星を食べる 日が傾いていく。影が長くなる。校舎も校庭も金色めく。2年の教室は旧校舎の北棟。影に覆われた中庭を通って伏黒のいる教室に向かう。新校舎が完成して吹部の練習が向こうに移ってこっち、放課後の旧校舎はだいぶ静かになった。新校舎のほうからあらゆる楽器のバラバラの基礎練が、校庭や体育館からいろんな運動部のかけ声やはしゃぐ声が遠く響いてくる。
目当ての教室にたどり着くと、おもったとおり伏黒だけが残っていた。頬杖をつき机に置いた文庫本を片手で退屈そうにめくる伏黒に、ゆっくりと近づく。そのすぐ前に立って、眼鏡を奪ってやろうと手を伸ばす。
そこで視線をあげた伏黒と目があう。上目遣いの伏黒と、眼鏡のレンズを通さない角度で。
俺がにっこりすると、伏黒も口の端だけで少し笑ってくれる。
「気づいてた?」と俺は訊ねる。
「ああ」と伏黒は答えながら眼鏡を外す。「教室に入ってきたくらいからは」
おもったよりも早くバレてたみたいでちょっと悔しい。
「何読んでるん」
「なんでもいいだろ」
「え〜、伏黒クンてばつめたーい」
「勝手に言ってろ」
会話を適当にこなしつつ、伏黒は眼鏡を眼鏡ケースに仕舞い、眼鏡ケースを鞄に戻す。文庫本を机におさめる。そして立ち上がり、俺のほうに右手をのばす。俺は差し出された手指に自分の指を絡める。紙にペン先を落とすみたいな、染みていくかんじがする。
「先に見てきたのか?」と伏黒が俺に訊ねた。
「うん。見える範囲でだけど」と俺は答える。
手はずっと握り合ったままだ。
「どうだった」
「なんか黒くて、詰まってて、重たそうなかんじ」
「そうか……」
と伏黒はちょっと考えるみたいに宙を睨む。
「俺にもそれくらい見えるってことは、そこそこあるやつなんかな」
「どうだろう。最近お前もかなり見えるようになってきてるみたいだから」
「へへ、おかげさまで」俺はちょっと照れちゃって誤魔化し笑いだ。「それで、今日はどうする?」
「とりあえずいっとくか」
「了解」
俺たちは互いに手を離し、代わりにさらに距離を縮める。目の前にある伏黒の両頬に両手を添えて、唇に唇を寄せた。口付ける。まずかさついた感触。そのあとちょっとの湿り。
そのまま5秒。
口付けを終えて目を開けると──俺はこうするときいつも目を瞑っちゃう。伏黒はたぶん目を開けたまま俺をずっと見張っている──特殊なフィルターでもかけたみたいにスッと視界が明瞭になる。伏黒の頬に添えたじぶんの手の輪郭がくっきりはっきりする。もう、それまでがそんなにぼんやりしたりはしないんだけど、それでも劇的だ。
「どうだ」
と伏黒は分かりきったことを確認する。そういう慎重さがなんか伏黒らしくていいなあっておもう。念のため、手をじぶんの顔の前で握ったり開いたりして確かめる。ちゃんと見えて、触れられる。いつもと変わりない。
「いけそう。伏黒は?」
俺も伏黒に倣って訊ねた。
「充分。いくぞ」
伏黒はすぐにそう答えて、置き勉してるせいでずいぶん軽い鞄を肩にかけ、歩き出す。
俺もそれに続く。
*
今日の現場は旧校舎の南棟と北棟をつなぐ渡り廊下。そこにたどり着くころには日はすっかり暮れていて、他の生徒たちのざわめきも消えている。伏黒と落ち合う前に確かめた黒い重たそうなかたまりはまだそこにいた。すごくたくさんの人間を、手足のかたちが残るくらいの超粗挽きにして、捏ねて丸めたみたいな造形の、巨大なおばけとして。黄土色と黒と赤が混じり合った、何か失敗しちゃったくだものってかんじ。
「うわ、グロい」とつい口にする。
「でも襲ってこないんだな」
「あ、確かに?」
伏黒の指摘通り、そいつは俺たちがしっかり見て、近づいているのに、こちらに反応する素振りがなかった。
「目がないからかな……」
と俺は予想する。おばけは手足ばかりが無数に突き出た、顔のない姿をしてる。どうでしょうかって伏黒のほうを見ると、伏黒はもう折りたたみナイフの刃を出し、おばけだけを睨んでいた。
「さあな」と俺に返事しながら、俺のほうを見てはくれない。
「待って待って」
「なんだよ」
「何もしてこなくても殺すの?」
「これから何かするかもしれないだろ」と伏黒は舌打ちする。「てかこいつら生きてねえから殺すとかじゃない」
そうは言ったってさあ、と反論しようとするけど、でも別に俺だってこのグロいおばけに肩入れしているわけではない。だから結局、伏黒がおばけに走り寄って、ナイフで切りつけるのを黙って見ている。小さいナイフの刃がおばけの肌に沈む。なおもおばけは反応を示さない。たくさんある手足の、指の一本さえ動かさなかった。こういうのはなかなかない。
見かけ倒しのおばけは、ほんとうにその一撃だけで簡単に仕留められてしまった。
風船がしぼむようにかたまりは消え、いつもの光る粉があたりにきらきら降りそそぐ。スノードームのなかにいるみたいだ。
「俺、要らなかったね」
と言いながら、きらきらのなかに立つ伏黒に近寄る。
「いや、お前がいなかったら仕留められてない」
と伏黒は無表情に言った。
「そう?」
「そう」
伏黒の腕がこちらにのばされる。俺はその手を掴む。これは比喩だけど、俺のなかにある水甕から、たくさんの水が空っぽの器に移されていく感覚。
「本当だ」と俺はつぶやく。「だいぶ減ってるね」
「悪いな」
そう言って伏黒は手に力を込め、俺を引き寄せる。俺は黙って従う。伏黒は俺を抱きしめるみたいにしながら俺の肩に顔を埋めている。「明日、姉貴の病院行くから」というか細い声をきいて、「いいよ」って俺はその背をさすってやる。いいよ、いっぱい持っていってよ。俺は減らんからね。
それもたった1分かそこらのこと。そのあいだにあたりを舞っていたきらきらも消えてなくなっていた。今回は消えるのが早い。伏黒は顔をあげ、至近距離にある俺の顔をちょっと照れくさそうに見つめて──口付けるときはケロッとしてるのにね──ごまかすみたいに俺の頬に触れる。
「……この傷ってどうしたんだ?」
「傷?」
「ここにお前、傷があるだろ。左右両方」
伏黒の親指に撫でられた目の下がくすぐったい。
「ぜんぜんわからん」と答える。
「そうか。……古い傷なんだろうな。乾いてる」
「そのうち思い出したりするんかな」
「俺が知るかよ」
「はは。そうね」
そこからまた、来週の予定の確認とかのいくつかの会話を終えて、俺と伏黒は別れる。もう他には誰もいない暗い校舎をふたりでこっそり歩き、眼鏡をかけなおした伏黒が裏門をよじ登って越えるのを見送った。
何も部活をしていない伏黒には、土日は会えない。これがさみしいという感情であることをずっと知っていたけど、それをどこで知ったのか思い出せなかった。
俺には伏黒と出会う以前の思い出が何もない。
◆
伏黒恵はおばけの見える子どもだ。いや、子どもって言ったら前に怒られたんだった。高校生。俺と伏黒が初めて会ったのは1年前、伏黒が高校生としての最初の夏を迎えようとしていたころ。
夜だった。
深夜の、もう誰もいないはずの学校。人間の気配に吸い寄せられるようにして中庭に向かっていた。校舎の壁にもたれてうずくまる人影を見つけ、近づく。夏服を着た高校生だ。黒い髪の男の子。何か察したのか、高校生は顔をあげて俺のほうを見た。視線がぶつかった、とおもったときに俺にとって俺の目がうまれて、「うしろ!」と声をかけられ、腕を掴まれたとき腕がうまれた。言われるままに振り向くとそこには──さっきまでは影も形もなかったはずの──3メートルくらいありそうな黒いでっかいカマキリがいて、そいつが俺たちに鎌を向けていた。
あ、死ぬんだ?とおもった。死だなんておもうのは初めてだった。初めて? おもうという、そのこと自体が初めてだったはずだ。それまで何も──ほんとうに何も、始まっていなかったんだから。
そして俺は死ななかった。
ふらふらの高校生が俺を庇うように──というか実際に庇って──俺と巨大カマキリのあいだに躍り出ていた。高校生が傷だらけだと気づく。片頬は殴られたように腫れ、口の端から血がつたっていた。白い半袖からのびる腕に浅い切り傷がいくつかある。たぶんカマキリにやられたんだんだろう。少しかがんで腹を左手で抑えているのは、そこにも怪我を負っているってことなんだろうか。待って。お前が死ぬじゃん。とおもう。高校生はやぶれかぶれの様子で右手を振り上げて、その手にあるのは彫刻刀だった。そんなもので巨大カマキリに勝てるわけないじゃん!
でも高校生も死なない。
振り下ろされた彫刻刀がカマキリの胴に触れた途端に、カマキリは弾け飛んでいた。強い風が起こって、俺も高校生も少し飛ばされ、尻餅をつく。もう中庭には俺と高校生しかいない。夜の暗がりに高校生の呆然とした表情がはっきり見えたのは、あたりに謎の光る粉が降っていたからだった。カマキリが粉になったんだろうか。ゆっくり地面に落ちて溶けるように消える光を、俺も高校生もぼんやり眺めていた。
そのうち遅れて実感みたいなものが訪れて、「お前、すごいね!」と俺が高校生に向かって言ったのと、「マジかよ」と少し怯えた様子の高校生が俺を見て言ったのは同時だった。高校生はよろよろと立ち上がって俺のほうまで来てくれた。手を差し伸べられたので、反射的にその手を掴む。握手? そのまま腕を引かれて、俺を立ち上がらせようとしているのだとわかった。それに従う。
「イタドリ……?」
と高校生は俺を見ながらつぶやく。
「俺のこと知ってんの?」
俺はこのときじぶんの名前を知らなかった。
「いや……」高校生は曖昧に返事をしながら俺の胸を指差す。「名札に書いてあるから」
「え、本当だ」
俺の胸には小さいプラスチックの長方形が留まっていて、そこに虎杖と白い文字で書いてある。
「何なんだお前……」
と高校生は不審げに俺の顔を覗き込む。
「いたどり」とゆっくり発音しながら俺は、今度は自分から高校生に手を差し出す。「虎杖悠仁……です?」
その名前はずっと覚えていたみたいに俺の口からすらすらと出てきた。でも慣れないし、この高校生に対してどういう態度をとればいいかわからなくて語尾があがってしまう。
「ふ。なんで疑問形なんだよ」と高校生は笑いながら俺の手をとってくれた。
今度こそ握手だ。
向かい合って立つと、俺と高校生はほとんど同じ背丈だとわかる。まっすぐ視線が合う。
「お前はなんていうの、名前」
「伏黒」と高校生は躊躇せず教えてくれた。「伏黒、恵」
「ふしぐろ……」
「ああ」
「ねえ伏黒」と呼びかけると、堰を切ったように問いがあふれてきた。「さっきのでかいカマキリみたいなのは何なん、突然出てきたけど。ていうかなんでこんな時間にここにいるん? 先生たちももうみんないないよね? あっあと、もしかしてああいうカマキリ的なのってよく出るもんなん? そのたび闘ってるとか? えっなんで? 危ないじゃん、さっきだって……。あっ、さっき、助けてくれたんよな? ありがとう、助かった」
伏黒は面食らったような表情で俺からの矢継ぎ早の質問と感謝の言葉を受けとめていた。俺もじぶんでびっくりだったよ。何でそんなにぽんぽんと自分の口から言葉が出てくるのかわからんかった。でもほんとうに知りたかったのはたぶん、「俺って何なんだろう」だったともおもう。
「いや、お前だってこんな時間に……」
と伏黒は言いかけて、そこでハッと何かに気づいた様子で、握手したままだった手を振りほどいた。
このとき俺も気づく。伏黒に触れているあいだは電気の回路が通うみたいに視界が明るくて、離れるとスイッチが切れたように少しにじむ。そういえばカマキリが現れた──見えるようになったのも、伏黒に最初に触れられたときだった。いや、カマキリだけじゃないよね。俺に俺自身がわかるようになったのもそれと同時のはず。
「お前、俺に何した……?」
伏黒は低く唸るように言いながら俺と距離をとる。それは俺が伏黒に対して言いたいセリフでもあった。
「何って」とだけ返す。
質問で返しつつ、伏黒が何を訝しんでいるのか、答えをきく前にすぐにわかった。
伏黒の姿は俺にも最初から、ぼやけず、ずっと鮮明に見えている。伏黒に腕を掴まれる前から。そのとき伏黒はけっこうボロボロで、傷だらけだった。でも今、伏黒の頬はなめらかに白いし、腕にも傷ひとつない。シャツの脇腹に広くにじんでいた血の染みもなくなっていた。
伏黒はたぶん、俺がそうしたと思ってる。実際それは正解なのだけど、このときは俺もそうだってわかってなかった。
空中に残っていたきらきらもいつの間にかすべて消え、すっかり夜の薄暗闇に包まれた中庭で、伏黒は俺を睨みつけながらじりじりと後ずさる。俺は動けない。伏黒が校舎の壁際に落ちていた鞄を俺を睨んだまんまで拾いあげる。それをただ見ていた。伏黒は鞄から眼鏡ケースを探り当てる。取り出した眼鏡のレンズ越しに俺のほうを見た伏黒の瞳が、キッと鋭くなる。
殺されるんだな。とおもった。伏黒から発せられるのが殺意だとわかったから。伏黒はそばに転がっていた彫刻刀を拾うと、また俺の元に戻ってきた。カマキリに対してそうしていたように、彫刻刀の切先が俺に向けられる。
俺は動けない。
でも俺は殺されない。
伏黒は抵抗しようとしない俺に何かおもうところがあったようで、彫刻刀を握った手をおろすと、「もういい」とだけかすかな声で言った。
「俺って」と言う俺の声もちょっと震えていた。「もしかして、さっきのカマキリとおんなじなんかな」
伏黒は答えてくれなかった。
「いいか。動くなよ。あと、この先もし何かしようとしたら、次は刺すからな」
と、さっき名前を教えてくれたときとはぜんぜん違う、敵意のこもった声で俺に言い残し、伏黒はその場を去ってしまう。
俺は言われたとおり、動かなかった。
ずっと。
夜が明ける。だんだん手足の感覚が抜けていって、自分自身が見えなくなり、俺はまたぼんやりとした意識だけの存在に戻る。昼の明るさのなかで校舎を行き来する子どもたちのざわめきを潮騒をきくようにながめて、夜はただ夜の闇に沈んでいる。俺はどこにもいない。
始まる前はずっとそうだった。
◆
まあ結果的に、俺は伏黒の言いつけを破り、何かしようとしてしまう。「何か」っていうか、俺は何度も何度も伏黒を探して会いに行ってしまうのだった。半分わざとで、もう半分はわざとじゃない。
俺は存在しないのと同じような存在に戻ったはずだったけど、夕方から夜にかけて校舎の薄暗いところに人間の気配を感じると、どうしても引き寄せられてしまう。向かうと決まって伏黒がいた。そのたび伏黒は、俺には見えない何かと戦っていた。たぶんあのときのカマキリみたいな得体の知れんものが相手だ。
伏黒は俺に気づいても、最初の数回は完全無視を決め込んでいたようだった。でも伏黒が俺に気づいて俺を少しでも見れば、俺の意識は途端にはっきりする。なんかそういう機構があるっぽい。だから俺にとって伏黒の無視はほとんど意味がなかった。
伏黒もそのうち諦めたのか、俺にごまかしのない視線を向けてくるようになる。「近づくな」とか「動くなよ」とか、そういうかんじに睨んでくるのだった。
俺は伏黒に見られて、意識が──じぶんにとってじぶん自身が──はっきりすることが、うれしかった。始めのうちは、ほんとうにそれだけが。でもそうしているうちに伏黒に興味が出て、親しみを覚え、力になりたいとかおもうようになり、伏黒がこちらに視線を向けてくれる自体がよろこびになっていく。
だから自然と、気配に引き寄せられたってわけでなく、じぶんの意思──と言えるほど明確なものではなかったけど。やっぱり伏黒に見られていないあいだは俺ぼんやりぼんやりだったから──で夕まぐれの校舎に伏黒の姿を探すようになった。
そのあたりからは伏黒は俺を見つけるたび、ただ呆れた様子でいた。出会ったあの夜以来、殺意を向けられることもなかった。次は刺すって言ってたのにね。ただ近づくなと視線が訴えてくるので、俺は少し離れた場所からずっと見ているだけだった。
伏黒からもらった意識の輪郭をフル活用して、戦いが終わり伏黒が去っていくまでをただ見つめ、朝にはその意識もまたぼやけていく。それでも俺は満たされていた。
俺から伏黒への一方的なストーカー行為はたぶん3ヶ月くらい続いて、関係が変わったのは秋の真ん中ごろ。
その夜、ただならない気配をかんじて新校舎3階にある真新しい理科室に向かうと、ちょうど伏黒の体が宙を飛んで、窓に叩きつけられるところだった。窓ガラスが一瞬で白くなる。違う、無数にヒビが入ったんだ。ワンテンポ遅れて、弾けるようにガラスが散る。伏黒の体が外へと傾く。スローモーションにかんじる。
伏黒は意識を失っているようで、俺に気づかない。
だから俺はぼんやり霞みがかったままの思考のなかで、俺にとって存在しない足を動かして走り寄り、存在しない手をのばす。伏黒の力の抜けた腕へと。
じぶんの存在しない体が、黒いぼんやりとした影の前を横切るのがわかった。化け物がそこにいるってわかる。意識がはっきりしているときだったら恐怖で竦んでいたかもしれない。だから伏黒が気絶していて──俺にはっきりした思考がない状態で、ちょうどよかった。
俺は間に合う。
俺の手は伏黒の腕をとらえ、室内に引き戻す。ガラスだけがパラパラと外に落ちていった。
伏黒の腕に触れた瞬間、またあの夜みたいに、俺は体の輪郭を得ていた。視界も意識も明瞭だ。
伏黒の軽い体を抱えて、どう逃げようかと考える。すぐ背中に迫っているはずの化け物が襲ってこないから、考えるだけの時間があるとおもったのだ。でも実際は化け物は襲ってこないのではなく、ただ突然現れた俺を値踏みしていた。値踏みっていう概念?が化け物にあるんかは知らんけど……。化け物は俺ごと標的に定めたらしく、さっき伏黒を投げ飛ばしてた強い力で、俺の背をおもいっきり殴ってくる。俺は伏黒を庇って体を丸める。おもったよりも俺の体は頑丈みたいで、弾き飛ばされなかったことにほっとした。
傷だらけの伏黒を化け物のほうに向けるわけにはいかないから、俺は首だけで振り返って化け物を見る。化け物はかわいらしいテディベアの姿をしていた。人間の赤ん坊くらいの大きさ。前がでかい黒いカマキリだったから、次はでかい青いセミとかかとおもってた。ちょっと拍子抜けする。
理科室の黒い机の上をテディベアがゆっくり近づいてくる。近づいてくる? さっきどうやって俺たちを殴ったんだ? と考えているあいだに、また強く殴られる。テディベアの片腕がゴムみたいに伸び、しなって、襲いかかってくるのを視界の端にとらえた。
さっきよりもずっと痛い。遊ばれてるような気がする。たぶんこれもテディベアの全力ではない。
伏黒を窓の下の壁にもたれかからせる。伏黒から体を離すとき、そのブレザーが血で黒く汚れているのがわかった。傷口が見えないから、どれくらい重傷なのかわからない、でも血ってそんなにたくさん流れていいもんではないよね? 頭もどこか切れているみたいで、顔も血まみれだった。
「伏黒」と声をかけるけど、伏黒は目を開けてくれない。
生きてる? 生きてるよね。生きててくれよ。あのとき俺は伏黒の怪我を治したんじゃなかったん? 抱きしめてみたのに、なんで伏黒はまだ血まみれなんだろう。あのとき確か光る粉が降ってたっけ。傷を治してたのは俺じゃなくてあの粉のほう? 悔しいな。でもじゃあ、俺が伏黒を守って戦うのか? このあいだ伏黒が俺にしてくれたみたいに? この体は頑丈そうではあるけど、俺は戦いかたを知らない。伏黒はあのときどうしていた?……彫刻刀持ってた。あれが何かマジカルなアイテムだったのか? あれは今どこにある?
伏黒を壁にもたせかけるのも、テディベアに背を向けてぐるぐる考えてるのも、ほんの数秒だったはずだ。でもすぐに次の、よりつよい衝撃が背に襲いくる。
そこからは打撃のラッシュだった。
伏黒の顔の両脇に手をついて、伏黒に覆い被さる体勢で、重なる打撃に耐える。
今おもうと、あの鞭のような腕でテディベアは俺から伏黒を奪うことだって簡単にできたはずで、テディベアがそうせず俺の背中を傷で埋め尽くすことに集中してくれたのは救いだった。このときの俺はそんなことにはおもい至らなくて、もう頭のなかは、痛い痛い何でこんなことにって、そればっかりになっていた。情けないことにね。
そしてテディベアの化け物から攻撃を受けながら、その攻撃を物理的に避けることはできないけれど、化け物以外の物質──たとえば壁とか──の物理を俺は無視できるだろうってことをかんじていた。俺の化け物としての本能なんかな。だから伏黒を諦め、壁をすり抜けて外に逃げれば、たぶんあんなに痛いおもいをせずに済んだはずだ。
でも俺は伏黒を置いていけなかった。俺が逃げればこの体の下にいる死にかけの子どもは散々に弄ばれて殺されるんだろうって、それが怖かった。
体のどこが痛いのかもわからなくなったころに、テディベアは打撃を与えるのに飽きたのか、別の一撃を俺に与える。俺の背中から胸にかけてを、長い筒状になったテディベアの腕がつらぬいた。鋭い刃物とかじゃないぶんその衝撃はものすごくて、だけどもうそれが痛みかもわからなかった。あーあ、通り抜けちゃったなってかんじ。背中に傷をつけられるぶんにはよかったんだけど、胸に空いた穴からどんどん血があふれ、伏黒の制服を濡らしていくのが、申し訳なくて苦しかった。
伏黒の体が、傷が、俺みたいなわけのわからん化け物の血で汚れてしまう。
「ごめん伏黒。ごめん……」
と声に出すと、口からも血がこぼれた。がんばって絞り出した声だったのに意識を失ったままの伏黒には当然だけど届かない。それがかなしかった。
じぶんが穴だらけの水筒にでもなった気分だった。腕からも背骨からもどんどん力が抜けて、体勢が保てなくなっていく。今度こそ死ぬんだなとおもって、せめて伏黒の体をこれ以上汚さんようにって倒れてゆく上半身の軌道を変えようとする。
伏黒が目を開けたのはそのときだった。
倒れながら「伏黒」て名前を呼びたかったけど、気道はもう血ですっかり溺れていて声にならない。でも伏黒が「虎杖!」て俺を呼ぶのをきいて、もうそれだけで満足だった。
意識はそこで途切れる。
音のない暗闇。
目を覚ますと、夜で、理科室だった。立ち上がって部屋じゅうを見渡す。粉々に割れて外に散ったはずの窓ガラスがふつうにはまっていた。その窓の下が誰かの血で汚れているようなこともない。
夢だったのか?っておもった。それこそほんとうに初めから、俺がぼんやりした無の存在だってことから夢で、目を覚ました俺はなんてことない高校生で──とか考えるけど、なんてことない高校生は夜中の校舎でとつぜん目を覚ましたりしないだろうし、そもそも俺の姿が窓ガラスに映っていないので、うん、やっぱり俺は化け物なんだろうな。
でも窓ガラスには映ってなくても、じぶんに両手があるのは今見えている。
伏黒に見られても触れてもいないのに? そういう機構があるっていうのが勘違い? いやもしかして俺はもう死んでて、ここは天国とか……? 何もわからなくて、両手のてのひらを見つめながら立ち尽くしていると、ガラガラと扉の開く音がした。
期待しながら振り向く。
そこには伏黒がいた。
「伏黒!」
とつい声が大きくなる。やっときこえるように名前を呼べた。うれしかった。
伏黒は俺と目が合うと、引き戸に片手をかけたままその場にしゃがみこんでしまう。
「えっ大丈夫⁈」
と俺が駆け寄ろうとすると、伏黒はしゃがみこんだ姿勢でこちらに片手のてのひらを向けてくる。これは「来るな」のジェスチャー。俺は伏黒の許しを待つ。伏黒が伏黒の涙を拭い終えるのを見守る。つい頬がゆるむ。
しばらくして伏黒は立ち上がり、
「クソ、笑ってんじゃねえよ」
と悪態をつきながら俺に歩み寄ってくるので、俺はまた笑ってしまう。
伏黒は俺の立つ窓辺にいちばん近い机に腰かけて、俺を虫でも観察するみたいにじっとながめ、ため息をつき、たっぷりの逡巡ののち、やっと口をひらいた。
「昨日は助かった、ありがとう。……無事でよかった」
「伏黒もよかった、生きてて……」
そう口にしたら、俺もなんだか泣けてしまった。「すげえ、なんか勝手に涙出る。てか俺って涙とか出るんだね」とか言いながら俺が泣き笑いするのを、伏黒はちょっと困った様子で見ていてくれた。
「近づいても大丈夫?」
涙が止まってから伏黒に訊ねる。
「ああ」
と伏黒は許してくれる。
伏黒の隣にそっと腰かける。理科室の机はでかいから並んで座れる、いいね。いや机は腰かけるためのものじゃないけどね。そしてすぐ隣に置かれた伏黒の手にじぶんの手を重ねる。スーッと体に風が吹くみたいに気持ちいい。
「たぶん俺、伏黒に触れられてると人間みたいになるタイプのおばけなんだよね?」
と隣に座る伏黒に話しかけた。
「は?」と返され、またなにか間違えたかなと焦る。
「いや、俺ってなんか、透明人間というか、霧人間みたいなかんじじゃん? でも伏黒が見てくれたら人間っぽいかんじに考えるのができて、あと触ってくれたら物理的?ていうの? かたちとして人間っぽく、」
「おい、何言ってるんだ?」
必死の説明を遮られて、俺はまたどうしたらいいかわからない。おろおろする俺に、「俺の予想だけの部分も多いけど」と前置きしつつ、伏黒はいろんなことを説明してくれた。
●伏黒はおばけが見える
●伏黒はおばけに触れることができる
●伏黒はそのへんの道具を、力を込めることによっておばけを倒すための武器に変えることができる
●伏黒はおばけと戦うための武器をつくる・維持すると消耗する
●伏黒の眼鏡はおばけを見えなくするための道具
(ずっとおばけが見えてたら生活が不便だし、だいたいのおばけは視線に反応して襲ってくるから)
●俺は(たぶん)おばけの一種で、ふだんはほとんど自分の意識っていうものがない
●俺は伏黒に見られたときだけ意識をはっきり持つことができる
●俺は通常、俺を含むほぼ全てのおばけを見ることができない
(すごく強いおばけはぼんやりだけど見えるっぽい?)
●俺は伏黒に触れられるとおばけが見えるようになる
(だから俺は伏黒に触れられたら、じぶん=おばけの物理的な存在を知覚できる。つまり自分の体が見えるようになる)
●伏黒に触れられてないあいだの、俺には見えん俺のことも、伏黒はふつうに見えてる
●伏黒に触れられたひとがみんなおばけを見えるようになるわけではない(伏黒が言うには俺だけ)
●伏黒は俺に触れるとおばけを倒すためのつよいエネルギーを得る
(おばけ退治用の武器のために消耗した力を充電できる)
●伏黒から俺に与えられる視力や、俺から伏黒に与えられるエネルギーは、接触が深く長いほど多く交換される
●俺は伏黒のおばけとの戦いで負った傷を治すことができる
●俺は伏黒の傷を治すと、消耗する
●俺はおばけに傷つけられても、伏黒の傷を治して消耗しても、少しすると勝手に大丈夫になる
伏黒の説明と俺の理解を足すとだいたいこんなかんじだ。伏黒は俺の知らんことをいっぱい教えてくれたけど、俺だけが知ってたこともいくつかある。俺がふだん無みたいにすごし、あの夜初めて意識を自覚したんだって説明すると、伏黒はすごく驚いていた。
おばけっていうのは俺の語彙。伏黒は「霊だとか鬼だとか呼ばれるたぐいのものだとおもう」みたいに説明してくれたし、伏黒自身はそれを「やつら」とか「あいつら」とだけ呼んでるようだった。「おばけってことね」と俺がうなずくと伏黒は何も言わなかったけど、「ガキみたいな言い方をするやつだな」と顔に書いてあった。
「他に俺みたいなおばけはいた?」と俺は訊ねる。
「お前みたいな?」
「人間みたいなかたちの……」
「いなかった……とおもう」と伏黒は曖昧な言いかたをした。「眼鏡つくるまでは、ずっとやつらが見えてる状態だったから。人間の姿をして人間にまぎれてたとしたら、気づかなかった可能性はある」
「ふーん」
「最初、お前が眼鏡ごしには見えない……やつらみたいなもんだって気づいたときは、人間の姿に化ける能力のある超強いヤバいやつなんだってマジで焦った」
「何それ、ちょっとかっこいいじゃん俺」
「人間の傷を治す能力を持っていて、何度も回復させては痛めつける非道な化け物」
「やだ変態だ〜」
「そのあとストーカーしてくるしな」
「ふふ、ごめんな。でも危害は加えてねえよ」
「敵意がないってわかってきてからも、なんでそんな俺に懐いてんのかは謎だった」
「まあ俺、伏黒がいないと透明なナメクジみたいなもんだからね。じぶんの姿も見えなくてさ。そりゃ会いたいでしょ」
「というか卵から孵ったヒナが最初に見たやつを親だとおもう的な」
「えっそれはひどくない? ひとの好意をそんなふうに。……けど生まれたてって部分は同意するよね、実感として」
「同い年くらいに見えるけどな……そのへんの仕組みは俺にもまったくわからん」
打ち解けたっぽく、友だち同士みたいに会話を流しながら、伏黒がなんで学校でおばけ退治みたいなことをしてるのか訊きたかったけど、そんな個人的なことを聞き出していいものかわからなかった。代わりにその次に知りたかったことを訊ねる。
「そういえば昨日の夜、あのあとどうなったん」
「お前どこまで覚えてるんだ」
「伏黒が目を開けて、俺の名前を呼んでくれたところまで」
「なるほど、あのあと、」
と伏黒は語り始める。
あのあとお前はすっかり倒れて、何度か名前を呼んだけど、返事もしないし動かなかった。まあ死なれたとおもって、ショックがなかったわけじゃない。……はは、いや、正直言ってじぶんがお前の死にかなり動揺してる、それが衝撃だったな。でも命の恩人なんだから、死なれたらそりゃ後味悪いだろ。……ああ、そうだな。でもまあお前のこと「やつら」の側の存在だとおもってたから、あの、ときどき見るだろ? ……そう、光るあの紙吹雪みたいなのが落ちてこないからには、くたばってないんだろうなっておもい直した。「やつら」の傷は仕留め損ねたらそのうち治るって知ってたし。だから虎杖、お前のことはひとまず置いておいて、あの熊との戦いに集中した。でもそれもかなり楽だったな。それまで敵わないとおもってたのが嘘みたいだった。お前が力を分けてくれてたから……だから、あー。ありがとう。……クソ、慣れてねえんだよ、わかれよ。……あ? 傷? いや、だからお前が治しただろ。そう、さっき説明した。単に俺の予想だけどな。……そう、俺たちの能力……みたいなものの交換は、接触が、深くて長いほど重たくなる。傷に傷で触れるほど深い接触ってないだろ。それでお前も、不思議がってたけど、たぶんずっと体がある……あるって感じるままなんじゃねえのか。……は? はー? お前マジで変態かよ、いや、ンなこと言うわけねえだろ。……はい、その話はもういいだろ。終わりだ終わり。それでなんだっけ、ああ、そう。熊は触手掴んで何度か殴ったらもう終わりだった。お前のおかげだよほんとうに。でも俺はひとりじゃ何もできねえんだなとおもってそれは悔しかったな。……いやお前を犠牲にした。ひとりでできたわけじゃない。まあ実際には犠牲になってないけどな。そう、それでおしまい。……窓? ああ、だからあの光る紙吹雪だよ。俺も仕組みはわからんけど、あれ、学校の自己修復能力みたいなもんなんだ。「やつら」を倒すと自動で出てくる……そう、別に「やつら」の本体があの光だとかそういうんじゃない。学校の外で仕留めるとあれは出てこない。たぶんこの場所がちょっとヤバい、特別なところなんだろうな。……あー、お前の死体……死んでないけど……は悪いけど転がしたままにさせてもらった。今日が土曜じゃなかったらさすがにどこかに隠すくらいはしたかもしれない。だれかほかに見えるやつがいたらめんどうだから。でも科学部とかは休みの日に部活やらねえって知ってたし、まあいいかって。俺も別に今日何かあるわけでもないから、復活するまで付き添おうかともおもったけど、ふつうに運動部とかは登校してくるしな。校舎にいるの見つかったらヤバいだろ。で、夜になったから来た。死体がそのままだったらどうしようかとも考えてたから、……うん、ちゃんと復活しててよかったよ。
ときどき茶々を入れながら伏黒の説明を聞き終えて、なるほど、だから今日の伏黒は制服じゃなくて私服なんかと納得する。
「あれ、でも夜になって部活のやつとかみんな帰ってから来たんなら、どうやって校舎のなかに……?」
と新たな疑問を口にすると、伏黒はスウェットのポケットから鍵を取り出して見せてくれる。
「ひとに言うなよ?」と伏黒はいたずらっぽく笑う。「まあお前はひとには言えねえか、心配ないな」
「は? え? 嘘。アクじゃん伏黒」
「これあるとマジで全部の鍵いけるんだよなこの高校。スペアつくっといてなんだけど、ガバすぎて引くわ」
「ええ、待って、伏黒がわからん……」
でもそういえば伏黒、これまでも深夜におばけと戦い終わったあと、ちゃんと施錠とかして帰ってるんだった。その勝手につくった鍵を使ってたってことだったのか。なんか先生に許可とっておばけ退治してるんかなとか想像してた。いやそんなわけないよな、先生公認おばけ退治って謎だもん。なるほどね……。
「おばけと人間が友だちになるのってアリ?」
と最後に訊ねた。
その夜、ふたりで理科室、新校舎を施錠し、裏門まで軽口を叩き合いながら歩いてった最後に。
「まあ俺は人間の友だちもいないけどな」
と伏黒は飄々と応えた。
答えになってない。
◆
というかんじで俺たちは急速に距離を縮めた。伏黒の予想通り、傷と傷を合わせた効果はすごかったみたいで、俺はそれからしばらく、何もしなくても体を持った状態ですごすことができた。それまで体がある、俺がいるってわかるのは夜の少しのあいだだけだったから、日曜の運動部の練習風景や、月曜の授業が始まってからのたくさんの生徒たちのざわめきのあいだを歩くのは不思議な体験だった。
生徒たちの体を、俺の体は通り抜けた。テディベアに痛めつけられてるときに予想したとおり、俺はなにか物質について、触れようとおもえば触れられるし、通り抜けようとすればそうできた。歩くこともそんなに意味がなくて、夢のなかにいるときみたく、ふわふわ浮いて移動することもできた。
夢? 夢って見たことあるかな。眠った覚えもなかった。意識が飛んだことはある。
いつもまどろんでもいる……。
そういうことを考えるたび、俺ってやっぱ、名前とかあるし、名札ついてるし、もともと生きてる人間だったんかな。とおもう。高校生で死んじゃった虎杖悠仁くん? でも名前の他は何も思い出せないし、伏黒はこの世の実際の死や死者とおばけとは関係ないんじゃないかと言ってた。便宜的にそれらを鬼とか霊とか説明しつつ、もっと別のものかもしれないって。
まあそういう難しいことを考えるのは伏黒の役だよね。
俺はまず昼間のあいだも伏黒を観察することにする。眼鏡をかけた伏黒は俺を見ない。人間の友だちもいないとか言ってたくせに、ふつうにまわりに打ち解けてるように見えた。でも俺と夜に長話したときのぶっきらぼうな調子ではなくて、よそ行きってかんじ。だから俺は勝ったなとおもってちょっとうれしい。
その月曜日の放課後、伏黒は教室に残る最後のひとりになってから眼鏡を外し、教室のうしろのロッカーに腰かける俺を見て、「マジでストーカーかよ」と不機嫌そうに言った。
「えっ見えてた?」
「いや、気配でわかる」
「へへ、なんかうれしいねそれ」
「なんでだよ……」
それから俺たちは放課後、ふたりですこしのあいだ会話を交わすようになる。金曜日になると伏黒はおばけ退治に俺をともなってくれた。基本的には毎週金曜を退治の日としているそうだ。伏黒は戦いを終えるとだいぶ消耗してるし、そりゃ翌日も授業があるって日には無理だなとおもう。
脚立のおばけを倒し、おばけらしさあふれるシーツのおばけを倒し、月のおばけを倒し、中身のない燕尾服のおばけを倒し、……もう覚えてられないくらいたくさんのおばけを仕留めていった。
あの日の血の交換の威力もさすがにそんなに長くは続かなかったけど、金曜のたびに手を握りあって、ときどきハグをしてを繰り返すうちに、俺に明瞭な意識と体のある時間が、素で増えていくようだった。
だからって昼間の伏黒をストーキングし続けるのも申し訳なくて、あと他の生徒たちの話し声にも慣れなくて、俺は放課後まではだいたいの時間を屋上でぼーっとすごすようになる。そのうち週3くらいで昼休みに伏黒がお弁当を持って屋上に会いに来てくれるようにもなった。
「そういえばお前は飯って食わねえの?」
と伏黒が俺に訊ねる。
「飯? 興味あるけど、別に食欲とかないな」
「そうか」
「おばけのうんこってどうなるんかな」
「は? ひとが飯食ってる隣でうんことか言うのやめろ」
「ふふ、じゃあ違う話だ。友だちはいいの? 友だち置いておばけなんかに会いに来ちゃってさ」
「言ったろ、俺友だちいねえんだよ」
でもやっぱり、屋上からあたりを見渡して、移動教室とかの伏黒を見つけると、眼鏡の伏黒は同級生とにこやかに当たり障りなく談笑していたりする。
ある金曜日の戦いのなかで、俺も伏黒の援護をするだけじゃなく、おばけを殴る蹴るで仕留めることができるってわかったりもする。伏黒が俺にくれるのは体や意識の輪郭だとおもっていたけど、それはそのままおばけへの物理的な攻撃力にもなるようだった。伏黒は彫刻刀とか鋏とか折りたたみのナイフを対おばけ用の武器に変える。俺も伏黒によって、対おばけ用の兵器にされたってことかもしれない。対おばけ用おばけ兵器……。
伏黒は伏黒で、そういう俺を見て、負けてらんねえなとか悔しそうにしていた。熱血じゃん。これ部活とかだっけって、ちょっとウケる。
さてほんとうに相棒みたいに、俺たちは背中を預けあって戦うようになる。
また別の金曜には伏黒がわりと深傷を負ってしまい、これはあのときみたいに傷で触れるしかないって、俺はじぶんの手首を噛みちぎろうと咥える。でも伏黒に「いいから来い」て腕を引かれ、顎を掴まれ、初めて唇を奪われた。舌まで吸われる。伏黒がひどく消耗してるときの接触は交換っていうか一方的な俺からの供給で、だからそのあと俺は力が抜けてちょっと立ってられなかったんだけど、正直照れてしまって仕方なかったせいもある。校庭に座り込んでとても立てない俺の前で、無傷に戻った伏黒は笑いながらおばけを滅多刺しにしていた。
「さっきのあれ、何」
と金色のきらきらの粉の踊るなかで、俺は伏黒に訊ねた。
「布越しに触れるより肌が触れるより、〈深い接触〉だろ?」
と伏黒は言って、舌をすこし出して見せる。
そこから握手とハグに加えて俺たちの触れ合いに口付けが加わる。これキスってかふつうに戦うための作業だよねって嫌でもわかるので、得したような損したような、ようわからん気分だ。
伏黒のおばけ退治の理由もなんとなく察せられてくる。お姉さんがいて、たぶん血のつながらない、子どものころからわけありで、親もおらず、ふたりで支え合って生きてきた、その共闘相手のお姉さん。お姉さんもこの高校の生徒だったけど、高校にいるときに倒れて、そのまま目を覚さないでいる。
当時伏黒は中学生。おばけはずっと見えてたけど関わらないようにしてきたそうだ。目を覚さないままのお姉さんの病室に、おばけが繰り返し現れるので、伏黒はとうとうおばけを殺す。おばけを殺せるって気づいてからは、病室に出るおばけを何度も何度も殺す。同じお化けを殺し続ける。お姉さんの容体に変化はない。おばけは現れ続ける。
つまるところ伏黒は、お姉さんの元に出るおばけの親玉がこの高校にいるとおもっていて、そいつが現れるのを待っている。
これはまた別の話で、それじゃあ伏黒、今は高校生ひとりきりで暮らしてるのかって心配になるけど──おばけ退治と勉強ばっかりで、バイトとかしてる様子もなかったからとくにね──援助をしてくれる大人がいるらしいってこともわかってくる。伏黒が先生と呼ぶ、おばけ関係のお師匠みたいなそのひとは、伏黒におばけを見えなくする眼鏡をくれたひとでもあるらしい。
もしかしてその先生が伏黒にこんな危ないことさせてんのかって俺はちょっと怒る。伏黒は苦笑して、先生には秘密にしてるって教えてくれた。
「でも秘密守れるって言うんなら虎杖。お前も会ってみるか。お前、じぶんのこと知りたいんだろ。何か助けになるかもしれない」
「うーん。でも俺、学校から出たことないしな……」
「そうか。……出れないのか?」
「やってみたことないからわからん。でもなんか変になっても怖いじゃん」
と言いながら、俺は学校の──謎の自己修復の粉を持つみたいな、ヤバい特別な場所の──領域を出て、巨大なカマキリとか触手持ちのテディベアとかに変身してしまうじぶんを想像する。あまりにも嫌なので、「どこにも行けん地縛霊かもしれんし」と別の想像で打ち消した。
「地縛霊? ふふ、お前、死者の魂みたいなもんだとしても、他校だろ」
「そうなん?」
「ここブレザーだしな」
「あっホントじゃん」
俺は自分の着てる学ランを見おろして今さらだけど驚く。
「これはいったい、どういうことなんでしょうね……」
「知らねえよ」
そういうことは他にもあって、俺は俺の顔を知らんから、伏黒に「そういやその髪は地毛なのか?」とか訊かれても意味がわからん。
あと、おばけは鏡に映らんし写真にも写らないという俺の予想が外れているってこともだいぶ経ってから知った。
「お前ふつうに写るだろ」
と伏黒は俺にスマホのカメラを向けた。シャッター音。
「ほら」と撮れた写真の画面を見せられるけど、旧校舎の汚い壁が写ってるだけだ。
「俺はお前にとって旧校舎の汚い壁だよっていう意味?」
「は?」
「写ってないじゃん俺。これは単に汚い壁」
「いやどう見ても写ってるだろ……」
「写ってない」
伏黒は他のおばけも余裕があるときは写真を撮って記録しているらしく、それを何枚も見せられた。でも俺にはその全部が、下手な風景写真や、近所の知らんじいちゃんの散歩の隠し撮りとしか見えない。
俺は伏黒パワーで俺自身の手足含むおばけが見えるようになってるけど、生身のおばけ(変なワードだ……)しか見れない、何かに映ったり写ったりしたものは見ることができないってことらしい。
伏黒はスマホで何か検索して、知らない家族の家族写真を示し「これは見えるか?」と訪ねてくる。お母さんらしきひとの肩に青白い手が乗っている、心霊写真だ。
「見える。てか心霊みたいなもんとおばけは別って言ってたの伏黒じゃん」
「はは、悪い。試したかっただけだ」
ほかには、伏黒が写真に写らん俺のために俺の似顔絵を描いてくれようとしたこともあった。そのあまりの味のある絵柄に爆笑していると本気で機嫌を損ねられて、その金曜の連携は散々だった。
伏黒が俺に黙って、この学校の過去の生徒情報を調べていることも知ってる。ストーカーだからね俺。伏黒にバレないように行動するのもだんだんうまくなっていた。たぶん伏黒は、他校の生徒に「虎杖悠仁」がいなかったかとかも、少しずつ調べてるんじゃないのかな。ただの予想だけどね。
これは、そう、伏黒と出会ってからの俺には思い出がたくさんあるぞって話。
◆
でも2年生の秋に差し掛かると、伏黒から濃い焦りが感じられるようになる。高校生活があと半分になって、お姉さんのほうはよくも悪くもならない状況らしい。「悪くなってないならいいじゃん」とはさすがに言えない。
お姉さんのお見舞いに向かう──病室のおばけ退治に向かう──伏黒に付き添ってやりたいって気持ちに何度もなる。だけどやっぱり俺は学校を出るのが怖いままだ。
怖いことは他にもたくさんある。
まずおばけが怖い。
伏黒と毎週おばけを仕留め続けたけど、おばけは減らなかった。増えもしない。それに倒すのは決まって週に1回1匹だけで、そんなに都合のいいタイミングでおばけが毎週出たりするもんなんだろうか。
「ここは特殊な場所なんだって言っただろ」と伏黒は言う。「深く考えんな」
俺はもう伏黒が平気で嘘もつくって知ってるから、最初のころみたいに素直には受け取れない。それどころか、その最初のころに確認しあったおばけに関する基本的な事項まで、俺は正直疑い始めている。
●俺は伏黒に触れられるとおばけが見えるようになる
(だから俺は伏黒に触れられたら、じぶん=おばけの物理的な存在を知覚できる。つまり自分の体が見えるようになる)
これって、いったいどういうことなんだろう。俺が伏黒に触れられない限りおばけの姿を見ることができないっていうのは、俺にとって確かなことではある。でも、どんなおばけが見えるようになるのか、はっきりしないよね。「見える」ようになるとき、おばけ全般が見えるようになったって気はしない。だって伏黒の言うにはおばけって弱い小さいやつも含めたらそこらじゅうにいるっぽくて、でも屋上からあたりを見回しても、まるでそんなふうには見えないから。
たぶん、俺が見えるようになるおばけは、俺自身と、そのとき伏黒(と俺)が対峙している倒すべきおばけだけなんよね。伏黒がそのときまさに「見ている」おばけだ。
ずっと俺は、じぶん自身に眠るおばけに対する視覚が、伏黒によって目覚めさせられるってなイメージでいた。でもほんとうは、「伏黒が見ているおばけを見る」、伏黒と視界を共有してるってことなんじゃないのかな。
そして、対峙するおばけはたいてい襲いかかってくる。人間を襲うような危ないおばけだから退治するんだろうなってのが俺の最初の予想だった。お姉さんを助けるって目的があることを知る前、それ以外の理由は考えられんかったから。「見える」ひとである伏黒には、学校にヤバいもんがいるって嫌でも見えちゃうから、無視できなくて、みんなの安全のために夜な夜な活動しているんだろうなあって。
今考えるとそれはあんまり伏黒のキャラじゃないよね?
それに、おばけがなんで襲いかかってくるかというと、それは伏黒が見るからだ。
「伏黒、ずっと眼鏡かけてたらおばけも関わってこないし、おばけ退治とかしなくて済むんじゃないの。あいつら、視線に反応してるんよな?」
と、実際にそう訊ねたこともあった。たぶん適当に答えをはぐらかされたんだったかな。
伏黒の、おばけ由来で目を覚まさなくなったお姉さん。彼女がおばけを見るひとではないって知ったとき、そんな質問をしたことを俺は恥じた。
でもやっぱり不自然じゃないか、とも、まだどこかでおもっている。
俺たちが金曜に戦うおばけは、もうすっかり巨大に育って、容赦なく俺たちを痛みつける残忍さを持っている。そういうヤバいおばけが昼の学校、金曜夜以外の校舎で何か悪さをするところを、この1年あまりで見たことはない。
伏黒が「見る」ってことがおばけの攻撃の原因になるのではなく、「伏黒が」見ることが何かを引き起こしてるんだとしたら?
俺は昼は屋上でずっと考えごとをしてるし、それはほとんどが伏黒についてだ。
俺の頭のなかで、伏黒はたいてい、姉思いの優しい弟で、天邪鬼なヒーロー。適当に人間関係をこなしつつ、そいつらの平和を守ってやっている。その理由がなんであろうとね。相棒のおばけに対しても、辛辣だけど、とてもいいやつだ。
そしてまた別のとき、伏黒を、姉をじぶんのための理由にして、その実もうそれを見失ってしまっている、かなしきバーサーカーのように解釈している。おばけを挑発して自分を襲わせ殺す、おばけにとっての悪魔みたいな存在。
いちばん──ではないな、じゃあ2番目。2番目に怖い想像のなかで、伏黒は俺に嘘をついている。
●伏黒に触れられてないあいだの、俺には見えん俺のことも、伏黒はふつうに見えてる
実際には俺はほんとうに、俺がおもってる以上に、伏黒の前でしか存在しないとしたら、どうだろう。虎杖って名前だって伏黒が最初に口にしたのだ。名札があるって指差されたけど、もし伏黒があのとき示さなくても、俺の胸にこの名札ってあったんだろうか。俺には見えない、伏黒の言う、派手な色の短い髪、目の下に傷のある男の子の顔は、ほんとうに俺のこの体のうえにのっかってるんだろうか。
俺の「正体」について伏黒がこっそり調べてくれてるっぽいことは気づいてる。それも伏黒がわざと気づかせているだけで、俺へのパフォーマンスなのだ。──想像のなかの話ね。
共闘に至るきっかけになったテディベアのおばけのときも、伏黒がもしわざと負傷してたら? 俺が懐くのを待って、俺がぜったいに傷ついた伏黒のために駆け寄るって状況をつくって、じぶん自身を餌に俺を誘き寄せたんだったら? 俺の持つ能力がどれくらいかを確かめるために。
俺が実は何者でもないマジに茫漠としたおばけ──でも伏黒につよい力を与え、人間の傷を治す能力を持つ、特別すごいおばけだって想像する。そいつに伏黒は名前、姿かたちを与えて、そいつ自身の意思なんかがあるみたいに見せかけ、操っている。
●伏黒に触れられたひとがみんなおばけを見えるようになるわけではない(伏黒が言うには俺だけ)
俺だけ。
この想像のなかでは、俺だけ偶然に相性がよくてそうなってるのではない。ほんとうはもっといろいろできる伏黒が、俺を「選んで」操ってる。
伏黒が、俺を選んで、俺に見せたいおばけを意図的に見せ、攻撃させている。無尽蔵のエネルギー庫として利用しつつ。っておもうと、俺は──マジで伏黒の操る、意思のない武器なんだなってかんじる。
かなしいとかではない。
なんだろうね、こういう気持ちは。
いや、違う。これは全部俺の想像。
ただの妄想で、だからどんな感情も要らないだろ? なんか俺自身が変になっちゃってるのかな。
さて、でも、いちばん怖い想像に目を向けると、
「虎杖」
と声をかけられて目を開ける。
空がまぶしい。
屋上に仰向けに寝転ぶ俺を、伏黒がサンドイッチ片手に見下ろしていた。もう片手には例のマスターキーの合鍵があるけど、それはすぐにポケットにしまわれる。
「考えごとか」
「……いろいろね」
と俺は起き上がりながら答えた。
伏黒が給水塔の影になる場所まで歩いてその影に座るので、俺も同じようにする。
「伏黒、昼それだけなん? 育ち盛りなんだからちゃんと食べなきゃ」
「さいきんあんま腹減らねえんだよ。成長期終わったかな」
と伏黒は冗談ぽく言うけど、そう、ちょうどそのことを考えてたんだよ伏黒。
伏黒の、とくに最近の戦いかたは、ちょっとタガがはずれてるようにかんじる。もともとおばけと戦う自体を俺は無茶だとおもってたけど、ここ2週間はもう無茶苦茶だ。あの、攻撃してこないおばけを倒したあとの2回のおばけ退治。
「ほんとうに体、何もないんだよな」と俺は訊ねる。
「ああ。おかげさまでな」と伏黒。
「俺もう、怖い想像ばっかしてるよ」
「俺が死ぬ想像?」
「それも怖いけど、また別。……先週とか先々週、マジでヤバかっただろ」
俺は、サンドイッチを食べ終え三角座りの膝に置かれた伏黒の手をとる。先々週、この手首はおばけに完全にもってかれたとおもった。伏黒の手を解放すると、次は制服越しに伏黒のお腹に触れる。先週、この薄い腹は簡単に裂かれて、赤い花が咲いたみたいになってた。
「ふ。くすぐってえ」と伏黒は身をよじる。
「俺は真剣なんだよ伏黒」
「まあお前がいなかったら死んでただろうな。とっくに」
俺たちはこの2週間、連続で「傷口と傷口による深い接触」をしていた。口付けではぜんぜん足らなかった。いちばん深い交換が必要になったのだ。校舎と同じくらいでかいムカデのおばけ、分裂して襲ってくる鳥のおばけを退治するために。
俺は伏黒に血を分け与える。
血じゃなくたって同じだ。3週間前の動かないおばけを刺したあと、伏黒の持つ対おばけ用のエネルギーみたいなものは意味わからんくらい減っていた。それを満たしたのは俺だった。違和感に気づいたのはそこでだったけど、おもえばずっと変だったのだ。
「伏黒、俺と会う前はどうしてたの。傷とかエネルギー切れみたいなやつとか」
「お前と会う前?」と伏黒はちょっと考える仕草をする。「……力は1週間あれば自然に戻ってたし、傷は目立つとこにあんまつかないようにはがんばってたか。あとほとんどバレない絆創膏とかあるだろ今」
伏黒がまたスマホで何か検索して俺に見せてくれようとするけど、そこで予鈴が鳴った。「時間か」と伏黒が立ち上がる。
「また放課後?」
と語尾をあげるかたちで伏黒が言って、俺の顔を見た。
「うーん、気が向いたら教室行く」
「おう」
伏黒が屋上から去る。
今日は金曜ではないから、別に俺たち放課後に会う必要はない。約束がなくても俺はたいてい毎日放課後の伏黒に会いに行っていたけど、ほんとうに、どうしたらいいんだろう。
俺はまた仰向けになって目をつむる。
結局俺は屋上をおりて教室に向かう。
日に日に夜が早くなる。部活の完全下校も早まったから、すっかり校舎は静かさに包まれていた。もう伏黒も帰っているかもしれない。暗い廊下の先、目当ての教室にも明かりはついていなかった。
それでも念のため覗いてみる。
いつもどおり壁を通り抜けて教室に入ると、伏黒はまだそこにいた。机に突っ伏し、腕に額をのせて、眠っているようだった。
「伏黒……?」
なにか胸騒ぎがして、名前を呼びながら近寄る。でも伏黒は起きない。
「伏黒!」
と肩を揺さぶると、ようやく伏黒は顔をあげた。
その顔を見て、おでこに腕の跡ついてるよとか眼鏡したまま寝落ちするなよとかいろいろ茶化したくなるけど、でもこちらを見てる伏黒が俺を見ていないって状態はなかなかショックで俺は何も言えない。眼鏡のせいなのはわかってるけど、まるで俺っていないんじゃないかって気持ちになる。
「ああ、お前か……」と伏黒はやっと眼鏡をはずしてくれた。「遅かったな」
まだちょっと寝ぼけた様子で目をこすっている。
「俺のこと待ってたの?」
「いや、来るかもとはおもってたけどそんな待つ気はなくて、適当な時間で帰ろうと、」
そこで伏黒は机に伏せていたスマホの画面を光らせる。時間を確認してるようだった。
「ヤバいな」と伏黒は少し顔色を変えて言った。「もうすぐ警備員来るぞ」
スマホがまた伏せられて、教室はさっきよりも暗くなって感じた。
「えっえっどうする」
と俺はおろおろするけど、警備員に怯えるおばけってなんなんだろう。
「お前一回教室から出ろ、それで施錠して、壁通り抜けてまた入ってこい。やりすごすぞ」
旧校舎の教室の鍵は扉についてる金属をくるくるねじ込むタイプだから、マスターキーを借りる必要もない。俺は伏黒の言う通りにする。おばけが1匹パーティにいると悪事が楽でいいですね。
教室に戻ると伏黒がいなくなっている、と一瞬びっくりするけど、伏黒は俺が通り抜けた壁のすぐ横、廊下側の窓の下にしゃがみ込んでいた。
「てか伏黒ももう帰っちゃえばよくない?」と話しかける。
「もう時間がねえんだよ」とひそひそ声で返事があった。
それはほんとうにそうだった。すぐに硬い靴音が響いてきて、懐中電灯の光の筋が廊下に行き交う。俺は気になって、壁から顔だけを廊下にのぞかせる。警備員がおばけを見えるひとだったらどうなるんだろうってちょっとわくわくするけど、そんなことはなく、警備員はこちらなんか見もせずに、離れた教室の施錠を確認し、窓から教室を懐中電灯で照らしていた。すぐに俺たちの教室の番が来る。警備員は俺がしっかり戸締りした前後2つのドアの施錠を確認し、窓に光を差し入れる。光は教室の奥のほうを丸く照らすけど、伏黒のいる廊下側の窓の真下は死角だ。警備員は俺たちの教室の異常なしを確認し終え、教室のすぐ横にある階段をおりていった。
階下からかすかにきこえる靴音も、次第に消える。
「もういいかな?」
「あと15分くらい待つ」
伏黒は手で光を覆いながら、またスマホで時間を確認していた。
「こういう時間とか、全部把握してんの?」
「だいたいは。そうじゃないと夜動けないだろ」
「たしかに……」
俺がそれから黙っていると、伏黒は横でうつらうつらし始める。
「眠たいん?」
「いや……」
と伏黒は言うけど、完全にもう寝そうじゃん。俺は伏黒にぴったり体を寄せて、肩を貸してやる。伏黒は素直にもたれかかってきてくれた。
「15分経ったら起こすよ」
「……30分でいい」
「りょーかい」
何が30分でいいだよ、30分がいいんでしょ、やっぱめっちゃ疲れてるんじゃん。起こしたあとにはお説教だなとおもう。今週の金曜はもう休もう、やりかたを見直そうってもちゃんと言おう。
俺がそうやって決心を固めているとき、廊下には何か動く気配がある。警備員2周目? 床に投げ出されてる伏黒の足を畳ませたほうがいいんかな。光が届いちゃうかも。いや、警備員ならさっきと同じ靴音がするだろ。
確認したいけど伏黒を起こすのが申し訳なくて動けない。
けどあかりのない夜の校舎を音も立てず動く気配について、確認するまでもないのだった。
おばけじゃん! しかも俺にも気配がわかるようなやつ!と気づいて伏黒を起こそうと口を開いたところで、その口をふさがれた。伏黒の冷たいてのひらで。俺の顔を覗きこむ伏黒の目が「動くな、しゃべるな」と訴えてくる。俺がうなずくと、伏黒は手を離してくれた。
「なんなの」て訊きたいけど、まだだめだ。相手がおばけだから、警備員のときと違って、おばけも静かにしてろってことなんだろう。
おばけの気配は教室のすぐ横を通過し、まっすぐ遠ざかっていく。
「もういいぞ」と伏黒が言った。
「金曜日以外もいるんだねおばけ」
「は? そりゃそうだろ。お前もいるんだし、ずっと」
「伏黒と戦うときしか見たことなかったから」
「そうか。金曜以外はこの時間まで残ってないもんな」
「遅い時間にしか出ないもんなの?」
「昼に動けるやつはなかなかいないみたいだな」
と伏黒は俺の質問に答え、立ち上がる。「鍵開けろ」って頼まれて、俺はまた言う通りにする。まず壁をすり抜けて外に出て、施錠を解く。
伏黒が教室から出てくる。眼鏡をかけ直し、鞄を肩にかけて。そして今度はじぶんで教室を施錠し直している。
「虎杖、いるか?」
と伏黒は手を前に伸ばして、眼鏡をかけたまま、見えない俺を呼ぶ。俺はその背中を見ている。気配でわかるんでしょっておもうけど、もしかして疲れててわからんとかあるのかな。俺がこれから声もかけずに伏黒を置いて屋上に戻ってしまったら、伏黒はどうするんだろう。嗜虐的な好奇心が胸に訪れる。
それでもやっぱり俺は伏黒の手をとってしまう。
「いるよ」
「そのまま握っとけ」
伏黒はそう言って、俺と手を繋いだ状態で少し歩き、窓辺に立つ。窓ガラスは伏黒だけを反射していて、見えない相手と手を繋いでるってどんな気分なんだろう。俺が要らんことを考えてると、
「見てみたいか」と訊かれた。
「え?」
「大丈夫だろうけど、大声は出すなよ」
見てみたいかって問いに答えるよりも前に、伏黒の手に少し力がこもった。
途端に俺の視界は色を変える。
穏やかだった夜空は赤く濁り、窓の外に見おろせる中庭では無数のおばけたちが蠢いていた。おばけの大きさと強さはそんなに関係ないって知ってるけど、でもひとつひとつは小さく、たいしたことのないおばけに見える。数がヤバい。いろんなかたち、いろんな色のおばけが、子どもが玩具箱をぶちまけたみたいにそこらじゅうにいる。光って見えるのはいつもの学校の自己修復の粉だろう。
「こ、こいつら、何してんの……」
と訊ねる声は震えてしまった。
「喰い合ってる」と伏黒は答えた。
「なんで」
「知りたいか」
「……」
「俺がそうするように仕向けたから」
「はあ?」
つい声が大きくなった、伏黒にまた手をつよく握られる。静かにしろってことだ。「ごめん」と謝る。
「でもなんでそんなこと」
「そのほうが効率がいいだろ」
と伏黒は無表情に窓の外を見つめながら答える。伏黒には眼鏡越しに、おだやかな夜の中庭が見えているはずだ。いや、窓に映ったじぶん自身を見ているのかもしれない。
「効率……」
「だって3年しかないんだぞ。それももう半分は終わったしな」
「効率って何」
「ああ、わからないか?」と言う伏黒の声に、すこし笑いが含まれるのが怖い。「こいつらを共喰いさせて、だいたい金曜にはちょうどいい1体ができる。それを俺たちが仕留める。さすがにちょうどよく最後の1体になるわけじゃないからいくらか残るけど、そいつらは翌週に回す。眠ってるやつを起こしたり、学校の外にいるやつを連れてきたりして翌週をやるんだ。姉貴をああしてるのが学校にいないとも限らないからな。うまくいけば町じゅうとまではいかなくても、この学校にいるやつくらいは卒業までに根絶やしにできるんじゃないか」
「……なんか、そういう、呪術っていうの? あったよね」
「蠱毒か?」
伏黒ははっきり笑みを浮かべていた。窓に写る伏黒と目を合わせようとするけど、当然かなわない。
「危なくないの」と俺の声はまだ震えている。
「危ない? まあ危ないだろうな。でもちょうど強いやつができるようになったころお前が来てくれた。見通し不足ではあったけど、結果オーライだな」
「違う……。そんな、おばけを……わざと強力にするようなこと。え? だって、残るやつだって多少喰い合ってるんだろ? 昼動けるやつが出てくるってことはないのか? 危ないだろ、」
「おい虎杖、声落とせ」
「……なんでそんなに冷静なんだよ。お前は戦えるからいいのかもだけど、学校だぞここ。他の生徒や先生に何かあったらどうするんだよ」
「あはは。言ってるだろ、俺に友だちはいないって」
「伏黒!」
俺が声を張るのと、伏黒がまた俺の視界をスイッチするのは同時だった。また静かな中庭、夜空が俺に返ってくる。
「伏黒、お前、こわいよ……」
伏黒は何も応えなかった。
手は握り合ったままでいる。
俺は続ける。
昼休み、屋上で俺に訊いたよな、考えごとかって。そう、俺ずっと考えてんだよ。わからん。ずっと伏黒のこと考えてる。伏黒、いつからそんな怖くなっちゃったの。ねえ、俺と一緒にいてくれるようになって1年くらいだけどさ、そのあいだにどれくらい血い流したんだよ。俺が治してお前……まだ生きてるけど、でもおばけの力で生きてるって、それ、ほんとうに大丈夫なの? もうお前の中身って俺の……おばけの血でいっぱいなんじゃねえの。だって先週とかも、わざと攻撃くらってるよね、おばけの。大怪我して、俺と分け合うんじゃなくて、俺のを奪うようにしなきゃ、あのレベルのおばけ倒せるほどの力は出せないもんな。だからって、ちょっとおかしいよ。おかしいだろ? そんな、じぶんが一回死ぬの前提みたいな戦いかたして、おばけ共喰いさせて強くしてそんなふうに笑って……。それにお前、俺をそのヤバい仕組みに組み込んでるってことだよな。勝手に。俺ついていけねえよ。お前の姉ちゃんもお前も助けたいけど、でも大勢を危険に晒してって、なんで? 俺は無理。無理だよ……。うん、もう無理だ。やめようよ。ほかのやりかたを探そう。このあと中庭出て、さっきのおばけたちにさ、もう終わりですってやってよ。どうするか知らんけど。できないの伏黒。ねえ。……あと、このあいだ、全然動かないおばけいただろ。俺に見えるくらい気配があったのに、何もしてこなかった。あれも蠱毒で生き残ったやつなんだよな。……おばけに感情があるかとか考えたことある? あ、もしかして俺にも感情とかないっておもってる? ……俺とお前が最初に会ったとき、お前、俺を刺そうとして、でも俺が何もしないからって刺さなかった。だけどこないだのやつは刺した。それって俺が人間のかたちしてるから? その違い? 違うよね、俺は利用できるっておもった? だから残した? ……いや、それも違う。違うじゃん。やだ。ああぁぁあ! あー! クソ、今わかったよ伏黒。俺を殺せるくらい伏黒が強くなるには、俺の能力が必要ってことなんだろ。毎週戦うおばけがレベルアップするみたいに強くなるんは、そう、そういう仕組みをつくったってことだった。合わせるみたいに俺たちも……伏黒も強くなってってるよね? そりゃ伏黒は努力家だから当然だけど、それだけじゃなく、わざと危ない戦いかたして俺の力奪って強くなって、そういうのを繰り返す……繰り返すためにみんなを危険にして……。それって、伏黒。ねえ、俺なんだろ、
「もういい」
そう言って伏黒は俺の独白をさえぎった。
喉が震える。泣き出しそうになるのを、俺は必死にこらえている。
伏黒は黙ったまま、俺とつないでいた手を、てのひら同士が向き合うようにつなぎ直す。俺と向き合って──伏黒は眼鏡をかけたままだから、俺たちは視線を合わせたりはできない──あいた片手で俺の肩を探り当てた。そのあとつないでたほうの手も離され、やっぱり肩に置かれる。俺の両肩にしばし置かれた伏黒の両手がすっとのぼって、首に触れた。
ああ、死ぬんだな。とおもった。
伏黒に殺されるんだ。
目を瞑る。首を絞められるその瞬間を想像をする。垂らしたままの両手がおもわず拳を握っていた。怖いか怖くないかで言ったらそりゃ怖い。苦しいんかな。俺たちが退治してきたおばけや、いま中庭で喰い合ってるおばけたちも怖かっただろうか。
意識失ったあと人間のかたちが保てなくなってヤバいおばけになったらどうしよう、それがいちばん怖い。
でも、待っても、その瞬間は訪れない。俺はおそるおそる目を開け、
「伏黒?」
呼びかける。
伏黒の手が首から離れて、頬に渡った。親指で探るように鼻筋を撫でられる。
「伏黒……?」ともう一度名前を呼ぶ。
伏黒の顔が近づいて、唇に唇を寄せられる。
俺が驚いて離れようとしても、伏黒は放してくれなかった。たわむれるみたいな軽い口付けを何度か許してしまう。伏黒の眼鏡がずれて、お互い目を開けたままの俺たちの視線がぶつかった。伏黒が笑ったのがわかる。伏黒の舌が俺の唇をなぞって、俺は耐えられなくて伏黒を突き飛ばす。
「い、いいかげんにしろよ……」
と俺はとうとう泣き出してしまう。俺に突き飛ばされた伏黒は廊下に尻餅をついてるけど、でもたいした力ではなかったはずだから心配してやらない。「眼鏡が邪魔だな」とか笑ってんじゃねえよ。
伏黒はそのまま廊下にあぐらをかいて、眼鏡を外し、読めない表情で俺を仰ぐ。
「う、ふ、ううぅ……おまえ、っとにどういうつもりなんだよ」俺は喉が震えてうまくしゃべれない。「こんな、キスだよな今の、うぅ……はあ、なんで。俺がそんなんで絆されるとおもってんの? ずりぃだろ。最悪だ。ぐ、……うう、俺の能力だけじゃなくて……か、感情まで利用して……ぅああ、楽しいかよ」
あとはもう言葉にならなかった。喉がつまるし、胸が苦しい。ぬぐってもぬぐっても涙がこぼれた。子どもみたいに泣く俺を、伏黒は黙って見上げていた。
どれくらい経ったんだろう。やっと俺の涙がおさまったころに、伏黒は「しゃがめ」と言って手招きした。俺は従ってしまう。馬鹿だ。
伏黒の前で膝立ちになった俺の頬にまた伏黒の手がのびてくる。またキスされるとおもってその手を払おうとするけど、伏黒の指先が俺の涙をぬぐっただけだった。
「ほんとになんなんだよ」と俺は項垂れる。「だって、そうなんだろ。俺が……まだ虎杖って、この意識になる前の俺がお前の姉ちゃんに何かしてるってことなんだろ? お前の姉ちゃんの病室に何度も出るおばけって俺なんでしょ。なあ。お前がしたいのって、俺にヤバいおばけを倒させながら、じぶんが強くなって、最後に俺を殺す。違うか?」
「……」
伏黒は答えてくれない。
「もういいよ。待たなくて。殺してよ。今。抵抗しないから。縛ったっていい。力が足りないっていうんなら、俺が一回その腹裂いてやろうか? それでまた俺が補充してやる。そのほうがお前、力得られるし、俺も弱るからちょうどいいかな。はは、どうする?」もう俺は、逆に、笑ってしまう。おかしいから。「なんか言えよ。なあ、伏黒」
「虎杖」
と伏黒の両手がまた俺を捕まえて、今度はつよく抱きしめられる。俺は抵抗できない。「悪かった」とささやかれ、そのあとパッと体丸ごと解放された。
「はは」と伏黒は目を細めて笑う。「嘘だよ、俺は何もしてねえ。少なくともあれは俺の蠱毒じゃない」
「は?」
降参するみたいに両手を挙げる伏黒を、俺は呆然と見つめる。
「信じたか? さっきの喰い合い、あれはこの学校の自然現象だ。そういうヤバい場所だから謎の自己修復機能なんかがあるんだろうな。俺にやつらを操る力なんてないし、よそから連れてくるなんてとても無理だ」
「はあ?」
「姉貴を助けるために原因を倒さなきゃなんねえっておもってやってるのは本当だ。でも相手が強くなりすぎてるのはちょっと予定外だから、それは先生にもさりげなく訊いてみてる。まあこんなことしてるってもうバレてて、隠す必要なんてないのかもしれないけどな」
「待って伏黒。俺は本気で、」
「そんなに動揺させるとはおもわなかった、ほんと悪い」
「え、でも。俺は違うん? 俺、伏黒のそばにいて大丈夫なの……?」
「ああ。むしろいてもらわないと困るだろ。俺はすぐ死ぬし」
「ええ……?」
「姉貴がああなった原因がお前じゃないってことは、俺が保証する」
「なんで」
「さあ? なんでだろうな」と伏黒は意地悪く、楽しそうに微笑む。
「嘘だろ……」
「でもこれは教えといてやる。お前の治すほうの力は、別に俺に血を分け与えてるってわけじゃねえよ。傷をなかったことにする力だな。俺の血は俺に戻ってきてる。そうじゃなきゃシャツの血の染みが消えたりしないだろ」
「たしかに……?」
「だから別に、俺はお前が混ざっておかしくなったりとかもない。ずっと正気だ。わかるか」
また伏黒が、今度は俺の膝に乗るみたいにしてハグしてくる。俺はおそるおそる伏黒の背に腕を回した。耳元で「いい子だ」と伏黒が言うのをきく。そのまましばらく伏黒は俺の背をさすってくれた。
まだ胸が苦しい。
「あんな」と俺は口を開く。「あんなひどい嘘ついて、振り回して、まだ信頼されるっておもってんの」
「おもってる」と伏黒はうなずく。「だってお前、そうするしかないだろ?」
「クソ、お前マジで最悪だ……」
伏黒が俺の体から離れ、眼鏡をかけ直し、立ち上がっても、俺はまだ気持ちがついていかなくて、廊下にぺったり座り込んでいる。伏黒は見えてないくせにまるで目えてるみたいに「行くぞ」ってこちらに手を差し伸べてくる。その手に引かれて、俺も立ち上がった。なんでこんなに馬鹿なんだろう。
ほんとうに。ほんとうに俺はこうするしかない。こうすることで俺は俺として存在しているし、俺はもうずっと前から伏黒に興味を持って、親しみを覚えて、力になりたいみたいにおもってて、好きだからだ。
「もうひとつ教えとく」と手を繋いで階段をくだりながら伏黒が言う。「やつらとの戦いを利用して、俺自身が強くなろうとしてるって読みはあたりだ」
「……伏黒、負けず嫌いだもんな」
「それだけだとおもうか」
「わからん。もう伏黒のこと何もわからないよ俺」
階段をくだりきって、次は中庭を横切る。裏門に向かうにはこのルートが最短だから。さっき見たおばけたちの狂乱は影もかたちもなく、つい見上げた空もただの静かな秋の夜空だった。細かい白い雲が濃い青にうっすら散らばっている。
さっきの、赤い空の景色のほうこそが伏黒の生きてる世界なんだと考えると、天地がひっくり返りそうだった。子どものころからあんな場所で暮らして、伏黒はきっと、俺みたいなおばけにかかわってもおかしくなってなんかなく、最初っからずっとおかしい……とかおもったらひどいかな。
俺の持つ疑念は晴れてないのもいっぱいある。おかしい伏黒はもはやそれすらなんでもないみたいに笑うけど、俺は同じようにやっていけるんだろうか。
裏門の前までたどりつく。俺は伏黒の手を放す。伏黒は門のすぐそばまで歩いてこちらを振り返った。俺は早く行けよって伏黒を睨む。向こうからはわからないだろうけど、睨みつける。
カシャンと軽い音がして、伏黒が門に背を預けたのだとわかった。
「……」と伏黒が何か言うけど、声が小さくてききとれない。
俺は仕方なく伏黒に近寄る。
「虎杖、まだいるか」
「わかってんだろ。いるよ」
「お前、ここを出れないだろ」
「……?」
「学校の結界を出たら、じぶんがどうなるかわからないから出られない。だろ? 気持ちはわかる。俺にもわからないからな、どういうことになるのか」
「何が言いたいわけ」
「あと1年半経ったら俺は卒業してここからいなくなる」
「そうだね」
「そのあとお前はどうなるかって考えないのか。この門を出たらじゃなくて。俺がいなくなったあとこの学校で」
「あ……」
考えたことないはずがない。またアメーバみたいに、意識を持たず体をわからず暮らす生活に戻るのだろうか。それはまあ、悪くない。俺をうまく使ってくれる人間がいなくなって、人間を襲うタイプのおばけになったら怖いなあとか、伏黒のことを考えるあいまに、いろんなパターンを考えてた。
「俺はお前を連れていくつもりだ、虎杖」と伏黒は言う。「俺が強くなるのは、お前がここを出て、もし万一どうにかなっても、ちゃんと俺がお前の始末をできるようにだよ」
「嘘」
「信じろよ、嘘じゃない。あと1年半で姉貴が目覚めなかったら、学校以外のところも叩いてみなきゃだろ。ひとりで戦うなんて無理だ。お前が必要なんだ。結局学校に忍びこむことになるのかもしれんが、その出入りもお前がいたほうが自由がきくしな。さっきの警備員のときみたいに」
「信じないよ。信じない。……てか結局モノ扱いじゃん」
「ふふ。この1年で情が移ったのはじぶんだけだとおもってんのか」伏黒は指で眼鏡を少し下にずらして、上目遣いに俺を見る。「あんな夜を何度もすごして」
俺はその瞳から目を離せなくなる。なんて楽しそうなんだろう、魔性だよこの子は……。
俺が何も言えないので、伏黒はそのまま続ける。
「お前がここからうまいこと出られたら、そのときは抱かせてやるよ。学校でするわけにはいかないからな」
「はあ⁈」
「はは、違うのか?」
「ちが……いませんけど……」
「じゃあ約束だ」
と伏黒は笑ってそう言って俺に背を向け、今度こそ門を越えていく。遠ざかる背中に、
「最っ低! ひとでなし! おばけをもてあそぶクソ野郎!」
と叫ぶ。俺の声は夜には響かないけど、伏黒にはちゃんと届いたみたいで、伏黒は立ち止まって振り向き、子どもみたいに大きく手を振ってくれた。