ある雨の日。 電車通勤をしている道満は帰り道、家の最寄り駅を出たところで大雨とカチ当たった。こんなに雨足の強い今日に限って傘を持っていない。諦めて上着を頭から被り、鞄を豊満な胸に押しつけて足に力を入れたところで見知らぬタクシー運転手に呼び止められた。
「蘆屋さんですか?お電話で伺った通りの方ですぐ見つけられました」
思わず頬が引き攣るが、にこにこと笑う運転手は何も悪くないので怒れない。丁度道満のスマホに晴からタクシーを呼んでおいたと連絡が入った。
道満は一般家庭育ちだが、同棲している恋人の晴明は不労所得で生活できる絵に描いたようなボンボンだった。
5分と掛からない距離でタクシーを呼ぶのは止めろと前に言ったのにまたやりやがったと、見ず知らずの人のよさそうな運転手の手前抑えたが、内心キレ気味になった。けれども、その時とは違って今日は雨だ。帰っても怒鳴るのは良くないと、乗り込んだ車内で深呼吸する。
晴明曰く『愛の巣』である自宅マンションの部屋に戻ると、これまたニコニコとご機嫌の晴明に出迎えられた。
「おかえり道満。車と行き違いにならなくてよかった。殆ど濡れてないようだけど冷えただろう、湯を溜めておいたから先に風呂に入りなさい。ああ、でもその前に少し待っておくれ」
そう言いながら珍しくキッチンでごそごそとしている。晴明は家事の才能が壊滅的で、食事は道満しか作らない。辛うじて珈琲は淹れられる程度。そんな男が戻ってきて得意げに差し出してくる飲み物を道満は受け取った。
「…生姜湯?」
「そうです!漸く再現できました」
それは前に晴明が風邪を引いた時に道満が作ってやったものだった。生の生姜を擦り下ろすような本格的な物ではなく、チューブを使った至って庶民的なもの。それを作った達成感に満ち満ちた目は、もの凄く綺羅綺羅しい輝きに満ちている。それを見ていると道満の苛立ちはいつのまにか収まっていた。
「…晴明殿、次からはタクシーを呼ぶときは儂に断ってからにしてくだされ。この距離でタクシーに乗るのは勿体ないのでなるべく避けたいのです。でも本当に雨足の強い時は自分で呼びますので」
「私もお前が傘を持って行っていないことに気付いたのが遅れてね、断る暇がなかった。次からはそうしよう」
道満は笑顔の恋人に笑い返してマグの中身を飲み干した後、浴室に向かった。