Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    nakasemomo

    @nakasemomo

    中瀨/桃です。
    試験的に使っています。

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 👏
    POIPOI 1

    nakasemomo

    ☆quiet follow

    ツイッターで流してる山と放の話のまとめ。
    ツイートの更新に応じてぼちぼち足していきます。

    #文アル腐
    bunalRotten
    #山放
    mountainRelease

    想定外の返礼品 山頭火、と名を呼ばれる。なあにと振り向いて、短いやり取りののち、彼は自室に帰っていく。談話室は「陽の空気が無理」とかで、バーはお酒が目に毒だからと、彼と会うのはもっぱら彼の部屋か、人通りの少ない廊下や、中庭の端などだった。
     帝国図書館に転生してもうじき数か月が経つけれど、生前の性質がそうさせるのか、彼はどうにも人付き合いが苦手らしい。『層雲』の中に二人きりでいたときにも煩がられたっけ、とその時の様子を思い返しては無事に転生を果たし、こうして一緒に毎日を過ごせていることに感謝した。
    「放哉って、わかりやすいよねぇ」
    「えっ、本当に?」
     句会に呼ばれた帰り道、隣を歩く碧梧桐がしみじみと放った言葉に過剰に反応してしまう。自分でもまだ少し捉えきれない所のある彼は、人嫌いもあってか、なかなか他の人に理解されにくいというか、取っつきにくさを感じさせるらしい。そもそも関わり合い自体が苦手だから、理解される以前にコミュニケーション不足に陥っている気もするけれど。
     そんな訳だから、少しでも多くの人に放哉が親しんで貰えたらいいなとか、放哉の良さを知って貰えたら、と思う山頭火にとって碧梧桐の言葉はとても嬉しいものだった。しかし碧梧桐はこちらのことを見て、あれ、と不思議そうな顔をする。
    「うん。だって、山頭火のこと呼ぶときは声からして違うじゃない」
     ――ん?
    「本当に山頭火が好きなんだなあ、って思うよ。部屋から出てくるときだって、いつも山頭火と一緒だしさ。何かに誘うと『山頭火と一緒なら』って言うんだよ。信頼してるというか、唯一無二の存在、って感じだよねぇ」
     ……あれ?
    「俺ときよもさ、よく二人一組で見られてることがあるけど、放哉の場合は『放哉と言えば山頭火』って感じ。やっぱり、転生のときのことがあるからかなあ」
     話は似たような内容がその後も続いた。けれど、自分の中にはひたすらにはてな、が増え続ける。
     放哉は、確かに自分と一緒の作品から転生した。彼が生きることを諦めようとしていたのを、自分が「一生のお願い」と言って連れ出したのだ。だから、今ここに居る理由にある程度「山頭火のため」があることは否めない。しかし、彼が自分のことを好き、とか、そういうのはよく分からなかった。
     『層雲』の中に居たときだって、素っ気ない態度はとられたし、ただ単に何も事情も分からない時から一緒に居たぶん、自分とは話しやすいだけで、自分が無季自由律の俳句を詠む人間だから関わりやすいだけで、別段、彼が山頭火に対してだけ声色を変えるだとか、そんなことは無いはずだ。というか山頭火からしてみれば声からして違うなんて思ったこともなかった。
     彼が山頭火と一緒じゃないなら、と誘いを断っていることも、外から見て山頭火に対してのみ態度を変えているのが丸わかりなことも、そんなの、知らない。
    「……えっ、と」
     頭の中がぐるぐるし始めた。難しいことを考えるのは自分の仕事ではないのだ。つまり、放哉は皆とはまだ打ち解けてなくて、でも山頭火に対してのみ寄せた全幅の信頼を誰でも分かるような態度で表していて、それで。
    「あれ、もしかして自覚無しだった?」
     ――自覚、とは?
     碧梧桐の心配そうな視線が突き刺さる。
     山頭火は、放哉に対する親愛の情はあれど、放哉から親愛感情が向けられていることを、全く理解していなかったのである。

     ――放哉から、好意を向けられている。
     しかも、周りから見れば分かりやすすぎる形で。好意というか、親愛の情というか、あの放哉が親しみを持って接してくれる以上は珍しいという意味で、どちらも変わりは無いだろう。自分から見ても彼は生前と同じく人付き合いが苦手で、転生してからというもの、山頭火が部屋から引っ張り出さなければずっと自室に籠もっているような男である。なので、人に対して好意的な態度をとる姿はあまり想像ができないのだ。
     そして、その分かりやすいアピールに自分は全く気付いていなかったという事実。
     だって、同じ句誌に気付いたら二人で居て、話し相手なんてお互いがお互いしか居なくて。存在の危機なんかもあった上、時差はあれど、同じ本から転生したのだ。お互いがお互いに最も関係性が深い相手であるのは当然だし、その相手を頼りにするのも、親しく感じるのも、まあ、当然だろう。だから、互いに相手に対して抱くこの感情は、全く特別なものなんかじゃないのだ。転生してからの放哉の態度だって、別に普段通りだったと思う。
     そのはずだと、思っていたのだけど。
    「放哉も俺と同じ気持ちじゃないの? 何が違うの? 俺も放哉のこと好きだよ? でも放哉だけ特別扱いとかしようって意識はないというか……放哉が俺にだけ違う態度取ってる意味が全然分かんない……」
    「ごめん。ホントごめん。俺が混乱させちゃったよね」
    「そもそも放哉が部屋から出る時って、俺が一緒の時だから、俺が居ないときの放哉が他の人へどんな風に接してるかとか、見たこと無いし……そんなの知らないよ」
    「うーん、それは確かにそうかも」
    「俺は、放哉の良いところがいろんな人に知って貰えたら良いなって思ってるだけで」
    「うん」
    「放哉にも、この図書館の人たちといろんな話をして欲しいなって。……折角生きてるんだから、俺と同じように、沢山楽しい思い出を作って欲しいなって、思ってるだけなんだけど」
    「う、うーん?」
    「放哉のは違うの? 俺と何が違うの? なんで俺にだけ違うの?」
    「待って待って、山頭火、落ち着いて!」
    「だって放哉のことだよ? 待てないよ!」
     まあまあ、と碧梧桐に宥められ、ようやく口を閉じることにした。分からないことだらけで頭がパンクしそうだ。放哉が何を思っているのか、元々分からないこともあったけど、今は何も分からないと感じてしまう。
    「えーと、俺が思うに、放哉にとって山頭火は『特別』なんじゃないのかな? それで、その『特別』の度合いが、山頭火の考えてるよりずーっと、大きい、とか」
    「度合い?」
    「うん。人によってものの感じ方は違うだろ? 山頭火にとって放哉は大切な相手だ。もちろんその逆も然り。でもね、その『大切』の種類とか、比重が山頭火とは違うのかも。だから同じ種類の感情でも、表し方が違ってくるんじゃないかな」
     碧梧桐はこれまた親切に話をしてくれた。山頭火は相手に親愛を振りまく側だ。返礼があるかどうかは関係なく、やりたいことをやりたいように、思ったことは思ったように外へ向かって干渉していく。
     対して放哉は親愛を振りまくことはない。生前の経験からか、好意を受け取ることにも消極的で、自分から干渉していく世界はかなり限定的である。そのぶん、受け取ったものへの返礼は一点集中になってしまうのだろう、と。
    「俺が話してる内容は、あくまで俺の考えだからさ。本当のことは本人にしか分からない。……でも、放哉が山頭火に対してだけ、すごく安心して接してるのはわかるよ。信頼してるんだなって思う」
     ――だからどうか、受け容れてあげて欲しい。
     碧梧桐は最後にお願いだよ、と付け加えた。山頭火にとって、放哉を受け容れることは当たり前のことだ。だから何も難しいことはない。しかし相手の挙動に対する混乱は残っていた。想定外の方向から頭を殴られたような気持ちだったのだ。
    「……俺、できるかな」
     情けない声が出た。放哉のことが分からない。それだけで、胸の中が不安でいっぱいになってしまったのだった。
    **
     山頭火、と名を呼ぶ。ぱ、と向けられた顔を見て、違和感を覚えた。
    「なあに?」
    「……いや、今度の会の誘いなんだが」
    「ああ、心平くんたちの?」
     山頭火は普段通りの笑顔で数日後に誘いの掛かっている会合の話をし始めた。放哉は人と関わり合うことが苦手である。途中でどうにも様々なことが面倒になってしまうのだ。そのぶん、山頭火が間に立って取り持ってくれていた。今回の会も、山頭火が「よければ放哉も一緒に」と声を掛けられたのが発端である。
     放哉には、山頭火に多くのことで助けられながら転生後の生活を送っている自覚があった。似た部分もある生前の境遇もそうだが、『層雲』から自分を引き上げてくれたその手に、言葉に、自分にしては破格の信頼を寄せている事実がある。
     ――山頭火は良いやつだ。
     それだけが、帝国図書館での生活を送る上で確かなよりどころとなっている。
     だが、しかし。
    「山頭火」
    「うん?」
    「どうした」
    「……何が?」
    「何かあったのか」
     山頭火はぎこちなく笑っていた。口元の笑みは張り付いたようになっている。そのくせ「何でも無いよ」と明るい声を出す。なんだ、これ。
    「具合が悪いのか」
    「全然? 元気いっぱいだよ!」
    「誰かに嫌なことでも言われたか」
    「そんなことないよ! ここの人たちがいい人なのは放哉も知ってるじゃんか」
    「……まあ、そうだが」
     何かがおかしい。山頭火は最近あった面白いという話をし出す。自分は聞き役だ。時折そのまま部屋から連れ出される。
     外に出て行くことは、人と関わることはあまり得意ではないけれど、山頭火に連れ出されるのは、嫌いじゃない。いつも通りのことなのに、違和感がどうにも拭えない。転生前に二人きりでいたときには無かった隠しごとの気配が山頭火から匂っていた。
    「それでね、心平くんが、今度は他の皆も呼んでみようかって」
    「お前は居るのか」
    「あー、えっと、俺は別の用事が……」
    「じゃあそっちは悪いが断る」
     急に部屋の中が静まりかえった。突然だったので、思わず山頭火のことを見る。なんとも言い難い、驚いたような、動揺しているような、そんな様子でこちらを見てくるから、「山頭火?」と呼びかけた。彼はゆっくりうつむき、「……うん、わかった。伝えておくね」と言う。なんだか悪いことをした気分になって、もやもやした。
    「……折角の誘いのところ悪いが、俺はこんなだし、お前が居ないなら俺には面白みもないだろ。断るのも任せてしまうのが申し訳ないが……すまない、いつもありがとう」
     どうしたら良いか分からなくて、様子をうかがうように弁明してみるが、一向に彼はいつものようには戻らない。むしろ悪化した気がする。どういうことか全く分からない。
    「本当にどうしたんだ、お前。今日はなんだか変だぞ」
     不安が膨らむ。少しでも安心したくて彼に頼るのは悪い癖だ。そういえば今日の彼はどうしてか、自分との間に物理的な距離がある。いつもなら、うるさいくらいに近寄ってくるのに。
    「……放哉、」
     彼が至極真面目な顔で名を呼ぶ。真っ直ぐに見つめられて、何事かと思う。
    「放哉は、俺から離れるべきだと思う!」
     ――は?
     頭の中に大量のはてな、が発生した。何を言っているんだ、こいつは。
     しかし彼は驚きで固まるこちらのことなぞ関係なしに、一方的に言葉を続けた。
    「だから、もう明日からは放哉の部屋に来ない! 今度の会にも、ちゃんと一人で来てね! 俺は、俺だけでも大丈夫だから!」
     ちょっと待て、と言う前に山頭火は目の前から姿を消した。呆気にとられて、何も考えられなくなって、その場から動けなくなる。時間だけが無情に過ぎていった。
    「……一緒に、って言ったのは、お前だろ」
     思わず零れた言葉は、誰の耳にも届かなかった。
    **
     山頭火は、本当に部屋に来なくなった。
     潜書の当番だとかの用事で渋々部屋を出れば館内で顔を合わせることはあるし、その際には普段通りの調子で話もできる。様子におかしな所も無い。しかし、行動を共にしなくなった。同じ会に参加する時ですら、互いに現地集合なのだ。あまりに徹底しているので、周囲の人間の方がおかしなものを噛んだ時のような顔をしてこちらを見てくる程である。
    「……放哉、ごめん。マジでごめん」
    「何でアンタが謝んだよ」
    「山頭火のあれ、たぶん俺のせい……!」
    「はあ?」
     一週間が経過した頃、碧梧桐が放哉のもとにやって来て頭を下げた。すぐ脇には腕を組みなんとも言えぬ表情を浮かべた高浜まで居る。放哉は何となく取っつきにくそうな高浜が得意では無かったので、というかそもそも「陽」の空気を纏う碧梧桐も得意ではないけれど、唐突な来訪者に今すぐ扉を閉めたくなった。そもそも人付き合いが苦手なのだ。思考は停止して、考えるのが面倒になってしまった。
     碧梧桐は放哉が素っ頓狂な声を上げたためか、バッと下げていた頭を上げた。情けないほどにくしゃくしゃになって、「申し訳ない」という感情の伝わる表情は、まだ微かに残っていたこちらの怒気を全く使い物にならなくしてしまうから、恐ろしい。
    「でも、俺にはもうどうにも出来ないから謝る、ごめん……!」
    「俺はさっきから、アンタが何言ってんだか、訳が分からないんだが」
     自分より年上の人間――転生後の身体的にもどうやら年上のようである――からこうも謝り倒されるのは気味が悪い。碧梧桐を慕う人間に見られたら何を思われるか恐ろしいし、そこに自分を巻き込まないで欲しいとも思う。だから訳の分からぬ謝罪を続ける碧梧桐の後方から、溜息と共に高浜が出してくれた助け船は、非常にありがたく感じられた。
    「……コイツが、種田に余計なことを吹き込んだらしい。最近、種田はお前を避けているだろう」
    「――え? あ、ああ……避けて……まあ、避けられてるのか、これは」
    「自覚はあったのか」
    「自覚というか……部屋に来なくなったくらいだけど」
    「それで合っている。種田なりの避け方らしい。それ以外で特に問題は発生していないが、どうにも周りが気にかけていて……秉、いい加減にしろ。まともに話せ」
     高浜がぺし、と碧梧桐の後頭部をはたく。あで、と潰れた声のあとに、碧梧桐が顔を上げた。視線は真っ直ぐこちらを向いていて、思わず目をそらしたくなる。どうにも、苦手なのだ。
    「今回の山頭火の行動で、放哉が悲しい思いをしたのなら、それはきっと俺のせいなんだ。俺が変なことを言ったから……俺からもう一度、山頭火と話してみるけど、まだもうちょっと悲しいことが続くかもしれない。でも、山頭火は放哉のことが嫌になった訳じゃないんだ。決して、違う。だから、もう少しだけ、待ってて。本当にごめんね……」
     しゅん、と落ち込んだ様子で話す碧梧桐を眺めながら「嫌になった訳じゃないのか」とどこかでホッとした自分が居た。
     山頭火のことは信頼している。彼に限って、「一生のお願い」を持ち出してまで本の世界から連れ出した相手を見限ることはしないだろうと思っている。
     けれど、本当に来なくなるなんて思わなかったのだ。誰も訪ねてこない部屋で静かに時が過ぎていくのが、心の見えないところで不安として積み上がっていた。自分はこんな奴だから、とうとう呆れられたかとか思っていた。
     騒がしいのや、賑やかなのは苦手だ。人付き合いも苦手だ。しかし、彼と過ごす時間は嫌いではなかったのだ。自分の部屋に彼が居て、くだらない話をして、ゆっくりと時間が過ぎていくのが心地よかった。完全に関わりを断たれた訳ではないけれど、自分はあの時間が好きだったから、どうにも寂しかったのかもしれない。
     認めたくは、ないけれど。
    「……いい、自分で話す」
    「え?」
     少し言葉の端が震える声で、自分でやる、と繰り返す。
    「だから、アンタはそんなに謝んなくていい」
     大丈夫か、と高浜の言葉。大丈夫かは分からない。大丈夫な筈がない。しかし、これは山頭火への返礼なのだ。自分の中にあるのは、ただ、消えゆく本の世界から自分を連れ出してくれた、彼への感謝なのである。だから伝えなくてはならない。
    「――山頭火は、良いやつだから」
     胸の内でも繰り返す。彼が何をしようと、これだけは、確かな事実だから。
     *
     放哉の部屋に行かなくなった。
     最初はどうなることやらと気を揉んでいたけれど、全くの杞憂だった。放哉は潜書の当番に遅れることはなかったし、以前から約束のあった会にもきちんと時間通りに集合していた。自分なんか居なくとも、彼は彼なりに転生後の生活を送ることができている。
    「良かったじゃねえか、心配要らなかったんだろ?」
     軽い調子で話すのは、潜書の当番が一緒になった坂口安吾だ。碧梧桐と碁仲間らしく、以前から時々話をする機会があったので不安を少しだけ零したことがあったのだ。放哉が苦手なタイプなんだろうなあ、と思いつつも普段の関わり合いが薄いぶん、気楽に話のできる相手でもある。
    「うん。そう、そうなんだけど……」
    「現状に不満があるのか?」
    「そんなこと! ……無い、はず」
     勢い良く否定して、後から自分の言葉に自信がなくなる。今の生活に、放哉との関係に不満なんてない。毎日ご飯は美味しくて、住む場所もあって、放哉にも会える。これ以上なんて無いのに。
    「アンタ、分かりやすいよなあ」
    「悔しいけど俺もそう思う……」
     いつだかどこかで聞いたような言葉を、今度は自分に投げ掛けられている。自分でも納得してしまうほど、山頭火の考えていることは分かりやすい。難しいことを考えるのが単純に性に合わないし、分からないことは「分からない」と口から先に出ていくからだ。
     俳句のことならもう少しマシなのに、とぼやいたところで課題は解決してくれない。世の中は兎角に難しい。
    「現状に不満……たとえば、アンタが相手に依存してた、とか」
    「俺が?」
     思いも寄らない案に首をかしげる。放哉と関わりを完全に断ったわけでは無いので、放哉不足とかそんなことはない。自分で放哉のために、と選んだことだ。しかし頭の中は相変わらず放哉を気にかけてばかりで、自分から「離れるべきだ」とか言った癖に、意識は気付いたら放哉の姿を追い掛けている。だからこそ、自分なんか居なくとも彼が問題なく生活を送っている事実を突き付けられたのだけれど。
     ――依存、……依存かあ。
     しみじみと繰り返す。お酒とか、そういうものになら依存したことがあるから、感覚としては理解できる。けれどお酒と同じように、放哉に依存していると感じたことは無かった。放哉という存在に溺れて、そのせいで生活に支障が出ているという感覚なんて全く無い。
    「なんか違う気がするんだよなあ」
    「相手が自分の助けを必要としないことに不満があるんだろ? それって、自分を必要としてくれる相手が欲しいだけなんじゃねえの」
    「……自分を必要としてくれる、相手」
    「そ。別に誰でもいいんだろうけどさ、中にはそれで自己肯定感保ってる奴なんかも居たりするから。相手から必要とされないと自分を否定されたように感じて、勝手に落ち込んで悲しくなる。『相手のため』って口では言ってても、回りまわって結局は自分のためになってる、ってやつ」
    「……俺、放哉のためになれるのが嬉しくて」
    「うん」
     彼は静かに相槌を打ってくれる。『層雲』の中に二人きりで居たときに生まれた感情は、純粋なものだったはずなのに。
    「放哉が、俺と一緒に来てくれたのが嬉しかったんだ。俺に頼ってくれるのも、話しかけてくれるのも、全部、嬉しくて堪らなかった。だって放哉はすごい奴なんだ。ずっと前から話してみたかった。俺が知ってる放哉の良さを、皆にも知って欲しかった。だから放哉のそれを受け取れるのが俺だけじゃ駄目だって、思って……」
    「『それが相手のためになると思って』?」
    「……、それ、で」
    「いいじゃないか。理由は真っ当だし、悪いことはしてない。現にそいつはアンタ無しでも外の世界に出て、自力で人と関わってる。その中にはそいつの良さを理解する人間も居るだろうし、アンタの思惑通りじゃないか」
    「……、……うん」
    「アンタはそいつの良さを仲間に広め、そいつの役に立った。そいつはアンタのことを好意的に思っているし、それを態度でも表している。自分の認めた『すごい奴』の役に立って、友好関係も良好。自分のやりたいことは十分にできてる。すごいな、目標達成だ」
    「……そう、だね」
     言葉が喉につっかえて出て来ない。彼の言うことは本当にその通りだと思うのに、胸の奥で「違う」と大きな声で叫んでいる自分が居た。何が違うのかは、さっぱり分からないけれど。
    「でもアンタは今不満顔だ。何が不満なんだ? 自分自身に、よく訊いてみろよ。アンタの心の声は、アンタにしか聴けないんだから」
     会話はそこで途切れた。彼はもう何も言わなかった。自分の中ではぐるぐる、ぐるぐると放哉の姿が、声が、言葉が回り始めて、胃の中がひっくり返りそうになっていた。

     山頭火、と呼ばれて振り返った。元々人通りの少ない廊下で、ちょうどこの時も自分たち以外の人影はなかった。
    「……放哉」
     その時の自分は、何も取り繕うことが出来なくなっていた。声も、表情も、態度も、何もかもが自分の支配下に無かった。自分自身に問い掛け、考え、答えを導き出そうとしたのだ。考えて、問い掛けて、彼のことを思い浮かべた。その結果がこれだ。
     放哉のことが分からなかった。
     自分にとっての放哉が、分からなくなっていった。
     放哉は少し怯んだ様子でこちらを見ている。彼が怯えている事実に寂しくなったし、そうさせている自分自身には悲しくなった。
     そこに居るのは「山頭火が居なくとも生きていける放哉」なのだと思うと、何をどうしたら良いか分からなくなっていく。
    「……山頭火、話がある」
     彼から発せられたのは、普段と比べれば随分とかたい声色だった。
     ――無理、しなくていいのに。
     最初に思ったのはそんなことだ。突き放すような言葉が浮かんだことに驚いた。けれどそれ以外思い付かないのだ。彼のことを嫌いになったわけではないのに、積み重なった感情たちが、言葉という形を持って口から出ていく。
    「……いやだ」
     びくり、と放哉が怯えの色を濃くした。飼い主にこっぴどく叱られた犬が悲しむように、もしくは帰る家を無くした子供みたいな顔をして、呆然と立っているように見えた。
     生前、定まった場所に帰る家が無かったのは、お互い様だけれど。でも今は違う。お互いがお互いの帰る先になるはずだった。自分は、放哉の所に帰ってくるはずだった。放哉も、自分の所に帰ってくるはずだったのに。
     放哉に「山頭火」と名を呼ばれるたび、身体の中で、グチャグチャした何かが暴れ回っている。きっと坂口安吾と話したとき、必死に「違う」と叫んでいた奴だ。こいつだって、自分自身のはずだった。けれどコントロールが出来ない。今のままでは駄目なのだと、彼が裏切ったのだと、わけの分からないことを喚きながら表に出てきた。
     そいつが身体を乗っ取ったように、とうとう口から勝手なことを言い始める。
    「……放哉の話なんか、聞きたくない」
    「山頭火、俺は」
    「聞きたくない」
    「急にどうしたんだ」
    「今は聞きたくないんだ、ほっといてよ」
    「……俺は、いま、話したいんだ」
     必死に伝えようとする声だった。今じゃないと駄目だと繰り返す彼は、いつもだったらこんなに食い下がらないだろう。ぶっきらぼうの裏側に優しさを隠して、相手のためにすぐ自分をないがしろにしてしまう、そんな放哉が放っておけなかった。
     そんな放哉が好きだった。今更になって、気付いてしまった。
     だから、彼が山頭火に手を伸ばして、引き留めようとする姿が嬉しくて堪らなかった。他を放ってでも山頭火に必死に語り掛けようとする声が、姿が、視線が、色鮮やかに写し出される。愛おしくて、堪らなかった。
     改めて彼から向けられた親愛を認識して、親愛と信頼を目の当たりにして、彼のすべてを独占したいと思ってしまった。
     それは、知らない感情だった。
     自分の知らない自分自身が、恐ろしかった。
    「山頭火、俺は」
    「……いいよ」
     微かに漏れた言葉尻に、放哉の赤い瞳が揺れた。真っ直ぐに見つめて、彼は山頭火の言葉を捉えようと口を閉じた。
     ――こんなはずじゃ、なかったのになあ。
    「もう、俺に気を遣わないでいいよ」
    「は?」
    「放哉は優しいから、俺に面倒を見させてくれてたんでしょ。もう、そういうのいいよ。十分だ。沢山だ」
    「……何の話だ」
    「これからの話だよ」
    「意味が分からない」
    「これ以上は、俺が勘違いしちゃうから。もうやめよう。大丈夫、何も変わらないよ。俺のことなんか気にせず、ね」
    「だから、何の話をしてるって言ってんだよ」
    「放哉のためなんだよ」
    「俺はいま、山頭火の話をしてるんだ!」
     聞いたことの無い大きな声。向けられたのが自分であることに喜んだ。こんな感情は、変だ。気持ち悪い。彼に失礼だ。不誠実だ。合わせる顔がない。こんな自分では、彼に対して何をしでかすか分からない。怖い、恐い、こわい。
     ――ああ、やっぱりこんな感情は間違っている。
    「……その話はしないって。俺、さっき言ったのに」
     どうして放哉は泣いているんだろう。
    **
    「……その話はしないって。俺、さっき言ったのに」
     頭をガンと殴られた気分だった。歪む視界の中、彼の服を掴んでいた手をやんわりと彼の手で外された。転生する前からずっと一緒で、見慣れたはずの顔に見覚えは全くない。彼から放たれる温度のない声に、言葉に呼吸が出来なくなった。目頭が熱くなって、じわり、じわりと胸の辺りが締め付けられる。苦しくて、寂しくて、歪む視界はとうとうぼやけて彼の姿は見えなくなった。
     ぼたり、ぼたり、頬を伝って涙が流れる。らしくないのは分かっていた。女々しいことをしているとも思った。
     こんな筈じゃなかった。
     山頭火を信じたのは自分だ。自分はこんな人間だから、一人では転生する気にもならなかった。彼と出会って、接して、彼の人柄を感じた。
     自分にとって、彼は「いい奴」だったから。
     せめて彼だけでも、無事に外の世界に行かせたかった。こんな自分なんか放っておいて、明るいところへ行かせたかった。悲しい思いだってさせたくないから、わざと突き放すことを選んだ。
     孤独には慣れていた筈だった。
     彼と別れたあとの「ひとり」は、彼と出会う前の「ひとり」よりずっと寂しかった。そうだ、孤独とはこういうものだったと思い出したのだ。誰かと居ることを、そのよろこびを知った人間にしか感じられないさびしさ。苦しさ。空しさ。持たざるままならこんな感情は知らずに済んだのに。
     転生前に独りぼっちだったのは、孤独をもう味わいたくない昔の自分からの贈り物だったのかもしれない。
     でももう知ってしまった。自分の隣にいてくれる誰かのあたたかさを、言葉を交わす相手の居るよろこびを、誰かを大切に思う感情を知ってしまった。もう知る前には戻れない。馬鹿だなと生前の自分がどこかで嗤っていた。
     ――人間は裏切る生き物なのに。
     一度知れば抜け出せない。それがない生活には耐えられない。何を犠牲にしようとも求めてしまう。縋ってしまう。たとえ破滅に向かおうとも関係ないのだ。欲しくて、欲しくて堪らなくなる。欲望は際限なく湧き上がり、理性を呑み込む。
     優しくされた。あたたかさを知った。それをもう一度得たいと思う。傍にあって欲しいと願う。離れないで欲しいと思う。
     自分を受け容れてもらえた。信頼を返す。相手が特別になっていく。相手の特別になりたいから、相手の様子を観察するようになる。愛を注ぐ。愛を返される。今度は、自分のことを無条件に愛して欲しいと思う。相手から返ってこないことに、苛立ち始める。
     放哉は依存していた。気付かぬうちに盲目的に山頭火を信頼して、親愛を向けて、勝手に期待して、自分の中に自分にとって都合の良い偶像を作っていた。自分が悪いのだ。今までの自分のあり方がいけなかったのだ。
     強くそう思った。自分に言い聞かせた。そう考えなければ目の前に居る山頭火を嫌ってしまう。そんなの駄目だ。彼はいい奴なのだ。皆に愛されるべきなのだ。
     胸の中にはどす黒くて嫌なものが渦巻いていた。こんなものは出してはいけない。抑え込まなければならないから、必死に涙を流して言葉を飲み込む。
     離れたくない。嫌われたくない。幻滅されたくない。独りぼっちは、嫌だ。
    「……俺は、嫌だ」
     声が震える。唾を飲み込み、息をつく。相手に聞こえないような声でも、これだけは我慢ならなかった。漏れ出てしまった。
     自分が「生きたい」と思ったのは彼のおかげだから。
    「お前の隣に立てないなら、生きてる意味が無い」
     駄目だ、と声が聞こえた気がした。勘違いだとその声が続ける。首を振って拒絶した。本心なのだ。転生してからずっと、抱え続けてきた決心だった。これだけは、誰に否定されることも許されない。
    「……放哉、」
     山頭火の声がする。弱々しいそれが、自分の名を呼んでいるだけで嬉しかった。ようやく流す涙も尽きたのか、視界に彼の困惑したような顔が映った。ゆっくり手が伸びてきて、涙を拭われる。痛ましいものを見るような視線を向けられた。
     そういうのは、慣れている。
    「放哉、そんなこと言っちゃ駄目だ」
    「なんで」
    「放哉は俺だけのものにしちゃいけないんだよ」
    「どうして」
    「どうして、って……」
    「俺はお前だけのものになっても構わない」
     山頭火が言葉を失う。けれど、本当にそう思っているのだ。今までは、はっきりした言葉の形を持っていなかっただけで。
    「他は何も、いらないから」
     ――だから、俺を置いていかないで。
    **
     山頭火が居れば、どこでも良かった。図書館だろうと、作品の中だろうと、地獄だろうと、なんだっていい。そんなことを思えるのだから、自分はきっともう狂っている。
    「……放哉、俺は」
     困惑した声。頬に触れていた彼の指先に自分の手を重ねた。一度手にしたものだ。差し伸べられた手だ。もう、手放すつもりはない。
    「置いていくならせめて俺を殺してからがいい」
    「っ、そんなこと出来るわけないだろ!」
    「そうだろうな」
     笑ってみせる。彼ほど表情筋はやわらかくないから、どこかぎこちなかっただろう。しかし彼の返答に嬉しくなったのだ。あまりに想像通りで、彼がいい奴なのだと再確認したのだ。
     彼は今にも泣き出しそうな顔で、懇願するように、縋るように放哉の肩に手を置いた。聞き分けのない子供に言い聞かせるように、真面目な顔を取り繕って、低い声で、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
    「あのね、放哉。冗談でもそんなこと言わないで。……放哉が俺を必要としてくれるんなら、俺だって同じくらい放哉が必要なんだよ。俺だって置いていかれたら寂しいよ。それくらい分かってよ……」
    「なら、どうして俺を遠ざけるんだ」
    「放哉が大切だからだよ」
    「大切なら傍に置いてくれるものじゃないのか」
    「大切だから傷付けたくないんだ」
    「お前になら何されても良い。お前は俺を傷付けたりしないのは知ってる」
     言葉は全て本心なのに、「放哉は分かっていない」と山頭火は首を振る。彼へ向けた信頼も、親愛も、受け取ってくれないというのか。信用して貰えないものなのか。こんなに愛しているのに。大切に思うのに、どうして。
    「……何で、どうしてそうなるの。放哉がよくても、俺は嫌だ。放哉に何しちゃうか分かんない自分が恐いんだ。……俺は、放哉を傷付けたくない」
    「お前は俺に変なことはしない。俺が信じているんじゃ駄目なのか」
     山頭火はやはり痛ましいものを見る目でこちらを見つめる。否定も肯定もしてこないのは、彼の優しさだろう。相手からの信頼を否定することも出来ない優しさ。そのくせ、肯定もしてくれない。それがつらかった。
     彼はいい奴だ。そう思っているからこそ、ここに来て突然引かれた線に憤った。完全に私怨だ。こんな感情は彼に迷惑だ。けれど、どんどん膨らんでいく。胸の奥で「捨てないで」と叫ぶ声が大きくなる。
    「……自分にしか分からないことだって、あるんだよ」
     視線が逸らされる。これが決定打だった。何かがふつりと切れた。
    「――お前の都合で、俺は捨てられるのか」
     犬と一緒だな。お前がお前を信じられないから、お前には俺の面倒を見る資格がない、って? ……拾い上げたのも、お前の都合のくせに。
     吐き出されたのは、まるで呪いの言葉だ。一瞬呆然としてから、ちがう、と山頭火が首を振る。何が違う、と返す。止まらない。彼を傷付けると分かっているのに、口から尖った言葉の暴力がぞろぞろ流れ出す。涙は既に止まってしまった。言葉をせき止めるものが、何もない。
    「お前がいい奴だって、ずっと思ってた。……とんだ勘違いだった。信頼した俺が馬鹿だった。ずっと俺を騙してたんだな。優しくされて、うっかり信じたのは俺の落ち度だ。さっきも俺が大事だって、心にもないこと言って演技も大変だっただろ。喜べよ、大成功だ。俺は、こんな……こんな思いをするくらいなら、あのままあそこで消えた方が幾分かましだった……!」
     ここまで来たら、もう嫌われるしかない。せめて彼が罪悪感を抱かなくて済むように、自分のことなんか見捨てて正解だったと、こんな奴に依存せずに済んで良かったと思えるように。こんな記憶が、尾﨑放哉という存在が彼の中で自身を傷付ける要因にならぬように。
     もう、駄目だ。
     一時の幸せだった。そんなものでも、嬉しかった。やっぱり自分なんかが転生すべきではなかったのだ。彼のおかげで幸せな勘違いをすることが出来ていた。それだけだ。それだけのことなのに、どうして自分は諦めが付かないのだろう。中途半端に思いを引き摺ったままなんて、一番つらいのは自分がよく分かっていた筈なのに。
    「……分かったら、もう、俺に関わらないでくれ」
     彼の顔は見ることが出来なかった。一度でも見たら、縋ってしまいそうで、手放すことも出来なくなりそうで。
     彼の「一生のお願い」を使ってまで転生した自分は、彼に見合う価値のある人間では無かった。
     それだけだ。お互いに間違えたのだ。次に彼と親しくなる人間は、よい人間であって欲しいと思った。拾う側は何を拾うにも自由だ。もっと良いものを拾ったらいい。懐に入れるものは、価値のあるものがいい。
     犬は飼い主を選べない。子供は親を選べない。自分はもう他の人間に選ばれる気は無い。彼だから「生きよう」と思った。彼以外考えられない。
     だから、もういいと思ったのに。

     ごちん、と思ったよりずっと大きな衝撃が頭部に与えられる。自分の頭が固かったのか、彼が固かったのかは分からないけれど。
    「――放哉の、ばか!」
     咄嗟に出たのはそれだけだった。肩を掴んで思い切り頭突きした彼の額は赤く染まっていて、声にならない悲鳴を上げた彼はぶつかったそこを手で押さえながら、山頭火に視線を向けてくる。混乱しているのか目は白黒していて、対する自分は荒く息を吐いてぼろぼろ泣き始めてしまった。
     一瞬の出来事だったが、明らかに先ほどまでとは打って変わった雰囲気になっている。
    「さ、山頭火……?」
     何で泣いてる、と言わんばかりに放哉が名を呼ぶので、感情の昂ぶるまま、勢いのままに気合を込めて、もう一発頭突きをした。
     ――すごく、痛かった。彼も相当だったようで、二人してその場にしゃがみ込み、しばらく何も言えなくなる。先に立ち上がったのはこちらだった。
    「放哉のばか、ばか、ばか! 何でそうなっちゃうんだよ! 俺、さっきからずっと放哉のこと大事にしたいって言ってるじゃんか! 傷付けたくないっていうのは、俺が放哉に向かって何やらかすか分かんないくらい、好きで、大好きで、放哉が泣いたって、嫌だって言ったって、それを無視してでも俺の好きなようにしたくなるってこと! ……とにかく、放哉のことを好きすぎて、俺だけが放哉の全部を独占したくなってるから、こんなに困ってんの!」
     一息に言い切って、しゃがみ込んだ姿勢のまま呆然とこちらを見上げる放哉の赤く腫れた目元にまた、ぎゅう、と胸が切なくて苦しくなる。泣かせたのが自分で、放哉は山頭火のことしか見えておらず、山頭火と一緒じゃなければ生きている意味が無い、なんて言われて。駄目だと知っているのに嬉しいと思ってしまう自分が居る。なんだこれ、こわい。
     だってこんなの、絶対変だ。好きで大切にしたいのに、泣かせたい、なんて。相手に酷いことをすれば当然嫌われる。……そんなの、絶対に嫌だ。いくら彼が自分のことを信頼してくれたとしても、このままでは、いつか嫌われてしまう。
     だから離れようとしたのに。それでも彼が必死になってしがみついて、哀しくなるほど、また自らさびしく独りぼっちになろうとするから。いけないと分かっていても、放哉の言葉を受けて、もうどうしたら良いか分からないくらい嬉しくなってしまったのだ。
     胸が一杯になるくらい嬉しくて、そんな風に感じる自分の、わけが分からなくて。
    「あー、もう! 何も分かんなくなってきた! ていうか、放哉はそう言うけどさ。だいたい、俺が放哉の言うような演技が出来ると思うの?」
     「……えっ。いや、その」
    「俺が、思ってもないこと言えると思う?」
    「……思わない」
     戸惑いつつも返される言葉に、うん、と肯く。難しいことを考えるのはやっぱり、どうにも苦手だ。
    「そう。そうなんだよ。俺も、そう思ってる」
     ぼたぼたと頬を伝った涙が、顎から落ちていく。しがみついてくれるのは嬉しい。話を聞いてくれるのも嬉しい。会話が出来るのが嬉しい。顔を合わせることが出来る。放哉とのやりとり全てが嬉しくて、たまらない。
     だからこそ、悲しい。
    「……放哉は俺にとって、大事なひとだからさ。誰かにぞんざいに扱われたとしたら、俺は凄く腹が立つよ。大切に扱って欲しいと思うし、そう言うよ」
     袖でぐいと顔を拭って、放哉と同じようにしゃがみ込む。視線を合わせて、手をとり、握りこむ。思っていたより彼の指先は冷たくて、震えていた。
    「ねえ、放哉。だから言うよ。これだけはお願い。――俺の大切なものを、ぞんざいに扱わないで。放哉は俺にとって大切な存在なんだ。だから放哉も、俺の大切な放哉を大切に扱ってよ。俺が間違えても、放哉だけは放哉を大切にできるように。……お願いします」
     しばらく彼は無言のままだった。鼻先が触れるような近さで、祈るように彼の手を握っていた。
     震えは、おさまっていた。
    「……それも『一生のお願い』なのか?」
    「うん。俺の『一生のお願い』は、放哉にしか使わないから」
    「一生に『一度』のお願いじゃないのかよ」
    「一生で『一人だけ』へのお願いだから」
    「希少価値が薄い……」
    「放哉そのものが希少だもん」
     馬鹿、と彼が小さな声で零した。額と両目の赤くなった顔は、頬と耳もいつの間にか真っ赤になっている。
    「放哉?」
    「俺にはお前だけ居てくれれば、それでいい」
    「また放哉はそういうことを言う……」
    「山頭火以外の奴からは、何も要らない。だからそのぶん、お前から、優しいのも、痛いのも、何もかも。……お前から向けられる『全部』が欲しい」
     鼻先の触れるような距離でいた彼に、ふと唇で触れられた。一瞬のことだったけれど、何かが自分の中でストン、と落ちた気がした。彼はぎこちなく笑みを浮かべていた。ぎゅっと腕の中に抱き締めて、閉じ込めたくなった。
     ――俺も、『一生のお願い』。
     彼がたどたどしく呟いた。
    「お前からの言葉を、一滴残らず俺に飲ませろ」
     堪らず彼を抱きしめた。胸の中で何かが爆発して、我慢できなかった。
     もう迷わない。これからは彼の両手から溢れ、こぼれる程の愛を注ぎ続けよう。浴びるほどの言葉を語りかけよう。
     それこそが、きみと一緒に転生した最たる理由であり、運命であると思うから。

    Tap to full screen .Repost is prohibited
    🙏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works

    recommended works