白い薬指呑む約束をしたある日の居酒屋の個室で、フェルナーがおもむろにとあるブランドの小袋を取り出した。中から現れたのは灰色のマニュキュア。
「閣下、明日は土曜日でしょう。気分転換にいかがですか?」
「ここで塗るつもりか?」
「私はなかなか上手いものですよ」
それは他の女にも同じ事をしたという自白だな、とわざと溜息を吐き呆れてみせてもフェルナーは意に介さない。
「マニュキュアならすでに塗ってある」
パールすら入っていない模範的なピンクベージュの爪を付き出すと、待ってましたとばかりに右手を取られた。
テーブルの上にあったおしぼりで指の先を拭かれていく。
「このマニュキュアはトップコートがいらないくらいツヤが出るそうなんですよ」
小さなガラス瓶から刷毛が覗いた。余分な液をこそぎ取り、フェルナーは親指から丁寧に塗っていく。確かに、筋もムラも無いフラットな灰色の表面が増えていく。
右手を塗り切り、左手も薬指へ差し掛かったところで、フェルナーは灰色の小瓶に蓋をした。なぜ?と思う暇もなく今度は白いマニュキュアを先ほどの小袋から取り出す。
迷いもなく左手の薬指を白く染め上げ、何事も無かったかのようにまた灰色のマニュキュアで小指を仕上げた。
両手を開くと、灰色の中にひとつ、左手の薬指に一か所、白い爪がある。
私の心は踊ったが、同時になにも言わず実行したフェルナーに苛立ちもした。
「これはどういう意図か?」
「閣下は色が白くていらっしゃるのでグレーネイルも素敵かと思いまして」
「詭弁を言うな。過去の事を卿は引き摺っているのであろう」
はぐらかされている。会話の主題が逸れてゆく。このようにはっきりと行動しておいて、なぜこの男は核心を言わないのだろう。
「私はなぜ、薬指だけ白いのだと聞いている」
フェルナーは視線を落としたまま、そう、爪を塗っている間一度として目を合わせないまま、ぽつりと言った。
「私は今、国家の犬として働いています」
心臓を掴まれたようだった。この男は、私を探し出す為に自己研磨し己の人生を国に売り込んだのだ。ただ、存在を確かめる為だけに。
「閣下は、今とても幸福であるように私には見えます。あなたの平穏に波風を立てたくないのです」
「ならば出会う必要などなかったはずだ」
「その通りです」
「薬指にいたずらをするのも度が過ぎている」
「反省します」
「フェルナー、私は足手まといか?」
ようやくフェルナーは私を見た。暗い、世の暗部に生きる者の瞳があった。
「閣下、この世に覇者はおらず権力は腐り、組織は硬直化しています。我々が生きたあの時代のように、一縷の希望もありません。私はあなたとこうしてたまに酒を酌み交わす事ができれば幸せです」
「それでは、私は不幸だ」
爪はすっかり乾いている。フェルナーが言った通り、ツヤのある爪。
私はフェルナーの左手を取り、テーブルに置かれた白のネイルを薬指に塗る。
「メンズネイルも市民権を得てきている」
「ですがさすがに一か所に白は目立ちますね」
「ならばもっと目立たない、ありきたりのものを薬指に嵌めればいい」
フェルナーは瞠目しない。これは茶番なのだ。私は試されたのか?
「私をカムフラージュに使いなさい」
未だ根強い結婚制度を担保にして、より高みへ上り、己が思う使命を全うしなさい。
そうだ。この男は何の動機もなく己の信念のもと事を起こし、失敗し、ただでは転ばずその才幹で官房長まで上り詰めた男なのだ。私はそのようなフェルナーが好きだった。
沈黙の後フェルナーが言った。声が震えていた。覚悟の声だった。
「指輪は、給料三ヵ月分以上出せます。明日選びに行きましょう」
薬指を白く塗った男女がどう思われるか、おかしくなってしまって私は笑った。