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    nenedesu333

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    nenedesu333

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    水族館デートちはあんです
    このあと加筆予定です

    宙吊り天使 杏寿は第二外国語の授業が終わり、あたまを軽く振った。複数の学科が大教室を合同で利用する基礎教養は、さしもの杏寿も六月のだるい空気に当事者意識がうすれてしまう。酸素不足のかるい人酔いのまま、授業終了の合図で三々五々にながれていく人波をぼんやり眺めていた。
     次は昼休憩を挟むので、何人かは席をあたためたままだ。午後いっぱいここは空き教室の予定なので、ごった返す廊下やホールを避けたい顔ぶれになる。杏寿もルーズリーフの上に残ったじぶんの筆跡を見返し、課題のプリントを埋めていた。
     大学に持ち上がった杏寿は自宅から通学している。電車とバスを乗り継ぐ通学距離は在寮していた三年間を思えば、はじめは長く感じた。しかし県境を越えてくる学生に比べれば近所も同然の距離だと指摘される。
     十五分ほど経つと、広い教室からは誰もいなくなっていた。
    「――斑鳩」
    「多岐瀬くん」
     うりざね顔に、通った鼻すじ。長いまつげと、抜けるような色の白さが中世の貴族めいている。響のすがたに杏寿は軽く手を上げてくちもとをゆるめた。
    「すみません、わざわざ来ていただいて。重くなかったですか?」杏寿は所用をかるくすまそうと思ったのだが、ひさしぶりに顔を合わせるからゆっくり話ができるところがいい、と水を向けてきたのは響の方だった。
    「いや、俺こそ。長いあいだ悪かった。まさか版違いとは」
     注文した仏語の辞書がちょうど改訂の時期で、書店が倉庫からだいぶ以前の版の辞書を響に渡してしまったのだ。書籍の交換は店を通して行われるため、先に返本しなくてはならず、悪いことに授業が開始されても実物が届かなかった。くわえて図書館も辞書は貸し出しができないことになっている。
    「聞いたときはおどろきました、たいへんでしたね」
    「純にも言われたけど、せっかくなら大学で電子辞書に切り替えておけばよかったと思うよ。紙の本の方が俺は頭に入る気がして」
    「ああ、わかります」杏寿もめくったり書き込んだりできる紙の辞書の方が手に馴染む。
    「斑鳩はまさにそういうタイプだと思った――てきとうに見繕ってきたけど、食べられないものはない?」
     ハムと卵、それからツナとキュウリのミックスサンドにサラダがふたつ揃っている。杏寿はあわてて財布からなるべくきれいな千円札を取り出した。
    「ありがとうございます。これで足りますか」
    「辞書の礼のつもりだから受け取ってくれないと困る」響は笑ってサンドイッチとサラダを杏寿の方に寄せた。三角柱の底を封印しているテープを剥がして中身を取り出す。「斑鳩は変わらないな……榊とは――うまくやれてるの?」
     知られていることはわかっているのに、杏寿はすこしのあいだ黙り込む。机の上を片付けて、サンドイッチのフィルムをはがしながら話したいことをあたまの中でまとめようとした。
    「あ、あの——その、それなりに……たのしいおつきあいを、しています」たどたどしいわりに短い返事だった。
     つきあい、交際。知陽が告白をして、杏寿がそれを受けた。
     学内の知り合いから友人に繰り上がるまえ、つまりは知陽のことをよく理解しないうちに杏寿の立ち位置はいつのまにか恋人に振り分けられてしまった。
     そんなじぶんよりも響は知陽のことをふかいところで知っている。そういう相手にじぶんの感じている気持ちを説明することは、むず痒くてたやすいことではない。
    「そう? 言葉どおりには受け取れない感じだけど」響は口端でくすりと笑った。「俺なんかは、いまだに吊り橋効果なんじゃないかって思っているよ。ほら、不安とか緊張で宙ぶらりんにされているドキドキを恋と勘違いする——みたいな」
    「そ、そんなことはない……ですよ」あまり説得力を持たせられない声量で杏寿は応える。
     ……ふたりきりのとき、手を繋いでくれるときの知陽の触れ方がどんなふうにやさしいか。名前を呼ぶささやきが、とくべつな余韻で耳に残るか。でも、そういう種類の満たされ方を伝える語彙が杏寿にはない。それがこの空き教室で出していい話題なのかも、わからない。
    「……あっ」誰よりも器用なはずのゆびさきは、サンドイッチからフィルムを剥がそうととして、具にたっぷり入ったマヨネーズで汚れてしまった。
    「どうぞ」
     それをはじめからわかっていたかのように響は笑ってウェットティッシュを差し出す。
    「ありがとうございます……」
    「どういたしまして――高校時代に合同カリキュラムがあったの覚えてる? あの時俺は斑鳩は榊と相性がいいんじゃないかっていちど思って」
     技術が巧みなわりに自我を出すのがうまくない杏寿。アーティストの個性を引き出しつつ、リードは譲らない知陽。特徴の凸凹だけなら上手にかみあうように響には見えた。……実際には消極的でじぶんの良さを伝えられない杏寿、それに苛立ってコミュニケーションコストを極限までそぎ落とす知陽、という最悪の図式が生じてしまった。三年生同士でなければ――そして杏寿の力量が知陽の心をとらえられなければ――たぶんジェネラルズではなく教員が介入する必要があっただろう。
    「……それはわれながらひどい机上の空論だったなと感じていたんだけど」カップに入ったサラダをプラスチックのフォークで刺した。「いまは斑鳩は榊とうまくいっていると思っているなら、それはいいことだね」
    「あ、あの……」杏寿はすこしくちごもった。それから、サンドイッチの頂点をちいさくかじる。
    「ん?」
    「榊くんからなにか、聞いていますか? 僕のこと」
    「ほんとうのところは、付き合い始めたというくらいしか知らないし、あいつからもなにも――」響はペットボトルの茶にくちをつけた。「たしか美術館に吹きガラス見に行ったとか、くらいか……? いっしょにいると楽しいとのろけられたな」
     杏寿が聞き出したかったのはおそらくそんな話題ではなかったのだろう。しかし肩あたりに走っていた緊張が、響の目に見えて融けていくのを感じた。
    「すみません、なんか妙な騒ぎたてをしてしまって」
    「情報が少ないまま仮説を立脚すると、頭の中で勝手にまちがった正解をみちびきだす。やっかいなことに、新しい情報が入っても受け付けなくなる。人間の脳のしくみがそうなってる」響は語調を落とした、やさしい声色だ。「知りたいことがあるなら聞いてほしい。俺は話せないことなら話さないだけだから」
    「ここで出しては、たぶん、いけない話題なんですけど」
    「榊とは別のグレーダーと組むとか?」杏寿がほころぶ気配があった。響は冗談のつもりはなかったのだが。あまりアーティストには、グレーダーのあいだに横たわる遺恨は理解されない。
     響はすこし遠く感じた。杏寿の無垢なさまは、狭い世界の顔見知り同士が、お互いの腹をさぐりあう技法から無関係でいる証左だ。
    「それで……」杏寿は視線を左右にさまよわせた。ドアは閉まっているし、誰もいない。
    「誰もいないから、平気だよ」
     響は一瞬の間に想像した。仲良くしているようだけれど、恋人はやめたいとか。きびしい束縛があるとか、喧嘩をしたとか……。良い答えを持っているとは限らないが、力添えくらいはできるだろうか。
     杏寿は高校時代は学内で息をひそめているタイプの生徒で、響の目に留まったのは偶然だった。なんとなく世話を焼きたくなるのは、優等生のわりにむくわれない素顔を知ってしまったから。とりあえずうまくやれる響や伊織とは、ちょうど対極にいる。
    「あ、あの……榊くんが」杏寿はふかく息を吸った。「その、手をつないだりキスはするんですけど……それいじょうは、してこなくて。半年、ちかく」
    「ん、あ、ああ……」響は杏寿が顔を赤らめている様子にとまどった。
    「なにをかんがえているのか、わからなくて。ふつうはそうじゃないみたいで――」ふつう、そんな平均値も中央値もごちゃまぜにした独自の尺度を持ち出せば杏寿の不安は深まるばかりに決まっている。
    「……だいじにしてるんじゃないか? 斑鳩のこと」頭の中から適当な一般論を引き出したが、こんどは響の声から説得力を持つにふさわしいちからが消えていく。
    「そ、そうなんでしょうか……さ、さそったりも――したんですけど、なにもなくて――」動いてしまえば杏寿の舌はなめらかだった。小旅行で温泉の計画を立てたのに、一泊二日はおいしいものを食べて広い風呂につかって健康になっただけで終わった。ひとり暮らしをはじめた知陽の家にお祝いにかこつけて泊まりに行ったのに、べつべつの布団に入った。
     しかし杏寿側も直球勝負というわけではないらしい。——本人のキャラクターから強くは出られないだろうが。
     それでも旅行やら泊まりやら、お膳立てをひとりでしているのだから、ずいぶん神経は強くなったと思う。
     聞いているだけなら、ステアケーサー候補になった優秀なアーティストの懊悩というより、女子大生の恋の相談という水準の話だ。
     ……つまり、等身大のくるしみではある。
    「榊はいやになったら誰ともつるまないし、礼儀は通すけどじぶんから誘っても気が乗らないと反故にする。変わったやつだけど、うそはつかないよ」
    「そ、そうです……ね」
    「半年ってたしかに、その……長いね。……残酷ないいかたをするけど、榊は斑鳩に興味がなくなったらすぐにわかれを切り出すよ。誰が申し込んだとかあまり関係なく、ね」
     それが、杏寿のなかにある知陽のすがたと矛盾はなかったらしい。いつもふたりのあいだにある、水を打ったような静けさが戻ってきた。
    「なんだか、その……落ち着きました」
    「こんなことで解決できたかわからないけど。そうだ、これを渡そうと思って――こういうのって興味ある?」
     響が渡したのは白い封筒に入ったチケットだった。有名なランドマークのそばにある水族館は、杏寿もなまえは知っている。
    「あ、気になってました。とてもうれしいです……」
     利便性が高い都市型水族館だがスケールが大きく、円柱型の水槽をLEDライトで幻想的に演出したクラゲの展示が目玉――とチケットに添えられた二つ折りのパンフレットの説明を杏寿は目で追った。
    「じつは純から渡すように頼まれたんだ。高等部の勉強みてくれてるんだろ? 順位が上がったって喜んでいた。ありがとう」
    「都築くんはべつに、僕が必要なレベルではなかったですけど――」純は要領がよく、飲み込みが早い。なのでこれはしんじつ謙遜ではない。しかし純が満足感を得られていたなら杏寿はよかった。試験はそういうメンタルの要素が左右することもよくある。
    「ペアチケットらしいから、榊と行けばいい。すこし肩の力を抜いて……」響はじぶんから笑ってしまった。「いや。経験のない人間に言われても、だな」
    「そんなこと――はい、そうしてみます」



     誰もいない家はがらんとしてひとの気配がない。帰宅した杏寿はかさばる荷物を自分の部屋に置いて、普段着に着替えた。それなら家族の自室以外はかるく共用スペースに掃除機をかける。
     父は出張、母は先にある親戚づきあいで帰りは深夜。理系の大学にいる年子の兄は終日実験。こういうエアポケットはたまにあり、そういう日は杏寿が家事や中学生の弟の面倒を見ることが誰ともいわず決まっていた。年の離れた弟は杏寿になついており、杏寿も小さいころから弟をかわいがっていた。すこしだけ弟は純に似ている。
     乾燥機から取り出したタオルや衣類を畳んで、風呂を洗う。さすがに半日にも満たない家事の量は暇つぶしにするにはたかがしれていた。
     杏寿は冷蔵庫を覗く。たまごと冷凍してある飯があったので、使い残しの鶏むねとはんぶん残ったたまねぎでオムライスが作れそうだった。野菜はほうれん草を茹でて、コンソメに入れるだけにする。いちおうメニューの一報を弟にいれながら、キッチンの壁にもたれて杏寿は向かいの壁に貼られている家族写真をながめた。
     結婚、それから出産、卒業、入学、家族旅行、卒業、入学、出産――。
     杏寿の両親は見合いで出会った。その当時でもめずらしく、いちどの顔合わせで結婚したと親戚からは聞いている。
     学生時代に身よりを亡くし、早く結婚がしたかった母。多忙だったが「しっかりした」女性がほしかった父。ふたりがなにかいさかいを杏寿や兄弟が気づけるような場面で起こしたことはないし、いのちに関わりそうな危険な場面以外では声を荒げたこともない。
     でも杏寿の中に流れる赤い血に熱が足りないのは――ふたりのせいではないかと思う。
     知陽が求めているなにかが、きっと杏寿には満ちたあとの月のように欠けている。
     塾にいる弟は休憩時間に入ったらしく、返事がかえってくる。弟が通うのは中高一貫の進学校で、クラスにも部活でも仲のいい友だちが多いと母が話していた。非常識な時間でなければ、こっそりあそんで帰ってきてもいいよと付け足そうとしてやめる。これはさすがにじぶんの領分ではない。
     かわりに、知陽とのチャット画面に例の水族館のことを杏寿は連絡した。都築くんからペアチケットをもらいました。今度の金曜日、授業のあとに行きませんか——? ホームページのURLを貼り付けて、杏寿は既読がついたからたしかめず、わざと画面を落とした。
     弟はあと一時間ほどすれば帰宅するので、杏寿はフックにかけてある母のエプロンを頭からかぶり、調理をはじめた。スマートフォンはエプロンのポケットに忍ばせる。
     たまねぎとにんじんをみじんぎりにして、キッチンばさみで適当に鶏肉を細かく切る。ほうれん草は茹でてざるにあけて、鍋に顆粒のコンソメを適量入れた。電子レンジで冷凍した飯をあたためる。
     ……両親は、どうしても女の子が諦めきれなかったらしい。
     幼稚園に通っていたとき、年長の女子たちから男子が仲間からはずれされていくなかで、杏寿は女の子のあそびにまざることをゆるされていた。母から教わってピアノが弾けたからかもしれないし、他の男子とくらべるとおままごとや人形遊びもきらいではなかったせいもあるだろう。単純に「杏寿」という名前の甘い響きかもしれない。
     フライパンに油を引いて肉を炒め、野菜を加えた。先にケチャップとウスターソースを入れて、火が通ったら飯を落とした。へらで解凍したばかりの湿ったかたまりを適当に崩す。
     杏寿が小学校に上がって母は念願かなって妊娠したが、中期の超音波検査であっさり胎児は男だと明らかになった。
     ——成長した弟はおとなしい兄ふたりとは大きくちがう子どもだった。おおきい犬を飼いたがり、いたずらをくりかえす。雨が降っても外に遊びに行きたがった。さいわい両親は、無邪気な弟に手こずらされるのが心底たのしいようだった。杏寿はもちろん、年子の兄も、口数は少ないが自転車の練習や自由研究を積極的に手伝っていた。
     チキンライスが完成した。フライパンを洗ってオムレツ部分をつくる。冷蔵庫からたまごをふたつと牛乳をとりだした。銀色のボウルはいちばんちいさいサイズだ。
     ……でも杏寿は、病院から帰ってきた母と父のあいだに流れる、あのしらじらしい空気があたまから離れない。期待を裏切られた時のあきらかな失望。胎児の弟は、へその緒で母の腹に宙吊りにされている。まだ生まれてもいないのに、祝著されるべき両親からがっかりされてしまうなんて!
     響はああ言ったが、知陽が杏寿といまもつきあい続けているのは、ほんとうにいっときの熱が冷めてあとの情けではないのか?
     だってじぶんが弟をかわいいと思う気持ちに、ほんのすこしでも同情が入っていないとはとても——。
    「あ」
     杏寿がひびに指を入れたたまごは、ちからを加えようとしたのに殻ごと妙なかたちに割れてしまった。どろどろの白身が、手のひらを汚していく。黄身をつつんでいた膜もやぶけて、散りばめられたカルシウムのかけらが浮いている。ボウルの底にきたないシミができていた。
    「……もうこれは」使えない。新しいのを出さないと。杏寿はためいきをついた。たまごの値段が上がったと、母が愚痴をこぼしていたのに。今日はよくよく手が汚れる日だ。
     杏寿はほんとうは焦りの原因を知っている。
     じぶんと知陽のあいだには、手をつないだ先にくちづけがある。そしてすごろくのマスように、その向こうを線でつながれた先には性交がある。つきあったばかりのころは、そう信じていた。
     その「あがり」はたぶん結婚と出産で——杏寿にはその道筋をトレースすることは生涯できない。なのに、じぶんの中にある矩にふたりの関係をねじこんでいる。……杏寿はそれしか知らないから。
     べつに知陽が体の関係を求めなくても、そういうかたちの恋愛はたぶんある。けれど杏寿は知陽がほしい。通俗的な、よくあるの意味で。どうして? どんなにさかしげに表面を取り繕った白い殻に包まれていても、杏寿の中身は肉欲のあるふつうの男だから。……あまりにたいくつな答えだった。
     衝動的に杏寿は知陽との別れを思った。
     こんなつらい思いをするなら、すべてをなくしてしまいたい。……じぶんに心を返してほしい。
     杏寿の不安が伝わったのか、エプロンの中でじぶんに触れるようにスマートフォンが催促のように振動する。杏寿は無意識にそれを掴んで、汚れたままの手で液晶画面を操作する。
     通知は知陽から。
     ——いいね、週末に楽しみができた。明日は杏寿に会いたい。
     杏寿の無表情なくちびるの上下にちからが入る。半透明の粘液に包まれた手は「僕もです」と返信をした。
     

     金曜日は天気に恵まれた。日差しはあるが朝の雨のせいかそこまでの気温ではない。駅じたいは快速が停止しないのですこし不便だが、そのかわり最寄り駅から歩いてすぐに館内に入れた。
     知陽は黒いシャツに細身のパンツだ。全体的に線が細く見えるのに、袖から覗く白い腕は筋肉質でしまっている。
    「……よかったです、そこまで混んでなくて」
    「平日だしね、夏休みの動物園はヤバかったけど」
    「……あれはたいへんでしたね」杏寿はくちもとをゆるめる。
     ヘビを首に巻かれた思い出の方がショッキングだったのだが、たしかに知陽と思いつきで入った夏休みの動物園は肩が触れ合うくらい混んでいた。
     子ども連れもちらほら見かけるが、カップルもそれなりに目につく。
     ゲートでチケットを見せて、エントランスから先にすすむ。部屋の内部は照明が落とされていて、水槽が天井からのよわいスポットで照らされていた。
    「けっこう暗いですね。足元だいじょうぶですか?」
    「おじいちゃんじゃないんだから——」知陽はすこし苦い笑いを見せた。「杏寿、そこに段差あるから気をつけて。……これは熱帯魚だね」
     水槽にはサンゴが群生していた。華やかな色合いは花のように見えるのに、アクリルごしだと水底に沈んだ森のようにうらさびしい。その上をレモンイエローやあざやかなピンクの熱帯魚が回遊している。レモンチョウチョウオと、ハナゴイというらしい。沖縄の海から寄贈されたとキャプションがついていた。この水槽は魚を見るためというより、環境保護のためにサンゴを育てるための設備だと書いてあった。
     水中のゆらめきを杏寿は絵のように眺めた。そのとき杏寿は熱帯魚であり、サンゴであり、ひとつの波になる。ひとときだけ、じぶんを縛る重力から解放される。……ふと視線に気づく。なめらかなアクリルの表面に映った知陽は、いつのまにか杏寿を見ていた。
    「暗いのは、水槽が反射しないようにしてるんだよ。人間がいるのをわかりにくくしてる」
     よくわからないでっかい生き物がじぶんたちのそばにうようよしてるのがわかったら、中にいる魚にとってストレスでしょ。知陽の口調は友だちのことを話しているようにしたしみがあった。
    「あ、たしかに——榊くん、くわしいんですね」白い顔は水槽ごしの光に照らされて、色素のうすい知陽の目を透き通らせている。
    「父親の専門が海洋生物なんだけど、小学校にあがるまではけっこう親の趣味押し付けられてて」
    「え――そうだったんですか」杏寿はたぶんはじめて知陽の口から父親の話を聞いた。「榊くんがお父さんの話をするの、めずらしいです」誰かの趣味を押しつけられている知陽、というのがうまく杏寿は想像できない。子どものあいだは両親の影響があるのは当たり前のことなのに。
    「俺も時々存在忘れてる。たまにしか帰ってこないしね」知陽はすこし肩をすくめた。ただ、表情はあかるく、親子仲は悪くなさそうだった。「残念ながら俺はぜんぜん興味がなくてさ。でも、水族館だけは展示にくふうがわかって、わりと好きだったな」
    「榊くんは院とかは……」一年の前期だが、目指す人間にはそこまでせっかちな問いではない。
     動物園でも知陽は家禽のたぐいだけでなく、昆虫の展示までたのしめていた。ひとと違うことをしたがったり、好きなものを突き詰める性質は学者向きに杏寿は思えた。
    「向いいるし、好みだとは思うけど、まぁ……ないんじゃないかな。多岐瀬は院には行くっていってたけど」
    「あ、あの……僕が、お金を稼げるようになれば……榊くんのキャリアも、手助けできること、あるかと思います」
    「へぇ、杏寿が養ってくれるんだ」
    「それは、……そう、ですよ」灰島伊織とはいかないが、杏寿は大学に入ってからそれなりにグレーダー専攻から誘いがある。学生のサラリーはもちろん、雀の涙だが。
    「杏寿が稼げるようになるより、俺がその辺で拾ったボールペンを一万円で売りつける方が早そうだな。俺、そういう知恵つけるのは得意な方だから」
    「……悪いことは、だめですからね」
    「ああ、ごめんごめん」いつかもこんな話をした。杏寿は笑う。
     サンゴのかげにいた乾電池くらいの熱帯魚が二匹、低い位置を泳いでいる。アルビノらしく全身は乳白色からピンクが透けて見えていた。
    「あれ、グラミーだね」
    「あ、あの……キスしてる、みたいな魚ですか」とがらせて突き出したくちびるを、魚どうしはちから強くくっつけあっている。ただ、とうぜん人間の文化を熱帯魚が踏襲するわけではない。なにかの習性だろう。
    「——ああ、あれはねオス同士でケンカしてる。口の中の餌を奪おうとしてるんだ」知陽は淡々と続けた。「育てやすいし、気性は荒いけど水質が多少濁ってても病気に強い。なによりあれがひと目に映えるじゃない? けっこうどこでも人気なんだよね」
    「……そうですか」
     たぶんこの魚の祖先は海中で餌を探すよりも、同族の餌を奪った方が効率がよかったのだ。胸ぐらをつかみあう怒りの表象は、人間の視点では求愛のしぐさになる。そのすり替えを見世物に使われることを、感傷的にかわいそうと思うおさなさは杏寿にはもうない。
     ただ、杏寿はなにかを見落としている気分になった。とてもだいじなことで、頭のすみにはひっかかっているのに。……もうすこしすれば、それがわかる気がするけれど――。
    「杏寿、そろそろ次行こうか」
     知陽の言葉に杏寿は頷いた。

     目玉だけあって、クラゲの展示は派手だった。部屋は柱がいくつも貫いており、円柱型の水槽の中をひらひらとクラゲが触手をのばしてたゆたっている。群になったり――はぐれたり。一定間隔でLEDは色を変え、いまはネオンピンクの光が水の屈折を受けながら輝いている。暗やみになれてきた目には頼りがいのある明るさだった。とはいえ部屋全体は薄暮ともいえないほど暗い。
    「まぶしくないですかね、クラゲ」杏寿がくびをかしぐと、知陽は冗談を耳打ちされたように笑った。
    「だいじょうぶ、クラゲの目は明るいかくらいか程度しかわからないらしいから」
     傘頂に花に似た模様があるのがミズクラゲ。糸のように触手が細く、透き通っているのがギヤマンクラゲ。カリフラワーのような口腕があるのがタコクラゲ――知陽の説明をしながら進んでいく。以前の動物園と構図が逆転している。
    「ちいさいころ、じつはひそかにクラゲって天使みたいだと思ってたんだけど」
    「え、天使――ですか?」杏寿の表情の変化に、知陽は眉を器用に上げた。光の色が変わる。冷蔵庫の中を覗き込んだようなつめたい水色だった。
    「杏寿、笑いすぎ」
    「榊くんは想像力のある子どもだったんですね、ごめんなさい」杏寿は知陽に肘でつつかれて笑い声をひそめた。だが、いわれてみればなんとなく『足まで届く衣をまとい、胸に金の帯を締め。雪のように白い』西洋画の天使にシルエットがかさなる部分はある。
    「俺だって感受性ゆたかな時期があったんだよ。だからプランクトンの一種って知ったときはびっくりした」なのでクラゲに泳ぐ能力はない。浮遊しているだけで、水の入れ替えで浮いたり沈んだりするしくみになっているのだという。
    「クラゲって、たしか脳も心臓もないんですよね」むかし子ども向けの図鑑にそういう情報が載っていたことを杏寿は思い出した。
     雨傘に似たベニクラゲは、えんじのストライプに似た模様が走っている。それが詰まった柱は、水玉模様のグラフティに似ていた。
     ――じぶんでは泳ぐこともできず、つめたい体で海の中をさまよっている。
    「そうそう、だから子どもの時はちょっと怖かった。脳がないのに、心はあるのかって。そしたら何を考えているのかとか、いや、考えられないんだけど。痛いとか、苦しいとか――もしあれば、かわいそうかなとか」
    「クラゲに心はありません」杏寿はきっぱりと言い切った。
     しばしふたりの間に沈黙が降りて、知陽がこちらを見た。なつかしい、睨むような目つき。杏寿のことを異物のように扱う、あの……。
    「……だから、かわいそうじゃないですよ。大丈夫」杏寿は急に水面から上がったように息がしやすくなる。「人間に苦しみが、心があるのは、原罪があるから――それ以外の生き物に、主は痛みも苦しみも与えてはいません」いたずらが成功した顔で杏寿ははにかんだ。
    「それキリスト教だっけ」
    「はい、じつは父は牧師で――大学で哲学を教えてるんです。専門はデカルトで、子どもの頃は教会によく連れて行かれました。今は、信仰は子どもの自由にまかされていますけど……」実際に兄も杏寿も洗礼は受けていない。
     多忙な牧師だった父には、誰よりも神の教えが身近にあるはずだった。それなのに白いたまごの殻の中には、赤子でさえ思い通りにならなければ祝福できない卑小な人間性がつまっている。母親も兄も、そしてたぶん弟でさえ人間である限りそれからは逃れられなくて――。
     なによりも耐えがたいのは、杏寿はこの一瞬でさえ知陽を求めていることだった。
     なぜ両親は、じぶんの子どもにこんな名前をつけたのだろう。人間は、たとえ宙づりにされても空は飛べない。天使になれるはずがない。
     杏寿の頬は、場違いにはなやかなむらさき色で照らされた。クラゲはアクリルで仕切られた細長い柱の中で、じぶんのことを心のない天使のように見下ろしている。
     ……苦しみも、痛みもない場所は、恋をしているかぎり、この地上のどこにもない。
     ねぇ榊くん、どうして触れてくれないんですか?
     僕はきっと榊くんが求めるなら、なんでも応えてみせるのに。
     杏寿の顔に乗った笑みは、ふたが開いた葛藤にゆらいで蝋燭の炎のように消え失せそうになる。
    「あ、ごめんなさい。ついみとれてしまって——」
    「ほんとだ、けっこう冷えてるね」
     冷房で冷え切っていたはずの手が、やわらかい温度を感じる。
    「あ、あの……」いっしゅん肌のぬくもりをたしかめたはずの知陽の手は、なぜかまだ離れない。
     ……杏寿はあわてて視線を周囲にめぐらせた。よく見ると——くらがりのせいか、だれも杏寿たちを見ていない。とはいえ、ふたりきりでもない。
     手を握っているだけだ。子どもだってする。でもはだかで往来を歩いているように、杏寿の心臓が胸の奥で早鐘を打つ。耳の裏がごうごう音を立てて鳴っていた。
     たぶん、今しかない。
    「……きょう、榊くんの部屋に行っても……いいですか?」知陽の手をぎゅっと握り返す。杏寿はふるえる声でそっと知陽だけに聞こえるように耳打ちした。
    「せ、セックスがしたいので——」
     


     杏寿は虫歯がない。母の指導がきびしくて甘いものはあまり与えられなかったし、かなり大きくなっても母親はみがきのこしがないかチェックをされる。定期検診もまめに連れて行かれていた。親知らずが生えてくる兆候もなかった。
     だから疼痛のある施術や、麻酔の経験はない。それでもあのチェアユニットに囲まれて、背もたれを倒されると緊張する。消毒液のにおいと、どこからか聞こえるドリルの回転音。ためらいなく口の中に指を入れられる、あの感じ。
     あれが、似ている——今の状況に。
     杏寿は知陽のベッドに寝転んでいた。
    「で、杏寿は脱がないの?」
    「え……えと、下だけで済むと思って——」正確にいえば杏寿は下も脱いでいない。
     困ったような笑みが整った口元をゆがめた。「杏寿、もしかして怖い?」杏寿はしばらく黙ってから、ちいさくうなずいた。
    「わかった、じゃあ約束しよう。杏寿が……なんだろう。——『やめて』って言ったら聞くよ。なんか歯医者みたいだね」
     偶然とはいえ思考が一致して、杏寿は笑う。
    「外していい?」
    「あ、はい。じぶんで」
    「やらせて、こういうの楽しい」下から着ているシャツのボタンを外す音がぷちぷちと聞こえる。
    「き、キス……していいですか?」
    「どうぞ」杏寿は知陽のくちびるの上に、へたくそにくちびるを重ねる。胸元をさらさらの手のひらが包んだ。それは手を握るとか、頭を撫でる延長線にある動きだ。それなのに杏寿の肌の奥は、よくないざわめきをくちづけから目覚めさせている。
     くちびるを離した知陽は、すこし笑った。杏寿はくちのなかで奥歯をくいしめてから、シャツの裾を握りしめる。
    「杏寿のここ、あいかわらず引っ込んでるんだね」
     からかうような口調に杏寿の頬は瞬間真っ赤に燃える。物心ついたとき、からだのしくみがひとと違うことは気づいていた。
     杏寿の胸は、魚のくちびるのような乳暈の中に切先が沈み込んでいる。
    「……そんなこと、いちいち言わなくていいんですよ」杏寿はうらみがましい顔で睨んだ。でも『やめて』は出てこなかった。
    「温泉で見てたから知ってるけど、触らせてもらうのははじめてだから。触っていいよね?」杏寿はなにも言わない。それが答えになる。
     知陽の口は杏寿のそれに果物のようにかぶりつく。細くてなめらかな髪の感触が、肌の上にやわらかく広がった。
    「あ、っ、ぅ——あ」胸の奥のほう、縮こまっていた小ぶりなそれを吸い上げられる。しんじつ、親にもきょうだいにもさわられたことのない場所をはじめて暴きたてられて、杏寿は生まれたばかりのように声をあげられずにはいられなかった。
    「杏寿ってけっこう大きい声出るんだね」
    「あ、そんなこと……っ、ふ、ぅ」知陽のがもう片方の胸を親指と人差し指で輪を作り、顔を出しているそれをつまむ。
    「胸弱いんだ。もう勃ってる」知陽は膝で杏寿のまたぐらを刺激した。
    「さ、榊くんは」杏寿はふるえる声を飲み下した。「さ、さわらなくて……いいんですか? ……むね、とか。僕も——」
    「遠慮しとく。杏寿が気持ちよさそうな顔見てるほうが楽しい。ほら、脱いで」
    「あ、あの」杏寿がはじらいだけではなく、不満そうに口ごもった。
    「ん、……なに? 杏寿」
    「……脱がせてくれないんですか?」知陽は思わず口をおさえて声をあげてしまった。


     
     
    「——感心しないな」
    「ん……桐乃江、なんかあった?」知陽は肩をすくめた。
     グレーダー専攻の講義で、複数人のグループで展示内容を立案する。今回はパーセプションアートと絵画、同時展示の例題だった。
     麻秀はパーセプションラボラトリーに研究生という立場ながら、もう籍を置いている。知陽が気づかないような粗があったのか——。発展性に影響するものはグループ全体の評価にも関わる。
    「違う、斑鳩杏寿のことだ」
    「あ——ああ、杏寿になんかあった?」知陽は首をかるくかしいだ。いわゆる『優等生』同士に接点があってもおかしくはないが、知陽が知れる範囲ではこの組み合わせは無風だ。
    「貴様の付き合いかたは不適切だ」麻秀は余計なことばを削いで伝えた。「おたがいに不幸になる」
    「へぇ、桐乃江ってひとの恋愛に口出してくるタイプなんだ」知陽は否定をせずにおどけて目を細める。ずいぶんなおせっかいだ。
     知陽が杏寿にしたこと——。
     杏寿をじぶんにつなぎとめておくためには、杏寿にじぶんから肉体関係のカードを切らせることが必要だった。知陽はそれに成功体験を与えてやればいい。
     経験は、その背景がいくらあやふやだったとしても無視ができない。
     不安、葛藤、未知。ふたりの仲がぐらつく場面に出くわすたび、未熟な杏寿は解決のためにそのカードを切らなくてはならない。
     杏寿はじぶんでじぶんの首をしめる悪循環に入ったことを、おそらくは気づかないだろう。他人の麻秀のほうがこんなに敏感なのに。恋は妙薬で、痛みも苦しみも甘く溶かしてくれる。
    「……多岐瀬はとがめないのか」
    「あいつは俺と同類だし、なにより杏寿のそばには俺がいたほうが消去法でマシって思ってるんじゃない?」ステアケーサー候補になったあとの杏寿は、それなりにグレーダーからの申しこみがある。質がいいのも、悪いのも。描くもの以上に——おとなしくて、扱いやすそうな杏寿のパーソナリティは誘蛾灯だ。
    「……知らんぞ、イネイブリングで斑鳩と溺死しても」
    「貴重なご意見ありがとう。桐乃江のそういう潔癖なところ、俺は嫌いじゃないよ」
     知陽はまたレジュメに視線を落とそうとしたが、スマートフォンには杏寿からの通知が入っている。授業が終わったら、会いたいです——昨日聞こえたはずの甘い吐息がまた耳の奥に蘇ってきた。
     ……俺も会いたい。知陽は無表情のまま液晶画面に指をすべらせる。つながれていることにさえ気づかない、ばかな天使。
     知陽は夢想する。まっくらな部屋でクラゲの水槽は、光を吸い込みながらたゆたっている。
     白い触手はカーテンのようにひるがえり、クラゲの傘はがふくらんではしぼんで群れをつくってはまた離れていった。その隙間から覗くのはふたつの大きな目。宙吊りにされた白い天使は、アクリルごしにクラゲとおなじ感情のない目、心のない表情でじぶんを見下ろしている。
     その天使の顔は、杏寿に似ていた。
     
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    nenedesu333

    DOODLE
    初春限定ガレット・デ・ロワ事件「ガレット・デ・ロワって、あのフランスのお菓子だろ?」
     いつもは眠たくなる談話室の暖房も、貸し切り状態だとちょうどいい。広い机には教科書とノートが広げられている。純は数学、じぶんは英語だ。おなじ科目をやると、進捗が気になりはじめるのであまりしない。
     ――speculate、思索する。Have confidence in、信頼する。
    「そうそう、それみんなで食べないかって」
     俺は頻出単語をまとめていたノートから顔をあげた。帰省は三が日が終わったら正月気分を早めに切り上げて純と寮に戻ってきた。冬休みが終わって授業が再開すると、休みボケ防止として複数の科目で学力テストがあるのだ。目下その対策中だ。
     先輩の噂ではそれほどの難易度ではないと聞いているが、なるべくなら新年早々に授業でつまずきたくはない。おなじステアケーサー候補の優一は、たまに教師からネチられている。……教師の側もべつに授業中に問題行動を起こしているわけでもなく、たまに寝てるくらいの生徒に絡むのはどうかと思うが。優一の壊滅的な成績は、本人の自己認識からして勉強時間ゼロで再試に突っ込むレベルなのでいろいろ別次元ではある。説明を付け加えておくなら、優一は教師の指摘もぜんぜん堪えてない。ただステアケーサー候補に入ると同級生だけでなく先輩からも一目置かれるが、こと教員相手にも――実技の関係ない一般科目の担当にも――注目されているのはじじつだった。
    20210

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