筒の中の私 私は今、何かよくわからない筒型の容器の中で、何かよくわからない水溶液の中を漂っていた。
下校中に突如、後ろから誰かに頭を殴られそのまま気を失い……気が付いたら筒の中だった。辺りは暗くて何も見えない。手足を伸ばして容器の壁を叩こうとするも、手足が動かない。私を取り巻く水溶液の温度の心地よいぬるさだけが、身動きが取れない今の自分にわかる事だった。
いや。よくよく感覚を澄ましてみると、どうも微振動が続いている。水溶液の中の私はその微振動と共に揺れる。が、音は何も聞こえてこない。水溶液の中だからだろうか。
しばらく経った頃、微振動が止まった。止まった弾みで私は水溶液の中で大きく揺れた。
突如、天井が空いた。そこには見知らぬ男の大きな顔があった。性格が悪そうな髭面の男は、私を無表情で見つめた。私はソイツをキッと睨みつけた。男は笑いながら何か喋ったが、やはり私には聞こえない。
状況を総合するに、どうやら私はこの男に誘拐されたらしい。もしかしたらここは、車のトランクの中なのかもしれない。そんな……特別可愛いわけでもないし、家が裕福なわけでもない私が何で誘拐される?
男が片手で私を筒ごと持ち上げて、顔を近づけてきた。筒の中の私と男の目が合う。
……何かおかしい。筒の中の私を持ち上げる男……? あれ?
私には聞こえないが、男は嬉しそうに喋りながら筒をくるくる回しながら私を見た。は?
と、そのはずみで男が乗っていたであろう車のカーブミラーに男の全体像が映っているのが見えた。
男が持っている筒の中に、私の姿はない。
代わりに、ビー玉みたいにカラフルな球体が2個入っていた。2個が、水溶液の中をプカプカ行ったり来たりしていた。
私の姿はどこにもない。私の体はどこにもない。
カラフルな球体をよくよく見ると、なんだか眼球のようにも見えてき……。
あっ、と私は声を出した(気がしただけ)。
そういえば母親がいつぞやかに「あんたもそろそろお年頃だからねぇ……うっかり、魔眼を浮表(ふひょう)しちゃわないようにね」と言っていた事を思い出した。
「まがんをふひょう?」私は聞き慣れない単語のせいでスマホをいじる手を止める。
「うちの家系、魔眼持ちで超能力的なアレでね。力を出しちゃうと、その際に目玉に鮮やかな文様が浮かび上がってくるの」
別にアニメヲタクでも何でもない、ただの韓流好きなはずの母親が何の説明もワンクッションも入れず、急にアニメの設定のような事を普通に話しだして私は面食らう。
「……へぇ、例えばその魔眼で何ができるの?」
私は笑いながら、冗談めかして母に訊く。
「透視できたり、目の前の物を停止させたり……工夫しだいでいろいろ」
何そのザックリ雑な説明。やはり、母の粗末な悪ふざけか。
どれ、いっちょ母を停止させてみるか。
私は何気なしに「止まれ〜」と念じて、目に力を込めて母を睨んでみた。自分の眼球自体が熱を帯びた気が若干した。
と、まだ何か言おうとして口を開いた母の動きが本当に止まった。母の動きは止まっていたが、窓の外の木々の葉は風で揺れていた。
……あれ? マジか?
私は慌てて、停止した母の目の前で手を振ったりした。最低限の呼吸だけをしているのはわかった。そうか、呼吸まで停止したら死ぬからか。
え、解除するにはどうしたらいいんだ。とりあえず、停止した母を睨みつける。眼球が再度、熱くなる。
母は、地味に動きを再開させた。
「その魔眼を狙う悪い奴もいるからね。だから、外でうっかり浮表しちゃわないように……って」
母に睨まれる。「あんた今、私を止めた?」
「え。なんでわかったの」
「だから言ったでしょ。力を使うと目に文様が浮表するって」
母に目を指差されたので洗面所に行って鏡を確認してみると、なるほど確かに。私の眼球がキモ鮮やかな赤の文様に染まっていた。
以来、私は割と何度も外で力を使った。
目の前で危うく落ちそうになったペンを停止させたりだとか、お菓子の箱を透視してお目当てのおもちゃを探すとか。
恐ろしく些細な事でよく使っていたから、そりゃあいつかは誰かに見つかるだろう、うん。
自業自得だから、あまり後悔していない。
で、私はその能力がほしい何者かににくり抜かれたわけだ。へぇ。
私は今、眼球だけの存在になっているが……では、この思考はどこから湧いてきているものなのだろうか。脳がないのに思考と記憶がある今の“私”は何なんだろうか。
もしかして、体(脳付き)も『あの魔眼の持ち主の体っ!』という感じでどこかに保管されてたりするのだろうか。その体とこの眼球がリンクしてる……? うーん。
何はともあれとりあえず、ニタニタとした顔でずっとケースの中の“私”を見ているおっさんに腹が立ったので睨みつける。
と、途端におっさんの動きが止まる。しかし、このままだと何の報復にもならない事に気が付く。この野郎の呼吸は止められないものだろうか。
うーん、と全身に力を込めて更におっさんを睨みつけてみる。もっと気合を入れて睨んだら、呼吸…心臓すら止められるかなと思ったが、成功したかどうかがパッと見じゃわからない。
というか、おっさんが止まったままだと私も身動きが取れない事に気が付く。私は一生、おっさんが持つこのケースの中の水溶液に浸かったままになるのでは?
えっ、やばぁい。
とりあえず、おっさんの停止を解く。
おっさんは再度動き出す。私を持って、車の中に戻る。……うーん、困ったなぁ。
向こうが筆談でもしてきてくれればいいが、まさか眼球が意識を持っているだなんて思いもしないだろうしでそんな事をしてくれるわけもない。
仮におっさんが筆談してきても、私にはそれに返答する手段がない、と思う。私の意識はおっさんに伝わってなさげだし。
こうなったら、成り行きに任せるしかない。目玉だけではどこにも行けない。
更に言うと、私を目玉状態にしたのはおっさんじゃないかもしれない可能性だってある。
私をさらって目玉にした奴から、買ったか奪ったかしたのがこのおっさんかもしれないし。
何もわからないな。何で今の私に意識なんてあるんだろうか。いっそ、死にたかったな。
涙が全身から滲み出た気がしたが、それはきっと水溶液に溶けた。