「おろ、それこの前のパチモンじゃないですか」
のんびりとした声をあげたレオに、スティーブンとチェインが少し恨みがましい目でレオの方を見た。
「なんだって、少年。もう一度言ってくれないか」
スティーブンが意識して、和やかな笑みを向けてやると、レオが小さく悲鳴をあげる。そのやりとりを見て、チェインは少し溜飲を下げる。二人が話していたのは、今一番の頭痛のタネ。スポンサー直々の持ち込み案件、ラブコットンスプレー。吹けば飛ぶほどのお手軽さで、歌って踊り出すような恋愛体験を。いかにも商業主義的なキャッチコピーの実態は、廃人メーカー。恋の奴隷、と言えば聞こえは良いが、使用された対象は惚れた相手のお気に召すままに。おかげで、来HL入りしたドラ息子があっという間にマフィアの娘に恋の虜へと変化した。この街らしく、そこからさらに七転八倒、多額の資産と共に、ライブラにお偉いさんが泣きついてきたのだった。
「それ、この前ザップさんと揉めた女の人が使ってましたよ」
「ちょっと待ってくれ。詳しく説明してくれ、少年。誰が誰に使って、どうしてパチモンだって?」
廃人以上に面倒なトラブル製造機のザップと、この街きってのトラブルウォッチャーのレオ。二人揃って、何もなかったわけがないのだ。何か手がかりがあるかもとチェインも乗り出す。
今だに事の重要さがわかっていないのだろうレオが、その日を思い出すように宙に視線を彷徨わせる。
「えぇっと、シャーリーさんだったかな。近場だったザップさんが、拾いに来いって連絡してきて、行ったらそこにいて。聞いてくださいよ、修羅場ですよ、修羅場。怪獣大決戦みたいになってまして、いやまあ悪いのは全部ザップさんなんですけど。もう殴るわ、蹴るわ、引っ掻くわで、そこんとこザップさんが一々全部受け止めてて。あの人、意外にあーいうとこマメですよね。ブランドもののたっかそーなバッグとかもう、バンバン投げられるんですけど、絶対汚れないんですよ、もう犬かってぐらいに律儀に……」
「レオ、猿の修羅場の話はいーから」
「手短に頼む」
レオにも思うところがあったのだろう。堰を切ったように淀みなく喋るので、二人ともつい口を挟むのが遅れてしまった。レオは頭をかいて、ですね…と気まずそうに仕切り直す。
「で、最後そのバーキンのバッグからちっちゃいスプレーみたいなのが出てきて」
すかさずチェインが手元の書類に写ってる写真を見せる。おかしのパッケージみたいなパステルピンクのハート形のボトルだ。
「それです、それそれ」
「で、誰に使ったんだ? 被害者は? 規模は?」
「そりゃ、ザップさんにですよ。で、あの人あれでしょ。昨日も普通に来てたじゃないすか。使ったシャーリーさんもビックリして、スプレー投げ捨ててましたよ。摑まされたって」
チェインとスティーブンは顔を見合わせる。チープに見えても、ボトルも特注品の一貫、他にシリーズがある可能性も低い。レオが見て、ザップにかけられたというスプレーは十中八九ラブコットンスプレー、ひと吹で象も人間に恋するこの街お得意の摩訶不思議ドラッグなのだ。
「ザップは誰を見たの?」
痺れを切らしたチェインが核心を突く。ラブコットンスプレーは即効性。吹きかけられた直後、最初に見た誰か、もしくは吹きかけられた対象が焦点を合わせた存在を対象として効果を発揮する。チェインが調査する中で、ぶたの貯金箱にべったりにさせられた被害者もいた。
「んー、多分僕だと思いますけど。名前呼ばれたんで」
ライブラ事務所に痛烈な沈黙が横たわった。チェインはスティーブンに視線を向けるが、スティーブンは驚きで微動だにしない。
レオが言うことをまとめると、ラブコットンスプレーはザップの関係者によりザップに使われて、ザップはレオを最初に見た(らしい)。即効性の惚れ薬はレオ曰く、発動せず、レオはそれをパチモノだと判断した。
「頭痛い……」
「僕も同じだ」
「えぇえ……。何すか、何すか」
動揺を重ねる二人と、自分が何を持ち込んだのか何もわかっていない一人。現場は混迷を極めていた。
「あ、ザップさん」
「おーう」
そこに混迷を明るみにするのか、謎を深めるのかわからない男が一人、ふらりと事務所を訪れた。
「すんません、二人とも僕これからバイトなんで、あと詳しいことはザップさんでいすか」
「あ、あぁ……さっさと帰ってくれ」
「明らかに面倒ごとを排除したがりすぎでは……? ま、いーですけど。ではでは」
リュックを背負って、二人に会釈をして去っていくレオはいつも通りだったし、手をひらひらと振り、レオを見送るザップもいつも通りだった。スティーブンとチェインは思わず、ザップを凝視してしまう。
「……何か用あるんなら、ハッキリ言ってもらえませんかねー」
後ろめたさしかないはずの男が、伺うように本題を求めるす。金銭貸借トラブル、女性関係による痴情のもつれ、はたまた怨恨による怪我、戦闘。本人なりに節度は身につけているようだが、あくまで本人の尺度でしかなく、ライブラにも迷惑かかること多数。
お目付役も担うスティーブンの視線は、ザップにはどうにも刺さるようだった。
「いや、おつかいご苦労。ステッキ屋は息災だったか?」
すぐに切り替えて建前の話題を選んだスティーブンに合わせて、チェインが手元の書類を片づけ始める。今一番の頭痛のタネがこれ以上開花しないことを優先させねばならないし、この件でザップを突いてもロクなことにならない。二人の意見は暗黙のうちに一致していた。
「あー、これのことっすか」
ーーが、藪を突いて蛇と虎と厄災を引き出すのがザップ・レンフロという男。あっという間にチェインの手元から資料を抜き取って、目を通す。字を読むのが早いわけではないが、識字出来ないわけではない。というよりも、レオが見たという現物と一致する写真が全てを物語ってしまう。
ライブラ事務所、再び痛烈に沈黙。
ザップが書類を読み終わるほどの時間が経って、スティーブンが致し方なく年長者として口を開く。
「……で、ザップ。身体に不調は?」
「特に何も。効果に関しては、確かに書いてある通りすね。いーいトリップ感でしたよ」
俺はあんまり好きじゃないすけど。そう言って、薄く笑うザップにチェインがゆっくり後退りする。スティーブンも少し身構えてる様子なのを見て、ザップが踵を返す。
「俺、おつかい終わったんで帰りますわ。心配してるようなこたぁ、何もないすよ」
「なん、で……」
意外な返答に、チェインが疑問をこぼす。スティーブンも同じ気持ちだったらしい。ザップのドラッグ遊びのことは二人も知っている。それなりに耐性がある可能性もあるだろう。しかし、ラブコットンスプレーの効き目が全く表に出なかった? 対象であるレオが気づかないほど? 二人にはにわかに信じがたかった。効果はあると、ザップが断じたからには尚更だった。
「そんなつまんねぇとこで、バレてどーすんだよ」
いつもの軽い声だった。
一瞬だけ垣間見えた瞳の奥が、燃えていた。
それだけ残して、ザップは扉の向こうへと消えていた。
チェインは小さく息を吐く。あの男のああいうところが苦手だ、と少し腹立たしくなる。スティーブンは大げさにため息をついて見せ、そして、ニヒルに笑う。明らかな作り笑いだが、スティーブンがやれば映画のワンシーンのように、この後の会話が弾むことをチェインは知っている。
「…………」
「大丈夫ですか?」
「いーや、全く!! チェインは気づいてたのか……!?」
年下の部下の前だというのに、スティーブンにも動揺が隠しきれないことがあるのだなとチェインは小さく笑う。
「いえ、全く。びっくりしました」
触れた先から燃え上がるような激情が、あの男の奥底に秘められていたなんて考えたことすらなかったのだから。
(ーー今更何が来たところで)