レテの水底⑫/記憶喪失佐真「なぁ、おい」
地面に敷かれた粗末なむしろの上に這いつくばって嗚咽する真島の横にぬっと現れた佐川は、ぐりりと杖の先を彼の脇腹に食い込ませてきた。発した唸り声はかつての色を孕むかのように思われて、真島は縋るように元飼い主を見上げる。だが見上げた先にあったのは、よく知らない青年の突然の奇行に引いている初老男性の姿だった。
「君さ…急に怒り出すのやめない?おじさんも年いってるし君みたいなのが特別怖いってわけじゃないんだけど、やっぱりちょっと「うわっ」て思うよ」
一緒に住もうってんだから尚更さ、と彼はかなり嫌々と言った感じで真島の背をぽんぽんとよそよそしく叩いた。
「あーあ。お前さんにとってはゴミでもさ、おじさんにとっちゃ大事なモンだって言ったよね?何でこんなことすんの。酷いじゃん。俺なんかしちゃった?」
彼は散らばった破片を痛めていない方の足でちょいと蹴飛ばしていたが、やがてぐっとしゃがみこんだかと思うと不意に真島の耳元で凄みのある声を発した。
「けどよ、なぁ。他人の大事なモノ壊したんだ。落とし前はつけねぇといけねぇな?」
「……はい」
真島はまるであの頃に返ったような心地で大人しく頭を垂れた。
結果、彼はねぐら中を這いずり回ってバラバラになったラジカセのパーツの全てを拾わされ、必ずこれを修理し元に戻すことを約束させられた。直したところで一度海に浸かった機械が使えるようになることはないのに。ただの大きなガラクタだ。
「やたらと親切にしてくれると思ったら突然暴力振るうわ物壊すわ…なんか情緒不安定だねぇお兄さん。何か辛いことでもあんの?」
壊れたラジカセを抱えて家路につく道中、佐川は呆れたように唸った。「情緒不安定はあんたの専売特許やろ」などという言葉が喉まで出かかったが慌てて飲み込む。優しくしたかと思えば追い詰めて、暴力をふるったかと思えば飯に行こうなんて呑気に誘ったりする。自分勝手な飼い主様。だが一度飼った犬の面倒は、最期まで見てくれた。
佐川はちらと横目でまた情緒不安定になっていそうな青年の青ざめた顔を伺っていたが、やがて杖の先で彼を小突くことの楽しさに気づいたと見えて、「えい」とばかりに脛をついてきた。
「痛いねん、何」
「辛気臭い面してよ…。俺のためにチンピラ締めてくれた時まではやけに楽しそうだったのに。俺の顔見りゃため息ついてばっかりだ。何、お兄さん。俺のこと嫌い?」
真島はどうしても答えられなかった。だが佐川はそんな曖昧な返事に怒りはしなかった。
「服の派手さに似合わずえらく地味な男だねぇ、真島くんは。色々考えこんじゃうタイプだ。ま、いいさ。お前さんの軽率な優しさに甘えて、しばらくは厄介になっちゃうよ」
百円を元手に五千円をせしめただけに留まらず、なんと屋根のある家まで手に入れたこの名前のない逃亡者は、己の手腕に甚く満足した様子で口笛を吹いて歩いて行った。
***
記憶がないにも関わらず、佐川司はまさしく佐川司であった。
気まぐれで、横暴で。真島をからかうことが酷く楽しいことにもすぐ気が付いていそいそと実践した。一日中寝ていることもあれば一晩中起きて何かしていることもあり、台所に立ち凝った料理を作り始めたかと思えば「ジジイだから歩けねぇ」などとほざいて老人のふりをして見せることもあった。気が向くと勝手に外に出てはどこかでまた金を稼いできて、「おじさんの奢りだよん」などと言って酒を振舞うこともある。どこで誰が見ているかわからない、佐川司が生きていることに感づかれれば命の危険もあるかもしれないのだから易々と外に出るなと言い含めるのだが、真島には佐川を檻に閉じ込められるほどの度量はない。佐川は低めの柵くらいにしか思っておらず、いつもひょいと跨いでどこかに行ってしまった。
「遅くなるなら連絡しろって言ったよなぁ」
不機嫌そうにソファに足を挙げながら佐川は唸る。ちゃぶ台の上には彼の手料理が並んでいた。他人のためには指の一本も動かしたくないような男だと思っていたのに、このようにいそいそと料理を(しかも飛び切り美味いと来て非常に性質が悪かった)するだなんて予想外で、その知らない一面の連続に真島はずっと胃もたれを起こしている。
「突然仕事が入ったんや。電話なんかできるかいな」
「『報』『連』『相』は社会人の基本だよ真島くん」
こういうと真島がいつもビクッとなることに気が付いてから甚く気に入って何度も言うようになったこの性格の悪い男は頬杖をついて呆れ顔を見せていた。だが彼は口で言うほど真島がどこで何をやっているのか気にしていないし、正直家に何日帰らずとも興味がないようだ。ただ小言を言うのが楽しいだけなのだろう。彼は真島の不貞腐れた態度が面白いのかずっとへらへら笑っている。
「もういいや。温め直してやっから早く食いな」
今晩のメニューは肉じゃがだった。醤油ベースで、甘さの絡む濃い味付け。文句なしに美味い。だがかつて彼に屋台で何回か食わされたおでんのことを思い出すと少し違和感がある。あれは関西風の味で、当然のように薄口だ。てっきりそのような味付けが好きなのだろうと思い込んでいた。だがこのように甘辛い感じは関東でも関西でもない。おそらくもっと北の方だろう。彼の出自など真島は知りようもない。知らないことと、知らなくてよかったことが、こうして共に過ごす時間が長くなるほどに積み重なっていく。
少し怖い。
そんなことを考えながら無言でガツガツと肉じゃがを掻き込む真島を満足そうに見やりつつ、佐川は今夜も窓際で煙草をふかしている。佐川はいつもこうして真島が美味そうに己の作った飯を食うのをつまみに酒をやり、煙草を飲むのが日課となっていた。
不思議な心地だ。あの佐川司と。小言はあっても暴力はなく、呑気なやり取りが続く。ソファでうとうとしている姿。真島の秘蔵のウィスキーをくすねたことを咎められて口を尖らせる姿。手際よく大根を切っている姿。鼻歌を歌いながら、窓の外をじっと眺めている姿。いずれも佐川司ではありえない姿であって、それでもやっぱり佐川司であった。
「俺たち何だかんだいいコンビだよな」
気まぐれに二人で将棋をやって圧勝した佐川は満足げに言った。
「何で俺ぁお前さんのこと何も思い出さねぇんだろ。思い出したくねぇことでもあんのかね」
そうして真綿で首を絞めるように、緩やかで落ち着いた苦しみは続いた。佐川が記憶を取り戻す気配は全くなく、真島はずっと「お兄さん」、あるいは「真島くん」のままであったのだ。
続