなかった。「まあ当然よね」と野薔薇さんは飄々としている。とにかくここはさっきの化け物?の縄張りみたいな場所で、野薔薇さんは化け物を始末するのが仕事らしい。高専って仕事とかするもんなん? オトナだ……。
景色は変わらないままで、あたしの影も戻らなくて、町には誰もおらんくて、蝉も鳴かんし、夕日も停止したままだったけど、それももう怖くない。野薔薇さんはあたしを安心させるように会話を続けながらも、何かの気配を追っているようだった。途中で現れた――何度も同じ場所を通ったはずだけど、やっとその存在に気づいたのだ――カーブミラーをあたしは指差す。カーブミラーにははっきりあたしと野薔薇さんが写って見えた。それを見たらさっきの野薔薇さんの不安も消えるのではとおもったからだ。でも野薔薇さんはちょっと残念そうに口元だけで笑って、「たぶん私とあなたはいま一緒にいるけど、違うところにいるんだとおもう。私にとってはずっと、最初私がいた場所をぐるぐるまわってることになってる」と説明してくれた。なるほど、わからん。野薔薇さんの状況についての話はそれきりで、それ以上を教えてはもらえない。あたしはちょっとさみしい気持ちになって、あたしのいま見えてる景色について野薔薇さんに伝えることにした。ここは変な知らない場所だけど、見た目だけはあたしの地元だ。あたしの暮らす町を野薔薇さんにも見てほしかった。みかん畑、田んぼ、たぶん友だちの家である民家、坂の下のほうに見える団地、工場、煙突と煙、海。道を挟むように水路があって、子どもがときどき落ちること。海はここからだと金色に光ってきれいだけど、実際はたぶん工場の排水で汚れていること、風のある日は煙突の煙が真横にのびて、ついでに町は硫黄のにおいに包まれること――。野薔薇さんは「素敵じゃない」とか「あらあら」とか相槌を入れつつ楽しそうにきいてくれた。
「そういえば、この頃、何かをつよく憎んだりとかそういうことってあった?」
景色についての話が尽きたころに野薔薇さんに訊かれる。そういうつよい感情が、例の化け物と関わることがあるらしい。とくにないですと言おうとして、「あ」と声に出してしまった。思い当たるところがある。
「あるのね?」
「まあ、ちょっとしたことで」
もうすっかりどうでもよくなってしまっていた少し前までの憤りが恥ずかしくて、口ごもってしまった。でも野薔薇さんを裏切りたくなくて、ちゃんと説明する。自分のためのお守りとして、使わないピアッサーをひとつずっと鞄に入れていたこと。それが先生にバレて、没収されてしまったうえに、日が暮れるまで生徒指導室で反省文を書かされていたこと。
「うちの中学、そういうことにアホみたいに厳しいんです」
「ふーん、なるほど」と野薔薇さんはうなずく。「……なんでピアッサーがお守りなの?」
これを訊かれたとき、ちょっとうれしかった。あたし自身に興味を持ってもらえた気がしたからだ。
「うまく説明はできんですけど、いつかピアスあけるぞって決めてて……なんか、持っとるだけで心強いんです」
「うん。なんかわかるわ」
「まあ取り上げられちゃいましたけどね。だからすっごい悔しくてムカついてて……それでこうなっちゃったんでしょうか。やだな、今はもう、そんなの別にいいってかんじなのに」
言いながら野薔薇さんに申し訳なくなってくる。そうか、さっき野薔薇さんはすごい迫力で何かと戦っていたけど、そのやばい敵をあたしが呼び出したんだったら、あたしの一部が野薔薇さんを傷つけようとしていたってことにならんかな。それはすっごく嫌だった。
野薔薇さんは少しのあいだ黙ってしまう。何か考えているようだった。気まずい沈黙ではないから、あたしも黙って横を歩いた。
「あなた、さっき呪いが見えてた?」と野薔薇さんは突然立ち止まってあたしに問うた。
「呪い……」
あたしも同じように立ち止まるけど、パッと答えられない。野薔薇さんの質問の意図がつかめなかったからだ。
「それと、そこを……あなたにとってのここだね。ここを出たいっておもってたりする?」
野薔薇さんの瞳がまた揺れていた。
わかってしまう。野薔薇さんはここまでずっと、長い長い時間をたったひとりで歩いてきたって、そんなふうだった。誰もいないし、誰にも見られない場所を。詳しく教えてはもらえんかったけど。
あたしはその野薔薇さんの孤独をおもう。
もしかして、野薔薇さんはあたしを連れ出してくれるひとだ、と思い至ったとき、胸が痛んだ。呪い? あたしにはそんなん見えん。見えんかったよ野薔薇さん。あなたはあたしにとって、透明な化け物と戦う勇敢な女の子やった。ほやけど、見えるって今うそを言えば、このひとはあたしの手を引いてくれるんだろうか。どこか――本当にどこだって言うんだろう――遠くへ……。そうすればあたしは野薔薇さんの孤独を埋める存在になれるんだろうか。
「いや、違うわね」と、あたしが何か言う前に野薔薇さんが言った。
そう言い切った野薔薇さんはもう迷っていなかったし、孤独をもう漏らさなかった。
「……」あたしはまだ何も言えない。
「あなたの町のこと、すごく楽しそうに話してくれたんだもの。そこが好きなのよね? 校則はクソかもしれないけど、でもお友だちもみんないい子たちなんでしょ。惑わすようなこと言ってごめん。もしあなたがその土地を憎んでいて、そこでは自分として生きていけない、どこか遠くへ行きたいって言うなら」
連れて行ってしまおうかなっておもったけど、と野薔薇さんはたぶん言おうとしてくれた。けど途中で言葉を切って、もう野薔薇さんはあたしを見てない。また鋭い視線で見えない何かを射抜いている。
野薔薇さんの戦いが、華麗なダンスがまた始まる。町内放送もわんわんと鳴り出していた。何かの合図なのかな。つい耳を塞ぐ。でも目はしっかり開けておく。野薔薇さんの背中を見つめる。よく見ておかなきゃ。だって絶対これっきりだ。敵の動きが見えないから予想するしかないんだけど、たぶん野薔薇さんはあたしを守るようにしながら戦ってくれている。あたしにその呪いって化け物が見えて、背中を守り会えたらどんなに素敵だろうか。
けどそれは叶わん話だ。
そうなんよ野薔薇さん、あたしはここの暮らしが好き。どこかに出て行こうなんて、これまで考えたことはない。なんとなくここで大人になって、働いて、誰かと結婚なんかして子どもを産んで、その子どもがまた大人になって子どもを産んでそれを喜んで――そういう人生をするんやろうなってぼんやりおもっとった。だけど同時に孤独でもあった。ひとつだけのピアッサー。片耳だけに開けようおもっとったピアス。野薔薇さんはたぶん都会のひとやろ、ほやったら、そんなん何もおもわんかもしれん。でもあたしには誰にも言えんでいる秘密がある。誰にも言わんままで、秘密にしたまま、思い通りにならんけど大きな苦しみもない――幸せな一生をこの町で遂げるんやろうなって、そういう秘密だ。
高い跳躍、打撃。ローファーがコンクリートを蹴る硬い音。ひるがえるスカート。あたしはせめて邪魔にならんようにって、じっと立ちすくんで、攻撃を絶やさない野薔薇さんの背中に視線を送り続ける。
終わらないで。
まだ終わらないで。
でも戦いは終わる。当然、野薔薇さんの勝ちだ。あたしには野薔薇さんは無傷に見えたけど、もしかしたら野薔薇さんにだける傷があるのかもしれない。自分の手足をひととおり確認するように動かし、見つめたあとで、やっと野薔薇さんはこちらを見てくれる。
「そうそう」と野薔薇さんはあたしを見てにっこりする。「これ、たぶんあなたの感情が呼んだとかじゃないわね。もっと古い、ずっと土地で眠っていたようなものだとおもう」
それはよかった。ホッとする。そのついでに下を向いていて、足元の影に気づいた。
戻ってきている。
戻ってきている!
「もしかしたらここの土地のものでもないかもしれない。私とあなたが別のところにいるみたいにこの呪霊も別の時間と場所のもので、だとしたら、目覚めたのは――」
あたしが感動に震える横で、野薔薇さんはまた何か考え込んでいた。あたしのわかり得ないことについての話。ああ、けど、戻ってきている。野薔薇さんのおかげで恐怖は消えたとおもっていたけど、実際に無事がわかると安心感がすごい。やっぱり怖かったんだな、あたし。蝉のうるささに感動する。戻ってきた7月の夕間暮れの熱が肌に汗を滲ませる。それも不快ではなかった。よかった。生きてる。戻ってきている……!
だけど、野薔薇さんと会っていたのがどこかひとつズレた場所なのだったら、元の場所に戻ってきたってことは。
「野薔薇さん!」とつい大きな声で呼んでしまった。
「なによ」と野薔薇さんはまだ目の前にいてくれているけど、野薔薇さんの立つ場所だけかげろうみたいにゆらめいている。やっぱり場所が違ってしまった。ラジオの電波が合わなくなって、二度と合わせられないかんじ。だんだんゆらめきは大きくなって、野薔薇さんの髪もスカートも見えなくなる。
「なんてことないわよ」と言う野薔薇さんの声も、もうずいぶん遠くにきこえた。
行かないでくださいとか、連れて行ってくださいとか、言えなかった。
たぶん、もうひとことかふたこと、野薔薇さんは何かあたしに言葉をくれた。だけどすでに声は届かなくなっていた。
渋谷って言ってたっけ。ほかに渋谷ってあるのか知らんけど、あたしのきいたことある渋谷は東京だった。あたしはこの町を出ようなんて、それまで本当に考えたことはなかった。だけど選択肢が生まれてしまった。
野薔薇さん。
ああ、今なんだ。ハロウィンの夜の渋谷。ただ直感だけがある。時間と場所が別々だって、こういうこと? あたしはこの8年間、あの7月を胸に生きてきたようなものだった。する予定のなかった大学受験までして、東京に出てきたりなんかして。心のなかでいつの間にか野薔薇ちゃんって呼んだりしていた。あたしより1個上の、無敵の女の子。ねえ野薔薇ちゃん、いつの間にかあたしのほうがずっと年上ってことじゃない? それをわかっとったんよね。あたしが西暦を答えたとき。今ここなんやろ。あの野薔薇ちゃんは、この渋谷から来たんやろ。
いま目にしたものが信じられなかった、たくさんの人間が駅に吸い込まれるみたいに消えて、あたしたちの目の前に見えない線があるみたいに、一歩先が突然無人の街に変わった。夜が静かで目眩がする。
「早く行こ」とあの子があたしの名前を呼ぶ。この場からできるだけ早く去らねばならないって理性が訴えてくる。あの子は焦ったそうにあたしに手を伸ばす。手首におそろいで入れた薔薇のタトゥーが光って見えた。野薔薇ちゃんはずっとあたしの憧れだったけど、それはそのままに、あたしはこの子を見つけたってずっと信じていた。あたしよりも小さい手足、長い髪、気の強そうな大きな瞳。かわいいあたしの彼女。でもごめん。あたしはその手を握り返せないでいる。一緒には行けないんだ。
あたしはこの謎の線をこえて、ひとの消えた渋谷に向かわないといけない。
そこにいるんでしょう。
ああ、あのとき声が届かなくなってから、野薔薇ちゃんはあたしになんて言ったんだろう。「2018年のハロウィン、渋谷には来ないで」? きっとそう。きっとそうだっておもう。わかるよ。
でも、ごめんね。