ビスケットはいくつかの魔法が使える。いつ覚えたものなのかは自分でもよくわからない。
でも、毎日のように近くで見聞きした呪文は、最初の一言を口にするとするするとその先も続けられる。
姉や祖母に比べたら全然上手くはないし、使うと草臥れてしまうからあまり使う機会もなかったけれど、確かに彼女はその術を知っていた。
町と違って家々の灯りが無い夜道は危険だから、月が太陽に変わって姿を見せる前に帰路につくのはいつものことだった。
そんないつもが崩れてしまったのは、本当にひょんなことからだ。
「完全に暗くなってしまったな」
「二人が心配していないといいけれど」
暗い中に光を灯す術を知らないわけでは無いけれど、手製の松明を片手に傍らを守ってくれる人がいるのだから、ビスケットは言われるがまま彼の側を離れずに歩く。
二人が歩く道の後には、ぽたぽたと時折の赤い跡が残っていく。
「重くないか? ビスケット」
「大丈夫です! こう見えても私、力あるんですよ」
普段よりも大きくなった荷物は、男一人ではさすがに運びきれない。
重さを少し感じさせなくすることも出来ないわけでは無かったけれど、二人で分け合えば腕の疲れなんて大したことではないと、ビスケットは己に鼓舞して気力を奮わせる。
それに森の小屋に帰れば、喜んで出迎えてくれる笑顔があると思うと、重くなった足取りも自然と軽くなる。
元気よく答えたビスケットに傍らの男は微笑みを返す。
両手が塞がってさえいなければ、きっとビスケットの頭を撫でてくれただろうから、それだけは惜しかった。
「お父様はこの後この鹿を解体するんですよね?」
「そうだな……今日中には終わらないだろうし、明日はこっちにかかりきりになるだろう」
「なら、明日は私が今日切った木を拾ってきますね!」
「いや、一人では駄目だ」
ビスケットにとって森の中にあまり恐怖はない。けれど彼の心理もよくわかる。
森の中で一人、――いや、二人だとしても、向かわせたくはないという意思は生活の端々に感じている。
「それに、明日もまた手伝ってもらいたいことがある」
遠目に小屋の灯りが見え始め、ビスケットも歩いている道がどこなのかがはっきりとわかるようになったため、共に足取りが早まる。
「わかりました、お父様!」
ビスケットの持つ特殊な力がなくても、照らされた先の道は明るかった。
「ただ、いま?」
「……何があった?」
ずしりと重い荷物を下ろして開いた扉の中は、ひどく散らかっていた。
遅くなってしまったというのに二人の出迎えがなかった理由が何かある、と察するには充分だ。
「おかえりなさい! 大変だったんだよ!」
床に散らばった木製の食器を重ねて持ちながら、少女が駆け寄ってくるのを受け止めた男は、娘の身を咄嗟に検分する。
屈みこみ視線を合わせて手袋の上からぽんぽんと叩かれるのを、擽ったそうに笑いながら受けるグレーテルに特に問題はなさそうだ、と共に息を吐き、重なった反応にこそりと笑む。
ビスケットに治癒の力はない。もし、それが必要となることになったら、自分の能力の至らなさを責めるところだった。
むしろ現状は片付けのための些細な術が使えそうな場面ではある。けれども、ビスケットは自分の手足を動かすことで、それを打ち消した。
疲労が嵩んでいく感覚はあるけれど、魔法でなくともいい。
家に残っていた側と森にいた側で、それぞれの話をするのは夕食時の習慣だったが、今回はさすがにそうはいかない。
倒れた椅子を起こしながら、細々としたものを拾い、共に口と耳を働かせる。
足の折れた鹿を見つけた話と、家に乱入してきた闖入者の話が互いに共有されたタイミングで、この家に住むもう一人が戻ってきた。
「つ、かれたー! あ、二人とも、おかえりなさい!」
「どうやら大変だったみたいね」
「そうなんだよ! 今、家畜小屋になんとか入れてきた…」
「しばらく使っていなかったが……」
初めてこの家に来た時に、家畜小屋の存在は聞いていたけれど、そこに動物はいなかったことをビスケットは思い出す。
確か以前は鶏がいたと言っていたけれど、食べるものが無くなった結果、卵をあまり生まないそれは肉にされたらしい。
「餌は入れてないよ、あいつ勝手にパンを漁ったんだ」
「他にも大暴れしてお家の中をこんなにしちゃったんだから!」
憤慨している様子の二人を宥めながら、四人で部屋を片付ける。
食卓に上るはずだったライ麦パンはなくなってしまったので、贅沢にも夕飯には甘いビスケットが追加され、騒ぎに巻き込まれた子供たちの気分は好転したようだった。
少し前ならお腹を空かせて、不満だけを抱えて眠りにつくことになっていたかもしれないが、そんな夜はもう訪れない。
小さな森の小屋の中で、住民たちは皆、満たされていた。
一日の労働の疲労に加えて、突発的に起きた出来事で重くなった肩を、ビスケットは自分の手でトントンと叩いた。
その素振りが記憶にある魔女に似ている気がして、少しだけ彼女の気持ちがわかるような錯覚を持つ。
「なんなんだ! あの子どもたちは! それにあんたも!!」
やせ細った体躯から出たとは思えないほどの怨嗟の声を前にしても、ビスケットは一切怯みはしなかった。
檻の中で拘束されたそれに、何かができるとは思えない。それを為すことができるのは特別な存在なのだとビスケットは経験で知っていた。
「ビスケット…? どうしたんだ、何が気になったんだ?」
「ああ、お父様……もしかしたら、と思ったんです」
月が満ちた家畜小屋の前で佇んでいたビスケットの元に歩み寄った男は、彼女の肩をそっと引き寄せる。
先程触れられなかった分を埋めるように、彼の掌はビスケットの髪を優しく撫で上げた。
「あんた…!? どういうことだい!」
ヒステリックな声は益々勢いを増し、檻の中では蠢く四肢が月明かりに照らされている。
「随分よく鳴く豚だな……」
「ええ、私、前にこの豚と同じようなのが家にいたんです」
「前に……?」
ビスケットは彼の前で、あまり過去の話をしない。
だから興味を引かれたのか、男は騒ぐそれを一瞥だけして、すぐにビスケットに視線を戻した。
「おばあさまは好んで食べたけど、育てるのは大変だし、売りに出した方がいいと思います。私、これを引き取ってくれる店を知っているんです」
「そうか……まあ、今日の鹿があるからしばらくは肉には困らないし、角や皮は売りに出そうと思っていたしな」
「パンも買いに行かないとですね」
二人の会話の最中にも、家畜小屋から絶えず悲鳴のようなそれは響いていた。
ビスケットはその声を全て無視して、男にしな垂れかかる。
甘えも込みだが、実際に体はひどく疲れていた。慣れない魔法は草臥れる。
「今日は疲れただろう、ゆっくり休もう」
「はい、お父様……ありがとうございます」
ビスケットの体を支えてくれていた逞しい腕が腰に回り、苦も無く彼女の足は宙に浮かぶ。
このままベッドまで運んでくれると知って、ビスケットはその胸板に頬を擦り寄らせた。
後ろで響く雑音の隙間に名前を呼ばれて首を傾げると、男の顔が近付いてきて唇が重なる。
そのキスは、喉を焼く毒のように甘い味だった。