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    hanihoney820

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    hanihoney820

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    円満和解壁崩壊後前提乱寂。
    宇宙に飛ばされそうになる先生と、なんとかしてそれを止めたい乱数のお話。
    エセSF(少し不思議)、暴力表現あり。その他なんでも許せる方向け。

    宇宙に行かなかった。11(完)11




    「寂雷」

     乱数が名前を呼べば、寂雷は立ち止まった。困惑のような、納得のような、諦観のような。そんな大真面目なリアクションだって、派手なハイビスカスのアロハシャツと麦わら帽子というご機嫌な格好の前では、コメディにしかならない。まるでバカンスでハワイに行くみたいな素敵な衣装!

    「あは、なに、そのカッコ」
    「……友人が、この格好なら私が神宮寺寂雷だなんて、誰も夢にも思わないと」
    「はは、確かにね。まさか渦中の人のあの神宮寺寂雷がそんな浮かれた格好してるなんて、誰も思わないよ。サイコーのセンスしてんじゃんね、そのユージンさん」
    「……君も、随分と珍しい格好をしていますね」
    「だってみんな夢にも思わないでしょ? あのポップでキュートでカラフルなこの僕が、こんなダサくてつまんない格好してるなんて、さ」

     そんじょそこらの服屋で帝統が適当に買ってきてくれた黒のウィンドブレーカーを、乱数はまるでドレスでも見せびらかすみたいに裾を摘んで一回転。ショートパンツが白だから、その配色はまるでパンダか何かみたい。見せ物扱いという点では間違ってないのかもだけど、なんて思いながらステップの開始位置に戻れば、先程までどんな表情を取るべきか考えあぐねていた様子だった寂雷がわかりやすく眉を寄せていた。やっぱりその表情だって、アロハシャツには似合わない。

    「……君のことを大切に想う夢野くんと有栖川くんなら、君のことをもっと真剣に慮ってくれると、そう期待していたのだけど」
    「うん、僕のことを大切に想ってくれるふたりだからね、他の何よりも僕自身の意志を尊重してくれたんだよ」

     どっかの誰かと違ってね、と。あからさまな嫌味を歌うように口にすれば、寂雷の眉間のシワはより深くなった。それを見ていると乱数は、思わず笑ってしまいそうになる。だってこんなにもお粗末な芝居がかった不機嫌、そうそう拝めない。不機嫌を装いながら、その蒼い瞳の奥で彼が懸命に適切な言葉を拾おうとしているのがわかる。

    「……飴村くん、君は、帰りなさい」
    「……」
    「君が、あれだけのことをしてくれたのに、言ってくれたのに。それを無碍にするようなことをするのは、非常に申し訳ないと思っています。しかし、君がこれ以上背負う必要はない」

     病院で、幻太郎と帝統は乱数に、寂雷が全ての出来事を己の企みだと虚偽の暴露をして事を収めるつもりだと、そう教えてくれた。そして寂雷が巧くそれを成せば、もしかしたら乱数を取り巻くこの不幸は、多少なりとも改善されるかもしれないと。そして、それで、それを踏まえた上で。
     じゃあ、乱数はどうする? と。

    「私は君の今回の献身を、君の贖罪の一種だと、そう解釈しています。もちろん君がある程度私を好意的に思ってくれているという面もあるのだろうけれど、それだけでここまでのことはできない。君が事実どう認識しているかはわかりませんが、今の君の無鉄砲さは強迫観念にも似ている。それこそ騙されたと思ってこのままシブヤに帰り、三日もすれば頭も冷える」

     寂雷がいつどこから日本を離れるつもりかという情報は、幻太郎が教えてくれた。そんなものよく知ることができたね、と尋ねれば、彼はコロコロと鈴を転がしたように楽しそうに笑っていた。「もしかしたらあなた以上に彼に救われて欲しいと願っている方に、教えて頂きました」と。「乱数、貴方、御自分で思っている以上に責任重大かもしれませんよ」とも。

    「君がしたことは、確かに正しいことではなかった。背信も虚偽も隠蔽も忌むべきものであることに間違いはありません。しかし、それでも君は……ずっと、頑張ってきた。望まぬものを背負わされ、日々死の恐怖と戦いながら、それでもずっと、懸命に生きてきた。もうこれ以上、辛い思いをする必要も、苦しむ必要もない」

     責任。責任。責任。また責任か。

    「もう一度言います。帰りなさい、飴村くん。君が幸福でいてくれることが、私の一番の望みです」
    「……」
    「……飴村くん? 聞いていますか?」

     寂雷が訝しげにそう尋ねたのは、寂雷の話の最中乱数がずっとぼんやり虚空を眺めていたからだろう。寂雷の頭の上より、更にもう少し上、何も無い場所をただぼーっと、ひたすら。
     そして寂雷のその問いに、乱数は「あ、終わった?」とばかりに視線を下げる。ようやく視線が合った寂雷は、少し困惑した顔をしていた。きっと寂雷の言葉に乱数は怒るか、泣くか、俯くかすると思っていたのだろう。だから、困惑するのも無理はない。
     だって今の乱数は、とびきり鮮やかに笑っているのだから。

    「……そうだね。中王区の奴らはいなくなって、壁も壊れて、僕の命の問題も解決して、ぜんぶぜ〜んぶ終わって、この先もう、いいことしかないんだって、そう思ってた。毎日楽しくっておもしろくって、笑って好きなことだけして生きていけるって、そんなふうに思ってた」
    「……なら」
    「でも、いいよ」
    「──!」
    「辛くても、苦しくっても、それでもいいよ」

     そして、手を伸ばす。朝焼けの差し込む空港の中、乱数は真っ直ぐに、寂雷に向けて手を伸ばす。

    「僕もおまえも、宇宙には行かなかったから。この先もこの場所で、地べた這いつくばって泥だらけになって、それでも、ずっといっしょに生きていこうよ。大丈夫。きっと辛くて苦しいこともたくさんあるけど、僕にはポッセが、おまえには麻天狼や衢がいるし。きっと、なんとかなるよ。僕とおまえで、なんとかしていこうよ」
    「……飴村くん、それは」
    「ね? だって僕らは最強だもん。大丈夫、きっと、大丈夫だよ」

     かつて乱数は、寂雷といれば何も怖くないと。そんなトチ狂った事を思っていた時期があった。
     中王区の命令に背いたって、彼女達を敵に回してしまったって、それでも寂雷と一緒ならなんとかなるかと、そんな楽観を抱いたことがあった。
     結局その時は、後からその背信を咎められ、もう二度と逆らわないと。彼女達に背くということがどういうことなのか、徹底的に、恐怖と苦痛をもってして知らしめられたけれど。彼女達に逆らっても無駄なのだと、乱数が何をしようと何を言おうとどうにもならないと、そんな悲観を当たり前にしてしまったけれど。
     でも、大丈夫。根拠なんてないけれど、きっと、大丈夫だから。

    「ね、だからお願い。僕といっしょに、ここで生きていて」

     伸ばされた乱数の手を、寂雷は今も困惑したまま見つめている。乱数の顔とその手を見比べて、「なんちゃって」とか、実は夢でした、とか、そんなどんでん返しが起こるのを待っている。けれど悪いけど、乱数には覆してやるつもりなんて毛頭ない。引き際ならもう何度も飛び越えてきたし、用意してもらった。それでも今、ここにいる。

    「……何故、私の為に、そこまでしてくれるんですか」

     口を開いて、閉じて。また開いて、閉じて。そんなことを数度繰り返した末に寂雷の口から紡がれた言葉は、思いの外つまらない、今更な言葉だった。本当に本当に今更で、つまらない。
     だって。

    「わかんないよ、そんなの。僕にもわかんない」
    「君にわからなければ、誰にわかるんですか」
    「知らないってば。たぶん理由なんてわかるくらいなら、こんなことしてない」
    「……もっともですね」
    「うん、わかんない。わかんないけど……でも、おまえといっしょに地獄に落ちる覚悟くらいは、だいぶ前に決めたことあったし」
    「……?」

     乱数の言葉に、寂雷は不思議そうな顔をする。発言の真意を問おうと口を開いたその傍らで、不意に足を止めた誰かが「なあ、あれ、神宮寺寂雷じゃないか?」と呟いた。その隣では連れ合いらしい人間が「え、嘘。ってか正面の子、乱数ちゃんじゃない?」なんて口にしている。
     湖面に投じた石のように波紋は急速に広がり、まばらなはずの人影ですら足を止める。どうやら変装をしているとはいえ、さすがに往来のど真ん中で立ち話は悪目立ちが過ぎたらしい。誰かの断言がきっかけとなっただけで、彼らの存在を不審に思っていた人間はそれなりにいたようだった。
     「ill-doc? なんでこんなとこに?」「そんなのどこにもいないじゃん」「ほらあの、アロハシャツの」「飴村乱数は?」「あんなのいたらすぐわかるだろ」「わかんないけど、あのちっちゃい子ぽくない?」「え、なんであのふたり一緒にいんの? 解散したんでしょ?」「知らねえよ」「あんな格好でどこ行くんだろ」「国外逃亡とか?」「え、やばくない?」「人殺しといて何浮かれた格好してんの?」「こわっ、早く行こうぜ、殺されるかも」「中王区のせいで俺がどんな目にあったか……」「ってか前のホテルの火災かなんかで死んだとか噂なかった? なんで生きてんの?」。

     無数に飛び交う言葉が、次第に悪意を孕み出す。まずい、と思った乱数は、咄嗟に寂雷の手を掴み走り出した。「今すぐここから離れるよ!」と言えば、ひとまず寂雷も走り出す。搭乗ゲートと真逆の乱数の誘導に従ったということは、寂雷は乱数の申し出を受理したということでいい? その足が淀みなく動いていることに安心する暇もなく、声と悪意は乱数の足より早く広がる。前方をゆく人々が、皆乱数と寂雷を見ている。
     「神宮寺寂雷」「飴村乱数」「どこに行く?」「逃げるのか」「あんな事をしておいて、よくのうのうと生きてられる」「待て」「待て」「待て」「逃げるな」「止まれ」「止まれ」「逃げるなって言ってんだろ!」。

    「っ、いたっ!」
    「飴村くん!?」

     不意にどこかから何かが飛んできて、それが乱数のこめかみに命中した。鋭い痛みに思わず声を上げれば、半ば引きずられるように乱数に追随していた寂雷の切羽詰まった声が聞こえる。こめかみに当たったそれはそのまま床に落ち、勢いで乱数が蹴飛ばしてしまったせいでくるくると回りながらあらぬ方向に飛んでいく。それはどうやらインスタントカメラのようだった。今時まだこんなアナログなものを使う人間がいる? おかしな気持ちになりながらふと何かが頬を伝う感触にそれを拭えば、乱数の手の甲が真っ赤に染まる。

    「っ、なんてことを……!」
    「だ、大丈夫! 大丈夫だから! 全然痛くないし!」
    「痛くないはずがないでしょう、そんなに血が出て……」
    「こんなのなんてことない! なんてことないから!」
    「しかし」
    「だから怒っちゃダメ! 怒っちゃダメだよ」

     乱数の血を見た寂雷が今にもその投擲を行ったらしい人間の元に向かおうとするのを、握った手をより強く引くことで阻む。珍しく彼はあからさまに怒っているようだった。今にも掴みかからんばかりの怒気は他人事ならきっと乱数だって慄いてしまう。寂雷の体躯で迫られれば、誰だって怖い。普段のように善意のもと悠然と微笑む彼ならいいけれど、きっと今はあらぬ誤解だって生んでしまう。ほら、実際今だって、寂雷に睨まれた投擲者が、「お、俺も殺すつもりか!」なんて声を上げる。

    「そうだ、そんなことより、もうすぐ完成するんだよ、僕たちのグラフィティ」
    「グラフィティ?」
    「うん、そう。幻太郎と帝統にもデザインをいっしょに考えてもらって、イチローに手伝ってもらって描いてる、サイコーでサイキョーな僕らのグラフィティ。すごいんだよ、自信作なんだから」
    「君らが、そんなことを?」
    「うん。本当は、完成したら見せてあげるつもりだったけど、今見に行こうよ!」

     走る。走る。走る。息が切れるほど走りながらも、周囲の声をかき消すように、乱数は大きな声で話し続ける。いつものような他愛のない話。寂雷もそんな乱数の必死さに呑まれたのか、今度こそ引かれる後ろ髪を払い、きちんと乱数の後ろを走っている。
     けれどそれでも、声はどこまでもどこまでも追って来る。時折物だって飛んできて、全力で走る乱数と寂雷にそうそう命中しはしないけれど、それでも耳元で鳴る風を切る音は身体を萎縮させる。
     「人殺し」「どの面さげて」「なんでこんなところに」「警察に通報する?」「男のくせに、裏切り者が」「私ならもう生きていけない」「信じていたのに」「どうして」「何故」「中王区の狗」「作り物の分際で」。

     うるさい、うるさいうるさいうるさい!
     人の過去のことを、いちいち持ち出してんじゃねえ!

     叫びたくなるのをグッと堪え空港を飛び出した乱数は、手当たり次第にタクシーを停め始めた。そして運転手が乱数達を見た瞬間、あえてサングラスを取って見せる。その瞬間「あ」なんて顔をされればはいパス、次だ。片っ端からそんなことを繰り返して、十数台を見送ったところでようやくろくな反応を見せない年配の運転手を捕まえた。最後の抵抗のように足踏みする寂雷を無理やり車内に押し込み、乱数も乗り込む。
     「シブヤまで!」の言葉を三回聞き返すような運転手は、乱数達のことを知らないのは僥倖だけれど普通に運転が不安だ。高速を使っても数時間はかかる道のりを任せるにはあまりに心もとない。けれどそんなことを考えている暇なんてないくらい、車内で乱数は終始喋り通した。
     それこそ、グラフィティの話や、あの後調べた宇宙旅行で行きたい場所の話、世界旅行の話や、幻太郎や帝統の話。乱数の好きな、楽しいことやおもしろいことの話ばかりを、寂雷に余計な口を挟む隙を与えないよう、ひたすら。

     必死になっていれば数時間の道程なんてあっという間で、気付けばシブヤについていた。かなり高額になっていたタクシー代を有無を言わせない内に乱数が「お釣りはいいから!」と掴んだ万札を放り投げるように渡すことで支払いを済まし、再び寂雷の手を引いて走り出す。街中で寂雷のアロハシャツはやはり変に悪目立ちしたけれど、今のところやはりあの神宮寺寂雷がこんな浮かれた格好をしているなんて誰も夢にも思わないから、皆チラと視線を送っては見なかったことにしてくれる。

    「グラフィティってさ、僕初めてやったんだけど、むずかしーんだねあれ。全然思ったようにできなくてさあ、うまくいった! って思ってもちょっと離れて見ると全然歪んでたりして、イチローはそれも味だって言うだけど、納得できないよね? あ、でもすごいんだよイチローは、そんなこと言っといて僕のデザイン、完璧に再現してくれんの。昔クウコーと散々描いたからって言うけどさあ、見てみたいよね、その頃のふたりの作品!」

     息も絶え絶えになりながら、それでも喋り通して、そしてようやく目的の場所に辿り着く。まだ完成まで三分の一程度は残っているけど、十分全容がわかる程度には完成したそれは、今だって十分、素敵なもののはずだから──。

    「──え」

     ジャーン! なんて、大げさな効果音を口走ろうとした唇が、そのまま止まる。鮮やかでカラフルな、ポップでキュートなグラフィティ。
     そんなものは、どこにもなかった。

    『easy Rはマガイモノ』
    『ニセモノ! ニセモノ! ニセモノ!!』
    『男の敵! 女どもの犬! 死ね!』
    『廃棄処分ケッテー!』
    『クローンの分際で人間様にエラそうにすんな!!』
    『死ね死ね死ね死ね死ね死ね』

     乱数と一郎が描いたグラフィティを塗りつぶすように、壁一面をそんな見るに耐えない罵詈雑言が覆っている。罵詈雑言の上に誹謗中傷がのって、その更に上を冷嘲熱罵が踊っている。どれもろくに読めないほど歪に歪んでいるのに、そこに込められた悪意だけは、嫌というほど伝わってくる。
     ホテルに火をつけられたと聞いた時も思った。どうして人間は、ここまで残酷になれるのだろう。いや、中王区で犬以下の扱いを受けていた時だって、ずっとずっと思っていた。どうしてあの生き物は、人間ではないと判断したものに対して、どうしてこんな酷いことができるのだろう。

    「……飴村くん、やはり」

     空港からここまで、乱数の頭部を治療する為のものを買いたいと言った時以外ずっと黙り続けていた寂雷が、緩慢な動作で壁を見回し、口を開く。そんな、憐れむような声を出すな。痛ましいものを見るような目をするな。やはり、なんだろう。こんなことはやめよう? やっぱりどうにもならない?
     お願いだから、おまえがそんなことを言わないで。

    「うるさい」
    「しかし、これは」
    「うるさいうるさいうるさい!」

     こんなの、なんてことない。これくらい、なんてことないから! そう叫んだ乱数は、再び寂雷の手を握る。

    「寂雷」

     「ドンキ行こ!!」と、そう口にした乱数に、寂雷は理解不能とでも言いたげな困惑した顔をしていた。




     朝からの動きっぱなし喋りっぱなしですでに乱数の体力も限界に近かったけれど、それでも足だけは動いた。最寄りのドンキの扉を潜るまで「どんき? 鈍器? 風車と戦った?」みたいな顔をしていた寂雷の様子を楽しむ余裕は、残念ながらなかったけれど。
     炎天下の下厚手のウィンドブレーカーを着たまま走り通しだったから、空調の効いた店内に入るなり眩暈がした。寂雷の気遣わしげな声が聞こえたがそれも無視して、乱数は一直線に染料のコーナーに走る。そしてそこでスプレー缶をあるだけカゴに入れた。でも、これじゃ足りない。
     そのままもう一軒。もう一軒と、ドンキを巡り店にあるだけのスプレー缶を買い占める。さすがにそれを持つことは乱数にはできなくて、寂雷に大半を持ってもらうことになった。乱数に片手を繋げたまま、片手だけで総重量何キロの荷物を持つことができる無尽蔵の体力はどこに隠しているのだろう。

     満足のいく量を買い込む頃には、すでに日が沈み始めていた。少しずつ藍に染まる空の下を進む乱数は汗まみれでヘロヘロで、足だって引きずるよう。これじゃあ寂雷の手を引いているのか辛うじてそれに縋っているのかもわからないような状態のまま、それでも亀の歩みでも歩き続けた。
     もうやめましょうとか、帰りましょうとか、そんな消極的なことばかりを言っていた寂雷も、ここまで来ると何も言わなかった。ただせめて水分はちゃんと取って、体を冷やしてくださいといつの間にか購入していたらしいスポーツドリンクを渡すくらい。
     ふと通りすがりの電光掲示板を見上げると、そこには折りよく『20:58』の文字。これも先程買ったばかりの携帯ラジオに電池をいれ電源をオンにすれば、耳に馴染んだ声があまりにいつも通りの音で響き出す。

    『皆さんこんばんは、【夢野幻太郎と歩く宇宙の旅】も、とうとうこれが最終回となりました。この五週様々なことがあり、結局映画の封切りも延期となってしまい楽しみにしてくださっていた皆々様には大変ご迷惑をお掛けしていることと存じます。そして前回から聴取率が跳ね上がったというこのラジオも、おそらく様々な思惑を持った方々がお聞きしてくださっていることでしょう。しかし今日は部屋にこもりこんなものを聞いている場合ではございません。何せ今宵はそう、かの有名なペルセウス座流星群の夜なのですから』

     そうしてようやく、再びグラフィティの前に辿り着いた。街頭で照らされたそこの相変わらず酷い落書きはそのまま、乱数達を嘲る様に迎え入れる。それを見た寂雷は何度見ても見飽きないようで痛ましい顔をして、もうすっかり飽きてしまった乱数はそんなものには目もくれずに満杯のビニル袋からひたすら黒のスプレー缶を取り出す。

    『さあ皆様、ラジオを切って、もしくはラジオを手にしたまま外に、ベランダに出て夜空を見上げてみましょう。幸運にも今宵は月のない快晴の夜。流星群を見るにはこの上ない絶好の日和。このさいわいはまるで神様に祝福でもされているよう。さて、貴方は今宵の星に、どのような願いを託しますか? お嫌でなければ是非この私に教えてください。貴方方の願い事は、いったいなんでしょう?』

     そしてそのスプレーを、勢いよく壁に噴射した。噴射して、噴射して、噴射して。噴射し続けている内にその缶は空になる。スコ、スコと気のない音を立て始めたそれをポイと辺りに投げ捨てると、乱数はすぐさま次の缶に手を伸ばした。そしてまたそれも同じように、ひたすら壁に吹き付ける。罵詈雑言が、誹謗中傷が、冷嘲熱罵が。皆等しく黒の色彩の下に覆い隠されていく。
     スプレー缶が空になったら、またその次。それも空になったら、更にまた次。おかわりならいくらでもある。この数時間、どれだけの量を買い込んだと思っている。

    『……さて皆様、外に出ましたか? 嗚呼、今宵は本当に東京にはあるまじきほどに美しい星空ですね。ええ、もちろん私こと夢野幻太郎も当然ながらこの収録を屋外で行なっております。え? どうせ嘘だろうって? ふふ、それはどうでしょう。まあ、細かいことはいいじゃありませんか。大事なのはただ今私達が、同じ星空の下にいる。ただそれだけです』

     そしてひたすら黒の飛沫を撒き散らしながら、昔のことを思い出す。

    『それではせっかくの流星群の夜というのに部屋に閉じこもってラジオを聴いている変わり者の為に。もしくは流星群のお供にこちらをお聞きくださっている方の為に。最終回となります今日は、星座のお話を致しましょう。星座といえば、皆様に最も馴染み深いのは星占いでも使用される黄道十二星座でしょう。牡羊座、牡牛座、双子座……今の季節貴方の星座をあの空に見つけることはできるでしょうか?』

     かつて乱数は、寂雷といれば最強だと、そう思っていたことがあった。中王区に手を出すなと念押しされていたチームに手を出してしまって、それでもその反逆を「なんとかなるだろう」で片付けた。あの時、乱数は寂雷といっしょならば、中王区だってなんだって怖くないなんて、そんなトチ狂ったことを思っていた。
     自分の身を危険に晒してでも乱数を守ろうとする寂雷の姿に、そんなトチ狂ったことを思ってしまった。

    『今現在の星座の起源となるものは、およそ今から5000年前のメソポタミア地方で、羊飼い達が夜空で星を辿り動物や英雄を描いたものだと言います。それがギリシャに伝わり、彼の地の詩人達がその絵と神話や伝説を結びつけ、今に伝わるような物語となったのです。5000年前! 気が遠くなる程遥か昔から、人々は夜空の点に線を描き、そこに意味を見出そうとしたのです』

     かつて乱数は、寂雷と一緒に地獄に堕ちてやろうと、そう思ったこともあった。第一回ディビジョン・ラップバトル初戦。シブヤVSシンジュクの試合前に、中王区によって渡された真性ヒプノシスマイク。それを使用し寂雷を洗脳しろと、そう命じられた。しかし真性ヒプノシスマイクを使用した者は確実に死に至る。どちらにしろ死ぬのなら、いっそ、と。そう思ったことがあった。

    『確かに、あの美しき綺羅星を見て物語を紡ぎたくなる気持ちは、文字書きの端くれとして大いに理解できます。ええ、本当に。しかし私は同じくらい、この地球に何十億と生きる人々に、物語を思うのです。ひとつひとつの点の煌めき、それを線で繋いだ時に描かれる絵図。そう、身も蓋もないことを言ってしまえば、空も地上も同じこと』

     どちらにしろトチ狂った末の錯覚のような思い込みで。今思えば本当に馬鹿馬鹿しくて笑ってしまうほどに仕方のない思考。
     けれど、それでも──そんな、最強のふたりなら、地獄でだって生きていけるなんて。そんな楽観を、人はなんて呼ぶのだろう。

    『さて、突然ですが私の次回作のお話を致しましょう。次回作は、とある秘密組織に造られたクローンの青年と、殺し屋だった過去を持つお医者様。そんなトリッキーで個性的な人生を歩んできたふたつの星のランデブーの物語。しかし皆様がご期待するような劇的なことは、残念ながら起こりません。だってこの物語は、彼らが宇宙に行かなかった。ただそれだけの物語なのですから』

     塗り潰して、染め上げて、埋め尽くして。右に左に、上に横に。縦横無尽に動き回りながら、乱数も語る。
     眩暈がして、ふらついて、今にも倒れてしまいそうになりながら。同じ言葉を、言い聞かせるように。寂雷に、自分に。

    「おまえも、僕も、宇宙には、行かなかったから……。この先も、この場所で、地べた這いつくばって泥だらけになって……それでも、ずっといっしょに生きていこうよ……。大丈夫。きっと、辛くて苦しいことも、たくさんあるけど。僕にはポッセが……おまえには、麻天狼や衢が、いるし。きっと、なんとかなるよ。僕とおまえで、なんとかしていこうよ……」

     もしかしたらこの先、また寂雷のことを大嫌いになる日が来るかもしれない。あの時おまえを引き止めなければよかったと、おまえなんか宇宙でもどこでも行ってしまえばいいと、そんなことを思う日が来るかもしれない。
     でも、だから何だと言うんだ。明日誰かのことを嫌いになったって、今ここにいて欲しいと思うのなら、手を握る理由には十分だろう。
     何より、たとえ銅像になったとしても、教科書や辞書に名前が載ったとしても、その名前を世界中の誰もが賞賛と共に思い出したとしても。それでも、今ここで生きていることに勝るものなどないと、乱数はそう思うから。

    「なんとかなる。なんとかなるよ……きっと、なんとかなるから」

     どれほどの悪意をぶつけられても、石を投げられても、死にたくなるほど苦しくても。
     それでも、ここで生きていこう。だって乱数も寂雷も、人間だから。人間は宇宙では生きられないから。宇宙では生きていけないことが、人間である証明だから。

     その時、乱数の横から手が伸びた。シューという音がして、見れば寂雷もスプレー缶を握り壁にペンキを吹き付けている。思わずまじまじとその様子を眺めてしまえば、視線に気付いたらしい寂雷が横目で乱数を見て、僅かに微笑む。その「仕方のない人だ」とでも言いたげな困り切った微笑みに、なんだか腹が立って、でも、嬉しくて。だからまた、乱数も黙々とスプレー缶を吹き付け続ける。

     そうだ。もう一度、穴じゃなくてドーナツを見よう。あんなに無理だと思った乱数の命だってどうにかなったし、修復不可能だと思った寂雷との仲だって、宇宙旅行を願う程度には歩み寄れたのだから。乱数がどうにもならないと、悲観的にそう俯いたことは、何だかんだ大抵のことがどうにかなっている。誰かが、どうにかしてくれている。



     それから数時間後、乱数と寂雷の眼前には、一面漆黒に染まった壁が広がっていた。乱数の好きなものも、嫌いなものも、全てを飲み込み包む込む、宇宙のような真っ黒いキャンパス。乱数の手持ちのスプレー缶の黒もだいたいが空になってしまっていて、残っているのはカラフルなものばかり。
     星の色は、案外色とりどりらしいから。温度が低いと赤に、温度が高いと青に。だったらきっと緑やピンクや黄色や紫色の星だってあってもいい。この夜空に何を、どんな星座を描くかは、乱数次第。




     頭上にどこまでも広がる満天の星空。その何処かで、確かに星が流れた。



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    hanihoney820

    DOODLE◇ ゲーム「8番出口」パロディ乱寂。盛大に本編のネタバレあり。大感謝参考様 Steam:8番出口 https://store.steampowered.com/app/2653790/
    ◆他も色々取り混ぜつつアニメ2期の乱寂のイメージ。北風と太陽を歌った先生に泥衣脱ぎ捨て、で応えるらむちゃんやばい
    ◇先生と空却くんの件は似たような、でもまったく同じではない何かが起きたかもしれないな〜みたいな世界観
    はち番出口で会いましょう。 乱数、『8番出口』というものを知っていますか。

     いえね、どうも最近流行りの都市伝説、といったもののようなのですが。所謂きさらぎ駅とか、異世界エレベーターとか、そんな類の。

     まあ、怖い話では、あるのですかね。いえいえ、そう怯えずとも、そこまで恐ろしいものでもないのですよ。
     ただある日、突然『8番出口』という場所に迷い込んでしまうことがあるのだそうです。それは駅の地下通路によく似ているのですが、同じ光景が無限に続いており、特別な手順を踏まないと外に出ることができないそうです。

     特別な手順が何かって? それはですね──。




    * * *




     気がつくと、異様に白い空間にいた。
     駅の地下通路、のような場所だろうか。全面がタイル張りの白い壁で覆われていて、右側には関係者用の出入口らしきものが三つに、通気口がふたつ、奥の方には消火栓。左側にはなんの変哲もないポスターが、一、二、三──全部で六枚。天井には白々煌々とした蛍光灯が一定間隔で並び、通路の中央あたりには黄色い「↑出口8」と描かれた横看板が吊られている。隅の方にぽつんとある出っ張りは、監視カメラか何かだろうか。足元から通路の奥まで続く黄色い太線は点字ブロックらしく、微妙に立ち心地の悪さを感じて乱数は足をのける。
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