ひさめ、あたたかな夜をつれて 轟々と窓を叩く、風、雨。そしてけたたましい雷鳴。
もうすっかり日は登っている時間だというのに、外は薄暗いねずみ色のままだ。容赦なく叩きつける雨粒は昨晩から絶えることなく、ずっしりとした湿度を引き連れて騒ぎ立てていた。
もそ、と僅かに布ずれの音を立てたのはネロだった。枕元に転がったスマホのスクリーンには、朝方確認した大学からのメールが表示されたまま。布団の中から手を伸ばし、現在の時間を見ようと顔を一瞬上げたところで、再びぱさりと力尽きた。
ネロと、ネロの隣に丸まって寝ているファウスト。朝寝坊は滅多にしない二人をこの時間まで布団に拘束している原因は、紛れもなく今日の凶悪な天気だ。だるさ、息苦しさ、そして脳を締めつけるような痛み。兎にも角にも、体調が最悪なのだ。
「……ね、ファウスト」
「ん…………?」
「くすり、いる?」
「いる…………」
もそもそ、普段の何十倍もゆっくりとした動きで、ネロがようやく布団から這い出た。目指すはキッチン横の戸棚。歩けば一瞬の距離が今は遠い。一方ファウストは先から微塵も動かないまま、冬眠中の動物のようにじっと鈍痛に耐えていた。
ネロがやっと手にしたのは何の変哲もない、市販の痛み止め。いい加減病院にかかった方がいいのか、とも思いながら、結局二人ともこれに頼り続けている。薬の入った箱を逆さにし、手のひらの上で振る。ぽろ、と出てきた薬を見たネロは、しばしフリーズした後、ため息混じりに口を開いた。
「ファウスト」
「いやだ聞きたくない」
どうして、なんで今日に限って。
痛みに支配された二人の脳が、後悔の念で満ちていく。けれど過去を悔いても仕方がない。いくら悔いても今目の前にあるのは、おとな一人分、たった一回分の薬だけ。
なぜ。なぜ、どうして、ストックのひと箱でも買っておかなかったのだろう。
とりあえずコップ一杯に水を注ぎ、一人分の薬を握りしめてファウストの元へずそずそと戻っていくネロだったが、もう痛みが限界だった。頭の奥、細い縄でキツく締められているような、はたまた首の後ろに鉛を入れられたかのような、めちゃくちゃな痛みと重さが襲っていた。
「…………」
「…………」
再び布団に身を預けたネロと、目覚めてから全く動けていないファウスト。色々なものを散々荒らし、のろのろと通過していく台風に怨念すら抱きながらも、二人の意識は卓上の白い二粒に集中していた。
「……ファウスト、のむ? 辛いだろ」
「ネロだって」
二人して、むう、と眉を寄せた。沈黙の譲り合いが続く。そうしている間にも、外の嵐は轟々とうなり、二人の気力と体力を削いでいく。
ファウストは、考えた。
今までにもこういう日がなかったわけではないのだ。もっとも、二人分の薬がちゃんとあった日の話だが。そういう時、ネロは自分よりもずっと早く、痛みの波が引いていることが多い気がするのだ。
「ネロ」
そうなれば、こうするしかないのではないか。
「ネロが飲んで」
絞り出した自分の声すら頭に響く。痛くてだるくてどうしようもない体をのっそりと起こして、机の上の二粒をネロに握らせた。
「おねがい」
ファウストらしくない。まるで懇願のようなそれに、ネロも戸惑っていた。
どうして。回らない頭で考えた。
「僕はネロより、効きが遅いから」
澄んだ紫の瞳をまっすぐ向けて、訴えた。ネロはこの目に弱い。それは二人とも知っていた。
でもファウストだって痛いのは同じだ、と反論しようとしたネロだったが、先手を打ったのはファウストだった。
「薬が素直に効いてくれるのはネロだから。僕が飲んでもしばらくは動けない。だから、飲んで」
そこまで言って、枕に顔を埋めて動かなくなった。まるで全ての力を使い果たしてしまったかのかように、本当にピクリとも動かなくなった。
「そういうとこあるよな、あんた……」
ファウストにありがとうと呟く。お願いだからいつもみたいにスッと効いてくれよ、そう祈りながら、ネロはファウストに託された薬を流し込んだ。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。ひとり、部屋に残されたファウストは、ぼうっとした頭でネロの言葉を反芻していた。
いまから、何だって? どこかに行くと言っていなかったか。この台風の中?
やめておけ、と止める隙すらなかった。まったく、あの男は。
「きみひとりぐらい、部屋でゆっくりしてくれたらいいのに……」
だれにも聞こえることのない、悲しげな独り言。外はあんな雨だ、身体を冷やして帰ってくるに違いない。そんなネロを、あたたかい飲み物でも入れて迎えてやりたかった。それでも、いまだ布団に縫い付けられたように重い頭と身体。言うことを聞いてくれるはずもない。
台風なんて一生呪ってやる。オーラというものが目に見えるなら、今この部屋は禍々しい色に染まっているだろう。頭のどこかでそんなことを考えていたら、知らない間に再び意識がどこかへ行っていた。
ファウストにひとことだけ告げて逃げるように部屋を出てきたネロは、ちょっとした使命感に追われていた。いつもなら重荷でしかないはずのそれも、今日という今日は事情が違っていた。
台風はというと、まだ立ち去ってくれてはいない。と言っても、風と雷はずいぶんおとなしくなっていた。
頼むからこれ以上ひどくならないでくれよ、と今日二度目の神頼みをしつつ、財布とスマホをポケットに突っ込んで、傘を片手に。薬のおかげでいつもと変わらない体調にまで回復していたネロは、雨だけがうるさい街の中へと走って行った。
決して弱くない雨が、どんどんネロの足もとをぬらしていく。ついでに水たまりも勢いよく蹴飛ばしてしまった。
「これは帰ったらファウストに怒られるな」
まあ、いいや。ネロの口角は上がっていた。
ファウストの予想通り、ネロはまるでシャワー後の子犬のようになって帰ってきた。傘を持っていったはずなのに、頭からびしょびしょだ。本人も首をかしげていた。
「傘、さしてたんじゃないの」
「さしてたはずなんだけどな。突然風がビュンってさ」
あははと笑うネロだったが、ファウストには彼がどこか焦っているように見えた。いったいこんな天気の中、何を。そう思ったのも束の間だった。
「まさか、それ」
「先にもらっちまったし、楽になったから今のうちにと思って」
朝と同じようにコップ一杯の水と一緒に差し出す。ほら早く飲みな、そう言いながら、今開封したばかりの薬をファウストに握らせた。
そんな。手のひらの二粒を見つめながら、様々な感情がファウストを飲み込んでいく。こんな台風の中、わざわざ、ずぶ濡れになってまで。
「んな顔するなって。あんたに叱られるのも承知だよ」
バスタオルをかぶったネロが目の前に現れる。間近でニカッと笑みを浮かべたネロに叱るだなんて、今のファウストにはできっこなかった。
「そんなことしないよ。……ありがとう、ネロ」
ふ、と目元を緩ませたファウストの顔。お小言の一つでも飛んでくるかと思ったのに。ネロはどこか落ち着かない気持ちになって、着替えてくる、と洗面所へ消えていった。
◇ ◇ ◇
――台風は残酷だ。常なら、自分のせいではないと責任逃避をしたくなるのが、人間の性というものだろう。けれど今回はどうしてもそう思えなかった。第一、根本的に悪いのは台風だというのは分かっているが。
キッチンには珍しくファウストだけが立っていた。背後のリビング兼寝室は眠るときのように照明を落とし、キッチンの明かりだけが静かに手元を照らしていた。
コトコトと火に掛けてから数分。一人用の小さな土鍋から香るのは、かつおと昆布の出汁のにおい。すん、と深い香りを楽しんでみるも、普段それを分かち合うネロは布団の中で丸まっていた。
窓の外はもう暗い。もっとも、今日一日中日が差すことはなかったが。
「ネロ、起きられる?」
小さな土鍋と、小鉢。木のスプーンを添えて、お盆にのせたその一式をローテーブルにそっと置く。ゆっくりと身体を起こしたネロは、ぼさぼさの髪を雑に直すと毛布を引き連れてお盆の前に座った。
「頭は?」
「痛ぇ……薬切れんの早すぎ……」
「そうか、……辛いな」
しょぼ、と肩を落とすネロに対して、ファウストはどう言葉を掛けるべきか迷っていた。なにぶん、自分はネロのおかげでもうかなり回復しているのだ。それに対してネロは、気圧による頭痛、さらに冷えから来たのであろう発熱のダブルパンチを食らっていた。
「いやあ、これはさすがにださいと思うわ……」
自嘲的に笑いながら、ネロはいただきます、と手を合わせた。
二人とも、誰のせいだとか、たらればだとか、そういうことを言うのは賢明でないと考えていた。それでも、ネロに大雨の中薬を買いに行かせてしまった罪悪感が積もるファウストと、たかが雨に濡れたくらいで熱を出した自分が情けないと思ってしまうネロがいるのは事実だった。
広くはないワンルームに、ふたり。暗い室内に、出汁のきいたおじやの香り。
根が優しいが故、気を遣いすぎるふたりは、なんとなくお互いの考えている事が分かる気がした。
「ネロ」
「なーに」
「今日は、ありがとう」
「はは、まだ言ってくれるの。こちらこそ」
ネロは、おじやを少しずつ口に運びながらも、ファウストの頭をなで回した。僕は猫じゃない、とやんわり手を制するファウストだったが、その顔はまるで今日の空色みたいに沈んだ表情をしていたものだから。
ごめん、は聞きたくなかった。
なのに、どうしても言いたくなった。
だから、代わりにありがとうを伝える事にした。
ありがとう、を今日ファウストの口から聞くのは、もう片手では足りないほどだった。そのたびにネロも、こちらこそ。ありがとな。助かったよ。と丁寧に返した。
「まあ、今日は良い教訓になったよ」
「良くはないだろう……」
「まあまあ。俺も明日には復活してるだろうしさ」
「……うん、そうであってくれ」
軽い一人前をしっかりと食べられたネロにほっとしつつ、ファウストはさっと食器を洗うと、すでに薬を流し込んだネロの隣にもぐり込んだ。俺いまあったかいよ、となぜか嬉しそうに呟くネロの心境は、ファウストには分からなかった。それでも、そんな口を利けるほどの気力はあるらしいと、苦笑いを浮かべた。
完全に明かりを消した室内。一つの布団におさまっているふたりは、いつもよりもお互いにくっついていた。普段ならまだ眠る時間ではないけれど、今日ぐらい、いいだろう。
おやすみ。
ふたりがそろって眠りに落ちた頃。
空には星々が輝きだしていた。