初春限定ガレット・デ・ロワ事件「ガレット・デ・ロワって、あのフランスのお菓子だろ?」
いつもは眠たくなる談話室の暖房も、貸し切り状態だとちょうどいい。広い机には教科書とノートが広げられている。純は数学、じぶんは英語だ。おなじ科目をやると、進捗が気になりはじめるのであまりしない。
――speculate、思索する。Have confidence in、信頼する。
「そうそう、それみんなで食べないかって」
俺は頻出単語をまとめていたノートから顔をあげた。帰省は三が日が終わったら正月気分を早めに切り上げて純と寮に戻ってきた。冬休みが終わって授業が再開すると、休みボケ防止として複数の科目で学力テストがあるのだ。目下その対策中だ。
先輩の噂ではそれほどの難易度ではないと聞いているが、なるべくなら新年早々に授業でつまずきたくはない。おなじステアケーサー候補の優一は、たまに教師からネチられている。……教師の側もべつに授業中に問題行動を起こしているわけでもなく、たまに寝てるくらいの生徒に絡むのはどうかと思うが。優一の壊滅的な成績は、本人の自己認識からして勉強時間ゼロで再試に突っ込むレベルなのでいろいろ別次元ではある。説明を付け加えておくなら、優一は教師の指摘もぜんぜん堪えてない。ただステアケーサー候補に入ると同級生だけでなく先輩からも一目置かれるが、こと教員相手にも――実技の関係ない一般科目の担当にも――注目されているのはじじつだった。
「たしかアーモンドクリームの入ったパイみたいなやつだったよな」
「それ、中にちっちゃい陶器のおもちゃが入ってて、当てるとその日王様になれるっていうやつ。僕も和哉ん家でむかし食べたの思い出した」
「あー、あったな、そんなこと」
両親――直希と朱莉がまだ健在だったころ、子どもが集まるからと海外生活の長い祖父母がおみやげに買ってきてくれたのだ。フランスだとスーパーでホールが4ユーロ、だいたい600円ちかくから買えるという身近さだ。一月はこれをいやになるまで食べるためにクリーム抜きやブリオッシュ――要は軽食がわりになる菓子パンタイプもあるらしい。これは日本の餅消費バリエーションにちかい感じはする。
たしかそのときは、純があてたはずだ。一日中紙の王冠をかぶっていて、気に入っていた記憶がある。
「最近は街のパン屋でも扱ってるの見るな」
「要はふつうの焼き菓子だし。とくべつな機材も必要なさそうだもんね」図形問題を解いていた純は、青チャートの別冊解答をぺらぺらめくり――「ん、でも、まぁ、いいたいことはわかる」歯の奥に物が挟まった言い方で、ふっくらしたかわいい口もとを思わせぶり持ち上げた。
「……俺もこういう盛り上がる催しは好きなんだけど」どうしてもかるく口ごもらなくてはいけない。「主催者が、なあ」
この連絡を入れたのは榊知陽、グレーダー専攻の先輩である。
才気煥発、教師からの信頼も厚く、弁も立つ。交友関係も広い。ちょっと運動ができない以外は完ぺきな部類に入る学生である。身長もほどよく高くて、足も長い。もちろん顔もいい……のだが。
「でもさー、いくら榊先輩が性格わるいからって、卒業前に変なことはしてこないんじゃない?」榊先輩はあまりかわいげのある性格はしていない。どころか有り体にいって、難がある。純はペンをくるっとまわしてから赤インクにノックした。
特に一部の「お気に入り」認定された生徒はその被害に浴することが多い。気に入られた方がひどい目に遭うって、邪神か怪異のたぐいか?
「んー、俺もそう思うんだけど」くびをひねる。こうするとさも先輩は蛇蝎のごとく嫌われているように思うが、じっさいはそんなことはない。むしろ後輩がぞんざいな態度を取っても許してくれる(許してはくれていないが)筆頭が榊先輩だ。後輩はだれひとり口には出さないがそれなりに慕われてもいる。「誰くることになってる?」
「えーと、いつものステアケーサー候補。グレ専は拓海、響」響は榊先輩といつも行動を共にしているのでわかるが、拓海が参加しているのが意外だ。灰島先輩は仕事があると聞いてるし、こういう集まり自体があんまり得意そうではないのに。「アー専は斑鳩先輩。灰島先輩は仕事で当然欠席。優一が宿題終わってないから欠席。だから康平、桐乃江先輩、御来屋先輩もこない」……四人まとめて優一の宿題とテスト対策にちがいない。おつかれさまです。
「しかし」ぜったい、わかっていたことなのだが。「斑鳩先輩、くるのか」
斑鳩杏寿、アーティスト専攻の先輩である。榊知陽がタカ派ならハト派。おとなしくてまじめ、三年生ではじめてステアケーサー候補に選ばれたという大器晩成の努力型。人見知りな一面はあるが、垣根なく誰にでもおだやかに接してくれるやさしい先輩なのだが……。
「そりゃくるでしょ。来ないと榊先輩が許さないって、お気に入りなんだから」
「だよなー」
榊先輩は斑鳩先輩を『お気に入りのオモチャ』と呼んでからかっている。字面だけならすわどんなハラスメントかと思うところだが、すくなくても学内活動は対等に付き合っている。卒業制作でも斑鳩先輩のよくいえばクラシック、悪くいえば保守的な作風をうまく舵取りしていた。
しかし、ふだんはなんというか……。榊先輩が面白がって、いろいろちょっかいをだすのだが……。
ネットの広告でたまに見かける、少女漫画のちょっといじわるで強引なヒーローのアプローチって、現実世界ではぜんぜん効果がないんだな——という有益かつかなしい学びを俺と純に与えてくれた。
つい最近も、斑鳩先輩の誕生日にとつぜん押しかけてきておしゃれなドライフルーツをプレゼントしたのに、いやに軽かったからジョークグッズが入っていると思われて終始ビビられていたし……。まあこれらの反応はほぼ自業自得かつ、榊先輩があまり堪えているさまを見せないので話題にできる。ひっそり陰で泣いたりしていたらさすがにネタにはしにくい。
ちなみに俺も純もお気に入り扱いのかわいがりを受けているが、それ以上に雑に返しているのであまり実害はない。
「響がいるならあんま先輩も酷い目には合わないとは思うけど」とはいいつつ、純は数学の問題集を机に置いた。響と斑鳩先輩はロールパンナちゃんとメロンパンナちゃんというか、ふわっとした保護―被保護関係にある。こちらはいたって健全。榊先輩のほうが響とは親交が深いが、斑鳩先輩が困っていれば助け舟はふつうに出すくらいは仲がいい。
「うーんでも道臣がいるとはいえ、グレ専四人にアー専ひとりって気まずいよな――俺は参加する。純は?」
「もち」純はスマートフォンの画面をさらさらなぞる。たぶん道臣に連絡をしているのだ。まぁ、道臣も来るよな。「って和哉は響に会いたいだけだろ〜?」
「……う、それだけじゃないけど」――それだけじゃほんとにない、けど! かなり図星だ。冬休みに三人でお参りに行ったけど、今年になってまだそのくらいしか響と接触していない。おみくじは引いたけど末吉だった。凶ならネタにもできたのに……。待ち人期待つよすぎると来ずってどういう意味なんだよ~こっちは期待しまくりでおなじ高校まで受けてんだぞ! ……そのおなじ学校にいられるのも、あと二ヶ月すこししかないのに――。
多岐瀬響、二歳うえの幼なじみ。すっごくかっこよくて、めっちゃ頭が良くて、運動が得意で――春には大学生。
……響のこと放っておくひとって、いるのかな。響とおなじ学校に入れて嬉しかったけど、進学したらしばらくは離れて生活する。
榊先輩のことをあんまり悪し様にいえないのは、俺も気になる相手へのアプローチの仕方が下手だから――かもしれない。
「……なんもないといいなあ」
「なんもないといいねえ」
そういうときは、たいてい何か起きる。芸術の女神はきまぐれだから。……榊先輩の言葉どおりだった。
くだんのガレット・デ・ロワの会場はグレーダー寮の談話室だった。桐乃江先輩もいないし、まだ冬休みのさなかということでひとも少ないということで決定。ヴィクトリア建築っぽくて評判のいい寮は中の設備も当時の再現かと陰口を叩かれるほど貧弱で、温室そだちで、永茜に入るようなおぼっちゃまたちはだいたいギリギリまで帰ってこない。
――たしかに個室シャワーは学生寮にはぜいたくなんだけど、水量も温度もイマイチなんだよな。周りが緑に囲まれてるから、ふつうに道歩いてるだけで蜘蛛の巣が顔に引っかかてくることあるし。
「というわけで、あけましておめでとう。ふたりとも元気そうじゃない」
「今年もよろしくおねがいします。道臣は渡しません!」
「新年早々耳がぶっ壊れそうな元気な意気込みありがとう。都築正月にいい物食べてちょっと太った? ジム紹介してやろっか?」
「先輩は実家帰ったのにぜんぜん丸くなってないですね――性格の方ですけどー。体重の方は稽古で落とすので問題ないです」
……榊先輩はあわいベージュのリブニットをまとって、黒いエプロンを汚れ避けにかぶっていた。そうすると整った顔立ちに家庭的な雰囲気が否が応でも加味されて、シチューのCMに出るタイプの品行方正俳優のように見える。というか、制服のほうが2000年代のホストっぽくて、山奥僻地ド田舎コンビニ徒歩圏内無しの永茜だと浮いてる。誰も指摘しないのかな――。
「なんかピーマンくん新年早々失礼なこと考えてない?」
「いやいやそんなことは、三月にお別れするのがかなしくて顔に出ちゃってました?」
「そうですよ、僕たち榊先輩の腰ぎんちゃくじゃないですかー」
「正月ボケしてるならコーヒー出すけど?」肩をすくめてから榊先輩はいつもの人のわるい表情に戻る。こっちの方がよほど落ち着く。「とりあえず、ケーキはもうできてるから冷めたら持っていく。早めにきてくれた杏寿とグレーダー面子で設営とかお茶とかはもう支度してくれたんだよね――俺は後片付けしてくる。あ、手伝わなくていいよ、物の位置とかわからないだろうし。終わったら洗い物は手伝って」
「はーい、わかりました」
長方形のテーブルは三つくっつけててあり、すでに道臣、拓海、響、杏寿の順で着席し、談笑している。――あれ? 道臣と拓海のあいだにひとり多い。
「あけましておめでとうございます。今日は優一の勉強見てんじゃなかったのか?」
登世康平、あかるくて元気でかわいいというしたしみ三原則を遵守している同級生で、小動物っぽい見た目からエリート意識の強いグレーダー界隈では道臣とならんで誰からも話しかけやすい雰囲気のある生徒だ。弟キャラっぽいのに、しっかりものの長男の顔を使い分けていてまあ年上ウケするのも宜なるかな――という感じがする。
「今年もよろしくお願いします。ふふ、いまだけ抜けてきちゃったんだ。僕も狙ってるから、ふたりには負けないよー!」
ちなみにアーティストは上下の力関係がつよいが、それ意外は基本自由だ。それに対してグレーダーは政治もかくやの派閥がある。厳しい桐乃江、穏健派かつ策士の榊。これで険悪だったら最悪なんだろうけど、実力者同士友好関係を築いているのがグレーダー専攻のいいところだ。
道臣は榊派の最右翼で、康平はこう見えてバチバチの桐乃江派——少なくても周囲からこの仲良しふたりはそう見られている。康平はこんなかわいい顔をして、締め付けのきつい最大派閥のガス抜き担当というわけだ。例外的に響と拓海の学年主席ふたりはこの派閥とは無関係でいる。正確には、いられる。
「――いや、ぜんぜん話見えないんだけど。狙ってるってなに?」怪訝そうな純の反応に、康平と拓海が視線を交わす。群れないわりにこういうときに見えないところで連帯してるのがグレーダーって感じがする。拓海はかるく首を振った。……どういうサインだ?
「えーっと、それはあとから榊先輩が話してくれると思う。座って座って――あ、純はこっちきて、この前話してた過去問の話なんだけど、さっきついに榊先輩から入手して……」
「お、いくいくー!」
「あ、康平。俺も見たい!」瞬間呆れたようなため息が聞こえた。振り返ると目を細めた困ったような表情で響はポットから紅茶をそそぐ。
「あんまり過去問に頼りすぎるなよ。出回るのがわかってて、傾向変えてくる教師も多いんだからな」
「うー……ごめん」あんまり、こういうことで響に幻滅されたくない。
「――でもどんな形式で出してくるのかわかるのは、いいことですから。たしかに去年の英語は急に長文読解が難問化していて、てんてこまいでしたけど。月見里くんはいつも真面目に勉強されていて――これ、さっきポケットから落ちましたよ」結局不安で、ポケットに入れてきた自作の単語帳を渡される。めっちゃ恥ずかしい。
斑鳩先輩――直線的な眉に、つり目。響とちょっと顔のタイプも似ている。目元涼しい、というのかな。でも響の眉はすこし弓なりで、貴族的な印象がある。それに対して斑鳩先輩は口元がふわっと厚くて、おっとりしている。いや、どっちが男前とかのはなしじゃないよ!
「斑鳩はあまりそういう話をしない方がいいな。自慢になるから」
「あ、たしか語学関連強いんですよね。先輩」コツコツ派の最高峰みたいなところあるしね。
「そんなことないですよ。主席のおふたりにはとてもかないません……」ちょっと恥ずかしそうに、斑鳩先輩は胸のまえでぎゅっと手を握った。成功体験は少なくないはずなのに、去年まで中坊だった二歳下にもこういう控えめな態度。俺は謙虚ですごいなあと思うけど、意外に好みは分かれるんだよな。
……ふしぎなことに、斑鳩先輩は嫌な男に呼び出されたぞ、という困ったさまがまるでない。後輩達を交えての現役さいごの楽しいお茶会というスタンスできているのかな。ケーキ焼いたりサーブしたりで忙しい榊先輩から距離が離れているということもある。
先輩はカバンからプラスチックの書類ファイルを取り出した。
「これ、月見山くんに――お約束していたものです」
「わ、ありがとうございます」
A4のチラシには、フリー素材っぽい宇宙の背景にこまかいフォントで字が詰まっている。それをとなりの響も目で追った。
「……ああ、拡張現実のシンポジウムか。見に行くのか?」
「うん、アーティストも最新技術に触れておくことも大事だと思って」……灰島先輩に言われたんだけど、ひみつにしておく。「今回は斑鳩先輩のお兄さんの大学で開催されるっていうから色々教えてもらって――」
「時間が合うなら一緒に聴講しに行くか?」
「え!」
「……そんな驚かなくても。俺も気になっていたんだ、有名なグレーダーもポスターセッションに協力してるって聞いてるし」
「あ、うん! そ、そうなんだ! 響がよければぜひ……あ、このQRコードからホームページにアクセスできるけど」
瞬間、ひょいっと斑鳩先輩が俺の手からファイルを取り上げた。
「ごめんなさい。ポスターが折れていて、急いで入れてしまったから……」よくみると右端の方が三角に折れている。う、うーん。そのくらいまったく気にならないけれど……。
「い、いいですよそんな」
「大丈夫です、じつは兄からたくさんもらってきていて――多岐瀬くんもどうぞ、僕は兄の展示を手伝いに行く予定なんですけど、ぜひおふたりの感想聞かせてくださいね」
ちらとつり目がちな瞳がおだやかにこちらを覗いて『がんばれ』と背中を押した。じつは予定が合えば一緒に行きましょうね、みたいな話をすこししていたのに。う……この奥ゆかしさ、我のビュッフェの永茜にいるとほんとうに沁みる……。
「和哉、なんか捨て犬が拾われたみたいな顔してる」含み笑いで純が指摘する。くっ、反論できない。斑鳩先輩もちょっと笑ってるし……。
その時、鼻を甘い香りがくすぐった。砂糖とバターがいりまじった、パティスリーとかブーランジェリーの戸を開けたときのあたたかい空気を思い出す。部屋の温度がふしぎとあがったような気さえする。みんなの歓声が、思い思いに響く……。
「――ああ、榊が戻ってきたみたいだな」
響はなぜかすこし、困ったように笑った。
榊先輩の作ったガレット・デ・ロワはよく見かけるフランジパーヌというパイのタイプだった。やや焼き色にムラがあるのが、かえって家庭的な感じがして悪くない。直径20cmほどの大きさで、表面には月桂樹の葉が放射線状にまるく並べられたデザインがほどこされている。やさしい金色の焼き菓子のてっぺんに、紙でできた王冠のラメが輝いていた。
「向こうだとこれスタンダードらしいから、月桂樹のデザインにしてみたよ」
「すっごーい、売ってるやつみたいですね。麻秀くんの誕生日のケーキもやばかったし、特技のレベル高くないですか」康平はもうスマートフォンをかまえていくつも写真を撮っている。
「いや、オーブンの火加減が難しくて。生焼けよりマシだと思って長めに入れてたらはしっこ焦げちゃってさ」
「謙遜しないでくださいよ、めっちゃいい出来――」あたまのなかでさっきのグレーダー組の妙な連携が浮かんだ。「って、そうだ。勝負ってなんなんです?」
榊先輩はくちびるのかたほうをだけを持ち上げる。角度しだいでは、笑っているとも、からかっているとも、その両方にも見える。
「まぁ最近ガレット・デ・ロワなんて人口に膾炙してるから、説明は不要と思うけど――中にある小さな陶器のおもちゃ、フェーブが入ったピースをあてた人が王さま、勝ちってこと」丸いパイの上を、ざくざく包丁で六つに分ける。パイ生地のせいか、形はややくずれて大きさはまちまちだ。――でもここにいるのは八人。ふたりぶん少なくないか? さっきの康平のくちぶりでは、榊先輩は参加しないのかもしれないけど。「正確に言えば、本場では当てたらことし一年大吉程度の感じで、あてた王様のいうことを聞く、みたいなのは日本のローカライズらしいけどね。あ、ちょっと切るの失敗したな――登世は俺のフレームで良かったんだっけ?」
「はーい! うちの校則では校内でくじをしちゃいけないともなかったですし、念のため景品法もしらべてみたけど、大丈夫っぽいです!」康平は顔いっぱいにニコニコ笑っているが、なんというか小柄なからだに本気のオーラが宿っている。ど、どうした? ガチじゃん。俺の不安を斟酌したように、すっと道臣が近づいてきて大人の顔で肩をぽんぽん叩いた。
「それは何より。ストーカーくんは伊織と俺の入学式の写真なんかでいいの?」
「……ほかにも伊織さんの俺が持っていないスナップぜんぶです」拓海の目もいつになく燃えている……がこっちはなんとなくわかる。
「犯罪に使っちゃだめだよ」
「適法の範囲内で運用します」その反応がいちばん怖いんだが。
「これって、なに? 要はあてた人は榊先輩に頼みごとできるってこと?」
「そ、グレーダー専攻はね」金色のケーキが、皿の上に盛られていく。「アーティスト専攻は俺と組んで作品を制作できる。有効期限一年」
「――微妙に嫌じゃないからやだな」純はぼそっとつぶやいた。
「なんだ、都築めずらしく嬉しいこと言ってくれるじゃない」
「そういうと思ったので黙ってました」
榊知陽と組んでみたいアーティストは多い。単純にフレームを自作するグレーダーの数が少ないし、実力主義の知陽に選ばれたことじたいがステータスになる。よばれた面子がステアケーサー候補なのは、そういうふるいわけ――誰が選ばれても榊先輩がさじを投げる相手ではない、という証拠なのだろう。
「あ、でもそしたら榊先輩がイカサマするんじゃないですか? なんか罠が——斑鳩先輩にあたるとか」
「都築くん、それは……」
この場にいる誰もが頭をよぎった質問を、純が口火を切った。きゅうに話のネタにされた斑鳩先輩は、困ったように手を胸の前で組んだ。
大学に進むと、高等部にいたときのようには斑鳩先輩を手元には置けない。グレーダー専攻の数も飛躍的に増える。
榊先輩はにやりと笑ってみせる。
「そうそう、俺くらいのグレーダーになると暗示をかけて自分の好きなようにフェーブを当てさせることができる――」おどけた調子で榊先輩は肩をすくめて、ぴんと純のひたいをはじいた。「このガレット・デ・ロワにフェーブはひとつだけ。疑うならお前たちが選びなよ。順番も好きに決めていい。もちろん俺は参加しない。おじいちゃんからお年玉って感じ? ガレット・デ・ロワの中にインチキはないから」
「えっと、……多岐瀬くんも参加しないんですか?」斑鳩先輩が響にかるく首をかしぐ。ルール上榊先輩が参加しないのは納得できたが、それは俺も気になっていた。
「恥ずかしい話なんだけど、榊の試作品に付き合っていて……結構食べてしまったんだよ」棄権させてもらっている、ということなのだろう。「見るのも嫌とはいわないけれど。しばらくは甘い物はいいな。それからこの件に俺が関わっているのは味見だけ。この催しにどんな思惑があるのか――少なくても俺はほんとうに何も知らない」……たしかに、こういう悪ふざけをグルになってやるタイプではないし、響が参加しないことで、成立するイカサマがあるとは考えにくい。
「というわけで急遽登世を呼んだわけ。ちょっと抜けるくらいは桐乃江も許してくれたし――ほかに食べれないヤツいない?」挙手なし。「なら、誰からいく?」
参加者が全員お互いの顔を見合わせた。
けっこう難しいな、こういうの。やっぱこういうとき公平なのってじゃんけんがいいかな……。
口に出そうとした瞬間、白い手が伸びた。
「じゃあ、すみません。僕から選んでも……」トップバッターは意外にも斑鳩先輩だった。たしかにいちばんはじめなら、どれを選ぶのかは完全なランダムだからトリックやインチキの介在も難しいように思う。この選択は、たぶん榊先輩を気遣ったんだろうな――。
「じゃあ次は俺が」道臣が皿のひとつを選んだので、次は俺が。それから康平、拓海。奇しくも最後になったのは純だった。
「もしインチキがわかったら」最後のピースはひときわおおきい。じっと純は榊先輩の顔をみつめた。
「空手――はルール知らないから、柔道で勝負でもする?」俺の方が面喰らった。榊先輩、多少スタミナある以外はわりと運動ダメなんじゃなかった? 純は永茜に入学してからそりゃ多少稽古は怠っているとはいえ、有段者だ。
「それはかわいそうなので、僕の誕生日にもお菓子作ってください。大学に取りに行くので」
ふふ、とたぶん康平が忍び笑いをもらしたのが聞こえた。道臣や響もはにかんでいる。拓海だけが仏頂面だ。
「へー、面白い。……まぁ、とりあえず――今年もよろしく」
**
「すご、美味しいね」康平は拓海に笑いかけた。パイの皮はパリパリしていて、なかのアーモンドクリームは香り高い。
拓海も同意してちいさく頷く。礼儀はしっかりしているが、拓海は心にないお世辞のたぐいは顔に出る。俺も純の表情がついほころぶのを見た――もちろん榊先輩も。反射的に反発してしまうけれど、純は兄ちゃんが三人もいるからそもそも年上に可愛がられやすいんだよな。得なやつ。
「噂には聞いてたけど、榊先輩ってマジでお菓子作りうまいんですね」俺も料理はするけれど、雑誌やテレビを眺めて、あれ食べたいな……と思った時の料理の再現のスキルは高校生のわりには高い、くらいだ。ケーキとかパンはちょっとは試したことはあるけど不確定要素が多くてむずかしい。オーブンだって規定の温度で焼いても箱の大きさや生地の水分量でレシピどおりにはいかないわけで。店で買ってきた方が準備後片付けなしで安くてうまい――になる。
「お母様のご趣味……とかですか?」道臣の質問に、榊先輩はとんでもないとても言いたげに眉をひそめた。
「出張の多いひとだったから、出先で評判のケーキを買ってくるんだけど、昼買って夜に渡すからさ、スポンジが水分でびっちょびっちょなの。そういうところにあのひとはセンスなくて……」らしくない愚痴を切るとからになった紅茶のポットを持ち上げた。「親子ふたりだとケーキのホールがおおきいから、食べきれるサイズが作ってみたいと思ったのはたしかにきっかけのひとつかもね――お茶淹れてくるよ」
進行役がいなくなると、俺は道臣の方に視線をむけた。身長が高く、肩幅もあり、首がしっかりしている。顔立ちこそ黒目がちな顔立ちが和菓子みたいに甘いけれど、たたずまいが落ち着いているのでナメられたりはしない。
「道臣いいのか? もしあたったら榊先輩と純が組むとか……」
「純がやってみたいなら俺はいいことだと思う。いろんな相手と仕事をするっていうの、学生時代じゃないと難しいからね」本妻の落ち着き、といえばいいのだろうか。道臣に動じたところはない。
たしかに、スポンサーのしがらみや所属する事務所の関係。それからグレーダーの数が圧倒的にアーティストよりも少ない、という点を考慮すると意外にプロになってからのほうが相手が「おなじみ」になることは多いと聞く。
「そうだよ、それに純は道臣がいちばんだもんね」康平は純に笑いかけた。当の本人は平気な顔でフォークでパイを崩す。
「道臣は僕のだからね」うーん。いつも思うけどそれ、コンプラ的にどうなのか……。どっちかっていうと、関白宣言? 黙って僕についてこい――みたいな。「それに、敵を倒すには情報なきゃ。敵を知り、己を知れば百戦あやうからず」
……どうやら打倒榊先輩のための作戦だったらしい。空手だろうと柔道だろうとむしろガチ肉弾戦なら純の圧勝だろうけど、室内飼いチワワが百戦錬磨のチーターに勝てるところは想像できないけどな。口で死ぬほど丸め込まれてるの想像つく。
「聞いてみたかったんだけど、グレーダー専攻って誰と組んでみたいとか話したりすんの?」たとえば拓海は生涯かけて、灰島伊織の専属グレーダーになると公言している。桐乃江先輩もいまは康平とのペアを許しているが、ゆくゆくは優一と組んで仕事をしたいという噂はアーティスト専攻の生徒にも周知のところだ。
「えーっと」康平は紅茶をひとくち飲んだ。「グレーダー専攻だと、わりと秘密にしているひとも――いる、ね」
「そうなのか? ちょっと意外だな……」アーティスト専攻ではあまりそういう空気はない。基本はどうしても選ばれる側なので、理不尽なことを言わない相手がいいとか、流行りの後追いさせられるとか——けっこうかまびすしい。
「人にもよる、俺は気にしない」拓海は中に何も入っていなかったらしい。無表情のままフォークを皿に置いた。「……アーティストの信頼を損ないたくない、というやつも一定層いるからな」
「ん? どういう意味?」純はまだパイを食べながら捜索中だ。行儀は良くないが、ちらっと道臣の方を見て解説役を依頼した。俺もアーティストの信頼と、それが組みたい相手を黙っていることは、あんまり関係がなさそうに見える。
「召致された美術展とか企業から指名はべつにしても、グレーダーは企画を通すまでの仕事が八割って主張もあるくらいで――」道臣はすこし苦く笑った。「おなじ企画でも先方の希望でアーティストを替えたらすんなり通った、なんてわりとある話なんだよ」
「ほんとうはグレーダーを替えても作品のカラーはだいぶ変わるんだが……アーティストのほうが数が多いからな」響は道臣の言葉を継いだ。「企画段階では自分が担当するはずだった作品を別の人間が制作する――あまりいい気持ちをしないことも、あるだろう」
「なのにアーティスト側は前々から推してましたー、ぜひうちの企画に! ってグレーダーに誘われていたら……なんだコイツ、って思うひともいるでしょ? ひいては事務所自体の心証を損ねたり……」たしかに言うことが一貫していないのは、社会人としてもあまり好まれない。「だからひみつにしている人もマイナーではない、かな」
「もちろん、そういうときは代替にもっと格上の仕事を探してきたり、企画を持ち込む先を替えたりはするよ。どんなグレーダーだってお祈りメール一通で済ましたりはしないと思う。……けど商業アートだからね、調整は必須だから」
「運命の赤い糸を感じたアーティストをグレーダーが掴まえておくのって、難しいんだ。ガラスのクツみたいにぴったり合った仕事を見つけられるかはわかんない。人気出たら今度はこっちがお祈りされて蹴られたり……」
仕事が始まれば業務のリード自体はグレーダーがイニチアシブを握れるが、ペア組みの決定権はどちらかといえばアーティストにある。使われる側だからこそ気楽な部分も少なくない。
「実情は、色々あるんですね……」斑鳩先輩はほんのり伏目がちになる。……あの人のこととか。まぁ思うところはあるよな。
「グレーダーはマウントに命を賭けてるプライドの高い生き物ですから。でも――和哉はグレーダー専攻で圧倒的人気!」え、俺? 康平はなぜかちょっと自慢げに笑った。いや、嬉しいけど……。「文武両道。とっつきやすいのに知的。人付き合い偏差値高めー。うちのエースも組みたいって」
「やめろ、そんなことは言っていない。それは二年の合同カリキュラムで誰と組むならマシか、という話題だったからだ。俺は伊織さんだけ――」
「めっちゃ早口で喋るじゃん。怖っわ」純は言葉とは裏腹にころころ笑った。
「でも、実際ステアケーサー候補の一年生って純は道臣のイメージあるし、優一に手を出したら麻秀くんがキレてきそうで微妙でしょ? その点和哉は、実態はどうとしても――ほら、フリーっぽく見えるから」
「それ、暗に相手いなさそうって意味じゃん……」
いや、俺もけっこう響と組んでがんばったつもりだったんだけどな……。でも優勝とかはしなかったし、所詮幼なじみだし。卒業まであと二年、高校よりは長くいれるけど大学って刺激も多いし――新歓とかで美人なアーティスト志望に熱烈なアタックされたりして……。
「組みたい相手がいるのにさっさと告白してじぶんのものですと発表しないからだこの腰抜け」なんかさっきから拓海、俺にあたり強くないか? 気のせい?
「いや、金屏風用意する芸能人の婚約発表じゃないんだからさ」純は視線で拓海をこづいた。
「そのくらいしないと、伊織さんを狙うやつらにはわからない。今でさえ駆除が追いつかないくらいなのに――」
拓海がもし灰島先輩の専属グレーダーになったら、たしかにそのくらいの規模のお披露目式はしそうだ。なんならタキシードとか用意して、テレビ中継とか挟んできそうな気すらする。って……そうじゃない。
「いつから和哉の相手から灰島先輩の話になったんだけっけ?」さすがに道臣は拓海の扱いに慣れているらしい。
「今世紀内はずっとじゃないー?」康平の反応に拓海が呆れたようにソファの背もたれに体を預けた。
「当然だろ。灰島伊織は百年後も語り継がれる芸術家だ」
……拓海、冬やすみに灰島先輩と会えなかったんだろうな。ヤバさに磨きかかってる。
でも灰島先輩とあまり仲良くない響も笑っている。拓海の口吻はなんというか、子どもがウルトラマンを本気で信じているみたいな無垢さがある。それに金の力も併せ持っているから劇物なんだけど、幼さゆえにへんに潔癖なのもじじつなのだ。そこらへんがうまいこと清濁併せ呑む灰島伊織とはカラーが異なる。
……あ、俺もどうやら外れたみたいだ。パイの端をフォークで探ったが、アーモンドクリームの頼りない感触しかない。
その会話が途切れた瞬間、響は斑鳩先輩に話題を振った。
「斑鳩は組みたい相手とかいるのか?」
「あ、それ僕も気になる!」どうやらフェーブがなかったらしい純は、さっそく新しい話題に飛びついた。
「えーっと、そうですね」純の弾けるような声に押されて、斑鳩先輩はフォークで小さくケーキをつつく。
たしかに斑鳩先輩は、相手次第でおおきく作風の変わるアーティストのひとりだ。拓海のお兄さん、現ジェネラルズの由羅先輩とすこし通じるところがある。この人たちは近代の芸術家の子孫というより、より職人的な技術職の血筋が濃い。
「へえ、面白そうな話してるじゃん。杏寿が狙ってる相手なんて」
――げ。
紅茶のポットを持った榊先輩がいつのまにか戻ってきた。こういうときのタイミングだけ、なんではかってきたみたいにバッチリなんだよ……。
斑鳩先輩は肌に緊張を感じたらしい。すこし表情に思案の色が浮かび、響が助けに入るかなと思った瞬間。思ったよりさっぱりした口調だった。
「僕は……機会があれば、由羅くんといちどお願いしたいです」
「拓海? ちょっと意外――ですね」道臣はほんとうに驚いたらしく、ぱちぱち目を開いた。
俺も頷く。実力があるとはいえ一年生だし、斑鳩先輩ならもっと響とか、後輩でも道臣みたいにおだやかなタイプをグレーダーに選びそうなのに。
「たしかステアケーサーの候補が変更される前は由羅くんと組むはずでしたよね」そう、異議申し立ての再選考会があって今のペアに落ち着いたのだ。だから元からの組み合わせを試してみたい――ということか。思ったより政治的で、ちゃんとした理由だった。
「そうだな。由羅は落ち着いているし、場数も踏んでいる。画の知識も深いし、斑鳩とは案外いい組み合わせかもな」
「へえ、多岐瀬のお墨付きなんて珍しい」――なんだよ。茶々を入れない榊先輩こそ珍しい。
「すでに学校外でもご活躍されていますよね。学びもおおきそうなので」
「ステアケーサー候補の先輩にペアを組みたいと思われるのは、悪い気分ではないですね」おおっと、拓海も大人の対応だ。もっと伊織さん以外と組むことは考えられませんと突っぱねるかと思ったのに。……実際に組むって話でもないし、よく考えたら当然か。
「それより、あてたヤツいないの? もうそろそろみんな食べ終わりそうだと思ってたのに――」
その言葉にゆっくり食べていたらしい面子がフォークで中身を探る。
「あ、俺ちがいますね」
「僕もー」道臣と康平が同時に声を上げる。純も拓海も外れた。俺もなかみはからっぽだった。そうなると、つまり――。
「あ……あの……僕があてちゃったみたいです」
白い皿の上に、ちいさなフォークと没薬を捧げ持った陶器のバルタザール。
……そういうことだよな。
**
「……斑鳩先輩、申し訳なさそうだったね」
「うーん……まぁな」
ここはアーティスト寮の談話室。皿洗いは三人で終わらせるとあっという間だった。俺はお茶会の光景を思い出す。
金色の王冠を頭にのせた斑鳩先輩は、笑っていたけど眉は下がっていた。
――杏寿が王様か、じゃあ来年また俺と組んでね。
「榊先輩、ニヤニヤ嬉しそうにしてさー。ガレット・デ・ロワなんてランダムなくじだからしょうがないけど……」
俺と道臣は顔を見合わせる。純はそれに気づいてぴょんと跳ねた。
「え? 何その顔! 僕、変なこと言った?」
「……あ、その、道臣は」
「八割くらいかな」
「ちょっとー、二人だけでやめろって! 僕にも説明してよ!」
前もこんなことあった、と思う。なんか流行ってた洋画を三人で見に行った時。エンドロールが流れる中で純だけが首をひねって難しい顔をしていた。
これは純が悪いんじゃない。俺は原作のミステリを読んでて、道臣はネタバレが書いてあると知らなくてパンフレットを読んだ。
知っているか、知らないか。視点があるか、ないか。トリックなんて……詐欺なんてそんなものだ。糸口が見えれば簡単にほつれがわかる。
「榊先輩はイカサマをしていた――斑鳩先輩にあたりを引かせるためにね。これを答えとして、逆算していこうか」
「んっと……まず、ガレット・デ・ロワのフェーブの位置なんて、外からはわかんないじゃん」
「オッケー。まずその問題からいこっか。あのガレット・デ・ロワ、焼き方がまちまちだったじゃない」
「う、うーん。でもそんな気になるほどじゃなかったけど……味はおいしかったよ」
「響が嫌になるくらい試作品を焼いたのに、な」俺がなんとなく違和感を覚えたのはここだった。なんでも完璧にこなす榊先輩は、焼き菓子がいくら難しいからってここ一番で失敗するようなひとではない。
「焼き菓子って表面が焦げないように保護剤を――卵黄とか砂糖水を塗ることが多いんだよ。たぶんこれをわざとまだらに塗ったんじゃないかな? 先輩だけにわかるしるしをつけたりね」
葉を並べたような月桂樹のデザインにしたのも、どこにフェーブが入っているのか視認しやすくしたのだろう。長めに焼いたのも、そのためだ。
「俺と道臣は料理するからな。たぶん康平がアップした写真を見ればムラの感じでどこに目印をつけたか見えるかもな」
「……じゃあ、榊先輩はどのピースにフェーブが入ってたかは、わかってたってこと? でもそれだけじゃ、別に斑鳩先輩にあてさせることはできないじゃん。皿を選んだのはそれぞれみんな別なんだから……」
「そこで切るのをわざと失敗した。ほかのピースよりちいさくて見栄えの悪いものを作っておいた。斑鳩先輩は後輩――俺たちに気を遣って、先にその皿を選ぶだろうと予想してね」
説明すれば取るに足らない――トリックとも呼べない、手品みたいなもの。後輩に渡すプリントの折れさえ気にするような斑鳩先輩。当然、彼なら後輩がきれいで美味しい焼き菓子をたくさん食べれるように融通する。
「ちなみに、たぶん拓海と康平は榊先輩と共犯」道臣はなぜか申し訳なさそうに笑った。
「へ――でも、どうして?」
「このくじで榊先輩がいちばん避けたいのは、斑鳩先輩があたりを誰かに譲ること。拓海ひとりだとあたったら、じゃあ由羅くんに――って王位を譲って終わりになるじゃない。それは避けたかった。だから康平を呼んだ」
「あ、それって……」
「そう、あたりくじに価値を出した。このくじの当選者はひとりだけ。だから同じくらいのあたりの欲しがっている人間が必要だった。斑鳩先輩が王様になるようにね。……あと俺たちだけだったら、あたっても和哉と純が斑鳩先輩の側についてペア組ませるのを阻止するかもしれなかったし……」道臣はすこし肩をすくめる。「あのふたりは、先に景品――灰島先輩の写真とフレームだっけ? たぶん先に報酬としてもらってたんじゃないかな。
康平ならともかく、灰島先輩のことで拓海があっさりひきさがるのはね。過去問を康平に横流ししてたのも、参加しないようだったら和哉か純にちらつかせるつもりだったんじゃない?」
「な、なんかさ」純は口をへの字に曲げる。「なんていえば、いいんだろ……榊先輩って――」
「……そういう人なんだよ、でも今回に関してはほんとうに誰も損はしてないじゃない。美味しいものも食べられたし、過去問ももらえた」
道臣は純にやさしく笑いかけた。いつも道臣はやさしく笑う。けれど、心の底からの――こういう表情は、純のまえでしかしない。
場がきれいに収まったのに、俺はなんだか体の中がむずむずする。
きれいに焼けたガレット・デ・ロワ。策士の榊先輩と、それにいつも引っ張られる斑鳩先輩。王様になれるくじ。金色の冠。
正しいんだけど。間違いではないんだけど。別の方向から見ると、ちがう画が見えてきそうな気がして……。
「……あのさ、斑鳩先輩。気づいてたんじゃないかな」
ふたりの視線を感じて、俺はかるく背筋を伸ばす。先に口が動いてしまっていた。
「それ、どういう意味? 斑鳩先輩もグルっていうこと?」
「いや、そういうことじゃなくて――トリックとかはわからなかったと思うけど。榊先輩がなにか企んでたっていうのは、斑鳩先輩はわかっていたと思う」
成り行きで決まった組み合わせ。不本意だった結びつき。
俺が知っている斑鳩先輩なら、どうする?
「道臣の推理、おれはほとんど正解だと思う。でも、お茶会に参加しなかったら、今回のくじはそもそも成立しない」
榊先輩の誕生日プレゼントにすらビビっていた。小動物みたいに警戒心がつよくて、巣穴から引っ張り出すのがむずかしい――榊先輩だけには。だからいつも道臣に呼び出させたり、それでも無理ならじぶんから飛び込んでいく。そんな斑鳩先輩が、いくら響がくるからって榊先輩主催のお茶会にじぶんからのこのこ出席するなんて――。
「僕たちがいじめられないように、気を遣って参加してくれたって可能性は?」
「……斑鳩先輩は俺たちが参加するまえにもう出席するって連絡してただろ。俺たちが返事を返すまで保留にしててもよかったのに」たぶん榊先輩は桐乃江先輩たち幼なじみ四人があらかじめ優一への講習会で欠席すると踏んで、このお茶会をステアケーサー候補たちを対象に主催した。それなら斑鳩先輩を誘うこともしぜんな流れでできる。
「それに、斑鳩先輩ならガレット・デ・ロワを食べるまえに、あたりの内容が榊先輩と組むっての聞いた直後に断ることができるだろ」俺は榊先輩の完璧な表情を思い出す。きれいで、お高くとまっていて、プライドの高さを隠さない。でもそれって……そうしないと、いけないから。ふつうの人間じゃ、人間をつかまえておくことなんて、できないから。「胃の調子がわるくなってきて――って、その場で言えばいい。さすがにそれでケーキを食べることを無理強いはできないよ。俺や純、響。……ううん、榊先輩本人だって止めると思う。テスト前だしさ」
拓海と康平、榊先輩の共犯者たち。あいつらはほんとうに報酬だけが目当てだったのだろうか?
斑鳩先輩が組みたいと話したとき『悪くない気分です』と返した拓海。『運命の赤い糸を感じたアーティストをグレーダーが掴まえておくのって、難しいんだ』どこか含みのあった康平。
近いようで遠い、ふたりの共通点――拓海は灰島先輩と組みたいけど、一筋縄ではいかない。康平はじぶんとペアを希望していた御来屋先輩とは、桐乃江先輩に叱られるからと組まなかった。桐乃江先輩が優一に断られているのも見ている。
したたかな態度の奥底。今にもハサミで切られてしまいそうな赤い糸を結ぶ手助けをしてやっていい、そういう気持ちがどこかにあったんじゃないかって。
――組みたい相手がいるのにさっさと告白してじぶんのものですと発表しないからだこの腰抜け
あれはたぶん、俺にじゃなくて……。
「斑鳩先輩、どうして今回騙されてくれたんだろうね?」道臣はくびをかしぐ。なんだかビクターの犬みたいでどことなく愛らしい。
「うーん、やっぱ誕生日プレゼントかな? 変なリアクションとったこと、ずいぶん気にしてたから……」
あの時はふだんはぜんぜん使わないSNSでめずらしくコメントを残していた。……とは口では言ってみたものの、ぜんぜんつかめない。
斑鳩先輩――。
俺たちにはやさしくて、奥ゆかしくて、おとなしい。でも頼りになる先輩。
……もしかして、と思う。榊先輩のこと、試したんじゃないか? じぶんのことをきちんとリードできる人材か。作品をただしくプロモーションできるグレーダーか……。
あんなに謙虚な斑鳩先輩の好みが分かれるのには、理由がある。控えめな態度は、かたくなな素顔を隠しているから。グレーダーに身を任せるのは、相手のことをなんとも思っていない傲慢さがあるから。
そういう噂も、なくは――ない。おおむね、とつぜんステアケーサーに三年生で選出されたことに対するやっかみなのだが。
……斑鳩先輩の、繊細そうな横顔を思い出す。涼しげな目元で、どことなく冷たくも見える白い肌――。
「そんなのさー、決まってるじゃん」暗いところに引き寄せられそうになったとき、純は俺たちを小ばかにしたように笑った。
「また組みたい、って思ってたんだよ、先輩。だからテストも近いのにわざわざ出席して、なんか罠あるかもって感じても黙ってた」純はすこし息を吸う。「斑鳩先輩。いちばん小さいピースなのに、いちばん最後に食べ終わってた。たぶん榊先輩がわざと切るのが失敗してたから、食べ始めた時点でもうフェーブが入ってるのわかったんじゃない?
でも榊先輩が戻ってくるまであたっていることを言わなかったのは――」
俺たちの考えはなんの物証もない。それこそ、ただの推測を重ねているだけ。でも俺も道臣も純をまっすぐ見ていた。
――御来屋くんのフレーム、まだ手をつけていないんでしょう
――まぁ、いちばん良い形には収まったんじゃない?
いつか遠くでつぶやいていたふたりの会話。
見透かされていることも見透かしていて、それをわかった上で見透かされてない風を装いながら見透かされた行動を取る。……そういうめんどくさい理解の形をとることを、了承するのは。この世にたったひとりの。
「……そんなの、榊先輩にいちばんにお祝いしてほしかったからじゃないの?」
**
「うわー、単語帳落とした……たぶんグレ寮……」
寝るまえに今日やった範囲をざっと確認して寝て、起き抜けに覚えてるのを確認するのがルーティーンなのに。さすが末吉、ていうか斑鳩先輩のことちょっとうたがった天罰のせいかもな――。うう、あんなにお世話になってお兄さんからチラシまでもらってきてくれたのに一瞬でも黒い疑惑をかけてごめんよ斑鳩先輩!
「なんか図書館から帰ってきた桐乃江先輩キレてたらしいし、道臣になんか飛び火したらわるいしな――今日はやめとくか……」
講習会からかえってきた優一から『あ、今日やったこと? 覚えてねぇな~』と爆弾発言が飛び出たことは俺の胸にだけとどめておく。だから頼むから先輩の血管切れるまえに予習復習反復学習がんばってくれ……。
仕方ない。別に単語帳はまとめているだけだしな! 落とした場所はほぼ確定してるんだし、明日取りに行ってがんばろう。 内容はなんとなく覚えてるし、教科書さらえば問題ない。
「お――電話?」スマートフォンがぶーぶー言いながら学習机の上で身をよじっている。こんな夜更けに誰が……って。「響!」あわてて俺は通話のボタンをタップした。
「……夜中にわるいな。本当はもっと早く連絡するつもりだったんだが、桐乃江の愚痴を付き合っていたら長くてな……」でもどこか笑いの含んだ語尾だ、けっこう楽しんだっぽい。というか桐乃江先輩、愚痴とか言うの?! それも康平じゃなくて、響に? めちゃくちゃ意外なんだが――って、百パーセント今日の講習会のことか。
「あ、いや……いいよ、それで、何の用?」
「単語帳。拾ったんだ――お前のだよな。ポケットサイズのブルーのキャンパス」
「う、うん! 探してた、ありがとう」
「……じつはいちど、お前達が戻ってからすぐアーティスト寮まで届けに行ったんだ。談話室なら誰かいるかと思ったんだが」
あー、にわか探偵三人で推理大会の真っ最中でしたね。うん――。
「ごめん! 道臣とか康平に渡してくれたら俺が明日取りに行くから……」
「いやその――。ありがとう」
「ん?」
「榊のこと、黙っててくれるんだな」
あの談話室での推理のあと、結論としては『とりあえず全部黙る』ということにした。やっぱり想像だけだし、俺たちの勘ぐり以上のものではない。……純だけは『いつか僕の誕生日にぜったいケーキを作らせる』とだけ噴き上がってたけど。
「響は榊先輩のこと……」
「付き合いが長いからな。いろいろわかるよ」そりゃそうか。だって試作品を嫌になるくらい食べていたのに、それでとつぜん失敗作が出てきたら――わかることもあるよな。
いまちょっとだけ、榊先輩のことが羨ましい。
そういう距離を持てている関係が。
……でも、それって当然なんだよな。榊先輩と斑鳩先輩たちのこと、ほんとうはなにもわからないことと一緒だ。それは道臣と純の、桐乃江先輩と御来屋先輩の、拓海と灰島先輩の、優一と康平の……。俺たちが知らない世界、見えない時間がある。
「それじゃ、連絡してくれてサンキュな。また……」
「直接返しにいくよ。俺が拾ったんだし」
「え――」
「……another example would be」ページをめくる音が聞こえる。
「べ、別の例としては!」
「underlying」
「内在する、潜在的な」
「be aware of」
「……気づいている」なんだよ、これ。……その、なんだって!
「ほんとにちゃんと勉強してるんだな」どこか甘い声を聞いて、それだけで胸の奥がいっぱいになる。なんていうか、その。いまの響はなんか、ずるい。
「あ、当たり前だって! けっこうこう見えて座学はちから入れて……」
「……頼ってくると思って、わざわざ一年生の時の教科書やらノートやら実家から引っ張り出してきてたのに、心配して損をしたな」
「な、なに?! ど、どういうこと――」
「初詣、末吉で大騒ぎするからどんなにはかどってないのかと。というか過去問なんて、俺だってひとそろい持っていたのに。お前はいつも榊か灰島だな」……いつになく、ちょっとだけ不機嫌そうだった響。いっしょに、シンポジウムについてきてくれると話してくれた響。これって、これって……。
「あ、あのさ、響。明日、もしちょっと時間あったら――いっしょに勉強して、いい?」
「そうだな。シンポジウムの予定も決めたいし、カフェでも行くか。でも――」なにかを思い出したように響はやさしく笑った。「甘いものはまだいいな」