カイが瞼を持ち上げると、青白い光が涙の膜を乾かすように照り付けていた。
眼の上に重石でもあったかのような違和感が残っていたけれど、ぱちぱちと二度瞬きをしただけで、疼痛になりかけたそれは簡単にリセットされる。
(電気を、消し忘れたのか……)
蛍光灯を見つめながらぼんやりと過去を辿る。
それが目標点に到達するよりも、カイの手がなめらかな温度を悟る方が早かった。
指先を絹糸のような何かが滑っていく。
ほぼほぼ無意識に撫で上げた、自分のものではないそれを把握すると同時に、慣れた呼び名が滑り出る。
「たちばな……」
声に出して呼んだところで、カイの体の上を陣取った彼女からは何も反応は返らなかった。
その代わりにカイの脳裏にいくつかの場面が広がった。
今日は私が、と決意を表した握り拳。
おかえりなさいと出迎えてくれた立ち姿。
薄い布地の向こうに透けた肌色。
生クリームの上に立った蝋燭の炎。
特別な日なのでと言いながら逸らされた視線と上気した頬。
するすると解けていくリボン。
それは今後の人生で何度も反芻することが容易に想像ができる幸せな記憶の欠片だ。
何時間もかけて生まれたことを祝われ、今もなお、安心しきった寝息はカイの命を寿いでいるようだった。
華奢ではなくいつもより少しだけ特別なことを、がコンセプトだったお祝いは、ともすれば遠慮がちになるカイにも自然に受け止められた。
牛乳ではなく生クリームで、普段買うよりちょっとだけ高いお肉で、2ピースのケーキではなく小さいけれどホールケーキで。
ひとつひとつの心遣いを嬉しそうに披露する笑顔も、普段よりも輝きが増しているようにカイの眼には映った。
カイがかつて希求した団欒は、彼女と共にあれば得ることは容易くなっている。
それでもこうやってその貴重さを忘れないように尊重してくれるせいで、カイの中の渇望は薄れながらもその形を内に残している。
「立花」
再び口にした彼女の名前にも、カイと重なって上下する胸の動きだけが答える。
それを寂しいと感じるより優越を見出す自身に、カイは口元だけで自嘲した。
彼女を求める気持ちが尽きる日は来なくても、どうやら今のカイの器は満ち足りているみたいだった。
時間と共に漏れ出し、彼女の瞳が他を映す度に罅割れていく脆弱なそれに、今、有り余るほどの潤いが注がれている。
こんな気持ちに浸れるのは久々だ。
ゆっくりと息を吐いて、吸い込む。鼻腔の中に広がる彼女の匂いを堪能しようと深呼吸を繰り返す。
眼を開いてすぐに意識外で動いた自身の手を、今度は意図して動かし桃色の髪を梳く。
常日頃なら暗闇に覆われて視認できない色が、今夜はその柔らかさを強調しているみたいだった。
どちらのものかわからない汗が糊の役目を果たして、カイの手が前後する度に触れ合った肌が共に引き攣れるのを感じる。
情欲のままに溶けあった時間とまた違う結合を、甘美のままに享受する。
(このまま……)
明かりを点けたまま寝落ちたことで、体には払拭しきれない疲れが残っている。
完全に全身をカイに預けた少女の重みもまた、それに拍車をかけているのかもしれない。
心地いい気怠さがカイの全身に再び忍び寄るが、それでも眠りについてしまうのはもったいなく思えた。
せっかくの特別な日。
普段は電気を消してくれと望む彼女が、今日はカイの心のままに全てを許してくれたのだから。
思い出すとそれだけで体の芯に熱が戻ってくるような気がした。
明るい中で目に焼き付けた彼女は、淫らでありながらも見惚れるほどに美しかった。
薄く透けた衣装を纏い、軽やかに踊るように跳ね、陶然と悦楽に酔う姿はカイの育て上げた華だ。
薄闇の中でこそ映えるそれは、舞台に捧げられることのないカイだけのためのアルジャンヌだった。
それを余すことなく見たいと望んだのは強欲の所業だとわかってはいた。
一年に一度の誕生日を免罪符にした欲望を、喜んで迎え入れてくれた彼女の底はまだまだ深い。
カイの体の上に乗り上げている小さな体躯と比例しない度量だ。
彼女のおかげで、望んだものが与えられない虚無を抱き続けてきたカイはもう過去のものになっていた。
「立花」
三度、愛しさを込めて名を呼ぶ。
彼女の夜を丸ごと独り占めしているから、室内に響くのはカイの声だけだ。
その短い音を作り上げるだけで、幸福が模られる錯覚があった。
「ん……むぅ……」
と、それまでは無かった返答のようなものが、カイの胸の下あたりから響いてきた。
同時に、湿った音と擽るような感覚がそこに生まれる。
肌の上を柔らかな温度が短く往復していくのを感じた。
(舐めてる……のか?)
先だって目を閉じる前に散々覚えたものと似たそれに、予測を立てながらまた彼女の名を重ねる。
「立花? 起こした、か?」
問いかけには、くちゅり、と、視線の先から濡れた音だけが返る。
その音と合わせて微かな痛みがカイの肌を刺激してくる。
それ以外の何かがくるかとしばし待ってみるものの、言葉による応えはない。
「ふっ…………」
滑らかな動きに刺激されて、カイの喉から吐息が零れる。
もう少し強く与えられれば悦びといってもいい微弱な刺激は、体だけではなく心まで擽ってくる。
どうやらまだ夢の中にいるであろう彼女は、律儀にも眠りにつく前のカイの望みを叶え続けているらしい。
水音と共に増えていったカイの肌に散る鬱血痕は、今夜の思い出にとカイが求めたものだ。
彼女に比べれば痕の残りにくいカイに、半ば噛みつく様な勢いで淡い唇が挑んだそれは、視線を下に逸らせればすぐに目にすることができる。
きっと明日にはもう薄れ始めてしまう赤い色を、意識が落ちた状態でも増やし続けてくれているのだと理解すると、どうしようもない衝動がカイの中で膨れていく。
ちり、と、また、彼女の唇の元に華が咲く。
言葉にはならないくぐもった音が、カイと彼女の両方の喉から零れて重なった。
見守る瞳の先でもぞもぞと動いた桃色が、カイの裸の胸に擦り寄って、自らの唾液で毛先を濡らしていく。
濡れたそれは光を受けていつもよりも濃く滲んで見えた。
望んだ全てが満たされる光景を目の当たりにしている。
そう思いながら肌の上を辿る温度に浸っていると、ふと、ひとつの思考が跳ねた。
(瞳が、見たいな……)
凪いだ水面の上を不意に魚が跳ねたような唐突な思い付きだったが、その欲求は瞬く間に波紋となってカイの心に広がっていく。
簡単に思い描けるはずの瞳の色が知りたくなった。
優しく擽る声色で耳の中で響かせたくなった。
甘い唇がカイの名前を形作るのを見たくなった。
満たされていたはずの器が、彼女を――立花希佐を求めだす。
(なんて欲深い)
胸の内に生まれたそれを、カイは一人で自嘲して、それでも抑えはしなかった。
「立花」
今までとは違う声量を意図して、愛しい相手の名を紡ぐ。
それまでたった一人に釘付けになっていた視線をちらりと横に流してみると、壁の掛時計は0時を指していなかった。
(まだ23日だ)
もう少しカイの我儘が許される特別な日が終わるまでは時間がある。
うっすらと持ち上がり始めた瞼を見つめながら、カイの口元は緩やかに弧を描いた。