140字前後SS(二真).
足音を耳が覚えてしまった。立ち合いで相手の足運びを計るのともまた違う、言ってしまえば、ただいまと開けた玄関に犬がもう待っていることと同じなのだから、心地よくも恥だった。そら、来たぞ、これは気が急いているときの気配だ。「聞いたか!」「なにをだ」背に飛びついてきた男に答えた。犬とちがって素知らぬ顔はできる。
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目に映るたびの喜びも、耳が拾うたびの浮き足も。舌に残る甘さに似た、そういう愉快なものはちっとも感じられない。ただ、しばしば喉のおくがぎゅっと軋んで、おまえはおよそ覚えることのない感覚だろうなとまた悄気げるのだ。ぼくだって覚えがなかった。しきりに名前を口にしたくなる、少しやわらぐ。いたみどめみたいにおまえを呼ぶこれが恋なのかは、ぼくも知らない。
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この時間に起きるのはもはや習い性で、けど何でか妙に寂しいことをした気になる。班の奴らが寝息を立てる、バンガローの部屋だからか。「配達もなかろうに」静かな声が横から掛かる。さほど驚かなかった。ごく絞って点けていたライトを消しながら、はしゃいだ昼間とちがってぼくも声を落とす。「そっちだって、朝練もないくせに」日が昇ればまた、飽きもせず浮かれて喋れる。手をのばしたくてやめた。
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ひとりぐらしの割にコップが多い。ぶしょうなのか可愛げからくるものか分からんが、こういう時にはいい、と織田のお代わりを注いでいる物月を見ながら思う。高さもちがう四つのコップ、貰い物を持ってきたでかい瓶ジュース、大皿に三種類空けたスナック菓子。俺がたったいま崩したジェンガを指して笑い転げる男の目じりに似合わぬ水滴が滲む。しゃくにさわり損ねて唇を曲げる。いったいどうしてそんなに幸せそうなんだ。
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雨が降っているとも思わなかったのに、窓にふと目を転じたら空の端に弧が架かっていた。およそあいつもそうだったかのような、変な既視感めいたものがよぎって、さすがに一寸いかれているぞと自戒する。例えるなら蝉時雨が止むと逆に気が散るとか、せいぜいその程度だ。ひかりの粒となど、誰が呼べようものか。
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言っておくが、お前のミョーな部分とすんなり付き合える相手もそうはいないからな。つくづくなんというか苛烈というか、過剰というか、そういう節があるだろう。少しは処世術も覚えたようだが、今まで通り気兼ねない人間がこれからも傍にいるほうが、お前にとってはいいと思うがな。「こっちの台詞だ」
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普段は口の減らん男が、今日はうにうにと練り上がらない言葉を口のなかでしぼませつつ箸袋を折っている。曰く、もう若気の至りじゃすまないぞ。曰く、早まるな。どっちだ、と口を挟む気にもならん。俺のなかでは既にケリがついている逡巡を、数年来、往生際わるく弄くり回す様ですら、いじらしさと見えてしまうのだから仕方がない。「……お互い、いっぱしの立場になったからこそ、腹を括ったんだが」膝を進めた。座敷の壁まで追い詰めようか。酔狂だと、酔えもせずに頬を紅くする。逃がす気も逃がされる気もとっくのとうになかった。
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脳天気なツラの下に性悪を滲ませる、騒がしくもすこぶる根に持つ男が、結論、単なるオヒトヨシにすぎないことなど、二ヶ月と経たぬ間に知っていた。二年と半には足りないぐらいが過ぎ、その表情は塩抜きでもしたかのように何の気なく柔い。けれども味気ないと呼ぶ気にはなれない目をしている。おそらく俺もそうであろう。
のびやかな線をえがいて飛行機雲が薄れてゆく。
はてしない紙面を僅かにかすめて、ただ寸の間の流線だ。
流転と呼ぶには小規模な帰結で俺たちは出くわしている。稽古休みで休刊日の放課後と同じように。「そろそろ帰るか」、陣取った席から立ちあがる。弧を描く下瞼だ。見つめられれば、ぱしりと音が立つ。
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