もし君がここにいたのならばもし君がここにいたのならば、僕はただ思い出とだけの感傷に浸ることはできなかっただろう。
❁❁❁
「………これが?」
目の前のミリアムの目元には泣きじゃくった跡がはっきりと残っていた。潤む瞳で、彼女は一握りの結晶をこちらに差し出している。
ヨハネスの目はそれに釘付けになった。
赤いステンドグラス細工のような塊。
歪に割れたそれは見るからに脆く、手を傷つけるよりも先に塵となって消えてしまいそうだった。慌ててガラス製のシャーレで受け止めると、それだけで欠片がぽろぽろと落ちる。
(これが、ジーベル?)
信じたくはなかったが、改めて聞かずとも知識は理解していた。悪魔の結晶がついに彼の全身を蝕んだのだ。
シャードに侵されきった肉体はすべからく『こう』なる。宿した魔力を使い切れば、不可逆の結晶は砂のように崩れて消える筈だ。
これ一握りだけ残ったのは、ミリアムの魔力に包まれていたから?それなら、魔力を供給し続ければ生かし続けることができるのか?
ヨハネスは己の思考にはたと立ち止まる。
( ……生き続ける?これの形を保ち続けることを生きると言えるのか?)
そんなわけがない。
先ほど少しだけ結晶に触れた指は冷たかった。
死者の冷たさではない。鉱物の冷たさだ。
これは君だったもので君ではない。
考えるほど、ヨハネスの感情は息を矯めるように冷え冷えと沈んでいく。
「ミリアム…辛かったろう」
どんなに変わってしまった相手だとしても、助けたかっただろう。誰よりも。
乾かない涙を堪える彼女の肩に手を置き、休んでくるといい、と労りから声をかける。
ヨハネスにもそれができる限界だった。
部屋の明かりはもとより節約のため落とされている。
暗闇の中、試験器具の内側で仄かな灯りに照らされる結晶を見て、ヨハネスは呆然と立ち尽くしていた。ミリアムがいれば決して見せない態度だ。
(これが…形見…になるのだろうか)
呆然としつつ思考はやまない。
いや、形見ならもう持っている。彼が愛用した眼鏡だ。いまや返すべき持ち主のいない思い出の品。
そう形見だ。ジーベルは死んでしまったのだ。
これが己の業、錬金術の成したことだ。
その残酷さと恐ろしさを思い知ったあと、ここからミリアムだけでも救いたいと願い続けて──ジーベルは救えなかった。
いや、おこがましい。身体を張って戦っているのは当のミリアムたちだ。
(望んでも誰も救えない…僕達は君達から奪うばかりで)
自然の理を歪めるだけの罪深き業。
(ちがう、ミリアムを、彼女だけは、僕達の大切な妹を)
僕達の
君の──ジーベルの全てを錬金術が奪ってしまった。
「ぅ、ああ、ああああ………」
叫び出さないよう顔を覆いながら、ヨハネスはその場に崩折れた。
とめどなく湧き上がる絶望。
これが己への罰、応報だと思わずにいられない。
ミリアムとジーベルが誓い合ったように、ヨハネスも十年前から心に誓ったことがあった。
技術は力だ。使い方を誤ったのなら、今度こそ正しく使わなければならないと。
その誓いは道半ばだ。守り抜くため、また立ち上がらなければならない。
それまでの少しの間、地にまろび咽び泣くことを誰も咎めてくれるな。
もう君はここにいないのだから。
❁❁❁
東洋だったかどこか外つ国では、遺体を火で焼く。骨すら粉になるまで。
それを墓ではなく、自然に還すように風に散らす。それが悼み方なのだという。
「散骨………という文化だったかな」
このまま実験器具の中に閉じ込めておくよりはるかにいいかもしれない。
今度こそ錬金術からジーベルを解き放ちたい。
そんなイメージがヨハネスの中に浮かぶ。
「ミリアムに…いや、彼女の手にあっては、結晶が形を保ち続けるかもしれない」
シャーレのまま持ち出して、良き風の吹く日に蓋を開ければいいだろう。
(それにこれは僕の独りよがりな考えだ。ミリアムはずっと手元に置いておきたがるかもしれない)
だがその時は、これをミリアムに託そう。
ヨハネスには度の合わない眼鏡。
ジーベルの形見。
滅多に取り出さないそれを光に透かしながら、ヨハネスは再び込み上げるままに嗚咽する。
──変わってしまった君に会わずに終わったことは幸運だったのだろうか。ミリアムの覚悟にはるかに及ばない僕を見られずに済んだのだから。
ただ最後に惜しませてくれ。
もうどこにもいない君との別れを。