分不相応な恋だとしてもこんなにも綺麗な人がいるんだな。
私が二十一歳位の時、三等中級の称号を貰った日、彼は副団長になった。
三番目の弟と変わらない歳の子なのに、もう副団長なんだ、凄いなぁ王族って。
食事会がその後開かれた時、エンは思わず彼に話しかけていた。
「凄いんだね、そんなに若いのに副団長なんて」
しかし、返ってきたのは見下すような視線と、冷たい言葉だった。
「君のような美しくない平民と話す気は無い。まず何故、平民がこんな所にいるんだ?娼館にでもいた方が稼げるじゃないか」
その言葉にエンは泣きそうになるが、それを堪えて、震える小さな声で
「ごめんなさい……」
と頭を深く下げてから、そそくさと会場から出ていった。
せせら笑う他の貴族の声を背に受けて。
私は美しくもないどころか、女性らしい体つきでもないし、髪も肌もカサカサで、みっともない平民の女。
王族の彼と対等に話せるわけが無いし、あんな貴族ばかりの場所では悪目立ちしかしない。
耐えきれなくなり、グスグスと会場の敷地で蹲って泣いてしまったエンに声をかける者がいた。
「どうしたんだ、こんな所で」
「サラ……!」
エンの幼なじみで、彼女よりも早く魔法騎士になって今は珊瑚の孔雀で活躍しているサラセニア・プリーメルが前に立っていた。
「ううん、何でも、ないよ…」
「貴様がそう言う時は必ず何かある時だ。だが、無理に話すことは無い。落ち着いてから話すといい」
優しく言って、サラセニアはエンを立ち上がらせた。
「ごめんね、気を使わせてしまって…」
「構わん。それよりも、中に新しい副団長はまだいるか?」
「いると思うけど…」
「そうか」
「でも…なんで?」
「今日からそいつの世話係になってな」
サラセニアはそう言うと、会場に向かおうとしたが、エンが手を握って引き止めた。
「何だ?」
「断った方がいいよ……平民は、馬鹿にされるし、こき使われるかもしれないし…」
「心配するな、上手くやるさ。私は強いからな」
安心させるようにエンの頭を撫でて、柳色の髪を揺らしてサラセニアは今度こそ会場に向かって行った。
エンは心配でついて行きたかったが、また冷たくされると思うと行けず、とぼとぼと帰った。
数日後。
黒髪とぴっちりしたスーツが特徴の後輩、フィスキオ・サンテディズールが朝から騒いで広間で団長や皆に怒られているのを遠目で見ていると、全然悪びれて無い様子の彼がこちらにやってきた。どうやら、説教は終わったらしい。
「どーしたね、そげん浮かない顔して。めんこいフェイスしとんのに、もったいなかよ?」
ごっちゃごちゃの言葉遣いは聞いているだけで少しクスッとなってから、また暗い顔になって訊いた。
「……フィスキオ君は、貴族なのに平民の事見下してないよね」
すると、フィスキオはズビシっと人差し指を突きつけて言った。
「音楽をエンジョイするのに階級なんて、関係ないさかいに!つ・ま・り、ミーは立場なんて気にしてないね!!それに、ここは最高にロックでイカしてる!」
「なんだい?つまらない事で君を傷つける奴でも出てきたのかい?」
フィスキオの後ろから、会話に割って入ってきた先輩、ギャズ・チャットがフィスキオの体を退けて、エンの頬に手を添える。
「君の価値に気づけない貴族なんて、愚かでしかないね。自信を持つと良い。君は、素晴らしい女性だ!」
だから僕と食事でもとナンパしようとした所で、入口の扉が蹴破られるようにして開けられた。
「何事!?」
「この開け方、彼女しかいないに決まってるだろう?」
ギャズは察しているのか、派手な青のコートを翻して厨房の方に逃げていった。
「エン!!」
「さ、サラ……?」
やってきたのはサラセニアで、大股でエンに歩み寄ってきた彼女は言った。数日前にはなかった右目ごと覆う顔の傷を負って。
「貴様、あのナルシストバカに泣かされたらしいな」
「ナルシ……?というか、その目の傷…」
「これは気にするな。それよりも、うちの副団長の事だ!私を馬鹿にするのも、平民を見下すのもいい。だが、奴は…貴様を泣かすほど侮辱したと言ったのだ!正確には『あの娼婦のように大人しく泣いて私の言う事に従っていればいい』と……!」
サラセニアは怒りのあまり、広間の壁を殴り、穴を開けた。集まってきた団員や、さっきから居たフィスキオは恐れ戦く。
「サラが怒ることじゃないよ…私が、気安く話しかけたのが悪いから…」
「何故そうなる!?まぁいい、直接謝らせるために連れてき…」
「何処にもおらんとよ?」
フィスキオに言われて、サラセニアが振り返ると連れてきたはずの副団長の姿が見えなくなっていた。
「怒りのあまり、探知が鈍っていたか…!すぐに連れ戻さねば!」
「だ、大丈夫だよサラ…。本当、もう、気にしてないから……っ」
「しかしだな…」
「大丈夫。だから落ち着いて?そうだ、パフェでも食べに行こ?」
サラセニアは困った顔をしながら、柳色の髪をかいて
「分かった、そうしよう」
と頷き、エンと共に街に向かって行った。
「…………壁直そうよ」
フィスキオは唖然としながらも、珊瑚の孔雀に送る請求の書類を書くことにした。
その日の夕方
翠緑の蟷螂から送られてきた請求の書類の返答と壁の修理代を持ってきたのはサラセニアではなく副団長であった。
口煩く、サラセニアに「ついでになるのは癪だがせめて一言は謝ってこい」と言われたので仕方なさそうな顔で本拠地に近づいていくと、入口の先で落ち葉の掃除をしているあの平民の姿が目に入った。
憂いのある横顔、細すぎる体、乾燥した髪。
美しくないと思い、やはり謝る価値はないと考えてしまう。
「そこの君」
「はい………!?」
副団長の姿を見て、エンはあの出来事が蘇って目に涙が浮かび、箒を持つ手が震える。
「全く、君のせいで平民の世話係に怒られてしまったよ」
「あの…それは……ごめんなさい…」
「彼女は私より長くいるからと調子に乗っているのか、私に対して不遜な態度を取りすぎだ」
呆れた声のまま副団長は続ける。
「女性でありながら肉弾戦を好むなんて美しくないし、その上不必要に私を庇って勝手に傷を負って醜くなった…。君、知り合いなんだろう?そっちで引き取ってくれないか?醜い者が世話係など耐えられない」
言い終えたところで、エンが俯き体を震わせていることに気付く。
「どうしたんだい?とりあえず、これを……っ?!」
渡された書類を奪うように取ると、エンは肩に生やした、いかつめな女の顔をしたキノコで怒鳴った。
『私の親友を傷つけたのはアナタだったのね!!それに、馬鹿にもして…!
アナタなんて美しくもなんともないわ!!』
エンは箒を投げ捨てて、本拠地の中にすっこんでしまった。
「私が…美しくない……?!これだから平民は嫌いなんだ!」
副団長もむくれた顔で帰ったのだった。
それから三年程経った。
副団長は、エンの事など既に忘れたが、対照的にエンは覚えていた。悲しい気持ちを抱えたまま。
「王選騎士団…?」
広間に団員達を集めて、団長が言った言葉に首を傾げるエン。
「そうだ。白夜の魔眼の殲滅の為に選りすぐりの奴を集める事になったらしくてな。その試験を近々やるみてぇだ。これに受かった奴が多けりゃ評価も上がって、星も沢山貰えるはずだ」
説明を終えると、ジャックは試験に参加させる者を選ぶと言って、団員を指名していく。
エンはどうせ自分は選ばれないだろうと高を括っていたが
「最後は…エン。行ってこい」
「わ、私…ですか……!?」
最後に名前を呼ばれて目を丸くして驚き、辞退しようとする。
「ギャズさんや、フィスキオ君…それにガナン君とかの方がいいのではないでしょうか……私そんな強くないですし…」
「アイツらは別の仕事があるから無理だ。それにフィスキオは馬鹿やらかす可能性が高ぇ」
「ですが…」
「ごちゃごちゃ言うな、テメェは強い。俺が保証する」
エンの頭をわしゃわしゃと撫でて黙らせると、ジャックは皆を解散させた。
「私に何が出来るかな……」
本拠地の裏の森で一人、魔導書を見ながら呟いていると、後ろから思い切り肩を抱かれて跳ねながら驚いた。
「わわっ!?」
「そんな驚かねぇで下さいよ、女将」
「ガナン君…!」
大きく傷の走った顔と青髪の青年、ガナン・ヴァリンが無邪気な笑顔を向けていた。
彼は数ヶ月前に行き倒れている所をエンに助けられて以来、彼女を女将と呼んで慕っている。
「ぶいっ」
ガナンの肩に乗った子豚、彼の親友パールがひと鳴きする。
「そうだな、パールは良く見てんな。なぁ、女将。なんかあったんすか?」
エンが落ち込んでいるのに気づいたことをパールに言われて、ガナンが訊くと、エンは先程のことを話した。
「へぇー、そんなすげぇのに挑戦するんすね」
「でもきっと、落ちちゃうよ…。大した魔法が使えるわけじゃないし、何より、平民だし……」
「平民とか関係ないっすよ」
ガナンは飄々とした声で言う。
「金色や暴牛の下民だってすげぇ功績残してるじゃないすか。だったら、平民にだって出来るはずっすよ。それに、女将は戦場をよく見てサポートしてくれるじゃないすか。団長はそれを分かって参加させたんすよ」
ガナンが言い終えると、パールがエンの胸元に飛び込んできたので白い両手で受け止めると、その上でパールも
「ぶひーっ!ぶひっ、ぶい!」
何を言っているかは何となくわかる。きっと励ましてくれているのだと。
「ありがとう、ガナン君、パール君」
「大したことじゃないっすよ」
照れくさそうに笑ったガナンに釣られて、エンも少し笑った。
試験当日。
同じチームになった別の団の者達を探そうと、辺りをキョロキョロしていると、聞きなれた声がして振り向いた。
「エン、元気そうだな」
「サラ!君も試験に参加するの?」
「いいや。付き添いと見学だ」
「そうなんだ……。サラだったら合格間違いないのに」
「まぁそうだろうな。だが、国を守る強者は多い方がいいだろう?」
「その意見、賛成ですわ」
お淑やかな声がして、右を向けば、紅蓮の獅子王の団員でサラセニアの好敵手、カサブランカ・ザイデが歩み寄ってきた。身体中に身につけた装飾品がキラキラと眩しい。
「カサブランカちゃんも来てたんだね」
「ええ。戦いの参考になればと。エンさんは試験に参加されるのですか?」
「まぁ…うん……。まだちょっと自信ないけど…」
「相変わらず、謙虚な方ですわね」
「うちのナルシストバカも見習った方がいい。そうだ、試合で当たることがあったらガツンと行け」
「えっ…いや…止めておくよ……」
途端にエンの瞳に陰が降りたのを見て、サラセニアは内心しまったと思いながら、薄い背中を撫でた。
「もしかしたら、一回戦で落ちるかもしれんからな。さっきのは可能性の話だ。
………エン、貴様は強い。いつも言っているが、私は本当にそう思うんだ」
「ありがとう、サラ。私…出来るとこまで頑張るね」
爛れてしまった横顔を見上げながら答えると、エンは再びチームメイトを探しに向かった。
Pチームの初戦。
サラセニアは椅子に座ったキルシュの傍らでエンの事をしっかりと見ていた。
「兄や姉は、後から弱く産まれてくる弟や妹を守るためにいるんだ…!」
魔法で映し出されたモニターによって聞こえた強い言葉。
エンらしい言葉だと、サラセニアが感心していると、キルシュが口を開いた。
「平民でありながら、美しい心構えを持っているじゃないか。きょうだいがいる者として、思わず共感してしまうよ」
「珍しいな、副団長が人を……平民を褒めるとは」
「美しいと感じるものは褒めるべきじゃないか?まぁ、彼女は外見的な華やかさには欠けるけどね」
「相も変わらず、外見的なものしか見ないのだな。結局は」
やれやれと首を振って、サラセニアはもう一度モニターに目を向ける。
「やれー!ノエルちゃん!あんなお兄さんなんてぶちのめすのよ!」
喋るキノコちゃんでそう叫んでいるのを見て
「昔はあんな事言わなかったのにな…。周りのせいだろうか」
と一つ溜息をついた。
試合が終わったエンに声を掛けてきたのは、サラセニアではなく、キルシュであった。
「中々に美しいサポートだったよ」
「え……っ」
かつて自分を傷つけ、親友を侮辱した彼が急に褒めてきたので、エンは身を硬めてしまう。
「そんなことは…ないと思う…あっ、思います…」
「随分と謙虚だね。えーと…エン、だったかな?覚えておこう、もしかしたら、私の美しさを引き立ててくれるかもしれないからね」
キルシュは言いたいことを言うと、試合に向かって行った。
エンは、困惑と、認めて貰えた嬉しさを胸に抱えながら、彼の試合を見守ることにした。
顔がズキズキと痛むのに合わせて、顔をしかめるキルシュ。
負けたのに清々しさを感じてはいたが、この痛みは別だ。
「サラセニア、まだ治らないのかい」
「反省の意味を込めてわざと遅く治しているだけだ」
「君って女性は……。だが、確かにこの痛みは私が、新たなる私に生まれ変わる為に必要だ」
癒しの花粉を撒いている白百合を指先で撫でていると、今度はエンの方から声を掛けてきた。
「あの…痛そうですね…」
「なんてことは無いさ」
「そうですか…良ければ、これどうぞ…」
おずおずと手渡したのは塗り薬であった。
「サラが居るから意味は無いかも知れませんが、少しは腫れがまともになると思うので…」
「ありがとう、エン」
素直に礼を言われると、エンは顔を赤くして、自分を呼ぶ声の方に走っていった。
「可愛らしいじゃないか、彼女」
「……今更だな。ほら、薬を寄越せ」
「いや、これは取っておくよ」
「そうか」
キルシュは、自然と頬を緩ませながら遠目ながらもエンの姿をもう一度見る。
「…どこかで会っただろうか、彼女に」
思い出しそうな何かは、未だ少し残る痛みに消えた。
試験が無事に終わると、優勝できた喜びと安心感に満たされているエンは、チームメイトである、ノエルとユノを労う。
「頑張ったね…。この優勝は二人がいたからだよ。きっと、二人とも選ばれると思うよ」
「王族の私が選ばれるのは当然よ。でも、エン。アナタが居たから安心して戦えたのよ。それに、さっきのだって、アナタが背中を押してくれたから…」
「ええ、そうです。エンさんは状況を見てすぐサポートをしてくれたので、俺は安心して攻撃に移ることが出来ました。
あなたが選ばれないことは有り得ないと思いますよ」
「ノエルちゃん…ユノくん……」
労うはずが逆に労われて、涙腺が緩むのを感じる。
「私…自信なかったんだ。お荷物になるんじゃないかって…。本当に、優勝できて良かった…!」
つい零れてくる涙。
ユノはそっとハンカチを差し出し、ノエルは背中を擦りながら「これからが本番よ、頑張りましょう?」と優しく声をかけた。
その様子を少し離れたところで、キルシュとサラセニアは穏やかな顔で見た後、結果の報告の為、帰っていった。
数日が経って、ガナンが広間に走り込んできた。その肩に乗るパールが手紙を持っている。
「来たぜ来たぜ!結果発表!!」
団員達が集まってきて、ギャズが問うた。
「なんで君がそれを持ってるんだ」
「うるせぇ、口だけ野郎。さっき鍛錬の途中で伝書鳩見つけて早く伝えたくて、パールに交渉してもらって持ってきたんだよ」
「ぶいー!」
「で?誰が合格したね?」
さっきまで団長に怒られていたフィスキオもやってきた。その後ろにはまだ言い足りないという顔をしたジャックがいる。
丁度そこに、買い物に行っていたエンが戻ってきて、扉を開けた瞬間に皆が笑顔で「おめでとう」と言いながら出迎えてきた上、パールが胸に飛び込んできたので驚いて尻もちをついてしまう。
そんなエンを紳士的に助け起こそうとしたギャズを退けて、ジャックがエンを少し雑に助け起こした。
「よくやったエン。テメェがこの団で唯一の合格者だ!」
「私が…ほ、本当ですか…?」
「リアリーリアリー、ホントのホントやで!やっぱ優勝チームやからな!!」
「良かったっすね女将!」
「ぶひぶひぶー!」
「これを祝して僕と食事に行かないかい?」
思い思いの祝いの言葉を投げかけられる中、少し離れたところにいたウィリーとニックスの元にエンはどこか申し訳なさそうな顔で歩み寄った。
「あの…私……」
二人はエンの言葉を遮るように言った。
「良かったな、エン。国のことは任せとけ」
「俺たちの分まで頑張ってくれよ」
「……ありがとう」
素直な微笑みを二人に向けることが出来た。
「よし、祝杯上げるか!」
ジャックがそう言った時、桜の花弁が舞い降りてきた。
「エンはいるかな?」
「キルシュさん…!」
周りが唖然とする中、キルシュはエンの目の前に舞い降りた。
「合格者はすぐに集合らしい。私もさっきサラセニアから聞いたんだ。ついでに君を迎えに行くようにと」
「そうなんですね…サラの事だから私が宴会に巻き込まれるって分かってたんだ…」
「そうとも言っていたよ。さ、一緒に行こうか」
キルシュはまだ戸惑っているエンの手を取ると、桜の絨毯に乗せて、共に飛んで行った。
「ワーオ、御伽噺みたいやなぁ」
「キザったらしいね、全く」
「喋ってねぇで、俺達だけでも祝杯上げるぞ。パール、テメェがメインな」
「ブヒーー!??」
「団長!パールを泣かせねぇで下さいよ!!」
ワイワイと騒ぎながらも、蟷螂団の皆はエンの無事を祈った。
桜の香りに包まれて移動する中、キルシュはエンに言う。
「エン、私達は共に戦う同志だ。それに君の方が歳上なんだ、敬語は使わなくていい」
「ですが……」
過去の事から、ずっとキルシュに…いや、他の団の王族貴族に距離を置いてきたエンは難しそうな顔をする。
「王族にそんな口の利き方をするなんて、とんでもないです…!」
「君の幼なじみは、どうなんだい?」
「あっ、いや…サラは……そういうの気にしないというか…」
「確かに君は君だ。気が向いたらでいいから話し方を変えてみてくれ」
キルシュはエンを真っ直ぐに見つめる。
「私は君に…」
と言いかけたところで、集合場所が見えてきたので唇を閉じた。
「(君に……なんなんだろう…?)」
疑問を抱えながらも来る時と同じように手を引かれて絨毯から降りた。
メレオレオナの話が終わり、明日に備えて用意された部屋で休むことになった。
エンは一人、部屋で王選騎士団のローブを両手に持って見つめる。
「お姉ちゃん、頑張るからね…」
事の進みが早すぎて、連絡すら取れなかった事に謝罪の気持ちを覚えつつも、常に自分の無事を祈ってくれているきょうだいに想いを馳せて眠った。
急に仲間が裏切るなんて驚きでしかなかった。
それでも、出来ることをしなければならない。
「エン、退却だ」
「は、はい…!」
ノゼルの移動魔法に合わせて、キノコの胞子で目眩しをかける。
「(他の皆も同じことが起きているとしたら……キルシュさん……!)」
皆の事が心配になったが、とりわけ、キルシュの事が一番気になった。
どうか、無事でいますように…!
何とか退却が出来た団員達が集まる中、エンは一人落ち着かない様子でいた。
それをノゼルが咎める。
「何を気にしている」
「あの…ノエルちゃんとキルシュさんが遅いので……」
「心配ないだろう。二人とも退却の術が分からないほど愚かではない。それに、あの二人が裏切るとは考えられぬ」
そういった時、身に覚えのある魔を感じて上を向けば、海竜の揺籠に乗ったノエルとキルシュが合流を果たした。
「(キルシュさん…怪我してる…)」
思わず駆け寄って心配の言葉をかけたくなったが、キルシュはすぐに回復魔道具の中に入ってしまった為、それは出来なかった。
だが、こちらを見て安心させるように微笑んでくれた気がしたので、エンの心は漸く落ち着いた。
これからの事を話し、王都へと急ぐ事になり、水銀の大鷲に乗って移動する中、キルシュが小声でエンに話しかけた。
「今言うことではないかもしれない。だが、今しか言えないから言わせて欲しい」
真剣な横顔を見上げながら、エンはあの時の言葉の続きだろうかと考える。
「あの時、言いかけたこと…。私は君に興味があると言おうとしたんだ。初めてなんだ、女性に惹かれるということが。今まで様々な女性に会ったが、君はどこか違う気がする」
「キルシュさん……」
「この戦いが終わって、互いに無事だったら食事でもしよう。もっと君を知りたいんだ」
エンは嬉しかった。だけど、怖くもあった、より深く自分を知られた時に再び拒絶されると考えたから。
だが、それでも、少しでもいいから彼に近づきたい気持ちもあった故、返事をした。
『ありがとう!是非楽しみにしているよ!』
緊張でうっかり、喋るキノコちゃんを出してしまい、ノゼルには睨まれた。
「ご、ごめんなさい…!」
「エンさんが謝ることではありませんわ」
「そうよ、このナルシストが言い寄ってきたのが悪いんだから」
「いいじゃないか、緊張しすぎも良くないだろう?悠然と美しくしていなければ」
「空気感ってモンがあんだろ。あと、美しさは関係ねぇ」
緊迫した状況だと言うのに…とノゼルだけが溜息をついた。
ヴァーミリオン邸で、エルフ達から城の者を逃がすと、キルシュはエンの事を褒めた。
「私の魔法の流れに見事に合わせてくれたね。お陰で上手くいったよ」
「いえ、そんな…ただ胞子を飛ばしていただけです…」
「その胞子も良かった。あれはなんの効果があるのかな?」
「魔力探知を邪魔する効果があります…」
「凄いじゃないか!魔導書の厚さから察するに他にも種類があるのかい?」
「え、えぇ…まぁ…」
「お兄様、お話はその辺に」
グイグイ迫られて困ってるエンに助け舟を出すようにミモザが間に入る。
「早く皆様と合流しましょう?」
「ミモザちゃんの言う通りだと、思います…!」
「分かってるさ、さ、行こうじゃないか」
キルシュが先に進み、その後を歩きながら、ミモザは言った。
「お兄様の扱いに困ったら、とりあえず褒めておけば何とかなりますわ」
「わ、わかったよ……?」
「危ない…!」
鏡魔法とやらの攻撃を受けた時、崩れてくる瓦礫から私を彼女が庇ってくれた。
だが、代わりに彼女の背中に瓦礫が落ちたせいで、彼女は気を失ってしまった。
私よりも小さくて、薄くて細い体をそっと抱きしめる。
「エン……」
しかし、ここでうずくまっている訳にはいかない。彼女をなるべく安全な所に避難させなければ…!
キルシュは立ち上がり、瓦礫が落ちてこなさそうな、真っ平らで周りに物が少ない石畳にエンを横たわらせると、桜魔法で覆い隠した。
「少し待っていてくれ。必ず戻るから」
甘くて優しい香りがする。
何だろうと目を開ければ、桜が差し始めの朝日を受けてその薄い桃色をより明るくしていた。
「キルシュ君が…?いや、それよりもどうなったんだろう……っ!」
急に背中が痛み、キルシュを庇ってその痛みを得たことを思い出した。
「大丈夫かな…」
探しに行こうと、なんとか立ち上がった所で、探している人物とは違う声がして振り返った。
「こんなとこに居たのかよ」
「ジャック団長…!!」
「とりあえず、全部終わったみたいだからよ、後片付けやってこい」
「わ…わかりましたっ」
エンは走るキノコちゃんを出現させると、それに乗って片付け作業の傍ら、キルシュを探すことにしたが、その日彼は見つからなかった。
戦いの後、すぐに復興作業や事務処理が始まったので、キルシュはずっとエンに会えていなかった。
「元気だろうか…とても華奢だったからな……無理して体調を崩してなければいいが」
思いを馳せながら、雲の多い青空を見ていると、会いたくなってきて、窓から出ていった。
途中放棄した書類をサラセニアに見られて怒られる事となるのは仕方ない事だと割り切って。
翠緑の蟷螂の本拠地の前に降り立つと、子豚が足元に走り寄ってきた。
「ぶひーっ」
「食料として買われているのか?にしては小さ過ぎると思うが…」
「ぶひっ!?ぶー!」
食料発言に怒ったのか、子豚は怒ってキルシュの足に突進する。
「人懐っこい子豚だね」
子豚を片手で拾い上げると、青年の声がして視線を前に向けた。
「悪い、パールこっちに…珊瑚の副団長さんじゃねぇっすか」
「君は?」
「俺、ガナンって言います。団長に用があるなら呼んできますよ?」
「いや、今日は別件なんだ。エンはいるかい?」
「女将っすか?多分今日も裏にいるんじゃないっすかね」
「そうか、ありがとう」
キルシュは、パールを返すと裏の森に向かった。
魔導書を持つ手が震える。
それでも、ページを開く。
なのに、魔法が出てこない。
「………結局、私は…」
蹲って震わせた肩を優しく叩かれ、顔だけ少し振り向くと、予想外の人物で驚いて倒れそうになるのを支えて止められた。
「キルシュ…さん……!?」
「やぁ、エン。そんなに驚かなくても大丈夫さ」
ずっと優しいままの手つきで立ち上がらせると、涙の跡がある頬に触れたキルシュ。
エンは思わず赤面した。
「もしかして、背中が痛むのかい…?」
「いえ、もう、そこは治りました…」
「そうか、それは良かった。…なんて、私が言うことではないな。私のせいで負った怪我なのに」
キルシュは辛そうな色を橙色の目に浮かべて、悲しげに眉根を寄せる。
「お詫びの意味を込めて約束していた食事に行かないかい?」
「でも、私まだ…特訓が……」
「あまり無理しすぎても上手くいかないものだよ。さ、行こうじゃないか」
エンの手を取ると、花弁を散らしながら空に舞う。
突然の浮遊感にドキドキしているエンの体をしっかりと抱き寄せて、木から木へ、蟷螂団の本拠地の屋根の上、街の様々な高さの建物の上を軽やかに飛んでいく。
「私に合わせて踏み出してみようか」
キルシュは後ろに回り、エンの両手を柔らかく握りながらリードする。
エンは言われた通り、キルシュの足取りに合わせて時計台の屋根に左足を踏み出して、軽く力を込めて飛び上がれば、思ったより高く飛んで少し怖くもなるが、それ以上に楽しくなった。
「楽しいかい?」
「うん…!凄く、良い気持ちだよ」
楽しさのあまり、敬語を使い忘れたが、エンはそれに気づかずにまた一歩、屋根に足を踏み出したのだった。
「そろそろ着くよ」
その言葉と共に空中散歩が終わり、いかにも高そうなレストランの前に着いた。
「い、いいの…こんな高そうなところ……。…あっ、ご…ごめんなさい!言葉遣いが…」
「気にしなくていい。それに前にも言っただろう?砕けた喋り方で良いと。私は君の素直な言葉を聞いていたいんだ」
甘ったるい言葉にエンは耳まで真っ赤にして
「じゃ、じゃあ…あの……キルシュ、君…って呼んでもいいのかな…?」
「構わないさ。それじゃあ、入ろうか」
緊張しながらも、返事の代わりに、エンはキルシュが差し伸べた手を取って、エスコートされるまま店内に入った。
緊張でろくに料理の味を楽しむことは出来なかった。
キルシュの話もあまり覚えていない。
だが、楽しい一時だったのは確かであった。
「ここまでで大丈夫だよ」
「そうかい?」
本拠地の近くの街まで来ると、エンは別れを告げようとする。
その前にキルシュは訊いた。
「食事中に訊くのはよそうと思って避けていたのだが…、あの時何を悲しんでいたんだい?」
エンはキルシュにちゃんと向き直り、おずおずと唇を動かした。
「…王選騎士団のローブが、私だけ綺麗だった。皆、ちゃんと戦って汚れたりボロボロにしたりしてるのに、私だけ…何も出来なかったみたいに見えてきて……」
自虐の悲しみに染まっていく表情が、話を聞いているキルシュの心を締め付けていく。
「だから、もっと強くなろうと思って…特訓しようとしたのに……また何も出来ないんじゃないかって思うと、魔法が使えなくなっちゃったんだ…」
「…頑張り過ぎなんだ、君は」
「……!?」
キルシュはその言葉と共に、思わずエンの体を抱きしめていた。
「君がいたから、ノゼル団長と共に速やかに退避できた。家の者も無傷で逃がせた。そして、私を救ってくれた。私が知らない所でも君は沢山の人の役に立っている。もっと誇っていいんだ」
一度、体を離すと、エンの目をしっかりと見つめる。
悲しくて、泣きそうな色。
「皆も私も、君を認めている。……やっぱり、本拠地の前まで送っていこう。こんなに悲しい顔の女性を一人にはできない」
キルシュに手を引かれて歩く中、エンは心の中がじんわりと暖かくなるのを感じていた。
夜中、エンは一人で裏の森で魔導書を開いた。
「大丈夫。キルシュ君も、認めてくれたから……」
あの空中散歩の時のように、楽しい気持ちを思い出して、思い切り魔力を解放してみると、色とりどりで大小様々なキノコ達が森中に生えた。
「やった……!…ありがとう、キルシュ君」
だが、この後キノコ達をどうしようと頭を抱えることになったのだった。
数日後。
「休み、なのか…」
エンの所に行くと言い出したキルシュに、サラセニアは言った。
「ああ、最近頑張ってるからな、ある程度まとまった休みを貰えたらしい。家族と過ごすだろうから邪魔はするなよ?」
「そんな美しくないことするわけがないだろう?」
「しかし、何故だ?エンばかり気にかけて…好きなのか??」
サラセニアの言ったことに、いつも狼狽えることの無いキルシュの表情が赤面して崩れた。
「よ、よく分からないな…、だが、彼女とは親しくしたいとは思っている」
「そうか。変なことはするなよ?」
サラセニアは釘を刺すと、任務へと向かった。
幼い子達の泣き声が背中に刺さる。
それでも私は行かなきゃならない。
皆を守るのが長女だから……。
そろそろ休暇も終わった頃だろうと、キルシュはエンに会いに翠緑の蟷螂の本拠地に来たのだが。
扉越しでも聞こえる騒々しさに相変わらず煩いなと眉をひそめながら、扉を開けた。
「ぶひーーーー!!!」
突然、パールが胸元に飛び込んできたので、引き剥がして何事かと聞く前に、恐らく遊びに来ていたのだろうか、サラセニアが怒りながら事情を話してきた。
「聞け!そして参加しろ!エンが行方不明になった!!」
「家族に聞いても、何も知らないらしくてね」
「とりあえず捜索隊を作りてぇけど、スペードとの戦争もあるだろ?下手に人員は裂けねぇって団長にも言われちまった」
「でも、ミー達だけでも動こうと思とるねんよ!どうなったって構わない!」
サラセニア達の言葉を聞き終わると、キルシュは直ぐに飛び出して行った。
「な…!先駆けは許さないよ!」
「待て、ギャズ。私達は十分な作戦を練ってから行こう。彼奴なら問題ない」
「……君がそう言うなら従おう」
何故急に走り出したのかは分からない。
どこを探せばいいか見当もつかないのに。
けど、見つけなければ。
何故なら、私は…私は、彼女が……!
「おっと…!」
夢中になって走っていたせいで、柳色の髪の子供とぶつかりそうになった。
「済まない」
「こちらこそ、ごめんなさい…」
「なかなか、礼儀正しいじゃないか」
よしよしと子供の頭を撫でると、子供は言った。
「エンおねーちゃんが、よくいってたから…」
「エン……?君、エンのきょうだいなのかい?!」
子供はハッとした顔をしてその場から走り逃げていく。
キルシュは引き止めずに、その子供の後を追った。
町外れまで来ると、そこそこの大きさの一軒家に子供は入っていく。
「ここが、彼女の家か…」
キルシュが静かにノックすると、エンによく似た女性が迎えた。
「どちら様でしょうか…?」
「私はキルシュ・ヴァーミリオン。エンの友人だ。彼女に会いたくて来たのだが、今どこに?」
女性は、ドアを閉めようとしたが、それは後ろから来た男の手により阻まれた。
「兄さん…!」
「やめようぜ、もう。姉貴の言いつけを守ってばかりじゃダメだ。……なぁ、アンタ。話すの外でもいいか?下の奴らがいたんじゃ落ち着いて話せねぇからな」
「ああ、構わないよ」
男はキルシュを家の裏に連れてくると、いきなり頭を下げた。
「頼む!姉貴を助けてくれ!!」
「やはり、エンに何か…」
男に頭を上げさせるように言ってから、話の続きを聞く。
「姉貴は昔、家の為に体売っててさ。ジャックさんのお陰で魔法騎士になれたのはいいけど、今になって店の奴らが姉貴を取り戻しに来たんだ」
拳を悔しそうに握りしめる男。
「姉貴が行かないなら妹達を代わりにするって言いやがったから、姉貴はそれで……っ。俺が止めようとしたけど、向こうの方が強くて返り討ちにあっちまった上、姉貴が…」
『大丈夫、すぐ戻ってくるから…。団長達には言わないで』
「姉貴に迷惑がかかっちまうって思って、皆、言えなかった…!
だけど、もう限界なんだよ!姉貴が俺達の為に傷つくのは…いい加減幸せになって欲しいのに……!!」
涙ながらの訴えを無視するほど、今のキルシュは冷酷な男ではなかった。
男の肩を強く掴む。
「安心してくれ、今日中に彼女を君達の元に帰そう。情報提供、感謝するよ」
キルシュは力強く言うと、通信魔道具を取り出してサラセニアに連絡を入れた。
寒くて、ひもじくて、痛くて、辛い。
それでも耐えなくちゃいけない。
きょうだいを守る為に。
シーツを被って、楽しかった事を思い出して現実から逃げようとする。
思い出すことの後半は、キルシュとの思い出が目立ってきて涙が溢れてきた。
「会いたいなぁ…っ、助けて…キルシュ君……!」
より深く被ろうとしたシーツは、乱暴に剥がされて、生地の擦れたネグリジェも奪い取るように脱がされてしまった。
「嫌…やめて……っ」
拒絶の言葉を震える声で伝えても、返ってくるのは頬を殴られる痛み。
「娼婦は黙って、体開いてりゃいいんだよ」
そう言われて、二度殴られる。
腫れた右の瞼で男を見上げれば、睨んでいると因縁をつけられて、ベッドから落とされて背中を強く打った。
ケホケホと苦しそうに咳き込むエンのより細くなった足を掴んで、男は部屋を出る。
エンは木張りの床を引きずられる痛みに「嫌です、やめてください」と泣き叫ぶが、男は聞き入れない。
男は、ある部屋の前で止まると、部屋の戸を開けて、エンを投げ入れた。
部屋にはぐったりとした女性達が倒れていて、皆一様に明後日の方向を向いている。
「ボス、コイツも薬漬けにしとかねぇと駄目みたいですわ」
「そうかいそうかい」
ボスと呼ばれた初老の男は注射器を手にして這って逃げようとするエンの背中を踏みつけた。
「悪い子には、躾が必要だ」
捻りあげた細腕に注射針が迫った、だが。
「桜魔法 那由多美刃桜舞!」
大量の桜の花弁が、壁ごと戸を取り払って、部屋を満たしていく。
狼狽える二人の男は、緑の蔓に体を拘束され、動けない女達は部屋に入ってきたサラセニア、ギャズ、ガナン、フィスキオが安全な場所まで避難させる。
キルシュは早足で、倒れているエンを助け起こすと、自分のローブで痣だらけの体を包み込んだ。
「…怖かっただろう。さ、早く家に帰ろう」
「キルシュ君……!」
腕の中で声を上げて泣きじゃくるエンを強く抱きかかえながら、キルシュは後処理を四人に任せて、エンの家へと向かった。
何回目になるか、キルシュは質素な木のドアをノックする。
「こんにちは、キルシュさん」
今日は三男が出迎えてくれた。
「姉ちゃんなら、まだ布団の中だよ」
キルシュはあの日からずっと、リンガード家に通い、エンの様子を見ようとしたが、相当心に傷を負ったのか、会えないでいた。
「…分かった。では、また明日」
この日も引き下がろうとしたが、部屋の奥から「待って……」と細い声がした。
会いたかった彼女が、次女に支えられながら、こちらに歩いてきた。
「ごめんね、いつも来てくれてたのに…」
「エン…体は大丈夫なのかい?」
「もう、平気だよ…。それに早く戻らないと…皆に迷惑かけっぱなしじゃ、居られないよ……」
前よりも随分窶れた様子にキルシュは心苦しく思う。
「しかし、無理は……食事もあまりとっていないと聞いている」
「少食なだけだよ…」
そう答えて、妹の支えを外してキルシュの元に歩み寄ろうとしたエンであったが、よろめいて倒れそうになり、キルシュがそれを受け止めた。
「やはり、休んだ方がいい」
「でも……」
「万全の体調で任務に臨む、魔法騎士の基本だ」
キルシュは軽々とエンを抱き上げる。
「部屋はどこかな?」
「き、キルシュ君…!降ろして…!」
「一人で歩けない程弱っているというのに?」
「……」
「姉さんの部屋なら、そこの階段を上がってすぐ右です」
次女に教えられて、キルシュは階段を上がっていく。
部屋に入り、硬そうなベッドにエンを寝かせると、机のそばにある椅子を引いてきて座った。
キルシュが再び心配の声をかける前に、エンが口を開いた。
「……キルシュ君が来てくれた時、凄く…嬉しかった。でも、後々それが悲しくなってきたんだ」
「何故だ…?」
「王族で、副団長で…いつも忙しい君の時間を、私なんかに使わせてしまったって」
「そんなこと言わないでくれ!どうして君はそんなに暗く考えてしまうんだ?」
「………私が、君に釣り合わないからかな…。見た目も良くないし、あんなに乱暴な事をされても感じてしまった浅ましい体で…昔君が言ったみたいに、私は娼婦でいた方が良かったのかもね…」
涙声でエンは言葉を続ける。
「そうしたら、こんなに……こんなに君を想って苦しくなる程の恋なんてしなくて済んだのに…こんな、分不相応な恋を……!」