ある生徒の手記去年の春のことです。
私は2年生になって、まず、初めて後輩というものができました。
小学生の頃だって同じ歳の子と、歳上の子と、歳下の子がいましたが、それだけで、あまり年齢の差は意識しませんでした。
一緒に遊べば、誰が自分より何歳上だとか、下だとか、そんなことは考えません。
他の子もそうだと思います。
だけど、中学生になって、部活に入って、歳上の子は「先輩」になって、先輩に会ったら挨拶をしないといけないし、先輩と話す時は敬語を使わないといけないし、学年が違うと教室のある階も違うし、1歳の違いがとても大きくなりました。
次に、部活で初めて大会のメンバーに選ばれました。
そうした変化への嬉しさと、先輩として、試合に出る選手として、ちゃんとしなくちゃいけないという責任感と、両方があって、もっと頑張ろう、頑張らなくちゃいけないと思っていました。
だから、その日は練習でちょっと気になったことがあって、でも、体育館は部活が終わると閉まってしまうし、帰ろうとしている友達を、自分のために引き留めるのは悪い気がして、近所の公園で一人で練習をしていました。
ベンチに座って、携帯で動画サイトを開いて、上手な人の動画を探して、その人と自分と何が違うんだろうと考えてみたりもしました。
動画を見て、ボールを持って、また動画を見て、ボールを持って、そうしたら、気づいた時にはすっかり空は真っ暗になっていました。
周りのビルや家には、もう明かりが点いています。
いつもなら夕飯の準備を始める時間ですし、早ければもう食べている時間ですから、お腹も空きました。
そろそろ帰ろうと思って、公園を出ました。
公園から家へ続く道を歩いているのは私だけでした。
建物の中には人がいるはずですが、暗い道を一人で歩いているとなんだか心細くなってきて、だんだん足を動かすスピードが早くなります。
ですが、いつもならこんな時間まで外にいることはないので、夜の街は新鮮でもありました。
キョロキョロと周りを見ながら、頭の中の昼間の景色と今見ている景色を比べながら歩きました。
すると、あるビルの上に人がいるのを見つけました。
私からは、その人の背中が見えます。
後ろを向いているのです。
背が高くて、肩幅もあって、私のような子供ではなくて、大人の人だろうと分かりました。
そこで働いている人だろうかと思いました。
けれど、その人はスーツではなく、茶色いコートを着ていました。
暖かくなってきたとはいえ、夜は少し寒いですから、そんなに不思議なことではないのですが。
ええ。
そうです。
そんなことは全然不思議なことではありません。
だって、
その人には、
頭がありませんでした。
頭があるはずのところには何もありません。
写真を加工するアプリで、そこだけ消したように。
その人はきっと、頭をなくしたのではなく、元々ないのです。
血が流れていませんでしたし、痛がっている様子もありませんでしたから。
頭のないその人は、何かを持っているようでした。
頭があるはずなのになくて、頭がないのなら立っていられないはずなのに立っていて。
何もかもがありえないのに、そこにいて。
それはどうしてなのか。
その人はビルの屋上で、一人で、何をしているのか、何を持っているのか、それも分からなくて。
その人のことが何も分からなくて、私は、驚いて、怖くて、不安で、叫び出しそうでした。
でも、私の喉の中に蓋ができたように、声は出ませんでした。
体だって、関節も、地面についた足の裏も、接着剤で固められたように全く動きません。
それは、もし声を出したら、動いたら、その人に私のことが気づかれてしまうかもしれないと思ったせいでもあったかもしれません。
だって、その人のことは何も分からないのです。
何も分からない人が、私を見つけて何をするのかなんて分かりません。
ですが、私はその人を何秒見つめていたでしょうか。
あるいは何分でしょうか、何十分でしょうか。
その人は、
私の方を見ました。
いえ、頭がないのですから、私を見てはいません。
ただ、体をこちらに向けたのです。
その人は、片手に額縁を持っていました。
もう片方の手には杖を持っていました。
額縁の中には、後ろを向いた男の人の絵が入っています。
それを見て私は、ああやっぱりこの人には私が見れないんだと思いました。
絵なのですから、前を向いていたって後ろを向いていたって私のことを見れるはずはないのですが、その時の私はもう、何がありえて何がありえないのか、普通とそうじゃないことの境目が曖昧になっていたのでしょう。
私が見れないはずのその人はしかし、杖を自分の体へ立てかけて、空いた手の、人差し指以外の指を折り曲げて、それをその人に頭があれば唇があるはずのところへ持ってきて、静かに、というようなポーズをしました。
ですが、そもそも私には声なんて出せません。
体もまだ動きません。
だけど、胸の中の感情だけは忙しなく動いていて、
見れないはずのものが見れている
そのことが、その人のことをますます分からなくさせ、ますます私を混乱させ、不安にさせ、怖くさせました。
私が何もできず、ただその人のことを見ていると、その人はまた杖を持って、そして……
どうするのだろう。
そう考えた時、おそらく私の恐怖は頂点に達しました。
その人がきっと、鋭い牙の並んだ口を持っていれば、大きな爪の生えた手を持っていれば、いくらか怖さは減ったでしょう。
だって、何をするか分かるからです。
でもその人には、口はありませんし、手は黒い手袋をしていますが、そんな爪が生えているようには見えません。
頭がないこと以外は、
いえ、そこで私はもう1つ、その人の普通ではないところに気づきました。
腰から足へ向けて、徐々に見えにくくなっているのです。
それは黒いズボンと黒い靴を履いているからということではなく、そうであればあんなグラデーションになるわけはありません。
その人のズボンの下半分と靴は、周りの空と全く同じ色をしているのです。
その人のズボンと靴には、布のざらつきや、革の光沢がないのです。
違う色の絵の具をゆっくりと混ぜていくように、足先から順に、少しずつ夜の闇の中に溶け込んでいるかのようでした。
頭がないことと、下半身が夜空に飲み込まれている以外は、私がよく街で見かけるような、普通の大人の人のように見えます。
それが、余計に私を怖くさせるのです。
その時、私は分かりました。
怖さとは、分からないことなのです。
分からないということは怖いということなのです。
その人は私をどうするのだろう?
私はその人にどうされるのだろう?
普通に考えれば、屋上から1番下の階へ降りて、私のところまで来るまでには、エレベーターや車を使うにせよ、それなりの時間がかかります。
その間に逃げるなり、隠れるなりできるはずです。
しかし、その人は普通ではないのです。
その人は空を飛べるのかもしれないし、空中を歩けるのかもしれません。
目にも止まらない速度で歩けるのかもしれません。
ありえない人がありえないことをするのはありえないことではありません。
それに、私にはその人がどういう存在なのか、何ができて何ができないのか、そんなことは分からないのです。
その時、びゅうと強い風が吹きました。
私は思わず目を閉じます。
そして、再び目を開けると、
その人が目の前にいました。
私は叫ぼうとしたけれど、やはり声は出ませんでした。
その人が、3歩も歩けば私との距離はなくなります。
私は逃げたくて仕方がなかったけれど、やはり体は動きません。
何もできない私の目の前に現れたその人は、
「まさか誰かに見つかってしまうとは……長居しすぎましたね」
頭がないのに、喋りました。
どうも、ない頭の方からではなく、額縁の方から声が聞こえるようです。
その人がどこを向いて、何を見て話しているのかは分かりませんが、私に話かけているというよりも独り言を言っているように感じました。
「困りました。 私は誰の目にも触れず、ここを訪れ、去るつもりだったのです。ああ、でも……」
その人は一歩近づき、私の顔をのぞき込むように、体を少しかがめました。
「あなたは……この世界の人々は私をどう解釈するのでしょう?私の存在がやがて、あなたたちの噂話や怪談になり……フィクションの住人へとなってしまうのでしょうか?その時、私はどんな記号を付与されるのでしょう?……恐怖というものは時に人にインスピレーションを与えます。恐怖するということは想像するということですからね。人は理解不能なものを忌避します。なんとかその理解できないものを自分たちの分かる範囲へ押し込め、理解しようとします。それがどういうものなのか予想しようとします。しかし、そもそもそれは常識とか既成概念という枠の外にあるものなのですから、そんなことができるはずはありません。なので、恐怖が生まれるのです。」
その人は体を起こして、一歩下がって、元いた場所へ戻ります。
私には、その人が何を言っているのか、ちっとも分かりません。
いえ、何を言っているのか自体は分かるのですが、それがどういう意味なのか分からないのです。
恐怖で私の頭はほとんど動きませんし、その人の言っていることは、なんだか私には難しいことのように感じました。
「あなたの恐怖がどんな物語を生み出すのか……楽しみにしております。とはいえ、不本意であるとはいえ、あなたを驚かせ、怖がらせてしまったことは申し訳なく思っております。大変失礼致しました。では、お気をつけてお帰りください」
その人がそう言うと、もう一度、強い風が吹いて、また私は目を閉じて……
その人はいなくなりました。
しばらくして、ようやく体が動くようになって、慌てて周りを見回しましたが、もうその人はどこにもいませんでした。
まるで、最初からいなかったかのように。
さきほどまでのことは全て夢の中の出来事であったかのように。
しかし、私の胸の中の恐怖は、紛れもなく現実のものでした。
きっとこんなことは信じてもらえないだろうから、あの夜のことは誰にも話していません。
けれど、自分の頭の中だけにしまっておくことは出来なくて、こうして、少しずつ思い出しながら手帳に書いています。
今のところ、読み返す気はありません。
誰にも読ませる気もありません。
ですが、これはあの人の言っていた「物語を生み出す」ということになるのでしょうか。
あの人は私の生み出す物語を「楽しみにしている」と言っていましたが、再び私の目の前に現れるつもりだということなのでしょうか。
いつか、この手帳を読み返す私へ。
あなたがそうしているということは、また私はあの、人のようで人でない、怪物に出会ってしまったということなのでしょうか?