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    yosino_sirayuki

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    yosino_sirayuki

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    引っ越し準備するハセ向

    「これ、こんなところにあったのか……」
    なくしたと思っていた眼鏡ケースは埃を被っていた。
    眼鏡を買った時に一緒についてきたものだから、思い入れなんて特にないはずのそれが、こうしてしばらくぶりに手元に戻ってくると郷愁のようなものを呼び起こした。
    その後に自分で買ったものや貰ったものがあるから、せっかく見つかったというのにもうこれに出番はない。荷物は多くない方がいい。
    それでも、そのままゴミとして袋に放り込んでしまうのは忍びない。
    せめて記憶の中の姿にしてから捨てようと、燃えるごみの袋の中に付着した埃の塊を払い落とす。
    「ハセクラ先輩、このコップはどうします?」
    「あ、ああ……これももういらない、かな。向こうにあるし……」
    「年季入ってますけど、捨てちゃっていいんですか?」
    「もともと適当に買ったものだし、洗面所に幾つもいらないだろう」
    傍らから差し出されたコップも、経年劣化で色褪せている。むしろもっと早く買い替えたりした方がよかったのかもしれない。
    明確に割れたり壊れたりしてくれれば新しいものを購入するけれど、そうでもなければきっかけが掴めないせいで、部屋の中に溢れるものはどれもずっと昔からある気がしている。
    その結果、燃えるごみも燃えないごみも袋がどんどん膨らんでいくのに対して、段ボールの中は全然埋まらない。
    台所と洗面所を片付けたのに、まだ2箱目が半分くらい空いている。
    カコ、と、放り込まれたコップが、先に入っていた洗面器とぶつかって鳴る。
    最期の音にしては悲しくなるくらいに侘しい。
    「向井、これも」
    ごみ袋に近い彼に向かって、少しは懐かしい色になった眼鏡ケースを手渡す。
    「え、これも捨てるんですか?」
    「ああ、……もう前に使っていたやつだから」
    「まだ使えません?」
    「使える、と思うけど……荷物は少ない方がいいだろう?」
    「…………」
    受け取った深緑色のそれを見つめながら無言になった彼に、ざわりと胸が騒ぐ。
    物を大事にしないと思われただろうか。嫌われるようなことはしたくない。
    余計な手間をかけさせたくないけれど、加減を間違えたのかもしれない。
    「あの……向井?」
    「…………先輩がいらないなら、僕が貰ってもいいですか?」
    「え!? いい、けど……お前、眼鏡かけて、ないよな?」
    思いがけない言葉に、つい、彼の瞳を確認する。
    職場でも家でもそんな様子が見られなかったけれど、実は視力が悪いのだろうか。
    「ブルーライトカット眼鏡あってもいいかな、と思っていたので」
    「これから買うのか……?」
    「ええ、そうしたらこれ、使えるでしょう?」
    「う、うん?」
    まるで眼鏡ケースを使うために眼鏡を買うような言い方に、発想が追い付かない。
    向井は買い物に行くとほとんど躊躇なく会計に進む。
    自分一人だと、必要だからと買いに行ったのに散々悩んで何も買わずに帰ってくるのに、向井と一緒に行くとさっくりと目的を達成できるから、何かを所有するという行為にすら才能の有無が現れているようだった。
    こういったところでひとつひとつの思考回路が違っているのを実感する。
    「では、これはこっちで」
    燃えないごみになるはずだったそれは、向井の手で2個目の段ボールに仕舞われる。
    それを見ながら、ほのかな喜びを感じている自分に気付く。
    理由はよくわからない。


    「向井、それ……」
    「はい?」
    「いや、……その、持っていくのか?」
    「? ええ、それが?」
    「……お前の家にも、その……」
    「タオルなんていくらあったって使いますから」
    「そ、そうか」


    「それ、いつの写真ですか?」
    「え、……学生の時の、だけど」
    「じゃあ、こっちの箱に入れときましょうか」
    「う、うん…………その、向井……」
    「思い出に浸るのもいいですけど、今日中に終わらせないといけませんよ」
    「あ、いや、その、…………うん」


    「ハセクラ先輩、こんな服持ってたんですね」
    「あ、ああ……ほとんど着たことないけど、一応」
    「もったいないですよ――ほら、こっちと合わせたら」
    「む、向井……、その」
    「あ、これと重ねても似合いますよ?」
    「そ、う、かな……?」



    増えていく閉じられた段ボールが部屋の端に積まれていく。
    途中、カーテンも仕舞ってしまったので、ベランダからの夕焼けの色は室内を余すことなく染めていた。
    「ぎりぎり足りそうですね」
    残りが少なくなったガムテープを向井が引き延ばしながら、ぽつりと呟く。
    一直線で封じた口が持ち上がらないのを確認して抑えていた両手を外し、段ボールを90度回転させると、再度ガムテープを伸ばす音がする。
    今日一日で手慣れてしまった動きで、十字に貼られたガムテープの上を軽く押す。
    しっかりと閉じているのを確認し、満杯になったそれを部屋の端に運び、重ねる。
    その傍らで最後の一枚を向井が組み立ててくれている。
    「9、10、11……それで12個、か」
    そんなに私物は多くないし、向井の家にあるものは被ってしまうと邪魔になるから処分しようと思っていたのに、予想以上の数になってしまった。
    こんなに沢山の量が一度に入ってしまったら、迷惑にならないだろうか。
    「単身者の引っ越しってこんなものですよ」
    「その…………多くないか?」
    最中に何度も思って、結局言い出せなかった言葉が、ようやく形になる。
    ここまで詰め込み作業をしておいて今更になるけれど、改めて重なった段ボールの山を見ると、申し訳なさが湧きだしてきた。
    向井の家は色々なものがある中、いつもきちんと片付いている。
    そこにこんなにも他人の物が運び込まれたら、彼は不快に感じるのではないだろうか。
    「大丈夫ですよ。一部屋まるまる空けましたし、うち、収納スペースも結構ありますから」
    最後まで仕舞わずにいた掃除機のコードを伸ばしながら言う向井は、まるで何も気にしていないかのような口調だ。
    気を遣ってくれているのかもしれない。
    いつもいつも甘えてしまうのに、今日はそれを上手に飲み込めなかった。
    これから一緒に住むのだから、迷惑をかけてばかりではいたくない。
    向井の優しさに包まれてばかりで遠慮を忘れてはいけない。
    ひょっとしたら現状が何かの間違いで、ある日彼がそれに気付いてしまうかもしれないから。
    その思考は首に一滴の冷水を垂らしたように背筋を震わせた。
    僅かな冷やかさは瞬く間に全身に広がって、寒くなんてないはずなのに肌が総毛立つ。
    向井から貰えるものを疑っているわけでは無い。
    彼がまるで顔面に向かって投げつけるように伝えてくる感情に嘘が無いことは理解していた。
    それでも、時折思う。本当に自分でいいのか、と。
    壁にコンセントを刺し込んでいる姿を視界の端で捉えながら、身に馴染んだ寒気はゆるゆると不安に変わっていく。
    「ハセクラ先輩? どうしました?」
    空気の変化に鋭い彼が、座り込んだままの顔を覗き込んでくるのを、どうかわしたらいいのか迷う。
    「いや……なんでもない」
    結局うまく返せる言葉が見つからずに、使い古された誤魔化しを口にすると、聞き慣れた溜息が耳に届いた。
    「何を考えているのか知りませんけど」
    呆れたような物言いは、切り捨てる内容と裏腹に丸みを帯びていて柔らかい。
    向井の手から離れた掃除機のホースが床に転がって、ヘッド部分がパタリと倒れて横を向く。
    引っ越してきてからずっと使っていたそれは、端に埃の色が染みついて変色していた。
    向井の方を見ることが出来ずに、その汚れた裏側に視線を固定していると、背中に重みがかかった。
    「あとは軽く掃除をしたら終わりですし、僕も疲れたので今日はどこかで食べましょうか」
    服越しに触れた部分から、声帯が震えるのが空気越しではなく直接伝わる。
    「……そうだな」
    「明日はお昼までにこっちに来ていればいいですし……時間はあります」
    「…………うん」
    頷くと背骨が受ける荷重が増えた。重いと感じることが心地いい。
    預けられた体重は、そのまま彼の信頼だと錯覚する。
    視界に広がるのは、積まれた段ボールと、広く感じる部屋と、倒れた掃除機。そこに向井の色はない。
    オレンジ色の夕焼けは少しずつ影を濃くしていっている。
    壁にかけていた時計は電池を外して段ボールの中にいるので、時間の流れも曖昧になっていた。
    「俺の荷物が多い、と、お前に、迷惑がかかるかなと、思ったんだ」
    温かな体温と荷重は変わらない。氷が溶けてくるように言葉がどろりと流れ出す。
    「向井の家には色々あるし、お前が用意してくれた俺用のものもある」
    泊まった日の夜に風呂で使うタオルはいつの間にか同じものになっていた。
    箸も、茶碗も、食卓に並べる時に、自分側に置くものが決まっている。
    「嬉しい……んだと、思う…………けど」
    座る場所も定位置がある。同じベッドに一緒に寝転がる時も。
    「お前が、嫌、だったら……と、…………」
    言いながら、彼の気持ちを疑うような発言になっていることに気付いて、流れが止まる。
    自分の気持ちが上手く言えない。嬉しいのに、不安になる。不安は怖さを連れてくる。
    今言った言葉自体も、彼への攻撃になっているように思えてくる。
    違う、傷つけたいわけでは無い。むしろ彼を喜ばせたいといつも思っているのに、上手くできない。
    自分が悪い、と言ってしまえば楽だけれど、それは向井を傷つける言葉なのだと学んでしまったからもう言えない。
    袋小路に迷い込んでしまったのがわかって、それ以上続けられずにぱくぱくと空気を食んだ。
    向井の体が微動して、ふぅ、と大きく息を吐く音が聞こえる。
    恐怖に変わりつつあった体に溜まった感情が、その動きに連動する。
    何かがくる予感は、背中から伝わる。
    自分の中の常識では知らないものが渡される。新しい世界が垣間見える。
    向井と一緒に過ごすようになってから知ったそんな感覚。
    行き止まりにいる自分に向かって伸ばされた手が見えた気がした。
    「マリッジブルーですか?」
    「………………うん?」
    予想できない方向からの切り口は、ある意味予想通りではある。
    知らない言葉ではないのに、自分を指す言葉ではありえないそれに思考が追い付かない。
    「……そう、なのか、な?」
    でも向井が言うならそれが今の状態を示すのに適当なのかもしれないと、考えを放棄して同意を返す。
    「いや、冗談なんで、本気にしないでもらえますか?」
    「え……」
    信頼からの裏切りで、搔きまわされた感情が自分で全く読み取れなくなった。
    小刻みの振動が背中から伝播して、さらにぐるぐると気持ちの欠片が混ざる。
    色々な粒が入った瓶を両手で振って、ランダムな並びに変わったみたいだった。
    連なっていた寒気と不安と恐怖は切り離されてばらばらに心の器の中で散らばる。
    無くなりはしないけれど塊が解れたのがわかる。
    「むか」
    「ちょっと独り言いいますね、あ、独り言だからこれはただの宣言で許可じゃないです」
    振り返って名前を呼ぼうとしたのを阻止するように、ずしりと重みが増えた。
    そのままこちらの言葉を挟ませない勢いで、つらつらと続く。
    「ハセクラ先輩って僕から見たら私物が少ないんです。物を大事にするって思えば美徳だとは思いますよ? でも、それが寂しくも思えるんです。買い物に行って何も買わずに帰ってくるとか、散財しないのは一般的に見たら長所でしょうけど限度があるというか、もっと自分を甘やかして投資してもいいと思っているんです、僕より給料いいでしょうし、生活に困るようなお金の使い方してないですし」
    立て板に水の見本みたいな滑舌の良さは止まらない。
    「欲しいものを買ってほしい……いえ、欲しいと思ってほしい、ですね、僕の勝手な感情ですけど。あと、僕の勝手と言えば、うちに先輩のものを増やしたのはそうすれば来やすくなるかと思ったからです、自分の物があるとそれだけで居場所があるような気になるじゃないですか。それでハセクラ先輩が来る頻度が増えて一緒にいる機会が増えてあわよくば依存するくらいまでいければ最高ですし、そこまでいかなくても選択肢の候補に僕が入ってくるくらいになれれば十分、最悪の場合でも先輩の私物がうちにあるという状況は僕の慰めになるしという打算が働いてます」
    「え、ちょ……むか」
    「だからうちに先輩の物が増えて迷惑って考えは僕からすれば意味不明ですし、3箱くらいあれば引っ越しの段ボールは充分とか言っていたのも本当に理解できなかったですし、ごみ袋にどんどん放り込まれていくものを見ているのも嫌だったので方向転換に成功してほっとしているし、ハセクラ先輩一人に荷造り任せなくてよかったと自分の判断が英断だったと実感してます」
    処理しきれない量の情報と感情がどんどん注ぎ込まれて、自分の気持ちの見極めが全くできなくなった。
    まるで演劇の長台詞を読み上げたみたいな向井の口上はピタリと止まって、それ以降は呼吸が背を通して伝わるだけになる。
    肺が膨らんで、肩が落ちて、を一緒に繰り返す。
    それがひとつの生き物みたいに重なったと思った時には、もう、鬱々とした気持ちは見えなくなっていた。
    自分の心の中の器は向井からの放流を受けたせいで、それまでの原型を残していないみたいだった。
    中に残っているのは驚きとか喜びとかで構成された粒ばかりで、他は外に弾き出されて跡形もない。
    こうやって暴力的なほどの親愛で自分が洗い流されるのは初めてではない。
    きっとこれからも同じようなことが起こるんだろう。一緒に生きていくのだから。
    「向井」
    何度か遮られて呼べなかった名前を呼ぶ。
    「はい」
    「お腹空いたな」
    「そうですね」
    返ってくる同意を噛みしめながら、一度口を開いて、閉じる。
    その言葉を使うには一息分の思い切りが必要だった。でもそれに必要なエネルギーは今はもう持っているから難しいことではない。
    「ご飯食べて…………帰ろうか」
    薄闇が支配するこの部屋はもう自分が帰る場所ではなくなる。
    その代わりに先ほどから離れない温もりがこれからの居場所になる。
    一番近い場所からの返事は、部屋の中の仄暗さを切り裂いて、未来を真っ直ぐ指し示していた。

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