宇宙に行かなかった。44
「まさか、君の方からこんなに短期間に、二度も声をかけてくださるなんて。いったいどんな風の吹き回しですか」
しかも、こんな、と。言葉を続けながら寂雷は頭上を見上げる。身体は柔らかなシートに沈めたまま。暗闇の中、見上げたその先には宇宙がある。視界一面を埋め尽くす、満天の星空。
宇宙旅行でも、天体観測でもない。ここはただの、貸切にしたプラネタリウム。
「……なに、メーワクだって言いたいの」
「いえ、嬉しいと伝えたいんですよ」
……ほら、やっぱり、負けた気になる。心の中で悪態を吐きながら、今寂雷に乱数の表情が見えなくてよかった、と思う。きっととても不細工であろうこんな顔を、見られたくはない。そもそもそういう魂胆と、あとは、なんだろうか。
わざわざ乱数が、東都スカイハイタワー八階にあるこのプラネタリウムを、貸切にまでしてしまった理由は。
「それにしても、ここのプラネタリウムは貸切になんてできたんですね」
「……うん、僕もダメ元で頼んだらOK出て逆にビックリした。なんかちょっと、変な勘違いされてそうだけど」
「変な勘違い?」
「次のファッションショーのなにか〜とか、そういうブランド関係のイベントの下見じゃないかって」
「ああ、君のブランドも最近本当に有名になってきましたからね。しかし、そうでないのなら何故ここを貸切に?」
「……だって、おまえが言ったんじゃん」
「私が? 何を?」
「……遊びに行こう、って」
だから、遊びに、来たんだけど、と。何気なく続けたつもりの声は途中から随分と小さく曖昧になってしまって。もっと何の気なしに言葉にするつもりだったのにと、始まる前から台無しな舞台に早くも幕を下ろしたくなる。だいたい遊びに行くこととプラネタリウムを貸切にすることは別にイコールじゃない! たいていの人間はプラネタリウムを貸切になんてしなくたって、過不足なく遊べる。乱数だってそのはずだ。
理由はまだよくわからないけれど、ここがプラネタリウムである価値なら早速あった。暗闇のおかげで、今のこんな顔だって見えなくて済む。
全長千メートルの、現在日本で一番高い建造物、東都スカイハイタワー。それは日本で一番有名な建造物といっても過言ではなく、だからまさか乱数だって、そう気軽に貸切にできるなんて思っていなかった。それがきっかり一時間。ちょうど丸々一回分の上映時間を乱数達だけが借り受ける許可を得られた。それは偏に未だにある乱数の知名度と、そして同行者が今現在日本で一番有名な男と言ってもいい、この神宮寺寂雷だからだろう。
あくまで噂だけれど。全世界から選ばれた『ラザロ・プロジェクト』に参加する十人には、残りの地球滞在時間をより有意義に過ごしてもらえるよう、様々な特権が与えられているとか、いないとか。与えられていたとしてその中にプラネタリウム貸切の権利があるのかは、乱数も知らない。
今も乱数と寂雷が細々と話す裏では、とても小さな音量で本来の番組、星空の解説が流れている。最近耳に馴染み深い、緩やかで眠気を誘う宇宙の話。
「……遊びに、来てくださったんですか?」
「……そーだよ、悪い?」
「いえ、嬉しいです。とても」
しかも、こんな素敵な場所に、と。寂雷はまた天井を見上げる。そんな気配がした。
喜んでもらえた、のだろうか。引かれてはいないだろうか。いやでも、引かれても構わないと、そんな心意気で誘いを入れたわけだし。それこそ、大砲に乗って月へと繰り出すような、そんな気持ちで。
気付けば視線が下がってせっかくの星空を堪能できなくなる乱数を尻目に、隣で寂雷は「知っていますか、飴村くん」なんて星を指差しては何かを話している。宇宙に関する、何か、小難しい話。その聞き味はどこか幻太郎のラジオに似ている。暗闇の中、未知の物語を流すお気に入りのラジオ。
そうだ。寂雷の前ではつい難しい話はわからないとか、つまらないとか、そんな悪態を吐くことしかできないけれど。そもそも乱数は未知のものがそう嫌いではない。だってきっと、知らないことの先におもしろいものがある。知らないからこそ、好きになれる余地がある。
「──行かないでよ」
「……? 飴村くん?」
「宇宙になんて、行かないでよ」
唐突に話を遮った乱数の言葉に。噛んで含めるように繰り返したその言葉に、息を呑んだ気配がした。相変わらず宙も隣も見れないけれど、上を見ていた寂雷の視線が乱数に降りたのを肌で感じる。寂雷の視線が、ここにある。その視線が熱くて、痛くて。焼き焦げてしまいそうに感じるのは、乱数だけの問題なのだろうか。
苦痛にすら感じる沈黙の中、微かな宇宙の話が場を繋ぐ。言ってしまった。言えてしまった。口にすればあまりにも呆気なくて、こんなことならもっと早く言ってしまえばよかったと思う一方、取り返しのつかないことをしてしまったという後悔もある。
そんな中、とても静かな声で寂雷が「……何故?」と問いかけてきた。聞きなさいと説教をする時とも、小難しい話をする時とも、祝福してくださいと迫った時とも異なるその声。その声が、あまりに小さくて、どこか頼りなさげに響いて。気のせいかもしれないけれど、勘違いかもしれないけれど。でも不思議と、背中を押されるように顔が上がった。
一郎の言葉を思い出す。言ってやったらいいじゃねえか、簡単に、当たり前のことみたいに。
当たり前のことを、当たり前みたいに。
「僕が、おまえに会えなくなるのが、さみしいから」
今度こそ、間違いなく息を呑んだ音がした。その音に勇気をもらうみたいに、寂雷の方を向く。暗闇で、寂雷の顔は朧げにしか見えない。その表情が見たくて、ぐいと肘掛け越しに身を乗り出せば、逆に寂雷は逃げるように身を引いた。逃げないで欲しい。乱数だって、逃げないと決めたのだから。
「ねえ、寂雷。おまえは? おまえは、さみしくないの。そんな、いいことばっかりみたいに語って」
「ど、うしたんですか、飴村くん。急に、何か悪いものでも食べましたか」
「茶化さないで、ちゃんと聞いて。ちゃんと、話してるんだから」
「……」
「おまえが選ばれたことは、すごいことなのかもしれないね。おまえが選ばれた計画は、素晴らしいものなのかもしれないね。おまえが選ばれたことを、僕らは祝福してあげないといけないのかもしれないね。でも、でもさ、どれだけ栄えあることでも、宇宙にいっちゃったら、たぶんもう二度と衢にも、麻天狼のヤツらにも、一郎にも左馬刻にも、家族にも友達にも会えないのに。僕にも……会えないのに。おまえはどうして、そんなふうにしていられるの。僕達に会えなくなることが、僕達の明日におまえがいないことが、さみしくないの」
「……それ、は」
「僕は、思って欲しいよ。さみしいって。僕がいなくなる時、みんなにさみしいって思って欲しい。ねえ、おまえは違う? 僕らがさみしいって、そう思うことはおまえにとって煩わしい? だから、教えてくれなかったの。こんな大事なこと。こんなに、さみしいこと。ねえ、こんな大事なことをおまえの口からじゃなくてテレビやネットニュースや新聞で知らされた僕らの気持ちを、おまえは少しも考えなかった? 僕らから貰えるものが『おめでとう』って、『やったね』って、それだけだって。おまえは本当にそう思ってたの?」
当たり前のことを、当たり前みたいに、何の気なしに伝える。そのつもりだったのに、一度堰を切った言葉は思いの外止まらなかった。空を流れる流星みたいに、次から次へと言葉が溢れては消えていく。泡沫の言葉の濁流に、それでも『そうだよ』と返る言葉が怖くて止まらない。
そうだよ。寂しくないよ。思っていたよ。そんな言葉が返ったって。流星が願いを叶えてくれなくたって、ただ口にできれば満足だと、そう思っていたのに。今はそれが空振りに終わるのが怖くて、ひたすらに言葉を紡いでしまう。それでもどうしても永遠に話し続けることはできなくて、燃え尽きるように息が切れて、肘掛けにしがみつきながら、また俯く。
「僕は……おまえに会えなくなるの、さみしいよ……」
どうか、切実すぎる音で、響かないで。
さみしくなるね。でも、いってらっしゃい。そのつもりだったのに、こんな、無様に縋る予定ではなかったのに。
だってどうせ、叶えてなんてもらえない。寂雷のことだから、人の為に生きることが人生の唯一の意義だなんて、笑顔で言ってのけるような奴だから。いくら乱数が泣いて縋ったって、言葉を尽くしたって、きっと叶えてなんて貰えない。どんなに良くても笑っていなされる。そうですね、私もさみしいですよ、とか。でも人と人とは出会い、そしていつか別れる定め。別れがあるからこそ新しい出会いがあるのですとか、そんな、つまらない話。でもそのつまらない話を失いたくなくて、プラネタリウムまで貸し切ったこの乱数の行き場のない気持ちはどうすればいいのだろう。
一郎の嘘吐き。勝った気になんてならない。どこまでも乱数は、寂雷に負け続ける。
「……本当のことを言うと、とても、怖いんです」
「──え」
聞き間違いかと思って、顔を上げる。寂雷の顔は、やっぱり見えなかった。でも気のせいだろうか、その声が少し、震えている気がする。「何故」と、そう問いかけた時と、同じ音で。
「宇宙、千年後、命の刻限の克服、コールドスリープ。どれもこれも、実現すればとても素晴らしいことだと。人類の叡智の結晶だと、本当に、そう思います。けれどそれは、あまりにも途方がなくて……私の、想像の及ばない範囲の出来事で。その先で本当に私が私の望むように生きられるのか。そんな保証が、どこにもない」
「……」
「ここのところ、毎日のように想像するんです。私は暗く果てしない宇宙の片隅で、とても冷たいベッドに潜り込む。そしてそのまま瞼を閉じる。百年後、千年後の未来を夢見て、人類の遥かなる地平を目指して旅に出る。そこまでは、なんとか想像できる。けれど、どうしても……その先で、私が目を覚まし生きるビジョンが浮かばない」
「寂雷……」
「みっともないと、臆病者だと、笑いますか飴村くん。でも私は、気付いてしまったんです。私はそんな想像力に乏しい堅物で、人の為に生きたいなどと豪語しながら、結局はただただ、今私の周囲にいる人達に笑っていて欲しいのだと。千年後の人類の話ももちろん重要だとは思っていますが……私は今、この世界に生きる人間の為に生きていたい」
だから、怖い。どうしようもなく、恐ろしい。
こんな弱い私を知られたくなくて。親しい人達に否を唱えられたら、それこそこんなふうに、みっともない姿を晒してしまいそうで。だからあまりに薄情だとわかっていても、こんなにギリギリになるまで言えなかったのに。祝福してくださいと、それだけの言葉を強要することしかできなかったのに。
それなのに、君はいつだってままならない。私のことをこんなふうに振り回して、自分でも知りたくなかった嫌な部分を暴き立てるのが君という男だ。うまくラップができない自分。君の心にうまく歩み寄れなかった自分。感情的になって、君のことを許せなかった自分。いつだって君は、私の期待を容易く裏切ってしまう。
君に、こんなことを、言いたくはなかったのに。
「……寂雷にも、怖いものとか、あるんだ」
「そんなに、怖いもの知らずに見えますか」
「うん」
「……」
長い、長い話だった。やっぱり小難しくて、乱数には寂雷が何を言っているのか、全部はわからない。だから始めに口からまろび出たのもそんな言葉で、こくりと頷く乱数に、寂雷が微妙な顔をしたのが気配でわかる。微妙で曖昧で不安定な、でもあの一部の隙もない気持ちの悪い笑顔よりも、ずっと好ましい顔。
「ありますよ。それはもう、たくさん」
「ムリョクナジブン、とかじゃなくて」
「それはもちろん怖いですが」
「……」
飴村乱数には、怖いものがたくさんある。
中王区の女達。飴の在庫切れ。死ぬこと。おばけ。グリーンピース。三日後に迫った締め切り。──神宮寺寂雷。
だから、怖いものなんてありませんみたいな顔で。身内の仇すら途方もない寛容で、当たり前のように許してあまつさえ「救ってみせる」なんて言ってのける男にもう乱数が伝えられる言葉なんて、ないのかと思っていたけれど。
寂雷にも怖いものがあるのなら、もしかしたら乱数と寂雷は、まだ思っているよりは近い場所にいるのかもしれない。違う星を生きているような気持ちになることもたくさんあるけれど、もしかしたら案外、同じ地表に立っているのかもしれない。
だったら。だったら──。
「行きたくないなら、辞めちゃえばいいじゃん」
──メーデー、メーデー。こちら宇宙船地球号から飴村乱数。
この声がまだ聞こえているのなら、どうか応えてはくれませんか。
「……辞める?」
「どんなに素晴らしいことだって、寂雷が嫌だって思うんなら、辞めちゃえばいい。だいたい本当にその計画は成功するの? 絶対成功するって、そんな保証はあるの? もしかしたらただの自殺行為かもしれない。千年後の未来どころか、一日後の明日にすらいられないかも。それくらい宇宙って、未知で怖いところなんでしょう」
「自殺……」
「ん」
「その発想は、ありませんでした」
「なんでさ」
「でも、できませんよ、そんな勝手なこと」
「それもどうして?」
「とてもたくさんの人に、多大な迷惑がかかります。それこそ、君にも。それにこれは私が果たすべき責任、贖いでもある。辞めるなんて、そんな……」
「迷惑? 寂雷が宇宙に行かないことで、僕に迷惑? そんなのかかるわけないし……それに、いいよ、別に。なんかよくわかんないけど、迷惑ぐらい、かかったって。そんなのきっと、明日おまえがここにいない迷惑に比べたら、なんてことないから」
「……」
説得の余地なんて端からないと思っていたのに、どうだろう。乱数の言葉に、寂雷がぐらり、ぐらりと揺れているのがわかる。乱数の声が、ちゃんと寂雷に届いている。人間が想像できることは人間が実現できるかもしれないけれど、想像できないからってできないと決めつけるのは早いのかもしれない。
虚構の宙のどこかで、星が流れた気がした。
「行かないでよ」
「……」
「たとえば、たとえばさ。僕がなにかの理由でなにかをしなくちゃいけない。それをしないと周囲にとてもたくさんの迷惑がかかるから。僕がそれをしないといけないから。でも僕は、どうしてもそれがしたくない。ねえ寂雷、そんな時おまえは、僕にそれをしろって、そう言うの?」
「それは……」
「おんなじことだよ。僕は寂雷に、そんなことしなくていいって言ってあげる。やりたくないならしなくていい。行きたくないなら行かなくていい。それに僕は、行って欲しくない。おまえがいなくなったら、さみしいから」
「ねえ、寂雷。お願い」
人工の流星に願いを託す。『奇跡』が『当然』になるほど愉快なことはないと、幻太郎も言っていた。乱数も、そう思う。
願いを三回唱えた訳ではないけれど、これだけ言葉を尽くしたのだから。今まで悔しいとか気恥ずかしいとか気まずいとかガラじゃないとか。そんな言い訳ばかりで逃げていた言葉を、ようやく形にできたのだから。
だからどうか、叶えてはくれないだろうか。だって血を吐くような献身には、おしなべてそれ相応の褒美が与えられるべきじゃない? がんばったのだから、それに見合った報酬が欲しい。そんなとても難しい理想論が叶うと、そう言って。乱数に与えられるべきものは侮蔑や罵倒なんかではなくて、もっと優しくて、嬉しいものだと──。
「──確かに、私も、君に会えなくなるのは、とても寂しい」
薄闇の中、気付けば両手が汗ばむほど強く熱心に肘掛を掴んでいた手の上に、寂雷の手が重ねられる。プラネタリウムの空調に負けたのか、その手は少し驚くくらい冷たい。けれどそのひやりとした感触が緊張やら照れやらで体温調節機能のバグった乱数には心地よくて、反射的に握り返すよりも先に、寂雷がとても優しく微笑んだのがわかった。
「飴村くん、君と話せて、本当に良かった」
流星がどこに消えたのか、乱数にはもうわからない。